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2015年2月 7日 (土)

なりふり派手な尊攘派浪士、本間精一郎 (新潟寺泊)

 2011年3月以後、主に東日本大震災と原発事故で被災した福島・宮城・岩手の人物をとりあげていて教わることが多い。戊辰戦争に敗れたため、貧困に陥ったばかりか明治維新後の生きる道をも狭められた学者・教育者・官吏・商人、どの分野でも共通するのは苦境にあってもくじけず刻苦精励する姿だ。維新の貢献者は南西日本出身が殆どで東北人は志を抱いてても選挙や試験のない時代、出身派閥に恵まれないと表舞台に立てない。しかしそれを乗りこえ人並み以上の奮闘努力で名を成した東北人は少なくない。東北の頑張り、今は大震災からの復興に立ち向かっている。ささやかな応援の気持ちを持ち続けたい。

 ところで、いよいよ戊辰の戦となり奥羽越列藩同盟が結ばれたが、そうした列藩中に勤王の士が居り、それぞれ藩内で葛藤があった。仙台藩の岡鹿門は、江戸の昌平黌つながり幅広い人脈があり、京都・大阪に長らく滞在し時勢を見る目が養われた。もちろん情報をすべて仙台送っていたが藩論を左右するまでには至らなかった。仙台に戻って列藩同盟に反対すると罰せられた。藩の行く末を考えればこそ同様の事は他藩にもあった。
 筆者は会津人・柴五郎の伝記を書いてすっかり会津贔屓になっている。東北諸藩のなかに列藩同盟参加に反対する者がけっこういたのにがっかりした。しかし、激動する情勢を立場をこえて眺め先行きを考えると、意見や立場が割れるのは仕方がない。
 海の向こうから黒船はやって来るし動き出した時勢、じっとしていられないのは藩士だけではない。京大阪から遠い地の若者をも突き動かし駆り立てた。その中で特に目立ったのが越後(新潟県)の尊攘派浪士・本間精一郎だろう。なにしろ、美服に長刀という派手ないでたち、東奔西走して弁舌を振るい、あげくに暗殺される。奥羽越ともいうように越後は東北の一角を占めるのに、本間の気質は東北人とかけはなれて見える。どうしてそうなのか。

       本間精一郎  1834天保5~1862文久2年

 本間精一郎。名は正高・純、字は至誠・不自欺斎、仮名を名張長之助、精一郎は通称。
 新潟県三島郡寺泊で生まれる。祖先は佐渡国守護職といわれ、郷士格の身分。本間家は寺泊で酢の醸造をし京阪方面にも取引先があり、大庄屋・町役人なども勤め栄えた。
 14歳頃、昌平黌教授・佐藤一斎の門人、斉藤赤城の門で6年間学んだ。19歳のころ、北越の天地は己を容れるには小さいと思い始める。
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航すると、本間は江戸に出て勘定奉行・川路聖謨のもとを訪れた。川路は佐渡に奉行として赴任したことがあり、ツテでもあったのか、それとも志に耳を傾けて貰えそうと思ったのだろうか。ともかく中小姓として川路聖謨に3年ほど仕えた。中小姓とは、常に側にいる寄寓書生のようなものらしい。

 1858安政5年正月、本間は堀田老中の命で京都に赴く川路の供をしたが間もなく、江戸に戻り昌平黌に入学した。
 昌平黌では学問に励むより、安積艮斎の同門の大村藩・松林飯山(長崎)や刈谷藩・松本奎堂(静岡)、水戸藩・薩摩藩の日下部伊三次(茨城・鹿児島)など広く志士たちと交わった。
 やがて、日米通商条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅ぼごのみっちょく)に関連、賴三樹三郎、日下部らと共に幕府の役人に追われ伏見に逃れた。しかし捕まって入獄、半年ほどで釈放された。この頃から、京都・江戸で尊攘派浪士が次々と捕らえられ、1858安政6年10月の安政の大獄となる。

 釈放された本間はなおも活動を続ける。大阪の双松岡(松本奎堂・岡鹿門・松林飯山の勤王塾)に出入りして事を謀り実行の相談をしたりもした。また讃岐(香川)に赴き赴子分が千人もいる日柳燕石の家に逗留して意気投合、さらに土佐にも長州にも赴、き勤王攘夷の急先鋒として花やかに活動した。しかし事は思うようにいかず志を得なかった。

 1862文久2年4月、薩摩藩の島津久光が藩兵をひきいて上京すると、本間ら尊攘派浪士は倒幕の時期至れりと張り切った。京都の長州藩邸に赴き、高杉晋作らに薩摩に続けと説いたが、島津の考えは公武合体にあり、朝廷の意を受けて浪士の軽挙妄動を戒めた。さらに浮浪を鎮撫せよとの勅命に従ったから尊攘派浪士は納得せず、倒幕挙兵を企てたため、寺田屋事件がおきた。
 寺田屋に集結した尊攘派志士と薩摩藩士が乱闘、殺害された。この騒動で、本間は個々に運動しても回天の業は遂げられないと悟り、同志の清河八郎らと情勢を窺いつつ、三条家や青蓮院の宮など公家の間に出入りし倒幕を画策した。  公家と志士の間をつなぐ役目をはたしていたようだ。

 雄藩の出身ではない本間は、自由に薩摩、長州、土佐を批判した。そのうえ、美服をまとい長刀を好み容姿颯爽として雄弁、また酒食に溺れるところがあり反感を抱く者も多かった。本間の金銭感覚は当時の軽輩の浪士らと違っていたから非難されることがあった。
 1862文久2年8月21日夜、ついに先斗町の遊郭の帰途、待ち受けていた本間の同志とも言える勤王急進派の薩摩、土佐の志士に襲撃され斃された。暗殺者らは本間の死骸を高瀬川に捨て去り、首を四条河原に梟した。享年29歳。
 本間の人物評には傑物と姦物・姦雄とがあり、評価が定まっていないようだ。

    参考
『越佐維新志士事略』 1922国弊中社弥彦神社越佐徴古館編 
『維新の史蹟』 大阪毎日新聞社京都支局1939星野書店
『北越草莽維新史』 田中惣五郎1943武蔵野書房
『明治維新運動人物考』 田中惣五郎1941東洋書館

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