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2015年8月

2015年8月29日 (土)

仙台医学専門学校、藤野先生と魯迅(宮城県)

  今夏は東京でも35~6℃が当たり前のような猛暑、でも高校野球熱戦続きの甲子園球場はもっと暑かっただろう。決勝戦は宮城の仙台育英と神奈川の東海大相模の大一番、東北に優勝旗をと念じながらテレビ観戦。結果は仙台育英の夢持ち越し・・・・残念。東北人ではないが、がっかり。記録を見ると、東北勢は1915大正4年から今大会まで11回決勝に進んでいる。なのに遠いあと一勝、次こそがんばって!
 仙台育英の活躍に触発され、明治期の宮城県の学校をと考えた。そういえば仙台医学専門学校というのがあった。日露戦争のころ、藤野先生が中国からの留学生・魯迅に教えた学校である。

          仙台医学専門学校

 1901明治34年4月、仙台の第二高等学校から医学部が分離されて設立された。仙台二校医学部の校舎、職員・生徒を引き継いで開校。
 医学科と薬学科を置き、新規入学生を加えて同年9月、修業年限4年で発足。医学士の養成にあたる。当時「もっとも就職率のよかったのは仙台医専でした」(卒業生新見医師)。
 このとき、仙台のほか千葉医学専門学校(旧第一高等学校医学部)・岡山(旧第三高等学校医学部)・金沢(旧第四高等学校医学部)・長崎(旧第五高等学校医学部)が設立された。
 

       「文部省職員録」明治37年
 
  仙台医学専門学校  仙台市片平町
  長  二等二級俸 兼教授・正五位勲四等  山形仲藝 (外科学)
  教授 三等(兼)  校長          山形仲藝
  教授 三級俸   従五位勲六等・医学博士 内田守一 (内科学)
           (中略)
  七等十一級俸   従七位   小高 玄  (ドイツ語)
  八等十二級俸          藤野厳九郎 (解剖学)
  所教授 五級俸         玉造彌七郎 (薬理学) 以下略
            

 1911明治44年1月、仙台に東北帝国大学の理科大学が開設される。
 1912明治45年3月、東北帝国大学に医学専門部が開設、これに併合された。
 1915大正4年、東北帝国大学に医科大学が開設され、医学専門部も廃止となる。
 

          藤野先生魯迅

 1904明治37年2月、日露戦争開戦。9月から一年半、清国留学生・魯迅が仙台医学校で学ぶ。

 魯迅の本名は周樹人、浙江省紹興の人。周作人は弟。魯迅は読書人の家に生まれたが、少年期を困苦のなかで送る。南京の学費官給の学校に入学、西欧の近代科学思想を学んだ。官費留学生として日本に留学。東京弘文学院で日本語を勉強したのち東京に近い千葉医専でなく、仙台医専に入学した。
 魯迅
 「仙台へきてから優待をうけたのです。学校が授業料を免除してくれたばかりでなく、二、三の職員は、わたしのために食事や住居の世話までしてくれたのです」
 「そのとき、はいってきたのは、色の黒い痩せた先生でした。八字髭をはやし、眼鏡をかけ、大小とりどりの書物を抱えていました。わたくしは藤野厳九郎というもので・・・・・・ 自己紹介をはじめると、後の方でどっと笑うものがいたのです。続いて彼は解剖学の日本における歴史を講義しはじめたのです」
 「在校一年になり各種の事情に通暁。うしろの方にいて笑った連中は、前学年に落第して、原級にとどまった学生でした」

 藤野先生によばれて研究室にいってみますと、藤野先生は、人骨やら――多くの頭蓋骨やらの間に座っていたのです。
 「わたしの講義は、筆記できますかね」
 「すこしできます」
 「持ってきてみせなさい」
 ノートを差し出すと、一日二日して返してくれ、その後毎週みせるようにいわれました。返されたノートを開いてみると、はじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあったばかりでなく、抜けた箇所が書き加えてあり、文法のあやまりまで訂正してあるのでした。それは先生の学課・骨学・血管学・神経学の終わるまで、ずうっと続けられたのです。

 細菌の授業で幻灯が使われ、終わって時事が写し出された。仙台は第二師団のある軍都であり、日露戦争が映し出され、ロシアと戦って日本が勝つ場面ばかりでした。そのなかに、ロシア人のスパイを働いたかどで、日本軍に捕らえられて中国人が銃殺される場面がありました。それを取り囲んで見物している群衆も中国人であり、教室でみているわたしも・・・・・・ 教室の学生たちはみな手を拍って「万歳!」歓声をあげた。わたしにとっては、このときの歓声は、特別に鋭く耳を刺したのです

 ―――ああ、もはやいうべきことばを持たないのです。
 わたしは藤野先生をたずねて、医学の勉強をやめたいこと、仙台を去ることを告げたのです・・・・・・
 わたしが師と仰ぐひとのなかで、先生はもっともわたしを感激させ、励ましてくれたひとりなのです。先生のわたしに対する熱心な希望と、たゆまぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生まれることを希望することなのです。大にしては学術のためであり、あたらしい医学の中国へ伝わることを希望することなのです。先生の性格は、わたしの眼中において、また心裡ににおいて、偉大なものなのです。

   参考: 『明治時代史辞典』(2012吉川弘文館/ 『魯迅伝』山田野理夫1964潮文社

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2015年8月22日 (土)

会津人柴五郎と竹橋 & 8月15日(福島県)

 この春から毎月一回、漢詩入門聴講に、皇居竹橋前・毎日新聞文化センターに通っている。きっかけは今、興味をもって調べ中の山東直砥がつくった漢詩を理解したいと思ってである。しかし今はただ楽しく通っている。以前放送のNHK「漢詩をよむ」でおなじみの先生の講義は漢詩についてはもちろん、行間がまた豊かでおもしろい。きっと、先生の胸中には中国四千年が息づいている。
 詩経からはじまり杜甫や李白はもちろん近世まで多くの詩、漢詩人のエピソード豊富、遠い時代の中国の人物に血を通わせて紹介されるので分かりやすい。何百年昔の中国の詩人に親しみさえ覚える。難しいことをいとも簡単にやさしく教えてくれる先生に感心するばかり。それにまた、先生が中国語で漢詩を暗誦するとまるで音楽のよう。韻の大切さがおぼろげながら理解できる。
 しかしながら、漢詩は難しい。そこで、普及活動をされているそうで、その一つが「藩校サミット」。8月は高校野球甲子園大会、代表校のなかには難しい校名がある。江戸時代の藩校の名に由来するらしい。地方へ出張して講義をされるそうで、各県の漢詩人の名を挙げて楽しそう。日本の漢詩も造詣が深い。

 ひょんなことから先生が柴五郎の子孫と教えてくれる人がいた。柴五郎ファンで『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』筆者として、こんなうれしいことはない。思い切って先生に伺うと、柴五郎の姉(望月つま)の子孫と教えてくださった。
 柴五郎の祖母・母・姉妹五人は、戊辰戦争のさなか自害し、ただ、望月家に嫁いだ姉が生き残った。そのご子孫に出会えてうれしい。
 その日、皇居の竹橋にも因縁を感じずにはいられなかった。その竹橋駅(東西線)の真上にある毎日新聞社敷地は、戊辰戦争で敗れた会津藩士謹慎場所「一橋御門内御搗屋」(幕府糧食倉庫)だったのだ。柴五郎も兄とそこに謹慎していたその場所で子孫にお会いするとは、なんという偶然。そこで、柴五郎の話を『ある明治人の記録』 『紙碑・東京の中の会津』(牧野登1980日本経済評論社)より引用。
 そして戦後70年は、柴五郎没後70年でもある。柴五郎の8月15日についても記す。

 ――― 苦しき旅、十余日、東京に到着せる日、七月初旬にて、梅雨明けの蒸暑さ、堪えがたく、幕府糧食倉庫に着きたる時は、疲労困憊、流汗淋漓たり・・・・・・中央に通路ありて両側に一人一畳ずつの荒畳を敷き十余間見通しなり・・・・・・風通し悪きうえ蚊蝿の類多く不衛生なれば、寝苦しきまま板壁をはずす者多し。太一郎兄いずこより入手せるか知らざれども、翌晩より破れ蚊帳張りて、余と共に就寝せり。

     **********

 1945昭和20年の元旦は警戒警報発令で明けた。この戦争も4年目となり、敵機が頭上を驀進する有様で、前年11月からB29が東京上空に姿を顕わした。
 柴五郎の次女春子は空襲で焼け出され、娘二人を連れ着の身着のまま世田谷の柴邸に逃れた。戦況が厳しいのはわかっていたが、軍人の家なので家財を持ち出したり逃げ出すこともできず、みすみす丸焼けになってしまったからである。
 当時の柴邸には、五郎と長女みつ、春子母子三人、姉望月の息子そして女中と7人が住んでいた。五郎は少し足が不自由になっていたが毎日畑を耕していた。
 フィリッピン防衛戦では日本軍の戦死多数で敗戦続きの日本兵は山地を逃げまどい、ついに硫黄島も戦死2万人をだし玉砕した。硫黄島を占領したアメリカ軍はここから日本空襲を援護し3月9日夜から東京大空襲がはじまり空襲の死者は8万人にもなった。大爆撃により大阪・名古屋の大都市や地方都市も炎上、国土は焦土となった。
 5月ドイツ無条件降伏。日本も降伏を考えなければならない時が来たのに日本軍はなお沖縄でアメリカ軍と戦い、やっと六月末死闘もほぼ終わり、アメリカが沖縄を占領した。沖縄決戦は「ひめゆり部隊」の悲劇をふくめて九万の将兵が戦死、十五万の島民が犠牲となった。なんと、犠牲者は将兵より一般国民の死者の方が多かったのである。降伏以外の終戦はあり得ない時に至っても、最高戦争指導会議はなお最後の一大打撃を与えて、多少とも有利な和平をめざそうと本土決戦を決定した。
 7月、ベルリン郊外のポツダムでアメリカ・イギリス・ソ連が会談、ドイツの戦後処理および対日無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。しかし、日本政府は黙殺。これに対する連合国の回答が広島と長崎への原子爆弾投下であった。
 八月十五日の午前中、関東地区に250機の艦載機が来襲、その正午にポツダム宣言を受諾する玉音放送。朝鮮ソウルで、総督府従業員は15日のラジオ放送で涙した。その反対に日本の敗戦により解放された朝鮮の人々は、国民服やモンペを脱ぎ捨て、チマ・チョゴリ姿で街を歩きはじめた。韓国では8月15日を光復節として祝っている。

 8月15日、柴五郎は正座して玉音放送に耳を傾けた。気力が衰えたのか敗戦の12月13日、87歳で世を去った。軍国主義を捨て去った時、陸軍大将の死亡記事は短い。朝日新聞はかんたんな経歴と末尾に「宮中杖を差許された」と一行。

 柴五郎の死と同じ12月13日ニューヨークでノーベル賞祝賀会があり、原子爆弾製造への道をひらいたアインシュタイン博士が注目された。かつて来日し大歓迎された博士は広島・長崎の惨状を知ってか、
「恐怖から解放せられるべき世界は戦後に却ってその恐怖を増大した。諸国が相互に対する態度を改めないならば、これによって惹起せらるべき惨害は筆舌に絶するであろう」と世界に警告した(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)。

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2015年8月15日 (土)

明治・大正・昭和の戦争

 今朝、いつもより少し楽だなと温度計を見やると「30℃」例年なら、うわ~!!だが、猛暑の今夏はちょっと一息。終戦の夏はどのくらい暑かったんだろう。その終戦から70年後の今年、2015年8月は何か不安な空気が漂う。戦前のようだと言う人さえいる。近い歴史をふり返れば、日本は戦争を繰り返していたから、不安を杞憂だと笑えない。近代日本は10年未満間隔で戦争をし、戦争準備や戦後の後遺症を考えると戦争が身近だったと察しられる。それを思うと、平和な時代が70年も続いたことはほんとうに素晴らしい。どうかこの先も続いてほしい。

                            **********

     戊辰戦争
 1868~1869慶応4年~明治2年
  維新政府と旧幕府軍の戦争。鳥羽伏見の戦いに始まり、新政府軍の東征、江戸城無血開城、奥羽越列藩同盟の長岡・会津戦争をへて箱館の五稜郭で旧幕府海軍が壊滅し終結。

     西南戦争
 1877明治10年
  鹿児島を中心にした最大の士族反乱。征韓論荘に敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰郷、私学校で子弟養成に努めていたが、西郷暗殺計画が発覚したとして、2月、推されて挙兵。熊本鎮台を攻撃したが、*徴兵軍隊に鎮圧され、西郷も城山で自刃。
    *徴兵:1873明治6年徴兵令公布、満20歳男子から抽選し3年間の軍務であったが、1879~1889明治12・16・22年に改正、国民皆兵を実現。徴兵制は、徴兵令から太平洋戦争敗戦による武装解除に至るまでの国民の義務兵役制度。

     日清戦争
 1894~1895明治27年~28年  朝鮮をめぐって日本と清国が起こした戦争。朝鮮の宗主権を主張する清国(中国)と朝鮮進出を図る日本が、東学党の乱をきっかけに対立。明治27年7月、開戦。日本が優勢のまま翌年4月、下関条約を締結。清国は日本に対し遼東半島・台湾を割譲、賠償金を支払い、朝鮮の独立などを認めた。しかし、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、遼東半島は清国に還された。

     北清事変(団匪事件)
 1900明治33年  清国(中国)義和団の反乱事件に対し8カ国連合軍による鎮圧戦争。日本公使館書記生が殺害された。北京包囲戦に日本は連合軍中、最大の軍隊を派遣。翌年、議定書成立。以後、軍事占領をめぐり日本とロシアが対立。 

     日露戦争
 1904~1905明治37年~38年  ロシアが北清事変以後、中国満州の独占支配と韓国進出を図り日本と利害対立。明治37年2月開戦。日本は日本海海戦に勝利し海軍力で優位にたったが、陸戦では苦戦。奉天会戦(日露戦争最後の大規模な陸戦)で日本軍は、南満の要地奉天(瀋陽)を総攻撃して勝利し占領したが、敗走するロシア軍主力を追えなかった。翌年、アメリカの斡旋で講話が成立、ポーツマス条約を結ぶ。小村寿太郎全権は賠償を放棄し、ロシアの中国での租借地、鉄道の譲渡や南樺太の割譲などを認めた。

     第一次世界大戦
 1914大正3年8月23日  日本はドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参加。列強の植民地拡大をめぐる世界戦争は、イギリス・フランス中心の連合国とドイツ中心の同盟国とが総力戦を展開。日本も日英同盟を理由に参戦、中国での利権拡大を図った。戦いはドイツ側の敗北により終結。

     シベリア出兵宣言 
 1918大正7年8月2日  ロシア革命干渉を図り、日・米・英・仏がシベリアのチェコ軍救出を名目に出兵。他国が撤兵したあとも、日本のみ継続。戦費10億と7万3千の兵力を投入、内外の非難を浴びて1922大正11年撤兵した。
 
     第一次山東出兵
 1927昭和2年5月28日  北伐(中国国民政府の北方軍閥に対する討伐戦)に際し、田中義一内閣が行った中国山東地方への出兵。在留日本人保護を理由とし約2千名を派遣。その後増派し計3回出兵。

     柳条溝事件
 1931昭和6年9月18日。 奉天北部の柳条湖で関東軍が満鉄線路を爆破。この関東軍の謀略による爆破事件をきっかけとして日中紛争、満州事変に発展する。

     盧溝橋事件
 1937昭和12年7月7日  北京郊外盧溝橋付近で、夜間に演習中の日本の駐屯軍と中国軍が衝突。日中戦争の発端となった。

     ノモンハン事件
 1939昭和14年5月11日  満蒙国境紛争をめぐりノモンハンで日ソ両軍が衝突。日本軍はソ連軍機械化部隊に死傷者1万7千余を出す壊滅的打撃を受け大敗。

     日米開戦
 1941昭和16年12月8日  現地時間7日午前7時55分、日本海軍の機動部隊がハワイ・オアフ島の真珠湾(パールハーバー)停泊中のアメリカ太平洋艦隊に先制奇襲攻撃。日米開戦の幕開けとなり、日本はドイツのポーランド進撃に対する英仏の対独宣戦にはじまる第二次世界大戦に参戦。

     終戦詔書
 1945昭和20年8月15日  日本が連合国に対し、ポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことを、天皇自ら放送により日本国民に報じた。ソビエト参戦と原子爆弾投下により日本の敗北は決定的となった。降伏に不服な青年将校は14日クーデターを起こして詔書録音盤を探したが発見できず、無事放送が行われた。

     日本国憲法施行  1947昭和22年5月3日       

  ――― 「憲法を守ろう」「憲法を変えよう」とややこしいのは、この憲法の生誕事情にある。平和と民主主義と人権の貴重さを深刻なまでに知った第二次政界大戦直後の国際世論を背景に、アメリカは、しぶる日本政府をおどしてまでこの憲法を「押しつけ」た。ただし「押しつけ」たのは世界史と国際世論の流れ、「押しつけられた」のは明治憲法と「国体」を死守しようとした勢力。国民にとっていささか不幸だったのは、この憲法もどこからかやってきて、「さあ、守りましょう!」ではじまったことだろう。
 その不幸をかかえながら、しかし、手にした憲法は最良の英知をふんだんに含んでいたため、急速に国民生活に浸透していった。表現は自由だし検閲はないし、教育はのびのび、女も男と平等、なによりもう戦争はしないし武器も持たない。こいつぁはいい。
 ところが憲法が定着しかかった矢先に、またアメリカの押しつけ。今度は軍隊を作れ、それに反対するやつは発言させるな・・・・・・改憲の計画がはじまる(『主権者はきみだ』森英樹1997岩波ジュニア新書より)

 1951昭和26年9月8日  サンフランシスコ講和会議、対日平和条約、日米安全保障条約調印
  
 参考: 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本史小事典』1990山川出版社  

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2015年8月 8日 (土)

広島県産業奨励館(原爆ドーム)  

 高校生の孫はスマホだ、ラインだと、一人でも忙しい。私のその年代は、テレビがまだ全所帯になく、プロレス中継の晩になるとご近所の人が集まってきて賑やかだった。半世紀も違えば様変わり、環境や世代間のズレは当然。でも伝えていかなければならない事がある。戦争についてだ。
 私も戦争の現実は知らないが親から話は聞いてる。戦後の苦労話もよく耳にしたし、♪原爆許すまじ、許すまじ原爆を~と歌う女性の透き通った声も今も耳に残る。上野公園・西郷さん銅像近くの階段にいた白衣の傷痍軍人を見て子ども心に気の毒に思った。戦争はいけないと自然に学んだ。
 ところで、戦争に関する話を子や孫にしたことがない。日本が戦争をしたことさえ知らない若者がいると聞いて驚いたが、彼らに何も伝わっていないからだ。伝えてこなかったこと、遅まきながら反省。なぜなら、現在、戦争が親たちの思い出話でなく、遠くない先に起こりそうな気配がある。徴兵制が復活するんじゃないか、そんな不安もよぎる。戦争を知らない世代が舵をとる日本、そっちに傾くのだろうか。軍需都市広島が平和都市になって営む慰霊祭、テレビの映像を見つつ思いを巡らせるが何も纏まらない。平和が続くことを祈るばかり。
 はじめて原爆ドームの写真を見た時、円いドームから東京神田お茶の水にあるニコライ堂のような教会なのかと思ったが、産業奨励館だったという。いつ建てられ、どのような営みがなされていたのだろう。
Photo
       広島県産業奨励館

 広島市猿楽町。 1910明治43年県会において建設決議、1914大正3年1月起工、同4年3月竣工、8月業務を開始。はじめ広島県物産陳列館と称したが1921大正10年広島県立商品陳列書と改称、1933昭和8年11月1日広島産業奨励館と改めた。
 当時、元安河畔の*輪奐(リンカン)の美は市内建築物の最もモダンな誇りであった。業務の要項は、生産品販路の開拓、海外貿易の斡旋及び指導、商品改善の指導、商工に関する参考品の陳列及び貸与、図案の調査、生産品の調整及び指導、産業に関する図書その他刊行物の発行、募集及び展覧などである。
  (『広島県史蹟名勝写真帖』1935より、写真も)                                         *輪奐の美: 建物が巨大で華美な様

 引用中に「海外貿易」とあるが1934昭和9年「広島県産業奨励館出張員表」(『産業の広島県』))に記された5人の出張先をみると、当時の日本の一端がうかがえる。

  満州国新京三笠町・新京輸入組合内
  関東州大連市羽衣町・大連輸入組合内
  満州国奉天淀町15番地
  満州国哈爾浜(ハルピン)道裡斜紋街・哈爾浜商品陳列館内
  中華民国上海市灘路25号 日本商工会議所内

   聞きしより眺めにあかぬ厳島  見せばやと思ふ雲の上人
                            ――関白秀吉――

 産業奨励館の編集になる『広島県の産業』は、豊臣秀吉の和歌から広島県観光第一の厳島(安芸の宮島)を紹介してから産業の概況を述べている。

 林業:松茸の産額は全国3位(昭和15年)。畜産: 神石牛は古くから和牛の最良種として知られる。農産:米は農地が狭いので県外から移入、酒造米は樺太までも進出。藺(い)草は全国2位で備後藺として有名。畳表は日本一。果物、除虫菊の栽培も盛ん。水産:広島の牡蠣は日本一。イリコの生産、製塩業が盛ん。
 工業:綿織物・人造絹糸およびステーブルファイバー・毛筆・清酒・和洋家具類
 軍需工業:陸軍の広島、海軍の呉と二大軍都を持っている関係で官業工場が多く、民間工業も発達。各種の缶詰・パン類・鑢(やすり)・人造砥石・自動三輪車・削岩機など。

 次は1935昭和10年頃の広島の建築物や名所(『広島県史蹟名勝写真帖』より)

 広島県庁・大本営跡(日清戦争の大本営)・広島城址・第五師団司令部・広島招魂社・観古館(浅野家所蔵の古門書・文房具・骨董・刀剣・甲冑などを展示)・大石家の墓(赤穂義士)・賴山陽旧居・広島市庁・広島商工会議所・広島駅・*相生橋・広島控訴院・広島逓信局・広島税務監督局・広島地方専売局・広島中央放送局(JOFK昭和3年開局)・広島病院・日本赤十字社広島支部・武徳殿(大日本武徳会広島支部)・広島工業試験場・広島県醸造試験場・広島文理科大学・広島高等師範学校・広島高等工業学校・広島高等学校・広島女子専門学校・中国新聞社・ 広島測候所・呉鎮守府・呉市庁・呉海軍工廠呉海兵団第一上陸場(呉軍港)・呉海軍航空隊広海軍工廠呉海軍病院・呉商工会議所・音頭瀬戸・清盛塚・海軍兵学校・尾道駅・瀬戸内商船会社・向島船渠・尾道港・福山城址・厳島神社などなど。
   *相生橋: 太田川と元安川(もとやすがわ)の分流点上流にかかるT字型橋。すぐ下流は平和公園原爆ドームが残る。

 広島は海と陸の交通の要衝で軍事機関が目立つ。それは広島を栄えさせたが、戦争の終わりに原子爆弾により一瞬にして市街の大半が壊滅してしまった。爆心地は市街の中心をなす太田川にかかる相生橋、被災戸数約7万、死者26万に達した。被爆後、生存を保ち得た人々も、身体に残る障害、原爆症による死者が今も絶えない。
 広島産業奨励館に限らず、どの建物にも人がさまざまな営みをしていたことを思うと、市街が一瞬で失われたことの恐ろしさがいっそう思いやられる。二度と戦争をしてはいけない。

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2015年8月 1日 (土)

南部藩、御用商人(高島嘉右衛門・村井茂兵衛・小野組)

  幕末明治のあれこれで「小野組」を見かけ、三井・三菱と似たようなものと思っていたが、終り方があまりに急なのが気になった。それで『小野組物語』を読み、組織の不和や政治が絡んで崩壊したのを知った。ところで、物語に出てくる何かと御用金を命じる南部藩に目がいった。南部藩に限らずどこの大名も御用金を命じそうだが、たまたま高島嘉右衛門の「南部藩への貸金三万五千円の抛棄」という話を読んだことがあり、南部藩にまつわる商人をみてみようと思った。

    高島嘉右衛門

 明治の実業家・易学家。15歳で南部領釜石鉄山の監督に赴き、のち江戸で家業を継ぎ、南部・鍋島藩主との結びつきを強めた。そして、1871明治4年廃藩置県の際、
 ―――南部家より「今般廃藩となりしに就いては、藩の財産及び負債とも一切朝廷に差出し、大蔵省にてご処置相成るべき筈につき、予て其許より借財となれる分もこの際その筋に提出すべければ、その元利金額悉皆取り調べたる上申し出られるべし」

 南部藩が高島から借りた金を大蔵省が国債にして渡してくれるから元利金を申し出るようにと、高島にとっては何よりの話だ。しかし「無しにしていい」と高島
 ――― 国家の財政を顧みれば、前途いよいよ多事、新たに廃藩置県を決行し、諸侯並びに諸藩士は藩籍を奉還しその禄高を上納し、これに代うるに金禄公債を拝受せらるる。之がなければ衣食の道を失う。が自分は昔の御用立金を今更に断じて受ける意なし。

 南部家の大参事大浦東次郎、少参事*佐藤昌蔵たちは、「強いて辞退とあらば無理に勧めないが、政府より下付せらるるものなれば、何にも遠慮には及ぶまじきに」と不審顔で納得いかない様子だったが、この話はこれで終わった。ところが、同じ南部藩の金策をした盛岡の商人村井茂兵衛は廃藩置県後、疑獄事件に巻き込まれてしまう。
   *佐藤昌蔵: <北海道大学育ての親、佐藤昌介とその父、佐藤昌蔵(岩手県)>
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/10/post-ae0c.html

 

   村井茂兵衛、尾去沢事件

 盛岡城下の豪商・村井は南部領の尾去沢鉱山の経営を任されていた。しかし、明治維新の際に南部藩は20万石を13万石に削られてうえに、70万両の献金を命じられた。
 南部藩は村井に金策を依頼、村井はイギリス商人オールトに頼み金を借り、破約の場合には2万5千両の違約金を払うことにした。ところが南部藩の重役は外国商人からの借金を拒絶しろということになり、村井は後で立て替えた違約金を藩から返済してもらった。その際、慣習に従って「奉内借」と記した受取書をだした。

 1871明治4年廃藩置県。各藩の債権債務を引き継いで整理に当たった大蔵省は、その受取書をみて、村井が南部藩から2万5千両の借金をしていると解釈した上に、銅山の採掘権料が一部未納になっているとして村井の財産を差し押さえてしまった。
 1872明治5年3月、大蔵省は尾去沢鉱山を没収、尾去沢事件である。村井は南部藩には多額の貸付金があるが返却を受けてないこと、銅山没収は不当であることを強く主張したが、はねつけられてしまった。そして結局のところ、銅山は井上馨の所有になってしまった。次の小野組の破綻も政府内部の力関係と無縁ではない。

     小野組

 明治初期の政商。先祖は小野組の始まりは近江から出た*糸割符商人、両替商。
   *糸割符: 江戸時代、外国船がもたらした白糸(生糸)の売買に幕府が、堺・京都・長崎・江戸・大坂の商人に許可した独占権、また、その証書。

 小野家は、琵琶湖西の大溝(現滋賀県高島町)からみちのく南部(岩手県)へ進出。南部地方の大豆や生糸・紅花・漆・大小豆・砂金などを京都や大阪、上方へ持ち込んで商う。反対に上方からは、古着・茶・薬・砂糖・傘・京人形・呉服・扇子・線香などを南部地方へ運んだ。
 1695元禄8年、冷害と大暴風雨による大飢饉で餓死者4万人。南部藩は盛岡城下の商人らに救済費御用金を命じ小野家もこれに応じた。
 南部藩は領内産金が衰微、幕府の普請手伝いなど財源に窮し、商人の御用金(借上げ金)に頼ることが多くなった。近江・京都の他に盛岡紺屋町・盛岡八戸領・盛岡呉服町・盛岡十三町・盛岡穀町・盛岡材木町・盛岡三戸町などに店をもつ小野家への割当は多かった。
 天保年間。南部地方は大飢饉と不況が尾をひき藩財政は極度に逼迫、莫大な御用金が商人に課せられた。当時、小野家も危機的なほど負債を抱えていたので藩財政から手を引き追放処分になった。翌年、追放は解除されたが内部のギクシャクが影を落とした。

 1868慶応4年、王政復古の大号令。戊辰の戦小野組三井組島田組の三家で新政府軍に二千両献金した。そのほか、政府の会計基金300万両を調達するため、小野組と三井組は大きな役割を果たした。
 1868明治元年、小野組当主・小野善助は三井組・島田組とともに明治新政府の為替方を命ぜられ政府の為替方として活躍。
 1872明治5年、三井小野組合銀行(のち第一国立銀行)を創設。取扱官金の借入で、東京築地・福島に製糸工場、阿仁・院内の鉱山や製紙経営など事業を開発拡大。
 こうした官金を利用した経営拡大、各府県の為替方として勢力をふるう小野組に対し政府は、官金預り額に相当する担保をだすよう迫った。これには政府部内の派閥争いもからんでいるようだが、ともあれ短期間に貸金回収や不動産売却は不可能で小野組は破綻する。
 1874明治7年、島田組と共に小野組は破産。小野組破産後、生糸買い付けなどを担当していた古河市兵衛は鉱山経営に手をのばし足尾銅山を手に入れる。

『異色の近江商人・小野組物語』(久保田暁一1994かもがわ出版)/ 『呑象高島嘉右衛門翁伝』(1914植村澄三郎)/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社/ 『角川日本史辞典』1981角川書

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