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2015年7月

2015年7月25日 (土)

戊辰後は自由民権運動そして衆院議員、内藤魯一 (福島県・愛知県)

 福島県ゆかりの人物を探していたら、「(生)陸奥国福島、(出)愛知県碧海郡上重原村。自由民権運動家。衆院議員(政友会)、政治家」という内藤魯一が目についた。福島県で生まれたのに遠く離れた愛知県で活躍したらしい。何故?人名辞典をひいたら
 ――― 戊辰戦争に際し官軍に内応、とあった。

 会津人柴五郎を知って以来すっかり会津贔屓になっているから、「官軍に内応」にがっかり。でも、待てよ。内応には事情があるかもしれない。
 東北諸藩そろって奥羽越列藩同盟に参加が人情として無理もないし、列藩同盟側に同情する。でもその一方で、それぞれの藩と藩の利害と親近感、見聞が広く情報をもつ藩士に耳を貸すかどうかで敵味方になることがあった。それらを察すると、「内藤魯一の内応」に汲むべきものがあるかも知れない。ついでに、維新後の生き方も見てみよう。

       内藤魯一

 1846弘化3年、福島藩家老内藤豊次郎の長男として 現在の福島市に生まれる。幼名は詮太郎。
 内藤家は代々福島の譜代大名板倉氏に仕え、320石を受ける家老の家柄であった。内藤は物頭となって福島城の警備にあたる。戊辰戦争がおこると福島藩は奥羽越列藩同盟に属した。
 内藤はこれに反対して孤立。しかし、敗北後は事態の収拾に力を尽くした。深い事情は判らないが、この間の行動が「内応」とされるなら、内応=裏切りのイメージは違うような気がする。ともかく、福島藩は岩代国大沼郡と三州重原(愛知県刈谷市)の二ヶ所に振り分けられ、内藤は1868明治元年、三河重原藩士として、多数の士族とともに三河の重原の地へ移った。
 23歳の若さで執政大参事となった内藤は、士族の生活を守るために、抜本的な行政改革を行い、地域開発に取り組んだ。
 1871明治4年、廃藩置県。内藤は早くから廃藩置県を予想し、近隣の山林原野を開墾地として公平に分配したり、茶や桑の栽培を奨励したりした。

 1879明治12年、愛知で旧重原藩士と周辺の豪農を中心とした三河交親社を設立。
 1880明治13年、愛知県有志を一本に纏め、組織を拡大して愛知県交親社を設立した。
  同年3月に大阪で開催された*愛国社第4回大会には愛知県交親社の代表として参加。

   *愛国社: 立志社の呼びかけにより各地民権政社の代表が大阪に集まり結成。この第4回に112名が参加、自由民権運動の指導的役割を果たした。

  同年12月9日、国会開設の請願のため太政官門前に詰めかけ、凛然たるこの寒風の下に立ちて、大臣に面会を乞わんとせしも入門を許されざれしは、新潟県羽生郁二郎・山際七司・岡山県小林楠雄・青森県菊池九郎・福島県原平蔵・内藤魯一・宮城県若生精一郎 ・・・・・・ 都合13県、26名の烈士なりしとか〔明治13.12.14東京曙新聞〕。
 

 愛知交親社の分裂後、内藤は県下の民権運動の指導者として活躍、また板垣退助の秘書となり、「三河板垣」の名前で呼ばれた。後に自由党結成の際、常議員となり「日本憲法見込案」(私擬憲法)を起草。地域新聞に発表したが、その内容は民権運動家の内藤魯一の政治姿勢をよく表していた。
 1882明治15年4月6日、東海道遊説に出た自由党総裁・板垣退助が岐阜で演説のとき遭難した。板垣を襲った暴漢を投げ飛ばし取り押さえ、窮地を救ったのが内藤魯一である。この遭難事件の際、板垣が叫んだ「板垣死ストモ自由ハ死セズ」は、民権運動の合い言葉となった。
  
 <板垣君遭難之図(一陽斉豊宜画)>
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 1884明治17年、*有一館長となる。自由民権運動の激化事件として知られる加波山事件に連座、2年間獄中生活を送る。
   *有一館: 自由党が文武研究所として創設し片岡健吉が主監していたが、内藤がこれに替わった。『自由党史』によれば館員は全国から集まった40数名。

 福島・栃木の自由党員が政府高官の暗殺を計画し発覚した加波山事件をはじめ、高田・群馬事件で党員の統制力を失った自由党はこの年10月解散。
 解党後、北の新地裏町・静観楼で有志懇親会を開く。板垣退助・片岡健吉・大井憲太郎ら106名、それに内藤魯一も出席した。

 1890明治23年7月、第一回衆議院議員選挙に出馬するも落選。他県生まれ、選挙干渉というハンディにより落選。この後、愛知県会議長を4期10年以上つとめ、明治用水の整備や名古屋港の築港に力を注いだ。
 1906明治39年、再び衆議院議員選挙に立候補し当選。伊藤博文を中心とする立憲政友会に所属した。以後、当選2回。
 1911明治44年、代議士現職のまま、64歳で死去。墓所は愛知県刈谷市の竜江寺。

  参考:
<ウイキペデア> /<愛知エースネット> http://www.apec.aichi-c.ed.jp/ /『自由党史』宇田友猪・和田三郎1910五車楼/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂/ 『日本史辞典』角川書店・/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社/ 『明治日本史発掘 2』1994河出書房新社

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2015年7月18日 (土)

横綱の始め、谷風梶之助 (宮城県)

 「わしが国さで見せたいものは」と仙台の郷党が自慢の古今の名力士、谷風梶之助
  1750寛延3年8月8日宮城郡霞目村に生まれた。父は金子彌右衛門、名を與四郎という。
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 與四郎は9歳頃には米俵を担いで数里を往復したという幼い頃から力持ち。15、6歳頃に霞目村の鎮守で宮相撲があったとき荒牛が駈けこんできて、年寄り子どもが逃げ切れず蹴散らされそうになった。そのとき走り出た與四郎が牛をさえぎると、牛は一瞬踏みとどまった。その牛の角に手をかけ腰を沈めた與四郎は腕に力を込め「エイヤ」掛け声と共に押すと荒牛がたじたじと退いた。
 このとき、江戸の大相撲がかかっていて通り合わせた大関の関の戸音右衛門が、與四郎の力業を見た。関の戸に弟子入りを勧められたが、與四郎は一関の領主片倉家に召出され、秀の山と名乗り郷里で角力の稽古に励んだ。
 日本特有のスポーツ相撲(角力)は、古く『日本書紀』にもあり、平安時代は年中行事として毎年7月相撲節が行われていた。江戸時代になると大名の間に力士を抱えることが流行、1764~1780明和-安永ころには江戸の勧進相撲が制度化し、江戸相撲が全国的中心となっていた。秀の山こと谷風はこうした時期に活躍したのである。

 さて、精進を重ね近隣では相手になる者が居なくなった秀の山は19歳で、江戸の大関関の戸に入門。関の戸はさっそく秀の山を土俵に連れ出し稽古をつけた。すると、怖ろしいほど力があるばかりか、腰もたしかで技もすてきに早い。関の戸は師匠の自分さえも負けそうだと驚き、すぐさま関脇にした。すると、相手方の力士は「何だ田舎上がりの青二才か」とかかっていったが誰も勝てなかった。
 翌年、秀の山は伊達の関森右衛門と改名、なんと関の戸は自ら関脇に下り、伊達の関を大関に据えた。
 伊達の関は力量が優れているばかりでなく、心だてがいかにもやさしく、おまけにこだわりのない天晴れ相撲取りだったが、これを見抜いて大関を譲った関の戸も天晴れである。
 八年の間、三都で相撲を取ること220回、その間、敗れること僅か11回。
 なお、谷風は前後26年角界にあったが2764回の勝負のうち敗けは4回、豪勢なものである。ものの本によって負け数が違い、相手に同乗して負け、賞金を相手に取らせたという逸話もあるし正確な数は分からないが、ほんとうに強かったのは間違いない。

 1776安永5年、27歳。小結の時に谷風梶之助となる。
 1789寛政元年11月、本朝相撲司*吉田追風家から横綱を張ることを許される。気立てがよく、身長180cm余、体重160kg余、色が白くて*眼が細く、極めて大人しいから当代一の人気者であった。円満、高潔の人格者として逸話が多くある。   
 翌年3月、京都で天覧相撲があり光格天皇に拝謁を賜る。帝は南殿の御簾を掲げ給い、谷風の腕を撫し、あっぱれの骨格よと御嘆賞あり。色々な物を下賜された。

   *吉田追風家: 参照。〔立行司、八代目式守伊之助 (岩手県)〕
         http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/02/index.html

   *眼が細く: <女は鈴張れ、男は糸引け> 女の目はぱっちり、男の目は切れ長がいい。

                               谷風と小野川
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 小野川喜三郎は、近江の人で大阪で相撲の修業をし、21歳の時に江戸に出るとたちまち大関に進み、谷風に次いで横綱を張ることを許された。ところで、勝負事は相手がなくては面白くない。谷風は下り坂の40歳頃になって、やっと小野川という相手を得たのである。
 その小野川は谷風と対戦したとき、故意に数回の「待った」をして、肥満している谷風が疲れが出たところを見すまし、不意に立って谷風の胸を突いて勝った。
 これに谷風は、「小野川と角力して勝たざるは、75貫目の力を以て胸骨を突かるるためなり、小野川と同量の土豚を作り、之を胸に受けて練習」、小野川を破った。小野川は卑怯なようであるが、力量が上の相手に向かう場合にはやむを得ないという説もある。

 1791寛政3年6月、徳川十一代将軍家斉の上覧相撲が行われた。ときに小野川34歳、美男で身の丈も、目方も、谷風に比べれば小柄であるが、色あくまでも黒く、身体が頑丈でいかにも強そうに見えた。この勝負、取り直しとなったがめでたく谷風の勝となった。
 その翌年、大阪で又また、谷風小野川の取り組みがあった。小野川が激しく突くのを谷風は踏みこたえたが、遂に土俵際まで押し出され危ないところを押し戻して、土俵の真ん中に立ちかえり、もみ合って同体に落ちた。行司は、小野川の体が上にあったというので小野川に団扇を上げると、物言いがついて大騒ぎ。
 重箱を投げる、座布団を放る、納まりがつかず一晩中かかってようやく、勝負なしの預かりということで静まった。川中島の合戦は、武田信玄が死んだのでそれなりけりであったが、この谷風小野川の取り組みもそれ、谷風が死んでそのままになった。
 1795寛政7年正月9日、谷風梶之助は流行り風邪がもとで46歳で死去した。世の人、谷風の死を惜しんで、その流行り風邪を谷風風邪と呼んだ。
 妻は東都医官・大田氏の娘。子ども4人。

      谷風の遺物

 谷風は、表面は片倉家の抱え角力になっていたが、内幕は仙台侯のお抱えであった。その谷風が用いた黒椀は容量5升というから、稀に見る大椀である。 
 仙台河原町の呉服問屋沢口安左衛門の子孫の家に谷風の遺品が保存され、化粧褌(けしょうまわし)の地は、白ビロードで、表に黒ビロードで「谷風」の二字があるばかり、意匠も飾りもない極めて質素なものだった。ただ、谷風の文字は日本一と称された書家、深川の親和の揮毫である。
 その他、1771~1779明和8年から安永8年まで9年間、13ヶ津(津:人の集まる場所)における勝負附と、1790寛政2年江戸の本場所の番付も同所にあった。また、生まれ故郷の霞目村には弓一張が残された。

   参考: 『宮城郡誌』1928宮城郡教育会/ 『仙台繁昌記』富田広重1916トの字屋/ 『お伽文庫.1』髙野辰之1912春陽堂

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2015年7月11日 (土)

明治維新、城の運命

 城郭などは要りて、要らぬものなり。
 良き大将の良き人持ちたるは、城郭必ずあるものなり。
 悪しき大将の人持たぬは、城郭如何に堅固なりとも無益なり。

 “城郭は要りて要らぬもの”  敵を防ぐの要は人心に在りて城郭に在らずといったのは、安土桃山・江戸前期の大名で初代佐賀藩主・鍋島直茂。文禄・慶長の役に加藤清正と組んで朝鮮に出陣し、帰国後、徳川家康に誼を通じた。

 城は、この鍋島直茂が活躍した桃山時代に発達した。それまでの城は文字通り「土」と「成」、土から成る土塁であった。それが、本丸・二の丸・三の丸と三重の構え、濠を廻らし水をたたえ、濠の後側に石垣を積み、その要所要所に櫓、中心には天守を築くようになった。
 信長の安土城秀吉の大阪城および伏見城、家康から家光の代に完成した江戸城は今なお、その片鱗、断片を遺している。最もよく保存されたものに、秀吉創建の姫路城があり、天守の有名なものが名古屋城である。
 その名古屋城の天守について。修復をコンクリートと木材のどちらでするか名古屋市が悩んでいるという。昔ながらの工法、木材がいいと思うが、それには莫大な費用がかかる。時間と金をかけ文化を伝えるのか、観光優先で修理を急ぐか、悩むのも無理もない。
 それにしても江戸の昔、全国に大名がいてそれぞれ城があったのに、残る城は少なく、ほとんどが城址、城の跡。人々が振り仰ぎ、絵になる御城の白壁と天守、その多くがどうして消えた。

 明治維新の激変で、旧幕時代時代のものといえば何に限らず無用の長物視されたのである。城も「順従唯一の王臣に、城郭の必要なし、真っ先にこれを廃毀(はいき)せし者ほど、恭順者文明人と見らる」と、諸国の城郭なども城地を平らげ、桑茶を植えたりして城が毀(こわ)された。
 1868戊辰戦争中の9月15日(9.8明治と改元)但馬国出石の城。藩主千石利久が城郭を毀した。
 1870明治3年9月、近江の古城でよく知られた江州膳所の城も、本多藩知事が無用の長物として城楼櫓を毀撤(きてつ、取り壊し撤廃した。
 同年12月、名古屋城天守の金の鯱鉾(しゃちほこ)、これを名古屋藩知事徳川慶勝が無用の長物として新政府に献じ、かつ、楼櫓と城内の部屋をこわして修繕の費用を省き藩庁経費の足しにした。
 ちなみに、東京に送られた金の鯱鉾は博覧会の呼び物となり、その縁で楼櫓とともに残った。
 
 1871明治4年1月8日、仙台の白石城。毀して資材を*片倉邦憲に与え、北海道開墾の費用に充てたのは、「意義ある毀撤」(石井研堂)であった。
     *片倉邦憲: 伊達家重臣で白石片倉家12代当主
 同年2月、伊勢国田丸野の城。営繕費がかかるので、太政官に願い出て取り壊した。
 
 1873明治6年の〔布告類編〕:「旧城郭 陸軍省所轄の外大蔵省へ属す」
               「旧藩城郭内士族邸地の税を収む」
 廃城となれば城内に居住する元家臣、士族も出て行かなければならない。住めても税を納めなければならない。
 小田原城が廃城となったとき、一時、足柄県の県庁が置かれ、のち御用邸となるも、関東大震災後廃邸となった。その後、学校・公園の用地となる。
 全国の城はこのような運命にあい取り崩されたが、熊本城は、細川熊本県知事が城郭の撤廃を上奏すると、「名将の築きし城池なれば願わくばこのままにして、考古の一班に供したし」という人があり残った。築城技術で有名な加藤清正が築いた熊本城、西南戦争でも知られる。
 また彦根城も、毀される運命にあったが行幸の折に、「惜しいから残せ」と仰せられ、今に残る。

 陸軍省は1889明治22年頃まで、城を管理していたがこの間だいぶ荒れてしまった。わずかな歳月の間に石垣は崩れ、濠には塵土が多く埋まり、廃墟にして置くよりほか致し方ない城も多かった。
 それもあってか、縁故ある者に払い下げることになり、幾多の歴史を有する静岡・小田原・津・福井の各城、奥羽では白河・若松・山県・秋田、西では岡山などをふくむ43城が民有になった。旧藩主で資力ある者はこれを自分の持地にしたが、他の多くの城は公共団体が引き受けた。

 旧城址はたいてい公園となり、地方の歴史を一木一草に至るまでが城下町の記念物として人を惹きつける。今なお、お城自慢できる地域は長く自慢をするためにも大事に守っていくだろう。
 そのいっぽうで、荒れた城址といえども詩人と音楽家がたたずめば、情感豊かに城がよみがえる。土井晩翠滝廉太郎の「荒城の月」が胸に迫る。そう、城址もれっきとした歴史の遺物、どの城も大事にされ後世に残るよう願う。
       天上影は替らねど   栄枯は移る世の姿
        写さんとてか今もなお  嗚呼荒城のよわの月

    参考: 『武人百話:精神修養』金子空軒・北村台水編1912帝国軍事協会出版部 / 『日本建築の実相』伊東忠太1944新太陽社 / 『明治事物起原』石井研堂1971日本評論社 / 『明治大正史・世相編』柳田国男1967平凡社

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2015年7月 4日 (土)

南部椀、浄法寺村天台寺(岩手県)

Photo 昔ながらの南部鉄瓶、わが家にもあるが、IHヒーターを使いガスレンジがなく今は使ってない。鉄瓶で湧かしたお湯は美味しいが、直火がないので仕方ない。趣きがあり鉄分もとれる鉄瓶なのに、暮らしが変わり使えない。
 たまたま、古い時代の工芸の本『工芸志料』のページを繰っていたら「南部椀」というのがあった。名産品なのだろうが聞いたことがない。使う人がなければ、記録に残るほどの名産品でも遺らない。そう感じただけで調べようとは思わなかったが、「塗り」「漆器」でなく「椀」というのにひっかかり、「南部椀・南部塗」の項を読んでみた。次はその引用、

 ――― 高倉天皇の御宇、陸奧の南部の工人漆器を製す。これを南部椀という。
 ――― (南部塗) 赤塗のもの多し(六、七百年前に造る所の南部塗の漆器今なお存す。或いはいう、高倉天皇御宇 陸奧守藤原秀衡、工人に命じて創めて製しむる所のものなり、故に此の器を称して秀衡椀という)。

 南部椀と称するものは、内は朱色にして外は黒色なり。また黒漆の上に朱漆を以て鶴、花卉を画き、金箔を付着し、その朱色煒燁(いよう・かがやく)なり・・・・・・ また江差郡の禅宗一派の総本山の正法寺椀というあり。
 南部椀は陸奧の浄法寺村より出づ、同郡畑村にて椀を作り、田山村にて漆を塗る・・・・・・ この地みな南部氏の管たりしをもって南部椀と称せり・・・・・・
        (『増訂 工芸志料』黒川真賴・(校注)前田泰次1974東洋文庫)

 南部椀の産地、浄法寺村にある都から遠くはなれた陸奧の天台寺は、聖武天皇(701大宝1~756天平勝宝8)の勅願所であり、観音堂には奈良時代の僧・行基(668天智7~749天平勝宝1)の手になる聖観世音の立像が安置されている。
 図は、1941昭和16年『岩手県産業と名勝』(岩手県書籍雑誌商組合)から、上方に記した赤印が浄法寺村。下方右に「高田松原」があり奇蹟の一本松が思い起こされるが、それも枯れた。東日本大震災による甚大な被害、少しでも早い復興を願うばかり。

 天台寺は1200年以上昔に開山され、創立間もなく、天台寺坊中で食器・食膳を製造するものがあり、登山者に珍重され、祭礼毎に参拝者が購入し世間に「御山食器」として知られるようになった。高倉天皇の1169嘉応年間に奥州塗として京に伝わり、のちに南部塗、模様を南部模様と呼んだ。

 時代が下がると村に製造業を移し、次第に販路が拡張された。天台寺の例祭のときは、境内の一画を御山御器販売の露天専用とし、漆器商店が立ち並んだ。
 明治維新前後に至るまで、東海岸地方からも参拝者があり購入しない者はなかった。その当時、浄法寺村に漆器製造家は数十戸あり、商人は天台寺の祭日のみならず、三戸郡櫛引八幡の祭日などに売店をだし、盛岡、仙台、東海岸、北海道にも販売した。しかし、維新後は会津、秋田産に圧倒されて販路を縮小せざるを得なくなり製造者もいなくなった。 

 ところで、立派に創建された古刹も幾星霜をへれば廃れ傷む。南北朝のころ、南部守行が天台寺を再建した。それ以来、代々の南部藩主が天台寺の修繕につとめ、寺領30石を与えられていたが、明治維新の改革で制度が一変、大災難に見舞われた。
 1870明治3年12月、社寺調査が布告される。当時、二戸郡は江刺県(青森県)の管轄であった
 翌4年、江刺県の役人と神主がきて、1町内外を境内として残りの3万数千坪を没収し官林に編入した。月山の1社のみ村社に改め他の神社仏堂、観世音堂をはじめ並列する薬師堂以下40余の堂宇ことごとくを壊した。安置していた神体仏像は外に出し焼却。仁王力士像は焼けなかったので斧で破壊というすさまじい乱暴狼藉であった。
 当時の住職泰秀は僧たちと相談して夜陰、山中に潜み、隙を窺って聖観世音、十一面観音や毘沙門天などを持ち出して隠した。せめてもの不幸中の幸いであった。
 1902明治35年、天台寺は以前の境内地を還してもらえたが、破壊された堂宇や焼却された神体仏像の影すらなく、参拝者も減っていた。しかし、日清・日露の戦争時から再びお参りにくる者が多くなった。
     (『桂清水観音記』1915天台寺保存会)

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