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2015年2月

2015年2月28日 (土)

立行司、八代目式守伊之助 (岩手県)

 古い地方史誌の人物覧を見ると、地域の成功者・著名人はもちろん親孝行・努力忍耐の人、芸妓、横綱と様々。中には大金持ち、多額納税者もあり選び方に世相や地域感が滲み出る。ただ、郷土の誇りにしても持上げすぎではと思う事もある。資料が限られそのままとるしかないが、略歴やエピソードは人物のいい手がかりだ。今度は岩手県にしようと『和賀郡誌』をみて「八代目式守伊之助」を見つけた。横綱名を見かけるが行司は珍しい。相撲の歴史は古く奥が深い、そう簡単に相撲界は分からないだろうが、式守伊之助のゆくたてを見れば、江戸~明治の相撲界がちょっと見られるかも。それにしても、ワールドワイドになった大相撲、今日の日本人横綱不在を誰が予想したでしょう。

         式守家開祖、式守五太夫
                              ( 『相撲必勝独学書:四十八手図解』1923出羽之海谷右衛門述)

 相撲勝負の判定役の行司は、勝負を裁くのみならず、相撲に関する儀式典礼、事務上のことも行司の職責であった。行司の家柄には由来があり、聖武朝の志賀清林が勅命によって行司をしたのが初めとされる。その後、途絶えたが木曾義仲の臣・吉田豊後守が継承、五位に任ぜられ追風の名を賜り代々行司の家職を建てて相撲の司となった。それが吉田家の祖で、吉田家は勧進相撲・神事相撲・武将の御前相撲に至るまで、一切の儀式並びに故実を定めた。この吉田家の門下に「木村」という家があった。
 真田伊豆守の家臣・中立羽左衛門の三代目が「木村庄之助」を名乗り五代目が吉田家の門下となって行司役の免許状を受け、以来行司と言えば「木村」となった。
 式守家は、木村家三代目の弟子で「式守五太夫」が開祖である。五太夫は伊勢之海五太夫の弟子、もとは力士であったが、力士としては思わしくないので行司修業を志した。
 修業を積み吉田家の直接の門人となり、式守の姓を得た。そして、吉田家の秘宝である獅子王の模品を贈られ、立行司として一家を起こしたのである。のち五太夫は伊之助と名を改め、それ以来、式守家は伊之助と称するようになった。

            八代目式守伊之助
                                              (  『和賀郡誌』1919岩手県教育会和賀郡部会)

 幕末1842天保13年、岩手県南西部の黒沢尻本町に生れる。父は後藤儀助、母はりわ。幼名は錦太夫。
 出生当時たまたま江戸大角力の興業中であった。年寄伊勢の海・五太夫が赤ん坊を錦太夫と命名したのである。
 1847弘化4年、数えの六歳で五太夫に入門し、この時、名前を錦太夫から興太夫に改名した。ところで、錦太夫も興太夫も相撲行司の名前なので、後藤興太夫は生まれながらにして行司になる運命だったともいえる。

 ところで、行司をちょっと見ると、「よく見合ってまだまだ」とかのんきそうに見えるが、行司の修業ほど辛いものはないそう。現代ではどうか分からないが、春場所の時分、毎朝凍り付いている土俵の砂を裸足で踏んで、次から次へ何番となく取り組ませていると、指先が切れるように痛む。その辛さと言ったら・・・・・・だから中年者にはこの辛抱がしきれず大抵中途でよしてしまう。
 行司の修業ばかりは子供の時からミッチリ仕込まなければならない
                        (『お相撲さん物語』小泉葵南1918泰山房)

 興太夫は辛い修業をへて、八代目・式守伊之助を襲名、名行司として讃えられた。相撲司家より紫総(ふさ)獅子王の最高軍配を贈与されたのは、式守家歴代中、八代目伊之助一人と言われる。
 1897明治30年12月18日 56歳で没す。諏訪公園内に記念碑。
 息子の後藤錦太夫が父の後を継ぎ、行司名は式守錦太夫という

         行司の階級

 
 
 黒糸格。 軍扇の房は黒糸。前相撲、から三段目幕下に相当。
 格足袋。 軍扇の房は青と白のよりまぜ。十両力士に相当する格式。足袋着用。
 本足袋。 軍扇は紅白の房。力士の幕内に相当。
 上草履格。 軍扇の房は緋色上草履を履き木刀を帯し土俵に登る力士の三役格。
 紫総格。 吉田家特許の立行司で最上級。力士で言えば横綱の位。紫総(ふさ)の行司は、木村家に一人、式守家に一人とされ、紫総の立行司でも、吉田家から真に免許を得ない者は、白糸を交えている。これで、八代目伊之助の紫総獅子王の軍配が最高と分かる。

 行司はおおむね自分と同階級の力士の立ち会いにあたる。青白の総(ふさ)の行司が出れば、どちらか一人は十両だとわかり、紅白総の行司がでれば幕内登場と知れる。お相撲の勝負ばかりに目が行くが、さすがに歴史がある角界、いろいろな楽しみ方がありそうだ。場所がはじまったら、行司さんの衣装・軍配にも注目してみたい。

 土俵に登ったら、行司の軍配の引き方一つで、立合いが早くもなれば遅くもなるといわれなかなか難しい。両力士の気合いを見ることは勿論、投げの打ち方から差し手の如何、足の運び方から土俵の多寡(力士が土俵際から離れているかそれとも近いか)を、精細に目を配らなければならず容易なことではない。
 場合によっては差し違いとなって、力士と同じように黒星がつき昇進に差し支える。また、行司は相撲の故実にも通じ、相撲社会独特の字を書くことに堪能でなければならない。取組の組合せにあずかり、その表(わり守)をつくる。
 行司は土俵場祭をつかさどり、その他の式典を主宰する。またその他の介添え、力士と諸荷物の運輸、雑務を処理するなど、それ相当に仕事が多いからむしろ力士以上に修業を積まなければならない。
                        (『相撲の話』大の里万助著1932誠文堂文庫)
 
 ちなみに、岩手県気仙郡出身に盛岡侯お抱え力士、三代目秀の山雷五郎がいる。弘化2年、第九代横綱となったが、当時、錦太夫(式守伊之助)はまだ4歳、おそらく土俵で相見えることはなかっただろう。

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2015年2月21日 (土)

戊辰の戦後処理、塩竃神社宮司、遠藤允信(宮城県)

 講座、龍澤潤先生「隅田川沿岸の産業史」の資料に、「1873明治6年隅田川東岸の旧仙台藩蔵屋敷敷地に、官営深川摂綿篤(セメント)製造所設置」というのがあった。東北の雄、仙台藩の蔵屋敷が戊辰戦争から5年たらずで、明治政府のセメント工場(のち浅野セメント会社)になったのだ。江戸から東京へ移り変わりが目に見える。
 江戸の終焉、戦争が避けられないものとなったとき、派遣されていた蔵役人は江戸深川を引き揚げ、東北の何処の戦場で戊辰戦争を戦っただろう。
 ところで、仙台藩は東北の雄藩として奥羽越列藩同盟の主軸となったが、藩論は一定していた訳ではなく、勤王論、佐幕論、その中間の割拠論などあり激しい抗争があった。
 勤皇派・遠藤允信は、佐幕順応説の宿老・但木土佐(ただきとさ)に対抗して敗れ閉門を免ぜられ、のち情勢が変わると返り咲く。その経緯を見ると戊辰戦争前後の仙台藩が見える。おそらく諸藩でも似たような事態があったと思われる。

       遠藤允信 (えんどうさねのぶ)
              1836天保7~1899明治32年

 仙台藩家老・遠藤大蔵の長男として仙台城下片平町に生まれる。名は文七郎
 藩校・養賢堂で朱子学を学び、山鹿素行に私淑し皇室尊崇を説いた水戸学に傾倒した。

 1855安政2年、家督を継ぎ家老職につく。その容貌は面長で鼻高く、目涼しく、身長5尺8寸余、言語明快、気品高く風格があった。政治家と言うより幕末志士型の人物のようであった。
 1862文久2年2月、藩主の命により上京。各藩勤王の志士と交わり京都の情勢を探り、朝廷に勤王の意を披瀝すべきと藩に建言して容れられる。藩の使者として京都に赴き、関白近衛忠煕に諸藩に攘夷実行をうながすことを誓った。尊攘派のなかでも「年少気鋭、思うて言わざるなく、言うて尽くさざるなく常に気炎を吐く」遠藤は、但木にとっては目の上のこぶであった。
 文久3年4月、但木は策を講じ遠藤ら尊攘派一党を閉門に処し、遠藤は領地の栗原郡川口に蟄居、隠棲した。
 1868慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が薩長軍に敗れ、討幕派の主導権が確立された。このとき上京していた但木土佐も国許の重臣藩士らがあまりに形成を知らないと気付いた。このとき、仙台藩が会津討伐を申し出たなどの諸説、また風説あり。
 戊辰戦争が勃発し仙台藩に会津藩討伐の勅命が下ると、藩主伊達慶邦平和手段を以て朝廷と会津との間を繋ごうとした。その間にも奥羽鎮撫総督の一行が京都を発したことが伝えられたが、青葉城内で議論は沸騰するも一兵も出されず何も決断されなかった。
 蟄居中の遠藤は再三のお召しで登城「徳川氏の罪状を数え、会津の逆を鳴らし、朝廷に奏請、わが藩力を挙げ討伐すべし」と主張したが顧みられず再び閉門となった。

 戦争がはじまると次第に、奥羽の地に新政府軍の旗が翻るところが多くなった。それでもなお、主戦論を唱え最後まで戦おうという藩士がいたが、敗戦が続くと次第に降伏に傾く者が多くなった。今や藩の存亡のときである。遠藤が登城、降伏論を開陳してまもなく執政を命じられた。
 1868慶応4年8月、新政府軍は会津若松城を囲む。まだ戦いのさなかの9月8日、明治と改元される。
 9月12日仙台藩は降伏と藩議が決定、藩主は直書をもって臣下に諭旨。遠藤は降伏謝罪使をつとめ、政府軍に嘆願書を提出。そのため、仙台にいる旧幕臣、榎本武揚土方歳三らは仙台を去ることになった。
 遠藤 「卿らの行動は任侠に類す。然もその事は決して成るべからず。死する決心ある乎」
 榎本 「もちろんだ」。
 いっぽう藩内では帰順反対の運動もあり、星恂太郎の額兵隊が仙台藩のために気を吐いた。〔当ブログ2014.7.19五稜郭で戦う赤衣の額兵隊隊長、星恂太郎(宮城県)〕
 9月22日会津藩降服。なお、榎本ら旧幕府軍は函館五稜郭で翌年にかけて最後の抵抗を試みたが壊滅、戊辰戦争は集結した。

 1869明治2年、遠藤は京都にあって薩長土肥の版籍奉還上表を聞き、それにならうべきと藩に建言。
 この年、待詔院(明治初年の議政機関・集議院)下局に出仕。次いで政府の命により仙台藩*大参事に任命された。
     *大参事: 版籍奉還後の地方官。知事の補佐。

 1870明治3年、神祇少佑(*神祇官)に出仕、従六位に叙せられる。神祇官廃止と共に式部寮(文官の人事一般を司る)7等出仕に転じた。
     *神祇官: 祭政一致で神祇・祭祀・行政を司る。
 明治4年、権少教正に補せられ氷川神社宮司を兼ねる。のち都々古別神社、平野神社などの宮司を歴任、明治15年3月辞める。

Photo

 1891明治24年7月、*国弊中社志波彦塩竃神社宮司に任ぜられる。
  *国弊中社: 明治維新後の官。神祇官が祭るものを官幣社、地方官が祭るものを国幣社とし、おのおの大・中・小に分け、いずれも国庫から奉幣、国家神道として性格を示しこれにともなって新たに府・県・郡・村社の制も定められた。1945昭和20年、国家神道廃止により府・県・郡・村社の制とともに廃止になった。
 この塩竃神社宮司時代、『塩社史料』『塩社略史』の編纂をはじめ多くの功績を残した。
 1899明治32年4月20日、老いをもって退官したこの日、病で没す。64歳。


   参照: 『近世日本国民史・第75』徳富猪一郎1944明治書院 / 『明治時代史事典』2012吉川弘文館 / 『仙台藩人物叢誌』1908宮城県庁

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2015年2月14日 (土)

明治の軍医制度確立、石黒忠悳(福島/新潟)

 早稲田のオープンカレッジ・龍澤潤「隅田川沿岸の産業史」(江戸~明治の江戸・東京)を受講。小学生のころ隅田川の土堤で遊び、船で両国の花火を楽しんだこともある隅田川にひかれてだ。講座は隅田川沿岸という限られた地域の話と思いきや、諸処方々の江戸から明治への変化が見てとれるような興味深い授業だった。
 幕末明治という激動の時代を人々はどう生き抜いたか。市場や流通の仕組みを読み解くとその時代が窺い知れ、川を往来する船頭が想像でき、歴史が身近に感じられた。
 その参考史料、年代不詳の「河岸荷物運賃に関する書状」の
 ――― 去戌年中麻疹流行後、病身休業之もの多く有之
 麻疹の流行により船頭を休業する者が増加、という一行に目が止まった。
 文書は年代不詳とあるが、「戌年」は麻疹が大流行した文久2年ではないかと思う。この年、麻疹は各地で猖獗をきわめ、長崎に来航した西洋船からはじまって江戸から東北まで拡がっている。たまたま少し前に、尊皇攘夷の志士・天誅組の松本奎堂が文久2年、書生を連れて淡路島へ「遊歴売文」に出、連れていた書生が麻疹に罹ったという資料を見、麻疹の流行が気になっていた。

 ――― (麻疹の流行は)聖武天皇の729天平九年を以て初めとすその後・・・・・・下って1803享和三年(死者多数)・・・・・・1824文政七年、1836天保七年そして1862文久二年もまた大流行(『古今博聞叢談1892』文林堂)
 ――― 文久二年の流行は天保より激しく命を失う者幾千人なりや、寺院は葬式を行うに遑なく、日本橋上には棺の渡ること一日、二百に及べる日もありとぞ(『武功年表』)。

 1885明治18年にも全国的に大流行、東京では芝居の子役不足になったという。
   また東京警視本署より「麻疹患者を診する医師は最寄り警察に届けしむ」「浜離宮へ御幸に付き麻疹患者ある家族御列に接近を禁ず」という布達が出された。

 麻疹について近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ を検索していたら治療や薬などの書冊の他に、大学東校官版・石黒忠悳(ただのり)訳述『疫痢論・附録麻疹略論』があった。出版年不詳とあるが、肩書きの大学少助教からすると明治3~4年の出版ではないか。訳述にしては原書名がないが本文に、米英の諸家は~~とあるから何冊かを参考にしたのかも。石黒忠悳は『懐旧九十年』(1983岩波文庫)という自伝を残している。江戸時代に生まれ昭和まで生きた90年はとても興味深い。略歴を書き出してみる。

          石黒忠悳 いしぐろただのり                         
 

 1845弘化2~1941昭和16年
  幕府代官手代(御家人)平野順作の長男として父の勤務地、岩代国(福島県)伊達郡梁川に生まれる。
 1847弘化4年、父の転任で甲州(山梨県)市川に移る。のち父の甲府陣屋転任で甲府に。
 1852嘉永5年、父の任期満ち江戸に帰り、浅草に住む。
 1855安政2年10月大地震。11月、父死去40歳。母も翌年37歳で死去。
 1859安政6年、天涯孤独となった忠悳は勤皇に目覚め京都へ赴く。
    安政の大獄。忠悳の父が尊敬する川路聖謨も幕府の嫌疑をうけ明治元年に自殺するが、明治中頃、忠悳は川路の書を手に入れ、その軸を父の命日に霊前に捧げた。

 1860万延元年、(新潟県)越後片貝村、父の姉の嫁ぎ先の石黒家の養子となる。
 1861文久元年、忠悳は17歳で安達久賀子と結婚。私塾を開く。

 1864元治元年、20歳で江戸・下谷の医家、柳見仙に医と洋学を学ぶ。
 1865慶応元年~4年、江戸医学所に入学。
    貧学生で文無しだった忠悳、あるとき空腹に耐えられずそば屋で茶碗を借りてそば湯を飲んだだけ店をでて狂人と思われたこともあった(『名流百話』)。

 1868明治元年、維新の変乱で越後に帰郷したが、官軍が攻めて来、長岡・桑名の藩兵が出て守る北越戦争の最中なので忠悳は潜伏していた。忠悳のいた 医学所は慶応3年時、頭取の松本良順以下56名いたが維新の際、良順は若干の生徒を連れて今戸に病院を開き鳥羽伏見の負傷者を治療していたが、情勢が逼迫し東北に脱走した。その他、幕府病院に残る者、忠悳のように郷里に帰る者があった。

 1869明治2年、潜伏中に『贋薬鑑法』を著述。
    当時よくあった不良薬を見分ける薬物鑑定の書でその出版を思い立った。上京後、医学所を訪れると政府のものになっていた。軍監医・大村益次郎の「医は西洋流で殊に軍病院は」という方針もあり、医学所に大病院を付属して医学専門の大学東校(のち東京帝国大学医学部)が創設されることになった。忠悳は文部省出仕、大学東校勤務となった。

 明治4年、松本良順の勧めで文部省を辞して兵部省軍医出仕。翌年、妻を呼び寄せた。
 明治7年、佐賀の乱。軍医長として横浜から軍艦で神戸、次いで久留米に行き陣中病院を開く。熊本鎮台から出征した会津人山川浩が銃創を受けたとき忠悳が治療した。

 明治10年、西南戦争、大阪に臨時病院。
    忠悳は西郷隆盛に何度か会っている。陸軍天覧演習が越中島で行われた時、軍医長としてその場にいて、包帯所の位置について申し立てると「専門のことは一任するから、よきように」と。陸軍省の会議でも殆ど口を開かず、鷹揚で、かつ冒し難い威厳と親しむべき温容があったと書き残している。西郷の挙兵、忠悳は政府軍に従軍して大阪の臨時病院で傷病兵の処置をしながら何を思っただろう。
 明治13年、陸軍軍医監、軍医本部次長として軍医制度の創設に尽力。

 明治17年、東京大学御用掛。長男・忠篤生まれる(大正・昭和期の官僚、農政家)
 明治24年、一年間の予定で欧州差遣。
    当時、ドイツには陸軍より乃木希典野田豁通福島安正、医家では北里柴三郎森林太郎(鷗外)など20数名が派遣されていた。
 明治27年、日清戦争。大本営野戦衛生長官。天皇に随行して広島大本営に移る。翌年、下関で兇漢に狙撃された清国・李鴻章を診察。

 明治31年、大倉商業学校設立に参加。創立者・大蔵喜八郎は越後出身で同郷。
 明治34年、星亨・東京市会議長時代に話があり日比谷公園の設計に参加。
    ちなみに、忠悳は長崎の医学所と養生所で教えていたボードイン(オランダの陸軍軍医)の忠告で、立派な上野公園ができた経緯を良く知り、共に上野公園を散策したこともある。

 明治35年、勅選貴族院議員。日本薬局方調査会会長。私立大橋図書館設立に参加。
    図書館創立者・大橋佐平も越後出身で、博文館を起こし出版事業大成し社会公益のために図書館を設立したのである。忠悳も大いに賛同、協力を惜しまなかった。
 1904明治37年、日露戦争。国内赤十字救護班視察のため九州、四国、仙台を巡視。
 1917大正6年、日本赤十字社社長
 1941昭和16年4月26日、97歳で死去。

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2015年2月 7日 (土)

なりふり派手な尊攘派浪士、本間精一郎 (新潟寺泊)

 2011年3月以後、主に東日本大震災と原発事故で被災した福島・宮城・岩手の人物をとりあげていて教わることが多い。戊辰戦争に敗れたため、貧困に陥ったばかりか明治維新後の生きる道をも狭められた学者・教育者・官吏・商人、どの分野でも共通するのは苦境にあってもくじけず刻苦精励する姿だ。維新の貢献者は南西日本出身が殆どで東北人は志を抱いてても選挙や試験のない時代、出身派閥に恵まれないと表舞台に立てない。しかしそれを乗りこえ人並み以上の奮闘努力で名を成した東北人は少なくない。東北の頑張り、今は大震災からの復興に立ち向かっている。ささやかな応援の気持ちを持ち続けたい。

 ところで、いよいよ戊辰の戦となり奥羽越列藩同盟が結ばれたが、そうした列藩中に勤王の士が居り、それぞれ藩内で葛藤があった。仙台藩の岡鹿門は、江戸の昌平黌つながり幅広い人脈があり、京都・大阪に長らく滞在し時勢を見る目が養われた。もちろん情報をすべて仙台送っていたが藩論を左右するまでには至らなかった。仙台に戻って列藩同盟に反対すると罰せられた。藩の行く末を考えればこそ同様の事は他藩にもあった。
 筆者は会津人・柴五郎の伝記を書いてすっかり会津贔屓になっている。東北諸藩のなかに列藩同盟参加に反対する者がけっこういたのにがっかりした。しかし、激動する情勢を立場をこえて眺め先行きを考えると、意見や立場が割れるのは仕方がない。
 海の向こうから黒船はやって来るし動き出した時勢、じっとしていられないのは藩士だけではない。京大阪から遠い地の若者をも突き動かし駆り立てた。その中で特に目立ったのが越後(新潟県)の尊攘派浪士・本間精一郎だろう。なにしろ、美服に長刀という派手ないでたち、東奔西走して弁舌を振るい、あげくに暗殺される。奥羽越ともいうように越後は東北の一角を占めるのに、本間の気質は東北人とかけはなれて見える。どうしてそうなのか。

       本間精一郎  1834天保5~1862文久2年

 本間精一郎。名は正高・純、字は至誠・不自欺斎、仮名を名張長之助、精一郎は通称。
 新潟県三島郡寺泊で生まれる。祖先は佐渡国守護職といわれ、郷士格の身分。本間家は寺泊で酢の醸造をし京阪方面にも取引先があり、大庄屋・町役人なども勤め栄えた。
 14歳頃、昌平黌教授・佐藤一斎の門人、斉藤赤城の門で6年間学んだ。19歳のころ、北越の天地は己を容れるには小さいと思い始める。
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航すると、本間は江戸に出て勘定奉行・川路聖謨のもとを訪れた。川路は佐渡に奉行として赴任したことがあり、ツテでもあったのか、それとも志に耳を傾けて貰えそうと思ったのだろうか。ともかく中小姓として川路聖謨に3年ほど仕えた。中小姓とは、常に側にいる寄寓書生のようなものらしい。

 1858安政5年正月、本間は堀田老中の命で京都に赴く川路の供をしたが間もなく、江戸に戻り昌平黌に入学した。
 昌平黌では学問に励むより、安積艮斎の同門の大村藩・松林飯山(長崎)や刈谷藩・松本奎堂(静岡)、水戸藩・薩摩藩の日下部伊三次(茨城・鹿児島)など広く志士たちと交わった。
 やがて、日米通商条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅ぼごのみっちょく)に関連、賴三樹三郎、日下部らと共に幕府の役人に追われ伏見に逃れた。しかし捕まって入獄、半年ほどで釈放された。この頃から、京都・江戸で尊攘派浪士が次々と捕らえられ、1858安政6年10月の安政の大獄となる。

 釈放された本間はなおも活動を続ける。大阪の双松岡(松本奎堂・岡鹿門・松林飯山の勤王塾)に出入りして事を謀り実行の相談をしたりもした。また讃岐(香川)に赴き赴子分が千人もいる日柳燕石の家に逗留して意気投合、さらに土佐にも長州にも赴、き勤王攘夷の急先鋒として花やかに活動した。しかし事は思うようにいかず志を得なかった。

 1862文久2年4月、薩摩藩の島津久光が藩兵をひきいて上京すると、本間ら尊攘派浪士は倒幕の時期至れりと張り切った。京都の長州藩邸に赴き、高杉晋作らに薩摩に続けと説いたが、島津の考えは公武合体にあり、朝廷の意を受けて浪士の軽挙妄動を戒めた。さらに浮浪を鎮撫せよとの勅命に従ったから尊攘派浪士は納得せず、倒幕挙兵を企てたため、寺田屋事件がおきた。
 寺田屋に集結した尊攘派志士と薩摩藩士が乱闘、殺害された。この騒動で、本間は個々に運動しても回天の業は遂げられないと悟り、同志の清河八郎らと情勢を窺いつつ、三条家や青蓮院の宮など公家の間に出入りし倒幕を画策した。  公家と志士の間をつなぐ役目をはたしていたようだ。

 雄藩の出身ではない本間は、自由に薩摩、長州、土佐を批判した。そのうえ、美服をまとい長刀を好み容姿颯爽として雄弁、また酒食に溺れるところがあり反感を抱く者も多かった。本間の金銭感覚は当時の軽輩の浪士らと違っていたから非難されることがあった。
 1862文久2年8月21日夜、ついに先斗町の遊郭の帰途、待ち受けていた本間の同志とも言える勤王急進派の薩摩、土佐の志士に襲撃され斃された。暗殺者らは本間の死骸を高瀬川に捨て去り、首を四条河原に梟した。享年29歳。
 本間の人物評には傑物と姦物・姦雄とがあり、評価が定まっていないようだ。

    参考
『越佐維新志士事略』 1922国弊中社弥彦神社越佐徴古館編 
『維新の史蹟』 大阪毎日新聞社京都支局1939星野書店
『北越草莽維新史』 田中惣五郎1943武蔵野書房
『明治維新運動人物考』 田中惣五郎1941東洋書館

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