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2015年1月 3日 (土)

見よ、飛行機の高く飛べるを、明治の飛行家たち

 2015年、雪の正月を迎えた地方が多いが東京近辺は晴れ。元旦に雨戸を開けたら朝日が差し込んだ。雪も青空もある狭いようで広い日本の空。見上げていたらいつか見た雲の絨毯を思い出した。観光の飛行機は楽しいが、軍用機は困る。
 その軍用機が襲来した長い戦争が終わって70年。明治どころか昭和も遠くなっている。親にB29や疎開の話を聞かされたが殆ど薄れている。自分も含め年金世代でさえ爆弾を落とした飛行機なんか殆どの者が知らない。しかし、世界を見れば今なお曝されている厳しい現実がある。その一方で広大な空に夢と希望を托す人たちがいて私たちを励ましている。小惑星探査機はやぶさの冒険、科学は解らなくてもワクワク。つい先日、「はやぶさ2」が宇宙へ旅立ち、私たちに帰りを待つ楽しみを与えてくれている。
 こんなにもすぐれた技術日本、だけど、今春やっと国産飛行機が初飛行するという。戦前の軍用機(零戦など)生産を敗戦後、GHQ(連合国総司令部)が航空機に関する一切の活動を禁止したから開発が遅れたのだ。その後、航空機製造が解除され国産旅客機YS11、半世紀をへて国産ジェット旅客機MRJが完成、この春飛びたつ〔半世紀ぶり「国産」テイクオフ/毎日新聞2015.1.1より〕。
 ところで日本の飛行機はじめ、どんな様子だったのかな。明治を見てみよう。

 1893明治26年 二宮忠八、飛行機を試作(動力はゼンマイ、車輪付き)

二宮忠八  1866慶応2~1936昭和11年 愛媛県。
  人力飛行機の考案者、実業家。丸亀の歩兵連隊に在営中、カラスの飛ぶのを見て空中飛行を考え研究をはじめる。ゴム動力でプロペラを回す模型を製作し、1894明治27年日清戦争で従軍した朝鮮で、軍用に供する旨の上申書を提出、却下された。その後、ライト兄弟の成功を知り研究を中止、大阪に出て実業家となる。晩年、二宮の飛行機発明がライト兄弟より早いことが認められ、のち叙勲された(『コンサイス日本人名辞典』三省堂)。

 1903明治36年12月17日 ライト兄弟飛行機発明、初飛行

 1909明治42年 内田稲作、飛行機製作に乗り出す
 ―――芝区金杉浜町三十九 内田稲作(31)は、第16776号をもって空中飛行機の特許を受けたるが、米国ライト氏のものより勝る点少なからずという。内田式は翌年、模型の試験飛行に失敗(万町報42.7.25)。
                       (『ニュースで追う明治日本発掘』1995河出書房新社)

 1910明治43年 奈良原三次が複葉機(奈良原式第1号)を完成し戸山ヶ原で滑走

奈良原三次 1877明治10~1944昭和19年 鹿児島県
  航空工学者。余暇で飛行機を研究、のち第4号機で全国巡業飛行、民間操縦士育成につなげた。
 1911明治44年、所沢飛行場で奈良原機テスト飛行に成功。
 1912明治45年、奈良原式・鳳号が青山でおひろめ、観衆7万。

 1910明治43年12月14日 日野熊蔵大尉、代々木練兵場でグラデー式単葉飛行機で初めて飛行に成功(高度10m・距離60m)

 現場責任者の田中館愛橘博士が注視するなか試験飛行したが、距離は目測でしかなく、すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりの状況のようだった(万町報記者)。
 同12月19日 日野・徳川大尉が初飛行に成功・・・・・・将来我が国の飛行機を語る者はこの光輝ある両大尉の献身的事業にまず感謝せざるべからず(東京日日新聞43.12.20)。

      日野熊蔵 1878明治11~1946昭和21年 熊本県

  発明家・航空の先駆者。陸軍士官学校卒。
 1909明治42年、 臨時軍用気球研究委員
 1910明治43年、飛行機購入と操縦技術習得のため徳川好敏大尉と共にフランスの飛行学校に派遣される。その後、一人でドイツのヨハネスタール飛行場で操縦技術を学び、グラーデ単葉機を購入し帰国。

 ――― (日本に於ける飛行機の将来)飛行機を建造する技術さえ熟達すれば、廉価で優秀な、多数の飛行船を建造することができよう。何事にも創造の才あるフランス人は、飛行機においても先鞭をつけ、つづいて学究的なるドイツ人学理的方面に趨り、堅実なるイギリス人は、遅れて現れたけれども、あるひは実行の点に於いては成果を収めるかもしれぬ・・・・・・(中略)・・・・・・水雷上手の日本男児が、軽快迅速な飛行機に飛び乗って、度胸を据えてかかったならば、非常に目覚ましいことが出来るのではあるまいかと思ふ。
                          (『家庭十二ヶ月・一月の巻』1910啓成社)

 1911明治44年から翌年にかけて自身が設計の機体、日野式飛行機を製作。歩兵少佐・歩兵第24連隊付の身で負債を抱えてまでの飛行機開発が軍人にあるまじき行為として左遷された。
 1919大正8年、40歳のとき部下の失態で引責、軍人を辞め、その後生活は困窮した(参照。ウイキペディア・日野熊蔵)

        飛行機唱歌     歌・日野大尉、曲・岡野貞一 (『飛行機唱歌』1911共益社)

一、勇み立ったる推進機(スクリュー)の 響きは高し音高し
  時こそよけれ放てよと 弓手を挙ぐる一刹那

二、空を目がけて驀地(まっしぐら) 登ればやがて飛鳥(とぶとり)の
  背中も見えて白雪の 富士も目の下脚の下  (以下4~6番略)

 1910明治43年12月19日 徳川好敏大尉もアンリ=フェルマン式複葉機(50馬力・全長12m)で飛ぶ(高度70m・距離3km)/徳川大尉、三千メートルの大飛行 

       徳川好敏  1884明治17~1963昭和38年 東京
   飛行家。徳川篤守(*清水家)の長男。陸軍士官学校・工兵科卒。
        *清水家: 10万石、御三家に次ぐ家格。10代将軍家治の弟が江戸城清水門内に屋敷を与えられ一家をたてたのがはじまり。

 ―――  順当にゆけば彼は伯爵家の当主なのだが父篤守が家臣のために謬まられて、一家滅亡の悲運に悲運にあい(*礼遇停止)、不遇幾多の辛酸を隠忍せねばならなかった。堅実質素を旨とせる武人を選び、冒険的なる飛行界に投じて営々として始終しつつあるは、君国に奉持し以て家門の汚れを一掃せんと志したる為にはあらざるか(『現代之人物観無遠慮に申上候』河瀬蘇北1917二松堂書店)。
       *礼遇: 皇室から受ける特別の待遇

 1910明治43年、日野大尉と欧州派遣。帰国後、代々木練兵場でアンリ=ファルマン式による日本初の飛行を行った。
 ―――代々木原頭に駆けつけたるは山川健次郎博士、井上少将、徳永隊長、田中館博士以下相次いで参集、場外には群衆詰めかけて・・・・・・徳川大尉、座乗部に上がれべ、轟然、また爆然、発動機の響きは百雷のごとく、推進器は疾風を起こし猛進すること暫し、約1500mの距離を往復すること前後27回、この間、時どき2m乃至6m地を離れて浮揚し、これにて滑走試験を終えたるをもって地を蹴って空中に浮遊せり。雄姿は70mの高空にかかり疾走矢のごとく、前後2回の大円形を描きて3000mの距離を飛行し、群衆の歓呼の声に迎えられ下降せり(東京日日新聞43.12.20)。
 1922大正11年、陸軍所沢飛行学校教官。
 1927昭和2年、飛行第一連隊長
 1935昭和10年、中将
 1944昭和19年、航空士官学校長

 名門の出なのに苦労した徳川好敏は初飛行で大人気出世する。一方、日野熊蔵は花やかで一時は好敏より人気があったが、初飛行以後は不遇であった。軍が技能より徳川の名をとったのもありそうだ。

 

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