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2015年6月

2015年6月27日 (土)

仙台の都市公園、桜ヶ丘公園・榴ヶ岡公園(宮城県)

 東京・谷中に実家の菩提寺があり、墓参の帰りは上野公園を抜けて上野広小路へ出て食事をする。父親が浅草生まれだったせいか浅草まで足を伸ばすこともあった。昔、浅草六区は人人人で大賑わい、キョロキョロしながら親にしっかり掴まっていたのが懐かしい。浅草寺の境内に立ち並ぶ店は区割りで貸されていたも。
 1873明治6年1月、太政官布告で府県に公園の候補地を選ぶよう指示があり、東京は3月、浅草公園・上野公園・芝公園・深川公園・飛鳥山公園の5カ所を選び、日本初の都市公園が設定された。
 上野・浅草はもとより芝公園も東京タワーでお馴染み、飛鳥山公園には博物館が三つもありたまに出かける。深川公園は行ったことがないが、〔深川東京モダン館〕講座にときどき行く。
 先日は龍澤潤先生【東京初の公園 深川公園】を聴講、現代では当たり前の公園が近代になって成立したのを知った。公園は誰でも入れる好ましい場所というだけでなく、歴史の痕跡が観察できる、時代の変遷をたどれるなど身近な史蹟なのですね。例えば、現存しないが昔あった建物の煉瓦を拾い、刻印を確認するとか。

 ちなみに、日本最古の公園は奥州白河藩主・松平定信が1801享和元年、寺領内に築造した「南湖公園」といわれる。白河城の南の湖の意味で、李白の詩「南湖秋水夜無畑」にちなんだとも。武士も町人も利用できる茶室「共楽亭」は、南湖県立自然公園となった今も利用されているのだろう。
 福島県の南湖は人の手が加わり立派な公園となったが、隣県の天然の名勝松島は、1952昭和27年、宮城県立自然公園に指定された。公園の成り立ちは自然天然のまま、人が築いたりといろいろだが、維持管理に多大な費用・労力が欠かせないのは同じと思う。

 1873明治6年の太政官布告による宮城県の公園は、仙台市内「桜ヶ岡公園」で「西公園」と呼ばれ親しまれているが、併せて「東公園」という「榴ヶ岡公園」(躑躅ヶ岡・榴岡)の昔もみてみよう。
 公園内に神社やお堂があるのは今も昔も変わらない気がするが、兵営や陸軍将校の親睦および研究機関である偕行社が近くにあったのは、“強兵のふるさと”ともいわれる仙台だからか。

     <仙台と公園>

 ――― 藩政時代には無論、公園と称するものはない。釈迦堂が春の花に無二の遊覧地とされてあったのみである。1873明治6年1月15日太政官布告を以て、名勝旧蹟に四民遊覧の園地を拓かしめられた時、宮城県権令・宮城時亮は旧藩門閥、伊達安房・古内左近之助・大内縫殿の3邸地、5447坪を収め、明治8年6月初めて公園を設け桜ヶ丘公園と称したのが始めである。
 伊勢堂山神明社を勧請して桜ヶ丘大神宮と改称し、また梅園を拓き、藩祖公征韓役みやげ(伊達政宗・文禄の役)若松・八房の梅を移植し、傍らに林子平の碑を立てた。園内に割烹店も開かれ、明治9年仙台博覧場を開き・・・・・・遊人好適の遊び場所となった。
 1892明治25年、偕行社が建てられ、翌年には立町小学校が落成
 1900明治33年 今上陛下未だ東宮殿下に在します時の御結婚大典に当たり、躑躅岡7203坪を画して県公園を拓いた・・・・・・
 1903明治36年から39年にかけて桜ヶ丘公園を5173坪を拡張した。39年当時の市長・早川智寛の主唱にかかる青葉城頭天主台付近から・・・・・・天然的大遊歩地を開創する議は未だ実現されない。東北一の都会にある公園としては桜岡公園は不完全極まるものである。
     (『仙台繁昌記』 (富田広重 1916  トの字屋)

 

     <桜ヶ岡公園

 広瀬川を隔て、川内諸兵営に臨み、近く青葉の翠巒に対し西北遙かに群山を望む、園内梅桜を植栽し、四時の風趣掬すべし、園の中央に桜ヶ丘大神宮あり、関東には立町小学校あり、また北に隣りて仙台偕行社なり。

     <躑躅ヶ岡公園

 仙台市の東端に在る高陵にして、往昔躑躅樹多く、つつじ摺を産したりといふ、昔、国分鞭楯の古塁にして、1695元禄8年伊達綱村、釈迦堂建設に当たり、この地を相し垂糸桜数百株を植え、騎射場を設け、併せて子女遊覧の地となしたるものにして、花時遊客雑踏す、岡西に天神社あり、維新後、岡東に兵営を建設す。歩兵第四連隊これなり。
          (『東宮行啓記念宮城県写真帖』1908宮城県)

     <榴ヶ岡(桜)>
 名勝(1924大正13.12.9内務省告示第777号指定) 
  所在地: 宮城県仙台市榴ヶ岡
  所有者: 国有
  管理者: 陸軍省・宮城県
      (『指定史蹟名勝天然記念物国宝・第11輯』1937宮城県史蹟天然記念物調査会)

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2015年6月20日 (土)

農民作家、斎藤利雄 (福島県飯野町)

Photo_2 けやきのブログも今回で記事数が350件、毎回、誰にしようと考えるが、迷ったときは地元の出版物が一番。それで『福島県民百科』(1980福島民友新聞社)をみていたら、―――斎藤利雄・農民作家。飯野町に生まれる・・・・・・小学校卒業と同時に好間炭鉱で働いたというのがあった。いくら昔でも子どもなのに炭鉱で働かざるを得ない境遇とは、そこからどう抜け出したのか。手元の人名事典をみたが斎藤利雄は載っていない。地元で知られるのみで埋もれているようだ。福島県のHP“うつくしま電子辞典・人物編”には写真と紹介が載ってい、参考にさせてもらった。
 斎藤利雄の履歴を書きぬきながら、困難な境遇にいながら社会一般の心配をするような人物、今では少なそうと思った。自分も含めて身の回りのことしか考えていない。せめて、その事蹟をみてみよう。

 

    斎藤利雄
           1903明治36~1969昭和44年

 現在の福島県福島市飯野町に生まれる。

  飯野町: 福島県北部。1955昭和30年、伊達郡明治・大久保・青木の3村と合併。町域は阿武隈山地に属し、起伏に富む。養蚕、畜産の地。中心の飯野は川俣・二本松街道の宿駅。
 大久保とともに絹織物の産地で大正初期まで三・八の日に市が開かれ、羽二重を売買。飯野・大久保に小機業工場が多く、絹・人絹織物を生産。千貫森は行楽地。

 1912明治45年、9歳のころ一家で岩城好間に移住。小学校卒業後とともに好間炭鉱で働き、労働者の苦しみを知る。
   好間炭鉱(よしまたんこう): 古河石炭鉱業株式会社好間炭鉱。福島県石城郡好間村。近くに好間村水利組合の用水堀・好間川あり。採炭数、1935昭和10年・264.566トン。鉱夫数、男954・女150(坑内474、坑外630)。(『炭鉱案内』1936石炭鉱業連合会)

 大正7年、15歳で上京。美術に魅せられ、東京の*「川端画学校・洋画科」で学ぶ。苦学して美術を研究中、結核に冒され、帰郷して療養。
   *川端画学校: 1909明治42年2月創立。小石川区富坂町19(市電春日町下車)。入学資格、日本画(高小卒業以上) 洋画(一年以上実技を修得せる者および中学3年以上の学力ある者)。修業年限、3年ないし5年。学資、一ヶ月4円。教員数9名、生徒数300名(『小学卒業立身案内』1934帝国教育会出版部)。

 1931昭和6年、再び上京。小説の挿絵を描いたことから、小説家を志す。福田新生の紹介で**『文芸戦線』に参加して、鶴田知也との共同作『町工場』を管野好馬のペンネームで連載するも、考え方の違いから脱退。***『戦旗』に入会して「同志小林多喜二を想ふ」を発表したが、弾圧と病気の再発で帰郷した。

   **『文芸戦線』: (大正13~昭和7年) プロレタリア文学雑誌。関東大震災によって、反戦と平和と被抑圧解放のスローガンを掲げて注目された『種蒔く人』が廃刊されたあと創刊。プロレタリア文学運動の代表的発表期間として大きな役割を果たした。

   ***『戦旗』: (昭和3~6年) 共産党に対する弾圧(3.15事件)のあと誕生した全日本無産者芸術連盟の機関誌。ここに発表された小林多喜二『蟹工船』、徳川直『太陽のない町』は評判となった。演劇でも左翼劇場が結成され、地方にも影響を与えたが、このプロレタリア文化運動は、軍国主義の台頭と治安維持法のたびたびの発動により、壊滅させられた(『民間学事典・事項編』1997三省堂)。

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 帰郷後は、農作業と小さな商店を営みながら小説を書き、『日刊農業新聞』に「大隈川流館」を連載した。その他、郷土史から取材した『二本松少年隊秘話』『会津士道訓』のほか、代表作『橋のある風景』 『天明柏羽雀』などが知られる。

 農民作家として、戦前・戦中・戦後の厳しい状況の中でもあたたかさと楽しさがある作品をつくり、読む人に感銘を与えたという。

 1948昭和23年から町会議員を2期8年間、明治村村会議員として村政発展につくした。また、町文化財保護委員・町史編纂委員をつとめ、地元に残した足跡は大きい。
 2002平成14年、地区民が飯野町に顕彰碑を建立。

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2015年6月13日 (土)

高島炭鉱、世界遺産へ(長崎県)

Photo 2015年5月、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」として軍艦島など一連の施設が世界遺産に推薦された。釜石(岩手県)・韮山(静岡県)・鹿児島・三池(熊本県)、佐賀、萩(山口県)、八幡(福岡県)、長崎と数ある中で高島炭鉱があった高島に行ってきた。
   写真:伊能忠敬の高島測量図。

 長崎港ターミナルから乗船35分ほどで高島港着、バスで高島炭鉱・北溪井坑(ほっけいせいこう)に到着したが、閑散として説明の掲示板もなく、ただ生ぬるい風が吹いていた。周辺を歩いていたら、「後藤象二郎邸跡」碑があり、その先にグラバー別邸跡がある。
 すぐそばの海岸に石炭を運び出したらしい所があった。炭鉱からレールが敷かれていたそうで、多くの働く人がいて賑わう様が想像できた。島の人口密度は高かっただろう。この感じは写真で遺構を見るだけでは分からない、来て良かった。写真もとったし、さあ帰ろうとバス停に戻ったがバスは当分ない。
 仕方なし、友人と二人、汗をふきふき港まで40分歩いて戻った。疲れたが途中行き会った高島の人の笑顔に一息付けた。そういえば、二泊三日の長崎でたくさんの笑顔に出会った。きっと、長崎人はみんな親切。

 高島炭鉱の経営はトーマス・ブレークグラバーから後藤象二郎の蓬莱社、さらに岩崎弥太郎の三菱へと移る。この間のいきさつに興味がありでかけた。
 高島行き汽船はガラガラで乗客は数えるほどだったが、傍らを行き交う軍艦島クルーズ船は満杯の観光客をのせて快走、軍艦島(端島)は大人気。その夜乗った稲佐山夜景案内の観光タクシー、運転手さんが話していた。「世界遺産人気でつぶれかけた船会社が立ち直ったばかりか、高速船もふやし儲けている」。

Photo_2
 地味な?北溪井坑跡に、同行の歴史嫌いはつまらなそうだった。港近くの石炭史料館、岩崎弥太郎の銅像など現地ならではで、自分は興味深かったが、興味がないと何の事もない。誰もが喜ぶ万人向けの保存と展示、そんなのあるかな。
 以前当ブログでとりあげた大島高任、その彼が手がけた岩手県釜石市の橋野鉄鉱山・高炉跡も産業遺産だけど遺構はどの位保存されているのだろう。大人気の軍艦島といえども、保存や資金など難しい問題があるという。遺跡遺産の保存と展示、知恵と工夫がいりそう。

     高島の歴史

 長崎市高島は長崎港から南西に14.5kmの海上にあり、壇ノ浦合戦に敗れた平家の落武者が、1185文治元年頃から住みついたという伝説の島。周辺に軍艦島と愛称される端島、中ノ島、飛島がある。
 1695元禄8年、石炭が発見され高島を治めていた佐賀藩家老・深堀家により貴重な商品として生産・事業家され、瀬戸内の製塩業の燃料などに使用された。
 幕末、オランダから海軍伝習所に派遣されたカッティンデーケは高島炭鉱を見学、伊王島高島の石炭は良質だが、鉱法が未熟で効率が悪いため、粗悪と見られているが、将来的には有望な炭鉱であると記録している。その後、高島は佐賀藩主・鍋島家の領地となり、異国船の見張り、監視する「遠見番所」を設置、長崎港警備の役をになった。

 1869明治2年、佐賀藩はイギリス商人グラバーと共同で、日本で初めての蒸気機関をつかった洋式の竪坑を作り、海底炭田を掘る近代炭鉱が誕生した。グラバーはイギリスから技師をまねき、機材をすべて輸入し洋式炭鉱の開坑を成功させた。この西洋式竪坑は北溪井坑と名付けられた。50m余り掘り下げた竪坑、蒸気機関をつかった採炭、排水設備、巻上げ機を坑内に設置し作業した。採炭場所から積み出しの船が着く波止場までレールを敷き、石炭を運搬した。現地に行くと炭鉱と海の近さがよく分かる。
 1870明治3年、グラバーが破産。グラバーは高島炭鉱の権利をオランダ商社のボードウィンに譲渡。明治6年、炭鉱が官営化され、ボードウィンに40万ドルが支払われた。
 1874明治7年、官営化からわずか一年足らず、後藤象二郎蓬莱社に55万円で払い下げられた。しかし経営はうまくゆかず後藤象二郎は負債を積み重ねた。   
 1881明治14年、交渉の末、岩崎弥太郎が後藤の負債を肩代わりして、高島炭鉱は三菱会社の経営となった。三菱は最新の設備を揃え出炭量を増加させ莫大な利益をあげ、さらに高島沖の岩礁端島(軍艦島)を手に入れ、炭鉱は三菱のドル箱となる。

     高島住民の生活

 高島には河川も貯水池もなく、ずっと水に苦労し対岸から船で水を運び生活用水としていた。そのため主婦は毎朝、家庭の飲料水を汲みに行くのが日課であった。1886明治19年、海水から作った蒸留水を飲料水にするようになったが、家から離れた水くみ場にいかなければならなかった。
 明治時代、郡区町村編成法により、西彼杵軍高島村となる。炭鉱で栄えていた時代には高島と上二子島、下二子島と3つの島の間を*ボタで繋ぎ、1935昭和10年陸続きにした。
   *ボタ:石炭として使用できない捨て石。産業廃棄物。
 第二次大戦後、高島村から高島町になり、1955昭和30年、端島(軍艦島)と合併、人口密度日本一の街となった。
 1957昭和32年、送水管が敷設され、家に居ながら水を飲んだり使ったりできるようになった。高島海底水道、端島海底水道。
 1986昭和61年、高島炭鉱閉鎖。エネルギー源の変遷などの影響から島の基幹産業が閉鎖すると、そのまま人口減少に直結。長崎市と合併する直前の2005平成17年には日本で一番小さい町であった。

   参考: 『高島と端島ふたつの島の物語』2013軍艦島・高島を活かした観光振興・地域活性化委員会/ 『弥太郎の長崎日記』赤瀬浩2010長崎文献社/ 「長崎の近代化遺産」長崎市観光推進課

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2015年6月 6日 (土)

『日本之禍機』 エール大学教授・朝河貫一(福島県二本松)

 明治期から昭和期にかけて外国で日本を対象に卓越した作品を発表し続けた歴史家、朝河貫一。その名をこれまで聞いたことがなかった。知識不足もあるだろうが、活躍の場が海外のため日本国内で紹介が少なかったせいもありそう。インターネットが発達した現代、人を惹きつける事柄はあっという間に世界中に広まる。しかし、明治・大正期はそうはいかない。その時代にアメリカの大学で教鞭をとり、研究も評価された日本人がいたのは驚くばかり。どのような人物か見てみよう。

      朝河貫一

 1873明治6年12月22日、福島県日本松町に生まれる。
 父の朝河正澄は旧二本松藩士で文武両道で維新後、小学校の教員をつとめる。
 「天保元年・慶応・戊辰・明治十年二本松藩士人名辞典」(古今堂書店古典部編1934)によると1877明治10年の旧藩士の金禄公債は600円から下は65円まであり、正澄は255円であった。それまでの家録に替え公債が支給されたのだが公債利子では生活できず、多くの士族が没落している。朝河家も例外ではなく経済的に恵まれなかったが、貫一は幼少時代から英才振りを発揮していた。

 福島県立尋常中学校(のち安積高校)入学、その秀才ぶりに朝河天神とあだ名がついた。並外れた勉学振りで、英語辞書の一ページずつを覚え込んでは食べてしまい、表紙だけは残ったという逸話も残している。
 1895明治28年、東京専門学校(のち早稲田大学)文学科入学、苦学のすえ首席で卒業するとアメリカ留学を志した。周囲の応援もあり、*横井時雄の紹介で渡米、翌年、横井の友人タッカーが学長をしていたダートマス大学に入学した。
    *横井時雄: 熊本藩士横井小楠の長男。明治・大正期のキリスト教指導者。

 1899明治32年6月、ダートマス大学を首席で卒業。9月、エール大学大学院歴史学科に入学。ヨーロッパ中世史を専攻。
 1902明治35年6月、学位を得る。9月、ダートマス大学の講師として極東史を担当
 1906~1907明治39年2月~明治40年8月、一度目の帰朝。
    エール大学および米国議会図書館の依頼で日本関係図書を収集。
 1907明治40年9月、エール大学講師。11月、エール大学東アジアコレクション部長を兼任。ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍。
 こののち歴史学助教授から正教授へと昇進する。エール大学では36年間にわたり教鞭をとる。日本史とヨーロッパ中世制度史を講じた。

 1909明治42年、唯一の日本文著書刊行『日本之禍機』 (近代デジタルライブラリー  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/785643 )。
Photo
   日露戦争時、朝河はその原因について具体的に論じ、日本への理解を訴えて、
The Russo-japanese Conflict 出版、翌年に再版されたほど読まれた。ところが、日露戦争後の日本が「危険」な方向に向かいつつあるのをみて、『日本之禍機』を日本で出版、世界的視野にたって、日本の外交政策と教育行政に苦言を呈した。

 1917~1919大正6~8年、日本中世史研究のため二度目の帰朝。東大史料編纂所に留学、入来院文書を採訪し、これを研究翻訳し英米で刊行して比較法制史学の金字塔といわれる。
 大正期、西欧のマナーmanor(領主・貴族の領地)と日本の荘園、東西の封建制度を比較研究し、世界史研究史上に新しい分野を確立した。

 1937昭和12年7月、エール大学正教授(歴史学)に昇進。アメリカ議会図書館内に日本書籍のコレクションを創設した。
 1940昭和15年、朝河の士族的ナショナリズムはキリスト教と結合し、天皇に対して日米戦回避の試みをしている。
 19426月、定年を迎え名誉教授となる。
  太平洋戦争の終戦に天皇の戦争終結のアメリカ大統領あて親書の草稿を執筆するなど努力した。晩年は、年来の比較法制に関する研究の集大成をなした。
 1948昭和23年、アメリカ、バーモント州ウェストワーズボロで死去。墓はアメリカと二本松市に。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『世界大百科事典』1972平凡社/ 『民間学事典』1997三省堂/ 『福島県民百科』1980福島民友新聞社

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