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2015年9月

2015年9月26日 (土)

釜石鉱山鉄道 と 岩手軽便鉄道

       岩手軽便鉄道の一月
                                  (『春と修羅』第3集大正13.14年)

  ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかつている
  河岸の樹がみなまつ白に凍つてゐる
  うしろの河がうららかな火や氷を載せて
  ぼんやり南へすべつてゐる
  よう くるみの木 胡桃の裸樹(ジュグランダー) 鏡を吊し
  よう かはやなぎ 水楊の隊列(サルツクスランダー) 鏡を吊し
  はんのき 赤楊の並木(アリヌスランダー) 鏡鏡鏡鏡をつるし
  からまつ 落葉松の編隊(ラリクスランダー) 鏡を吊し
  高貴(グランド)電柱 驃騎兵の直立(フサランダー) 鏡をつるし
  さはぐるみ 澤胡桃の立棒(ジュグランダー) 鏡をつるし
  桑の木 桑樹の株垣(モルスランダー) 鏡を・・・・・・・・・・・・
  ははは 汽車(こっち)がたうとうななめに列をよこぎつたので
  桑の氷華はふさふさ風にひかつて落ちる
      
   ランダー:ドイツ語で編垣、間垣の用材棒のこと。振り仮名はそれぞれの学名
   フサー:ドイツ語で、胸に金の飾りをつけた軽騎兵のこと

 宮沢賢治:
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/04/post-6f54.html

               釜石軽便鉄道

 岩手軽便鉄道は、宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』に登場する鉄道のイメージモデルといわれる。岩手軽便鉄道(本社は花巻町)は、仙人峠という難所で釜石鉱山の鉄道と連絡するが、その釜石軽便鉄道は、1880明治13年、工部省鉱山局所管官営・釜石鉱山に、鉱石輸送用としてイギリス輸入の資材で敷設された。日本で初めての軽便鉄道である。
 釜石鉱山はもと南部藩の経営であったが明治初年いったん廃坑となり、のち盛岡の商人が再興し1874明治7年官営となり、専用鉄道をつくり、合間に公共に供したのである。釜石軽便鉄道には、仙人峠東面の大橋駅と釜石町の西端鈴子駅間を走る4駅があった。鈴子には製鉄所があり釜石港の桟橋まで4kmほどである。
 1882大正15年3月、旅客・貨物の輸送を開始したが、間もなく炭鉱と共に廃線になった。車両や資材の一部は当時官営だった三池炭鉱と、民間資本による阪堺鉄道に転用された。

              岩手軽便鉄道

 ―――岩手県は面積は広いが人口が少く、至る処山岳重畳、深険なる峡谷、広い平野が少なく、気候寒烈なため、人口希薄で部落もまた遠隔している地方なので、道路を開鑿し、殊に高級の交通機関たる鉄道敷設と経営との如きは、他の地方に比しても最も困難なる状態にあるは明白である。
    
 明治初年には北上会社を設立して北上川を利して、盛岡から石巻に通ずる漕運を開き、物資輸出入の円滑をはかった。沿海地方は、三陸汽船会社の定期航路で釜石湾を起点とし、北は宮古港から南は陸前塩釜港に至る各港間の海運に従った。岩手県民はこの陸と海、花巻・釜石間を連絡する鉄道の敷設を願っていたが実現されなかった。が、政府の鉄道政策により私設鉄道の敷設が奨励され資金が集められた。筆頭株主は横山久太郎(釜石製鉄所長)で、宮沢賢治の母方の祖父も株主として出資するなど、株主の大半は沿線住民であった。
 1911明治44年10月、岩手軽便鉄道会社を設立し、1915大正4年11月全線開通の運びとなった(大正2年『上閉伊郡誌』岩手県教育会上閉伊郡部会)。
 本社は宮沢賢治と縁の深い花巻町、のちのJR東日本釜石線に相当する路線である。

 1912大正元年9月、建設工事が両端から開始。
 1913大正2年10月、最初の開業区間が花巻から土沢まで開通。残りの区間の建設工事もかなり進捗していたが8月に集中豪雨で完成した線路などが流失する被害を受け、以後は部分開業を徐々に繰り返す。
 1914大3年4月、終点側の遠野-仙人峠が東線として開通。さらに西線の晴山-岩根橋、東線の鱒沢-遠野が同時に延伸開業。
 1915大正4年7月、東線の柏木平-鱒沢、11月、最後の岩根橋-柏木平が開通して、花巻-仙人峠間が全通した。こうして花巻から仙人峠までが軽便鉄道で結ばれたが、難所の仙人峠手前で終点になっていた。その先、人間は徒歩か駕籠に揺られて移動した。荷物は岩手軽便鉄道が、貨物用の索道(空中ケーブル)を建設した。ともかく、これにより徒歩連絡をはさみながらも花巻から釜石までの鉄道連絡ができるようになった。この索道では貨物・郵便物・新聞などが輸送された。

 その後、岩手軽便鉄道の取締役であった瀬川弥右衛門が貴族院議員になり、仙人峠の連絡鉄道の国鉄による建設を請願、岩手軽便鉄道の国有化の運動も始められた。加えて、国有化に向けた政界工作もあり、帝国議会で花巻-釜石間の鉄道が予定線となった。1929昭和4年建設線へ昇格、帝国議会で岩手軽便鉄道の国有化が決定。 1936昭和11年8月、国鉄釜石線となった。
 2015年秋、JRのカタログをみていたら、<SL銀河>C58・239を復元し花巻駅~釜石間を運転、宮沢賢治の世界観や空気感、生きた時代を共有できる空間となっています―――というのがあった。どうやら、鉄道は人や物を運ぶだけでなく、昔を今に運ぶらしい。

               **********

 <花巻空襲の航空写真発見> (毎日新聞2015.9.25夕刊)

  ラグビーのワールドカップ、日本の活躍から「新日鉄釜石」が思い浮かび、釜石鉱山鉄道から岩手軽便鉄道へと至り、本社があった花巻にも親しみを感じた。そうしたとき、「花巻空襲写真」の記事を目にした。長い時間をかけて築いたものが一瞬にして破壊される現場が写っている。記事によれば、花巻市街はもちろん北上市の岩手陸軍飛行場が爆撃されたという。
 ほかにも、広島・呉港で停泊中の船艦「伊勢」、大阪・伊丹飛行場、長野・旧陸軍上田飛行場への爆撃写真もあるといい、「体験者が少なくなる中、戦災を伝える貴重な史料」だと伝えている。

 

 

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2015年9月19日 (土)

宮城県の自由民権家、大立目謙吾

   仙台藩士の戊辰戦後、明治維新、ハリストス正教

 仙台藩士、大立目謙吾(おおだつめけんご)は1848嘉永元年生まれ、20歳で戊辰戦争にあう。
 仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となり新政府軍と交戦するが利あらず降伏。仙台藩主伊達慶邦は*遠藤文七郎らを遣わして、相馬口総督府(細川の陣)に降伏を伝え、仙台城を開く。1868慶応4年10月15日、入城授受の式を行い「開城の上は土地人民を挙げて天朝に献じ」 仙台藩は28万石に減封、名取・宮城・黒川・加美・玉造・志田の6郡支配となる。
 これより前の9月4日、まだ戊辰戦争のさなか明治元年と改元された。
  *遠藤文七郎(允信): http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/02/post-4338.html

 1869明治2年、版籍奉還が行われ、仙台藩士は家録を奉還、金禄及び授産資金の交付を申請。
 これより以前から、幕府軍の脱兵と結び再挙を謀ろうとする浪士たちが函館に集まっていた。
 函館のロシア領事館付司祭ニコライはこうした仙台藩脱藩の浪士たちと知り合う。未だキリスト教の布教が許されなかったのでロシア語を教え、彼らから日本語を習った。そうした一人、沢辺琢磨はいつしかニコライに心酔しハリストス正教に入信。
 仙台藩士、金成善右衛門と新井常之進は憂国の士として名を馳せている函館の沢辺琢磨を訪ねた。すると、沢辺が「国家の革新は人心の改造よりせざる可らず。人心の改造は宗教の改革よりせざるべからず。宗教の改革はハリストス教を以てせざるべから」と説くので、二人は意外の感に打たれた。しかし、ニコライに会って話を聴き心服し、仙台に戻ると正教のことやニコライのことを知人や同士に話した。
 これに小野荘五郎・笹川定吉・大立目謙吾らが啓蒙され、三人は未だ戊辰最後の戦い、箱館戦争の戦禍も生々しい函館に赴いた。
 1870明治明治3年5月、大立目ら三人は箱館戦争で焼け出され仮住まいする沢辺の家に泊まって、ニコライにロシア語を学んだ。
 1871明治4年、大立目はハリストス正教に入信(洗礼名ペートル)。帰郷して県内を布教する。
 1872明治5年、ハリストス正教はロシア人司祭ニコライと仙台藩士らの入信によって宮城県下に広まり、教徒が逮捕される弾圧事件もおきたが、県下に幾つもの教会ができ、東京神田のニコライ堂建設に尽力した教徒も多い。「五日市憲法草案」(私擬憲法)の起草者となった千葉卓三郎もハリストス教徒の経歴をもつ。 

     仙台の自由民権運動

 1877明治10年9月、大立目謙吾は西南戦争に出征、川辺分遣小隊長をつとめた。このとき仙台鎮台(のち第二師団)に入隊して出征したか、応募して九州に赴いたかは不明。西南戦争には旧会津藩士など東北から多くが参戦している。西南戦争後、言論の力が認識され全国で言論活動がさかんになる。
 1878明治11年10月、宮城県初の自由民権結社である「鶴鳴(かくめい)」(社長箕浦勝人)が結成された。
  鶴鳴社は、全国的な組織で国会開設運動を進めようとする愛国社との同盟可否問題をめぐり、同盟を推進する派と、独自路線を主張する派に分裂する。
 1879明治12年、大立目は鶴鳴社と分かれて独自路線を主張する「進取社」を結成、幹事・社長となり自由民権運動に参加、憲法見込案作成委員もつとめた。仙台における自由民権運動は複雑な関係となり進取社を御用党とささやく者もあった。

 また、大立目は布教のかたわら同志とともに商社「広通社」を興して商業に従事する。広通社は、登米郡長の半田卯内・西条佐助ら旧士族や、大立目らハリストス教会信者が中心となって設立。蒸気船「広通丸」を用いて、米や生糸、海産物などの物資を横浜などで売買して飛躍的に成長した。 軌道に乗った矢先、広通社社員の一人が米相場に手を出して失敗、商社は廃業となったが製糸場は県や地域の協力で、「横山製糸会社」として生まれ変わり経営を続けた。

     東北有志会・東北七州自由党

 第3回愛国社大会が大阪で開かれるに先だち、河野広中は土佐に赴き立志社との緊密な連携を図るとともに、関東・北陸・東北各地を運動して回り東北の連合につとめた。
 1880明治13年2月、仙台で東北連合会が開かれる。東北地方の団結をはかり、自由民権運動の発達にと東北有志会が組織された。

  当時の「朝野新聞」記事から
 ――― 東北七州懇談会(東北連合会): 国会開設請願につき奥羽地方にては人心大いに奮い、この頃になると国会開設は一種の流行病の如く拡がったのであるが、宮城県では仙台に進取社が設立され、檄文を発したと『近時評論』(1880.3.20)にあったが、こえて4.28の同紙には、仙台における政談演説ますます盛んにして、これに従事する本立・進取・鶴鳴・断金・などなどの何れも2~300名の社員を擁し、就中、進取社のごとき既に2千名に及んでおり、近々東北を一丸とせる一大結社の計画があると報ぜられ・・・・・・

 明治14年10月、自由党結成(総理・板垣退助)。国会期成同盟を中核とし、宮城県からは大立目謙吾・二宮景輔・高橋博吉自由党名簿に名を連ねた。
 同年3月4日、東北政社合同し仙台に東北有志大会を開く、河野広中議長。東北有志大会東北自由党と合し東北七州自由党となる。
 1882明治15年、大立目、東北七州自由党の結成に加わる。
   同年4月<日本初の県債発行計画>: 詳細後述
   同年12月、福島事件。福島県令三島通庸の農民の道路拡張工事強制動員に対し河野ら自由党員が反対運動を展開したことによりおきた自由党員・農民弾圧事件。

     大立目謙吾郡長歴任
 
 
1886明治19年、宮城県(知事・松平正直)農商務課長(勧業課長)。
 1888明治21年4月22日、東北有志の大会が開かれたのを導火線として、後藤の大同団結運動は全国を席巻、大立目もこれに呼応す。
 1890明治23年5月2日、大立目、宮城県庁より宮城郡長に転任。
     郡長: 府知事・県令(のち県知事)の監督のもとで郡内に法律・命令を施行し、事務を総理する官職。郡内の町村戸長を監督し、郡会議長として郡会の運営を担当。俸給は地方税から支弁。

 1892明治25年11月4日、黒川加美郡長
 1894明治27年、郡制施行により、初代加美郡長
 1901明治34年11月、本吉郡長
 1903明治36~明治39年2月28日、遠田郡長
 1910明治43年、勲4等に叙される。
   ?年、県会議員。
 1920大正9年9月4日、没。73歳。

   参考:『宮城郡誌』1928宮城郡教育会 /  『自由民権・憲法発布』1939白揚社/ 『函館ハリストス正教会史』/ 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館/ 『宮城県の歴史散歩』2007山川出版社

     **********

      <日本初の県債発行計画

 「起業県債発行之議ヲ県会ニ付セラレサルヲ請フノ嘆願書」 [M15-0101]
 1881明治14年、宮城県は野蒜港への輸送路整備を目的とする六大工事計画に着手、その工費80万円を「県債」によって集めようと考えた。当時水陸運輸の整備が急務となっていたが、地方のあらゆる事業を国庫に頼ることはできず、かと言って地方税にも限度があった。そこで同15年1月、県会議長増田繁幸が中心となり起業県債の発行を建議したのである。ところが、この時不景気の兆候が見え始めていたこともあり、県債計画が明らかになるとその是非論が沸き起こった。そして同年4月、大立目謙吾ら仙台区の住民10名が連名で県令(知事)松平正直に提出したものが「起業県債発行之議ヲ県会ニ付セラレサルヲ請フノ嘆願書」である。

 この嘆願書では,財政制度が進んでいるイギリスの蔵相(後に首相)グラッドストンや経済学者アダム・スミスらが公債に否定的な見解を述べていることを指摘し,さらに“県債の六害”をあげて県債に反対している。“県債の六害”とは
1.六大工事は急務ではない  2.県債の償還に20年以上を要するが、その間に凶作や事変があるかもしれない  3.県域の変更があった場合、後から宮城県に編入された者が承服しない  4.米価が下がり,農民が困窮している  5.地方税やその他の出費が増えている  6.県債発行は,県会の権限を超えているという内容であった。
 そして県債発行は、「我邦未曾有之事」で県民の多くはよく理解していない。そのような県民を20年に渡って「負債者」とするのは忍びないとしてこの議案を県会にかけないよう訴えている。この後、松平県令は県民の長期に渡る負担を不安視したためか、県会にかけないことを決断、日本初となる県債発行は実施されなかった(「宮城県公文書館だより 第10号」)。

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2015年9月12日 (土)

病理学(脚気)と和歌と、三浦守治 (福島県) 

 少し前に、「会津人柴五郎と竹橋」を紹介したが、今度は柴五郎のお孫さんの縁で歌集『心の花』1400記念号(竹柏会2015年6月)を頂いた。1400はすごいが、はじめて見るので、『歌壇風聞記』1937を見てみると、<『心の花』はどうなる>が載っていた。

 ――― 歌壇では一番の老舗である。主催者も二世三世でなく、はじめから佐佐木信綱であり、雑誌も改題などせぬ、はじめからの『心の花』である。会名「竹柏会」は先代弘綱(信綱の父、国文学者)の屋号竹柏園に因む・・・・・・ 伝統をもった雑誌で、最初の宣言にも「如何なる流派を問はず」と謂っており、今(昭和12年)でも、信綱はやっぱり「おのがじし」を口にし、中正穏健をモットウとしているわけだが、長い間には、おのづから消長変化があり~~

 柴五郎の孫、西原照子は祖父五郎のすすめで佐佐木信綱に和歌を学び、歌集『武蔵野』を出版している。『心の花』記念号「先輩歌人名鑑」の紹介写真を見て20数年前のまだ若い照子さんの笑顔を思い出した。「名鑑」には明治・大正以来の著名人、歴史好きには興味のある人物がズラリ。その一部をあげると、 
 上田敏・大塚楠緒子・落合直文・勝海舟・金子薫園・木下利玄・九条武子・近衛忠煕・斉藤劉・佐佐木信綱・下村海南(宏)・西村照子・長谷川時雨・村岡花子・森鷗外・柳原白蓮・与謝野鉄幹などなど。
 各々人物の短い紹介と三首の歌が添えられている。そのなかの一人で森鷗外の同級生、三浦守治(みうらもりはる)に注目。

                 三浦守治


 ―――(三浦守治)医学の道を歩む自己を平明にうたい、「超俗の赴き」「ますらをぶりの気迫」(信綱)、「士太夫の精神」(石川一成)などの評価を受ける(「心の花」大野道夫)。
 人言は、心にかけず、荒布を、ゆかたにたちて、我ぞ着にける、  
 折らばやと、ひきためわたる、梅が枝を、放ちてしばし、まもりつるかな、
 老いて世を、さとりがま志く、ふる吾の、昔は髭も、何もなかりき、

 1857安政4年5月、磐城国岡村郡平沢で生れる。父は三春藩士・村田七郎、二男。
 1867慶応3年5月、三春善光寺住職・井上知完について学ぶ。
 1869明治2年、三春講所に入り、熊田嘉善・山地純一・佐久間儀門などに漢籍を学ぶ。
 1872明治5年、16歳で東京の*岡鹿門の塾に入り、漢籍を専攻。
  *岡鹿門: http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/05/post-de84.html

 1873明治6年、17歳で東京医学校(大学東校)入学。森林太郎(鷗外)も入学するが、年齢不足のため1860万延元年生まれとした(『新潮日本文学アルバム・森鷗外』1994)。
 1881明治14年、医学校卒業、医学士となる。三浦義純の養子となる。

   <東大新医博士成績順名簿>によると、24歳の三浦は1番、最年少19歳の鷗外は8番、ほかに鷗外の友人、賀古鶴所の名もある。
 1882明治15年、ドイツの大学に留学、ユーリアス・コンハイムニ教授について病理学および病理解剖学を研究。次いでベルリン大学に転じドクトル・ウイルヒョーに学びドクトルの学位を得る。
 1884明治17年、留学満期となるも私費でなお滞在、学問を続けた。この年、陸軍2等軍医森林太郎が陸軍衛生取調の為ドイツ留学。二人はドイツのどこかで邂逅しただろう。

 1887明治20年3月、ドイツで博士となり帰朝。東京帝国大学病理学の専任教授となる。

 ――― それまで病理学は教室もなく、ただ内科の教授が臨床科講義の際、病理総論および病理解剖を併せ教授するくらいで、病屍あれば自身で解剖し或いは助手をして解剖せしめるに過ぎなかった。三浦がするまで、外国人解剖学教授ヂツセが病理学を担任し専任教授がなかったのである。三浦は脚気病の研究に力を用い、研究結果を報告する。
 当時東京医家大学の各科教授は、いすれも学識名望ともに一世に卓出し、医界における権威として尊敬せられたこと今日の比ではなかった (『明治大正日本医学史』田中裕吉1927東京医事新誌局)。

    脚気の原因究明論争

 わが国特有の国民病ともいわれた脚気。その発生と原因について今日では、ビタミンの発見など研究の結果、栄養障害節が確立している。が、以前は伝染病説、中毒説などが盛んに論議された。海軍軍医・高木兼寛は、水兵の米食をやめ右飯食に改めた結果、脚気患者が著しく減った事実から脚気の原因を米食に帰し、栄養障害が原因だとの自説を発表した。
 これに反して緒方正規は脚気の原因は、小腸内に発育する特殊の細菌が酸を産生するからアルカリ性の薬剤を与えて血液の酸性を中和しなければならないと発表した。北里柴三郎は医学雑誌に緒方の脚気病原説を取るに足らないと論駮した。
 脚気を一種の伝染病だとする学者は緒方以外にもあって、東大内科医師ベルツも臨床的見地から脚気が瘴気性伝染病だとした。

 1889明治22年、東大病理学教授・三浦守治は脚気における末梢神経の病理的変化および臨床的症状から推論して、中毒性疾患なりとし、さらに食料の比較統計上よりその原因を青魚中毒とした。その後、この説は三浦の門下・佐多愛彦が北海道に出張して青魚を食べない道民も脚気に罹る者が多いことから根拠を失ってしまった。
 1897明治30年に至るまで伝染説と中毒説が対立していた。当時はビタミンを思いついた学者は一人もなくて、脚気がビタミンBの不足欠乏に起因すると明白になったのは大正時代に入ってからである(『明治大正日本医学史』)。

 余談: 柴五郎も陸軍幼年学校時代に竹橋騒動が起きたとき、現場に駆けつけその場で昏倒し2週間の入院治療。脚気で歩けなくなったのだ。日露戦争では脚気で歩けなくなった陸軍兵士が多かったという話もある。

 1891明治24年8月、三浦守治・森林太郎(鷗外)・北里柴三郎・中浜東一郎ら21人医学博士を授与される。
 1898明治31年「心の花」入会
 1915大正5年、歌集『移岳集』刊行。
 1916大正6年死去。59歳。
   人となり謹直、人に接する温良恭謙いやしくも才を衒い能に誇るの風なし。而して日に其身を三省し以て行いを修むと、徳望高き所以なり。ああ当世軽薄に流れ言語に絶えざるものあり。宜しく君の修業に鑑み、自省する所なくして可ならんや(『日本博士全伝』1892博文館)。

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2015年9月 5日 (土)

政教社同人、菊池熊太郎 (岩手県釜石市)

 東日本大震災、原発事故があって被災地に目がいくようになって、その地の幕末明治をふり返るようになり、いろいろ学ばせてもらっている。歴史の視点をどこに置くかなど考えさせられることが多い。そして、何かの資料をみていて人物・事件などの地が福島・宮城・岩手だと気になる。先日も『明治時代史大辞典』の政教社の項に、岩手県釜石出身の菊池熊太郎があり、さっそく見てみた。

           菊池熊太郎


 ――― 明治時代の釜石を代表すべき人物は業界における小軽米浩、学会における菊池熊太郎、教育会における八重樫寿太郎であろう。
 菊池熊太郎は1864元治元年10月釜石に生まれ。父を双六、母を千賀という。妻柴氏は乃木希典大将夫人の令姪に当る。(『横山久太郎翁伝』)    

 1880明治13年9月札幌農学校入学。
 1884明治17年7月卒業、農学士。翌年、文部省の教員検定免許証を得る。
  千葉中学校: 明治17年~19年2月
  福島中学校: 19年2月~20年3月
  私立東京英語学校: 20年9月~22年2月。このほか、私立東京法学院(のち中央大学)などで教鞭をとる。

 1888明治21年のはじめころ三宅雪嶺杉浦重剛井上円了ら10名によって「政教社」創立。
 政教社は国粋主義を唱えた思想的結社で、その4月機関誌『日本人』を刊行。
 『日本人』はしばしば発行停止にあったが、のち三宅雪嶺が中心で内藤湖南長沢別天が編集に加わり、1907明治40年『日本及日本人』と改題する。

 『日本人』創刊の辞に名を連ねたのは、加賀秀一(岐阜・士族)、 今外三郎(弘前・士族)、 島地黙雷(山口・西本願寺執行)、 松下丈吉(久留米・士族)、 辰巳小次郎(尾張・士族)、 三宅雄二郎(雪嶺、加賀・士族)、菊池熊太郎(東魏、岩手・平民)、 杉江輔人(広島・士族)、 井上円了(越後・慈光寺)、 棚橋一郎(岐阜・士族)、 志賀重昂(岡崎・士族)の11名である。これに加えて、杉浦重剛(近江・士族)、 宮崎道正(越前・士族)の13名が同人である。
 ほとんどが、非藩閥の藩士・儒者・僧侶の士族層の家系で、最新最高の官学で文化系と理科系の洋学を学び、政教社創立前後に、官から離脱した者や批判に転じた者、教育への従事者、政教社以外の言論誌でも活躍し、非キリスト教徒であることが共通している。

 政教社同人は、近代の官立教育機関(東京大学、札幌農学校など)で洋学を身につけて、在来の思想や価値観と葛藤しながら、西洋の価値観をのみ込んだうえで、非西欧型の日本の近代化を模索して国粋主義を主張した。
 こうしたなかで、菊池熊太郎を理学宗を提唱し明治思想史上逸すべからざる人物と評する向きもある。次の編著書が近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ にある。

Photo


 刊年不明: 『西洋歴史・講述』 『中等地理教科書・上下』 『中等教育の過程に経済の一科を加ふべし』

 1885明治18~1889明治22年: 『科学理論一班』編著 『男女心理之区別』 『道徳新論』 『地理教授新論』エー・ケイキー著・訳

 1890明治23~1895明治28年: 『学海・第一号』(国民教育) 『新体理科示教』 『理学』編述 『新撰普通部地理学』 『中等地理教科書』 『普通万国歴史』
 『新撰小地文学』(地文学トハ地球ノ表面ニ興発スル自然ノ現象ニツキテ究明スルモノニシテ自然地理ト呼バル)

 写真の 『物理教科書』1897・1899金港堂版は広く用いられた。

 1894明治27年、実業界に入り*勧業銀行監査役となる。
    *勧業銀行: 日本勧業銀行。1896明治29年の日本勧業銀行法によって設立された特殊銀行(初代総裁・河島醇)。農・工業に長期資金を供給することを目的とした。のち第一勧業銀行(現みずほ銀行)。
 岩手県盛岡市本町の勧業銀行盛岡支店は、安田銀行盛岡支店と共に東京大銀行支店の双璧であった。

 その後、大同生命保険会社(明治35年7月創立)取締役・東京支店長を務める。
 1908明治41年9月17日脳溢血にて急逝。
   45歳。東京青山墓地に葬られる。

   参考: 『横山久太郎翁伝』1943釜石製鉄所産業報国真道会編/ 『明治時代史大辞典』吉川弘文館/ 『日本史辞典』角川書店

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