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2015年5月

2015年5月30日 (土)

時勢は妙なもの、ドイツ仕込み平田東助(山形県米沢)

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 ―――時勢というは妙なものだよ、一山百文と軽蔑された東北からも大臣を出すようになったじゃないか。伊藤内閣に原敬、今度の桂内閣に平田東助、これで二人出た。東北だから大臣を出すことができぬ、あるいは大臣となるべき人物がないという理由は立たぬ。維新以来政権が薩長土肥の手に握られていたからだ。
原敬も平田東助も、東北人としては大したことはない。山高く水清くして東北に偉人傑士輩出す。この二人は第二流なるものの大臣となるは薩長輩に人物なきを示す。時は公平なる審判者であり、薩長閥族も東北人士の力を借りなければならぬ時至りたるものなり。東北人士の将来の多望なることを知ろう
             (福島民友新聞)

肖像写真:「独逸学協会の誕生~獨協学園の起原」展図録

 ときどき国会議事堂そばの「衆議院憲政記念館」特別展を見に行く。維新の元勲や大臣の事蹟よりも法令文書の原本や日記書簡などに加えて事物の展示がその時どきの世相を伝えて興味深い。ところであるとき憲政記念館ではなかなか東北人に出会えないのに気付いた。注意不足かもしれないが原敬と平田東助しか記憶にない。
 その平田東助と名の付いた展示をみたのに内容をまったく覚えていない。それが、獨協大学天野貞祐記念館「独逸学協会の誕生~獨協学園の起原」展示をみて、東北出身二人目の大臣平田東助が気なった。東北出身で長州藩出身の軍人・政治家の桂太郎とどういう縁かなと思ったのである。平田東助は桂内閣の農商相・内相を務めている。夫人は品川彌二郎の養女(山県有朋の養嗣子伊三郎の実妹)。
 正直なところ筆者は長州にはあまり興味がなく今回の主人公、平田東助に肩入れしがたいが、平田がかかわった獨協学園のこと知らなかったので併せて見てみる。
 

      平田東助

 1849嘉永2年3月3日 父は米沢藩士で藩主の典医をしていた伊藤昇迪の次男。平田家を継ぐ。号を西崖・九皐山人。
 12歳で藩校興譲館に学び、江戸に出て古賀謹堂(謹一郎)に入門し、維新後は大学南校(東大)に入学、卒業。
 1871明治4年、大学小舎長に任官。特命全権大使岩倉具視の欧米巡幸に随行し、ドイツに留学して西洋法制史・政治思想史など学んだ。
 1876明治9年、ドイツから帰国。3月、ドイツ長期留学者、品川彌二郎・青木周蔵・桂太郎・平田東助らは北白川宮能久を会頭として独逸(ドイツ)学会を発足する。
 太政官に入り、法制局参事官、枢密院書記官長、法制局長などを歴任し、法政の整備にあたった。
 1878明治11年8月、大蔵省権少書記官
    写真:平田東助から桂太郎宛書簡(独逸同学会開催の件)「研究年報」(獨協学園史料センター第5.6号より
M11 1881明治14年、ドイツ学教会設立。品川彌二郎委員長・桂太郎・青木周蔵(協会第2代委員長)・加藤弘之・山脇玄・西周・平田東助(第3代委員長)らが主導。蘭医や山県有朋系の文武藩閥官僚(県知事・大小書記官層)が会員となる。
 1883明治16年10月、ドイツ学協会学校東京府より認可。宮内省より補助金。
 1886明治19年11月、文部省より多額の補助金。
 1887明治20年、桂太郎第2代校長に就任。司法省より補助金。
 1889明治22年2月、大日本帝国憲法発布。
 1890明治23年、貴族院議員となり30余年在任。幸倶楽部をひきいて清浦奎吾らとともに山県有朋をたすけた。
 1891明治24年、品川彌二郎・平田東助ら信用組合法案提出、議会解散により廃案。

 1898明治34年6月、第一次桂内閣発足、農商務大臣に就任。

  この桂内閣は、政権が維新の元勲から藩閥官僚にと世代交代したことを示す。 明治も三十年代半ばになり次第に世の中が変化してき、国の為だといってもあまりに強引なやり方ではやっていけなくなっていた。桂太郎首相は巧みに「党派を操縦」し4年余り内閣を継続した。党派の操縦、それが桂園時代のはじまりの政権たらい回しである。
 山県有朋の後継者で藩閥の桂太郎と、伊藤博文の次の政友会総裁西園寺公望が、大正二年まで政権を交互に担当したのである。政権維持のため表面妥協、裏面対立であった。桂は政権維持のため政友会を無視できず、また政友会も妥協により政権を獲得して党勢を拡大した。原敬は政府援助を材料に桂と取引をし、次期政権を西園寺に譲ることを約束させ、組閣の手伝いをしたのである。この桂内閣で組閣の手伝いをした原に次いで東北から大臣になったのが、平田東助である。
 ちなみに第一次桂内閣が成立した同じ6月、政友会院内総務として力をふるっていた星亨が剣客伊庭想太郎に東京市役所で刺殺され、自由民権思想家として大きな足跡を残した中江兆民も病没。

 1908明治41年、第二次桂内閣発足、内務大臣就任。
   このころ、巌谷小波・大町桂月らドイツ学園創立期の同窓生活躍。

  1917大正6年、臨時外交調査会委員、臨時教育会議総裁。
 1922大正11年、内大臣。
 1925大正14年、死去。

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2015年5月23日 (土)

東北三陸の地域総合開発を説いた熱誠の人、小田為綱(岩手県)

Photo        小田為綱憲法構想(「激動の明治国家建設特別展」衆議院憲政記念館図録より)

 1839天保10年9月、陸奥国盛岡藩野田通宇部村24番(久慈市)に生まれる。父は代々の盛岡藩士・小田長十郎、母はるい子。幼名は仙弥。
 1853嘉永6年、盛岡に出て武技を長嶺将盈に、文学を板垣正純に学ぶ。
 1859安政6年7月、江戸の芳野金陵に経史文章を学ぶ。
 1861文久元年、22歳。「時務策十篇」著し藩侯に上せ、勤皇の大義を明らかにした。
 1862文久2年正月、藩侯の侍講、かたわら昌平黌で学ぶ。
 1863文久3年3月、盛岡に帰る。

 1868明治元年12月、藩主南部利剛、全領没収のうえ謹慎引退を命ぜられ、名跡は嫡子彦太郎が継ぎ、さらに白石に13万石与えられた。小田はこれを歎き同志と共に東京に出て、復帰を哀願する書を要路に呈し日夜奔走したが、忌避に触れて潜伏する。
 1869明治2年、南部利恭は復帰を許され盛岡藩知事となる。

 1870明治3年4月10日、31歳。藩校作人館が再開され、小田は藩学校舎長として迎えられ、原敬佐藤昌介ら後進の指導にあたった。6月、藩議員を兼任し版籍奉還を議決、7月、盛岡藩が廃され盛岡県となる。8月、国史編纂に資するため南部候の旧記抜粋を命ぜられる。
 1871明治4年10月、辞職。
 1872明治5年、「三陸開拓上言書」北奥羽開拓の意見書を執筆して上京。
 1873明治6年、左院議長・伊丹重賢の了解をとり陸羽開拓書7巻を左院に提出した。しかし、議官・丸岡莞爾、馬屋原彰などの違言(異なる意見)あり激論するも、けっきょく顧みられず帰国。子弟を薫陶することにした。

 1877明治10年、38歳。西南戦争に呼応して青森・秋田など東北地方での士族挙兵の計画に参画するも他の参加者らとともに未然に検挙された(真田太古事件事件)。
 真田太古は鹿角来満神社の神職で、西郷隆盛に呼応して反政府の旗挙げを計画するも発見され、小田はその檄文を草した廉で捕らえられたのである。
 1878明治11年7月、弘前裁判所において禁錮354日に処せられ青森で下獄。
 1879明治12年9月、帰郷。

 1880明治13年7月~14年10月ごろ元老院の「日本国憲法」草案を章ごとに書写し、これに評論を加えた「憲法草稿評林」をまとめた。憲法草稿評林は、君主有責論にたって天皇の廃位・廃帝の民権論的な*私擬憲法として注目される。
     *私擬憲法: 明治憲法制定過程に政府内外から出された憲法私案の総称。民権派によるものが多く、交詢社の「私擬憲法案」、立志社の「日本憲法見込案」、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」、千葉卓三郎の「五日市憲法草案」などが知られる。

 1887明治20年7月、48歳。東京に赴き三条実美に、陸羽北海――東北地方・陸奧と出羽、ばくぜんと日本列島北方の海域をさす――の形勢をのべ、「東京にいる旧諸侯を旧地に帰さしめ地方開発に尽くすべき、また仙台に大学を設置し大いに東北六県の俊秀を養成する」など主張したが、何れも行われなかった。
 1889明治22年、「陸羽開拓書」執筆
 1890明治23年、家に帰り、農牧の傍ら筆硯を友として過ごす。
 1894明治27年、「天語管窺」を著す。

 1898明治31年3月、59歳。第5回総選挙(衆議院議員臨時選挙)に岩手県第二区から出馬して当選、8月、再度の臨時総選挙(第6回)にも当選。進歩党に所属。
 同年6月、自由・進歩両党合同、憲政党結成(隈板内閣成立-初の政党内閣成立)。
  「上大臣諸公閣下下書」を執筆、東北三陸の地域総合開発を説いた。

 1901明治34年4月5日、62歳。衆議院議員生活わずか3年、任期中に病み東京で死去。

      参考: 『岩手県国会議員列伝』村上繁次郞1889哲進堂/ 『興亜の礎石』1944大政翼賛会岩手県支部/ 『衆議院議員列伝』1901衆議院議員列伝発行所/ 『大南部野田領誌.正編』1924千鳥倶楽部

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2015年5月16日 (土)

生計の困難にして不安、更にこれに劣らぬ苦痛は侮辱、 鈴木文治 (宮城県)

 「今日労働者として最も苦痛に耐えざるは、その生計の困難にして且つ不安なること、更にこれに劣らぬ苦痛は、・・・・・・労働者に対する一般社会の侮辱である」
 と語ったのは、大正初頭、友愛会の創設にあたった鈴木文治

 戦後70年にあたる今年、なんとなく戦前の空気が漂うという人が少なくない。そうかも知れないと不安にかられる。そのせいか、父母から聞いた、空襲を逃れようと東京から千葉や埼玉に引っ越した、父は幼い私をすぐ背負って逃げられるようにいつも兵児帯を腰に巻いていた、戦中戦後の苦労話が思い出される。近代史年表を見れば、戦争がたびたびあり、そのあげく敗戦。しかし、その後の70年間の平和はすごい、立派なことだと思う。どうか、このまま戦争をしないですむ世が続いて欲しい。

 ところで戦争となれば兵隊にとられるのは、いつだって青壮年の働き手である。その働く場、労働環境が戦前は劣悪だったよう。明治維新後、社会の変動で農民が都市に大量に流れ込み、工場労働者がふえ、その下層部分はスラムに定着。残業をし妻の内職収入がなければ一家の生活は苦しかった。その労働者を下層社会の成員とみなす社会的蔑視の風潮も少なくなかった。冒頭の一節はそれを表現している。それを言った鈴木文治は、どのような人物なのだろう。鈴木本人の著書『労働運動二十年』に吉野作造が寄せた序文でみてみよう。
 ちなみに、吉野作造は前にとりあげたことがあるが、宮城県出身で東大教授。民本主義を提唱し、大正デモクラシーの理論的基礎を提供した。明治文化研究会設立した人物として知る人も多いだろう。

          鈴木文治
                      1885明治18~1946昭和21年
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(『労働運動二十年』序文・吉野作造――鈴木文治君の素描――)

 鈴木君を私(吉野作造)が知ったのは日清戦争後間もないころである。
同君は隣郡の造り酒屋の息子だ。新設された中学校に入り、私の友達の小学校教師に預けられたので知り合いになった・・・・・・今は体重30貫あるという。たしか中学1年の時は、色白の丸ぽちゃの人形のような美少年であった。
 鈴木君の実家は、そのころから段々不如意になっていたらしいが、中学卒業のころまでは家運の傾けるを知らずに過ごしたようだ。両親は金に飽かして彼を育て、何一つ不自由のない甘やかされた生活で・・・・・・金持ちの坊ちゃんにありがちの罪のないナンセンスを連発しては人を笑わせていた。

 中学卒業の前後、実家は一家離散、鈴木君は高等学校へ入ったが、学資は一文もなくできれば両親兄弟の面倒までを見ねばならぬ窮状に陥った。これより彼の艱難時代が始まる。高等学校から大学を卒業するまでの前後7年、その間自分の学資を作るばかりでない、時には幾分両親の家政までを助けねばならなかったのだから・・・・・・しかし、あれほどの貧窮に落ちても、遂に本当の貧乏の経験をする機会を掴み損なったのではなかったかと思う。その故は、彼が異常の窮境に陥ったと聞くや、友人の誰彼は直に彼を救うべく・・・・・・

 鈴木君に相当の財産ができたという噂があるとやら。労働運動の大将で金のできるはずのないことはいうまでもない。金など作れる柄ではない。昔あれだけ貧乏したのだから、もう少し倹約してもよかりそうと私共は思うが、金があると何か他愛のないものを買って喜んでいる。そうでもないと後輩をたくさん集めて大盤振る舞いをやる。好意をよせる部下からは金持ちとみられ、素質を知らぬ他人から贅沢と疑われるゆえんである。
 右の如きは労働運動の先端に立つ闘士として、残念ながら重大なる欠点と観ねばならぬことは勿論だ。毀誉褒貶を尻目にかけて多難な労働運動を指導してきたが、時勢の進みは早い。今後も従来の運動を継続するには、彼に新たな修養がいる・・・・・・ここに自らを反省して転身の決心(総同盟会長辞退)を定めたのは時の宜しきを得たものと私は思う。(後略)

 1885明治18年9月4日、宮城県栗原郡金成村(栗原市)の酒造家の長男に生まれる。
 家が没落する中、古川中学山口高校を経て東京帝国大学法科大学卒業。
 海老名弾正の本郷協会に属し『新人』の編集にあたる。
 印刷会社秀英社を経て、東京朝日新聞入社。浮浪人研究会を組織。
 1911明治44年、朝日新聞退社後、統一基督教弘道会の社会事業部長に就任。

 1912明治45年2月、労働者講話会を始める。
   大正1年8月1日、浮浪人研究会や日本社会政策学会の協力を得て友愛会を結成し会長となる。労働者の修養を説き穏健で共済的な団体として出発した。
 1916大正5年ころから、労働組合の性格を強める。鈴木の提唱で友愛会に婦人部を設置し、『友愛婦人』を創刊。
 1921大正10年、友愛会を日本労働総同盟に発展させ、その後も労働運動右派の中心であった。翌11年の日本農民組合結成など農民運動にも係わる。反共産主義の立場をとる。

 ――― 「まあ、俺に任せろ」と、20貫余の巨躯に太鼓腹を突き出して自身ある一言を放つとき、全国に群がる労働者は如何に心強く感ずることか!
(―大正の侠客・鈴木文治氏―『苦学する者へ』治外山人1925苦学同志会)

 

 1926大正15年、社会民衆党の創立にも参加し、普選第一回の総選挙で当選。1930昭和5年まで務め、会長を退く。
 1945昭和20年11月、日本社会党結成、顧問となる。
 1946昭和21年3月12日、敗戦後初の総選挙に日本社会党から立候補、選挙運動中仙台で倒れ、62歳で死去。
   著書:『労働二十年』(1931)、『労働は神聖』『工場法釈義』『国際労働問題』『世界労働不安』『日本の労働問題』『民衆政治講座』など

   参考:『近代日本史の基礎知識』藤原彰・今井清一・大江志乃夫1988有斐閣ブックス

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2015年5月 9日 (土)

安積疎水と阿部茂兵衛(福島県郡山)

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 五月の連休まえ、駅に福島県の観光パンフレットが並んでいた。ページをくると、美しい風景、花とりどり、特産品、美味しそうな名物が目に楽しい。福島県地図に隣接する県、茨城栃木群馬新潟山形宮城の6県名が載っている。
  遠方の県や市を見るとき、そこを真ん中にして周辺を見る発想がなかった。視点が変われば見えてくるものがありそうだ。地図が読めない女だけどもっと地図を見るとしよう。

 福島県エリアマップの県中エリアにある郡山は江戸時代まで、人口5000人ほどの奥州街道の一宿場だった。ところが、明治時代に国の直轄事業として行われた安積疎水(あさかそすい)の開削、原野の開拓をきっかけに大発展を遂げる。

 安積疎水は、猪苗代湖から会津若松に流れる反対側の東部の安積郡にひかれた用水路。士族授産開墾を目的に着手された。
 明治政府は士族授産の制度を設け、開墾地殖民事業により国力の充実を図ることにした。
 福島県令(知事)安場保和は、安積郡は原野が多く水利が乏しいのを見、調査させたところ開墾適地と報告があり、典侍(県役人)中条政恒に担当を命じた。中条は、まず郡山小原田大槻三カ村の一部を開拓することにした。

 1873明治6年、開拓希望者を募ったが、応募者の多くが無資産または無頼の徒ばかり、みな資格がなかった。そこで中条は、阿部茂兵衛が資産もあり気骨もあると知って、自ら出向いて茂兵衛を説いた。

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  阿部茂兵衛(はじめ虎吉)は、1827文政10年、安積郡郡山町の商家・小野屋に生まれた。小野屋は古くからの呉服商で、二本松藩から苗字帯刀を許されたほどの家柄である。家訓は「商人は商売以外に手を出すな」であった。

 戊辰戦争の時、茂兵衛の小野屋は、家屋を焼かれ資産を失って苦境に立たされた。しかしその後、生糸を海外に輸出し大きな利益を上げて家運を盛りかえした。そして順調に商売している折しも、資産と人望を見込まれ開拓に応じるよう頼まれたのである。中条から話を聞いた茂兵衛は家訓に背いて応じたばかりか、私益を忘れて尽くすことになる。

 茂兵衛は有志の間を奔走して商人24人の同志を得、開成社を組織し社長となった。
 開拓事務所「開成社」は荒野を開拓して桑園を作り水田を開墾して数年後には集落を造成しこれを桑野村と名付けた。開墾地300余町歩、現在の開成山一帯である。
 ちなみに、郡山市開成館は近代史を語る史料館としてのこされ、見学できる。

 1876明治9年、明治天皇東北巡幸の先発として内務卿・大久保利通が福島県を訪れた。このとき、中条政恒は熱心に安積疎水の開削を訴えた。
 1878明治11年、御用係・奈良原繁、内務省土木局のオランダ人技師ファン・ドールンが実地調査して疎水開削が決定した。
 1879明治12年12月5日、起工。この工事は猪苗代湖の湖西にある戸ノ口に水門を設けて、水量を調節し、湖東に新しい水門を設けて安積原野に湖水を流下させようというものであった。工事は多くの隧道・樋・堀割による幹線約50kmで、3年の歳月と公費40万円を費やし、1882明治15年8月、完成、旧藩士たちが全国から入植し、開墾に従事した。
 同年10月1日、開成山大神宮で、政府から岩倉具視左大臣はじめ顕官50人、地元から阿部茂兵衛ら多数の関係者が出席して完成式が行われた。

 阿部茂兵衛の働きは開成山だけにとどまらず、安積野全域に広まり、さらに、安積疎水の完成に尽くした。また、神社の改築、諸役所・警察などの建設にさいして多額の寄付を行うなど公共事業に力を尽くした。そのほか、福島県庁の誘致運動では身銭をきって活動した。茂兵衛はこのように利害抜きに開拓に没入し、家産を傾け小野屋のノレンを下ろすハメになった。そして、ノレンを下ろして間もなく亡くなる。
 1885明治18年、59歳の一生を終えた。

 茂兵衛の没後、その徳を偲び称え、男爵・奈良原繁、前安積郡長・田中章により碑を開成山に建てられた。碑文は品川子爵。

 安積疎水は農業用水として大きく役だつばかりでなく、郡山市民の飲料水、さらには工業の発展にも役だったのである。安積疎水の豊富な水量を利用した発電所が次々とつくられ、郡山が工業都市として発展する動機となった。
 明治・大正・昭和の各時代を通じて、郡山に広い分野の工場・事業所が進出した。明治のはじめ5500人だった人口が約30万人にもふくれあがるなど発展。安積疎水は郡山発展の基盤となったのである。ちなみに安積疎水関連の施設など、近代化産業遺産群に指定されている。

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2015年5月 2日 (土)

宮沢賢治の母校、盛岡高等農林学校(岩手県)

 以前、『校歌ローマンス』を参考にしたときページを繰っていたら、盛岡高等農林学校(岩手大学農学部)があった。なんとなく校名に覚えがあると思ったら、それもそのはず、宮沢賢治の母校だった。その、農学校の建物は「岩手大学農学部付属農業教育資料館」として、賢治在学中の資料などが展示されているという。校歌歌詞を末尾に掲載。
 いま春真っ盛り、あちこちで「観光にいらっしゃい、来て下さい」とパンフレットが配られている。賢治ゆかりの観光案内も目に入る。 <イーハトーブいわて物語> <今年も響くよ銀河の汽笛・桜の下、釜石線SL>、JR釜石線の前身「岩手軽便鉄道」は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルとされている。ところで、賢治が学び、教師も勤めた盛岡高等農林学校はどんな学校で、その時代はどんな社会だったのだろう。順に見てみる。

      明治期
 
 1902明治35年、日英同盟協約、ロンドンで調印。同年3月、盛岡市上田の高燥閑静の地に盛岡高等農林学校創立。同時に広島高等師範学校神戸高等商業学校京都工芸高等学校も設立された。

 1903明治36年、授業開始。校地90,850余坪。のち岩手郡御明神村経済農場演習林滝沢村に演習林を有し本邦農林学校中最古を誇り諸藩の設備充実。農学農芸化学林学獣医学科(いずれも修業年限3年)の4部に分かれ、別に農学実習科(修業年限1年)。
 1904明治37年、日露戦争はじまる。
 1906明治39年4月26日、第1回得業証書授与式(卒業式)挙行。
 1908明治41年、開校5周年記念式に皇太子行啓。

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      大正期

 1914大正3年、原敬、政友会総裁に就任。ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参戦。
 1915大正4年、宮沢賢治、20歳で盛岡高等農林学校・農芸科に首席で入学。
 1918大正7年、賢治卒業。
  地質土壌肥料研究のため、同校の研究生となり、翌年には稗貫郡内各地の土性調査を委嘱され、母校の実験教師となったが、8月に辞任。専攻の技術を活用する実業につくことを望んだが果たさず、家業を継ぐ意思のないまま店番をして過ごした。
 生家は大きな質屋で町の資産家であるが、宮沢賢治の一生は宗教・科学・文学・実践を通して、農民への奉仕に費やされたといわれる。次の引用文は、賢治が農林学校を去った同じ1919大正8年「校歌ローマンス」出口競〔岩手冨士にのぼる〕より。

 盛岡についた翌日、盛岡高等女学校長Y氏を訪ね、高農獣医科の生徒一人、中学生二人、女二人、牧師さんに私(出口競)と岩手冨士と云われる北にそびえた岩手山(岩鷲山)に登りました。柳澤村の真っ暗な部屋に泊まり、暗い中を炬火で登って、七合目で盛岡らしい電灯の光をみつけました・・・・・・
 盛岡は、政友会総裁にして、内閣総理大臣たる原敬さんの郷里です。Y校長のうちで、稲の葉を伝ってくる風に面を吹かせていた私に「あれが原さん」と教えてくれました。
 盛岡高農は今年まで16年の歳月を閲し、今の校長は佐藤義長氏です。盛岡高農の校歌は、同校校友会文芸部の作で、楠美さんが譜を作ってくれたのです。工業家(京都工芸高等学校)に云わせると工業立国だと云い、商業家(神戸高等商業学校)も商業立国だと、真面目腐ります。農業家、ここの生徒なども、校歌の第三で
「栄行く国も内にして、基立たずば何かせん」で農業立国策をほのめかしています。
  
 筆者(出口競)は、神戸商業・京都工芸・盛岡農林は同時設立なので、競争心を感じとったのだろう。

 1923大正12年9月1日、関東大震災。

      昭和期・戦前

 1928昭和3年10月、陸軍特別統監のため盛岡に行幸の天皇に、大本営内にて自然科学研究に関する陳列、校長以下研究教授が説明。岩手県産高山植物腊葉標本・東北地方産竹新種腊葉標本・馬匹年齢鑑定用馬歯標本を献上。夕、大本営に於いて校長に陪食仰せつけられる。

 1933昭和8年4月28日、文部省第一拓殖訓練所(修業年限1年)を御明神村・経済農場内に設置。修了生を満蒙大陸農業移民の指導者として送る。翌9年、満州国帝政実施(皇帝溥儀)。
   同年9月21日、宮沢賢治没。
 1941昭和16年、生徒定員500余名、卒業生は3426名に達す。
 1944昭和19年 盛岡高等農林学校を盛岡農林専門学校に改称。
 1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾。9月2日、降伏文書調印する。
 1949昭和24年、国立学校設置法により盛岡農林専門学校、盛岡工業専門学校、岩手師範学校、岩手青年師範学校を統合、農学部・工学部・学芸学部からなる総合大学として岩手大学設置。
 
   参考: 『盛岡市案内』1926盛岡市役所/ 『盛岡高等農林学校要覧』1935 / 『岩手の産業と名勝』1941岩手県書籍雑誌商組合)/ 『校歌ローマンス・続』出口競著1919実業之日本社
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