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2015年2月14日 (土)

明治の軍医制度確立、石黒忠悳(福島/新潟)

 早稲田のオープンカレッジ・龍澤潤「隅田川沿岸の産業史」(江戸~明治の江戸・東京)を受講。小学生のころ隅田川の土堤で遊び、船で両国の花火を楽しんだこともある隅田川にひかれてだ。講座は隅田川沿岸という限られた地域の話と思いきや、諸処方々の江戸から明治への変化が見てとれるような興味深い授業だった。
 幕末明治という激動の時代を人々はどう生き抜いたか。市場や流通の仕組みを読み解くとその時代が窺い知れ、川を往来する船頭が想像でき、歴史が身近に感じられた。
 その参考史料、年代不詳の「河岸荷物運賃に関する書状」の
 ――― 去戌年中麻疹流行後、病身休業之もの多く有之
 麻疹の流行により船頭を休業する者が増加、という一行に目が止まった。
 文書は年代不詳とあるが、「戌年」は麻疹が大流行した文久2年ではないかと思う。この年、麻疹は各地で猖獗をきわめ、長崎に来航した西洋船からはじまって江戸から東北まで拡がっている。たまたま少し前に、尊皇攘夷の志士・天誅組の松本奎堂が文久2年、書生を連れて淡路島へ「遊歴売文」に出、連れていた書生が麻疹に罹ったという資料を見、麻疹の流行が気になっていた。

 ――― (麻疹の流行は)聖武天皇の729天平九年を以て初めとすその後・・・・・・下って1803享和三年(死者多数)・・・・・・1824文政七年、1836天保七年そして1862文久二年もまた大流行(『古今博聞叢談1892』文林堂)
 ――― 文久二年の流行は天保より激しく命を失う者幾千人なりや、寺院は葬式を行うに遑なく、日本橋上には棺の渡ること一日、二百に及べる日もありとぞ(『武功年表』)。

 1885明治18年にも全国的に大流行、東京では芝居の子役不足になったという。
   また東京警視本署より「麻疹患者を診する医師は最寄り警察に届けしむ」「浜離宮へ御幸に付き麻疹患者ある家族御列に接近を禁ず」という布達が出された。

 麻疹について近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ を検索していたら治療や薬などの書冊の他に、大学東校官版・石黒忠悳(ただのり)訳述『疫痢論・附録麻疹略論』があった。出版年不詳とあるが、肩書きの大学少助教からすると明治3~4年の出版ではないか。訳述にしては原書名がないが本文に、米英の諸家は~~とあるから何冊かを参考にしたのかも。石黒忠悳は『懐旧九十年』(1983岩波文庫)という自伝を残している。江戸時代に生まれ昭和まで生きた90年はとても興味深い。略歴を書き出してみる。

          石黒忠悳 いしぐろただのり                         
 

 1845弘化2~1941昭和16年
  幕府代官手代(御家人)平野順作の長男として父の勤務地、岩代国(福島県)伊達郡梁川に生まれる。
 1847弘化4年、父の転任で甲州(山梨県)市川に移る。のち父の甲府陣屋転任で甲府に。
 1852嘉永5年、父の任期満ち江戸に帰り、浅草に住む。
 1855安政2年10月大地震。11月、父死去40歳。母も翌年37歳で死去。
 1859安政6年、天涯孤独となった忠悳は勤皇に目覚め京都へ赴く。
    安政の大獄。忠悳の父が尊敬する川路聖謨も幕府の嫌疑をうけ明治元年に自殺するが、明治中頃、忠悳は川路の書を手に入れ、その軸を父の命日に霊前に捧げた。

 1860万延元年、(新潟県)越後片貝村、父の姉の嫁ぎ先の石黒家の養子となる。
 1861文久元年、忠悳は17歳で安達久賀子と結婚。私塾を開く。

 1864元治元年、20歳で江戸・下谷の医家、柳見仙に医と洋学を学ぶ。
 1865慶応元年~4年、江戸医学所に入学。
    貧学生で文無しだった忠悳、あるとき空腹に耐えられずそば屋で茶碗を借りてそば湯を飲んだだけ店をでて狂人と思われたこともあった(『名流百話』)。

 1868明治元年、維新の変乱で越後に帰郷したが、官軍が攻めて来、長岡・桑名の藩兵が出て守る北越戦争の最中なので忠悳は潜伏していた。忠悳のいた 医学所は慶応3年時、頭取の松本良順以下56名いたが維新の際、良順は若干の生徒を連れて今戸に病院を開き鳥羽伏見の負傷者を治療していたが、情勢が逼迫し東北に脱走した。その他、幕府病院に残る者、忠悳のように郷里に帰る者があった。

 1869明治2年、潜伏中に『贋薬鑑法』を著述。
    当時よくあった不良薬を見分ける薬物鑑定の書でその出版を思い立った。上京後、医学所を訪れると政府のものになっていた。軍監医・大村益次郎の「医は西洋流で殊に軍病院は」という方針もあり、医学所に大病院を付属して医学専門の大学東校(のち東京帝国大学医学部)が創設されることになった。忠悳は文部省出仕、大学東校勤務となった。

 明治4年、松本良順の勧めで文部省を辞して兵部省軍医出仕。翌年、妻を呼び寄せた。
 明治7年、佐賀の乱。軍医長として横浜から軍艦で神戸、次いで久留米に行き陣中病院を開く。熊本鎮台から出征した会津人山川浩が銃創を受けたとき忠悳が治療した。

 明治10年、西南戦争、大阪に臨時病院。
    忠悳は西郷隆盛に何度か会っている。陸軍天覧演習が越中島で行われた時、軍医長としてその場にいて、包帯所の位置について申し立てると「専門のことは一任するから、よきように」と。陸軍省の会議でも殆ど口を開かず、鷹揚で、かつ冒し難い威厳と親しむべき温容があったと書き残している。西郷の挙兵、忠悳は政府軍に従軍して大阪の臨時病院で傷病兵の処置をしながら何を思っただろう。
 明治13年、陸軍軍医監、軍医本部次長として軍医制度の創設に尽力。

 明治17年、東京大学御用掛。長男・忠篤生まれる(大正・昭和期の官僚、農政家)
 明治24年、一年間の予定で欧州差遣。
    当時、ドイツには陸軍より乃木希典野田豁通福島安正、医家では北里柴三郎森林太郎(鷗外)など20数名が派遣されていた。
 明治27年、日清戦争。大本営野戦衛生長官。天皇に随行して広島大本営に移る。翌年、下関で兇漢に狙撃された清国・李鴻章を診察。

 明治31年、大倉商業学校設立に参加。創立者・大蔵喜八郎は越後出身で同郷。
 明治34年、星亨・東京市会議長時代に話があり日比谷公園の設計に参加。
    ちなみに、忠悳は長崎の医学所と養生所で教えていたボードイン(オランダの陸軍軍医)の忠告で、立派な上野公園ができた経緯を良く知り、共に上野公園を散策したこともある。

 明治35年、勅選貴族院議員。日本薬局方調査会会長。私立大橋図書館設立に参加。
    図書館創立者・大橋佐平も越後出身で、博文館を起こし出版事業大成し社会公益のために図書館を設立したのである。忠悳も大いに賛同、協力を惜しまなかった。
 1904明治37年、日露戦争。国内赤十字救護班視察のため九州、四国、仙台を巡視。
 1917大正6年、日本赤十字社社長
 1941昭和16年4月26日、97歳で死去。

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