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2015年10月

2015年10月31日 (土)

博文館*私立大橋図書館、大橋佐平・大橋新太郎(新潟県)

 先日、図書館好きと話をしていて、閉架と開架どっちがいいかになった。開架の本は手に取れるが、古くなると廃棄される。閉架は目につかないが資料として保存される。今は図書館に行かなくてもインターネットで蔵書検索できるが、立ち読みできない。楽しい立ち読みも書店では遠慮がちにだが、図書館は制限無し、閉架書庫だとなおうれしい。
 だいぶ前、江戸博の展示ガイドボランティアを数年していた。ガイド終了後、閉架書庫に入るのが楽しみだったが、ある時からボランティアはお出入り禁止になった。閉架書庫に入れるなら、未だボランティアしてたかもって思うことがある。
 ところで、昔はお金がないと本を読むにも一苦労。借覧料が必要だったり、知り合いでない個人の蔵書は情報がなく本の存在が判りにくかった。明治期、公立図書館ができたが少ない。そういう時に私立図書館を開設したのが大橋佐平と大橋新太郎父子である。

      大橋佐平
              1835天保6年12月~1901明治34年11月

 越後国古志郡(新潟県長岡市)の材木商渡辺又七の次男に生まれる。1860万延元年、上村松子と結婚、1863文久3年、絶家となっていた大橋家を継いだ。
 1869明治2年、新潟県に奉職、長岡郵便局長、信濃川の渡船経営。渡船賃で少なからぬ収入があった。維新後、さびれてしまった長岡の復興に努力した。
 1879明治12年、長岡出版会社を設立し『北越雑誌』を創刊、また「北越新聞」(主筆・草間時福)を発行したが意見が合わず廃刊。次いで『越佐毎日新聞』を創刊したが、同17年筆禍により下獄。
 1886明治19年、家族を連れて上京

 1887明治20年6月、東京本郷の自宅に出版社・博文館を創業。最初の企画『日本大家論集』を創刊、初めのうちは風呂敷に包んで方々へ売って歩いた。出版は成功し、さらに「日本之・・・・・・」と名づけた雑誌、『婦女雑誌』『学生筆戦場』『明治文庫』など次々と出版、好評を博した。これに経営に企画力のある新太郎が加わり博文館はますます発展した。
 1893明治26年3月から10月まで欧米を巡遊、アメリカではクリーブランド大統領に謁見、ワシントンの新聞『イブニングスター』が、日本国第一の書籍雑誌発行所だと紹介。佐平を、眼光鋭く、口元は締まり、一見して意志に強き人だと書き立てた。

 1901明治34年11月3日、多くの嫡子・庶子に恵まれ、胃癌のため67歳で死去。
 ――― 金銭の成功は岩崎、三井に及ばずと雖も、社会に得たる利益はこれを社会に報いざるべからずと志願、図書館を設立して社会に寄与せしめたりき・・・・・・彼は永く日本における最も大なる寄付者の一人たるを失わざるべし
       (『樗牛全集:史論及史伝』高山林次郎1923博文館)

      大橋新太郎
               1863文久3年~1944昭和19年

 1863文久3年、大橋佐平の長男として長岡で生まれる。
          父が創立に関与した長岡洋学校、新潟師範学校講習所で学ぶ。
 1876明治9年、上京して中村敬宇の同人社に入る。後年、中村敬宇(正直)翻訳『西国立志編』の版権を譲り受けて刊行し、廉価で売りひろめた。
 1878明治11年、15歳。長岡に帰郷し、『越佐毎日新聞』を手伝う。
 1888明治21年、上京して博文館の経営を担当、『少年世界』『文芸倶楽部』など多種の雑誌を創刊。薄利多売や日記帳の発行により成功する。
 1894明治27~28年の日清戦争後、高山樗牛を主筆にして発刊した雑誌『太陽』の成功で、明治時代最大の出版社となった。
 1897明治30年、博文館印刷所を設立。
 1901明治34年、父佐平が死去、社長となる。この年、父が準備していた日本初の私立図書館である大橋図書館を設立。またこれ以後、日本書籍(教科書出版会社)、東京堂(書籍取次)、博進社用紙店など一大出版王国を築いた。
 1902明治35年、衆議院議員選挙に出馬、鳩山和夫をぬいて第1位で当選。
 1918大正7年、社長を辞し、東京瓦斯・東京電灯・第一生命・日本鋼管・王子製紙・三井信託・朝鮮興業など70数社の重役となり、「重役業者」と呼ばれた。
 1921大正10年、英米訪問実業団を組織し欧米各国を巡遊、視察。
 1923大正12年9月1日、関東大震災で自邸、図書館も焼失したが、やがて再興。
 1926大正15年~1944昭和19年、貴族院議員

  明治中期から大正にかけて博文館の名声は隆々たるものであったが、重役業に転向したせいか博文館は不振となり、野間清治の講談社が頭角を現して来、多年発行の雑誌は一つ一つ廃刊となっていった。
  尾崎紅葉『金色夜叉』の金貸し富山のモデルと言われるのは、ケチン坊という世評のせいなのだろうか。巨資を投じて図書館を建設したり慶應義塾のために広大な野球場を建設して寄付したりしているが、自分と縁のない方面にはしなかったからか。エピソードが豊富な人物で、将棋好きで誰彼となく指しては夢中になっていたなどもある。
 1944昭和19年5月5日、死去。82歳。

           大橋図書館

 1901明治34年1月、大橋佐平は、博文館創立15周年を記念し念願の
「内外古今の図書を蒐集し広く世人に閲覧せしめ公衆の便益に供する」ため私立図書館の設立を具体化。早くから和漢洋の書籍を集め、館の経営を石黒忠悳上田万年田中稲城(帝国図書館長)に委嘱して麹町の自邸敷地内に図書館を起工したが、間もなく死去した。

 1902明治35年、父の跡を継いだ新太郎が図書館館を創立。6月、閲覧を開始。以後、大橋家、坪谷善四郎、博文館関係者、安田善次郎を中心として館の充実を図った。
 1911明治44年、館外貸出。翌年からは夜間開館も実施。

 1917大正6年、坪谷善四郎が第二代館長となる。毎日の閲覧者は400人にもなった。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。大橋図書館は本館建物と蔵書88,300余冊が灰燼に帰してしまった。その後、全国から図書の寄贈や寄付を受けて九段下、飯田町に新築開する。閲覧者も増え書庫も増築、やがて全国一の私立公衆図書館に発展した。
 この戦争中にも被災しなかったが戦後の1949昭和24年館の建物は譲渡され、同28年解散。1957昭和32年、大橋図書館の蔵書は、港区芝公園の三康図書館に引き継がれた。

     参考: 『明治時代史大辞典』吉川弘文館、『コンサイス学習人名事典』三省堂。  近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ より以下、『流芳後世:長岡の人々』1942長岡市、 『四十五年記者生活』松井公吉1929博文館、 『財界巨星二十人伝』1937人物評論社

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2015年10月24日 (土)

1900年パリ万博・金賞「老夫像」、長沼守敬 (岩手県/千葉県)

 2015年ミラノ万博で日本館が人気とか。日本の万博参加は、1867慶応3年のパリ万国博覧会がはじめてで、幕府・薩摩藩・鍋島藩がそれぞれ日本国を名乗って参加した。そのとき将軍慶喜の名代として参加した徳川昭武は、幕府が崩壊して急遽帰国した。その万博殿様昭武が帰国した明治維新の時から33年、日本は驚くばかりのスピードで西欧化、近代化を推し進め変化した。
 欧風化は軍事・工業ばかりでなく芸術の世界にも及び、再度開かれたパリ万国博覧会で、日本人の長沼守敬(ながぬまもりよし)が、洋風彫刻で金賞を受賞した。この1900明治33年は国自体も海外進出、日清戦争に勝利した日本は欧米列強8カ国に仲間入り、清国北京において義和団と戦い勝利に導いた。
 ところで、どの分野で活躍した明治人でも生まれは江戸時代、身につけた教養は昔ながらのものだ。その人々が見たこともない新奇な物に出会った時、それが器械や技術ならすぐに慣れそうだ。でも、文学や美術はどうか、目に映っても馴染むには時間がかかりそう。  技法が分かっても作品の背景にある文化や習慣、感性の違いを知らないと心に沁みてこないから。たとえば、それらをどの様に感得して作品に活かしたのか。まだ海外渡航者が少ない明治前期、遠くイタリアで学んだ洋風彫刻家・長沼守敬をみてみよう。

 
Photo       長沼 守敬 (ながぬまもりよし)

 1857安政4年9月23日(1857.11.9)陸奥国一関(陸中国西磐井郡一の関)藩士・長沼雄太郎の三男として生まれる。
 明治維新当時、水戸の高橋善吉(号・美勝)、*内藤耻叟が難を避けて一の関に潜んでいた。二人は彫金(水戸彫)が巧で、11歳の守敬は学業の余暇、朝夕二人の家を訪れては彫金するのを飽かず眺めていた。高橋と内藤はそんな守敬に彫金を習うよう勧めた。ところが、まもなく二人は捕らえられ水戸に送られた。守敬は二人が残した用具で彫金を独習した。
   *内藤耻叟:ないとうちそう。明治維新後、群馬県の中学校長を経て陸軍の学校・東大・斯文会などで歴史学を講じた。教えは水戸学による尊皇史観による
 1873明治6年、北海道札幌農学校に入学するが、まもなく函館に移った。
 1874明治7年、上京して中村敬宇の同人社に入塾。
 1875明治8年、元印刷局の御雇外国人の銅版彫刻家*キヨッソーネにイタリア語を学ぶ。また、イタリア公使フエー伯爵の援助を得て横浜港に停泊中の軍艦ウエットルピサニ号に乗りこみ、イタリア語を習得してイタリア公使館通弁(通訳)見習となった。
   *キヨッソーネ: 政府の招きで来日。印刷機材を輸入、重要印刷物の製版・印刷を指導、紙幣寮で有価証券類の図案と製版に従事した。明治天皇の肖像画を描いた。

 1876明治9年、工部省御雇外国人*ラグーザの通訳となり、彫金を研究。
   *ラグーザ: 政府に招かれ、工部美術学校で日本で初めて西洋彫刻法を教えたが、同校の授業中止により帰国。洋画家・清原たまと結婚(『ラグーザお玉』木村毅著)。

 1881明治14年3月、イタリア公使バルボラーニ伯爵が帰国するのに従いイタリア留学ベネツア王立美術学校で新古典主義的な彫刻を学んだ。また当地の高等商業学校日本語教授の嘱託となり学資を得ることができた。1885明治18年、優秀な成績で卒業。
 1887明治20年、イタリア美術博覧会に「海岸に於て」児童が貝を拾う等身像を出品して入選。八月、帰国。この年、岡倉天心らの尽力で東京美術学校(戦後、東京藝術大学美術学部)が設立される。

 1888明治21年、東京美術学校に塑造科が開設され初代教授に就任、我が国における洋風彫塑の普及に尽力したがまもなく辞めて帝室博物館に入る。第3回*内国勧業博覧会の事務嘱託を受ける。
   *内国勧業博覧会: 殖産興業政策の一環として、内務卿・大久保利通が主唱した内国物産の品評博覧会。当初は工芸品中心であったが、のち機械類が主流となる。

 1889明治22年、*明治美術会結成に参加。
    *明治美術会: 浅井忠・小山正太郎らによって創立された日本初の洋画団体。
 1891明治24年、陸軍砲工学校外国語教授を嘱託される。
 1892明治25年、毛利公爵家一族の銅像模型を製作。アメリカシカゴ博覧会審査官。
 1895明治28年、第4回内国勧業博覧会審査官となる。
 1897明治30年、日本美術協会からイタリア万国博覧会への出品事務を託され渡欧、イタリア・フランス・ドイツ・オーストリアを巡歴して帰国。
 1898明治31年、三たび東京美術学校教授となり、工部美術学校いらい途絶えていた本格的な彫塑を後進に伝える。
 1899明治32年、東京美術学校の塑像教育開始に伴い教授に就任したが、翌年辞職。

 1900明治33年、フランスパリ万国博覧会審査官となる。「老夫」の頭像を出品して金牌を受賞。写実的で親密な作風で洋風彫刻の草分けの一人となった。

 ――― モデルは作者の近所に住んでいた植木屋のお爺さんと伝えられる。素直な自然観察に基づく堅実で柔軟な肉付けにより、老人の顔に刻まれた皺、頭に巻いた布の質感までもが迫真的に表現されており、作者の卓越した技量が存分に発揮されている。(当館所蔵作品は東京芸術大学所蔵の原作品に基づく複製鋳造)
         (岩手県立美術館 http://www.ima.or.jp/ )

 1903明治36年当時の住い、東京市小石川区表町109番地
 長沼守敬の作品は「岩倉具視像」「木戸孝允像」などのほかに船越男爵・鍋島侯・土方伯爵・毛利公爵・近衛公爵・水戸侯爵などで上層の人物が多いが、「老夫」は庶民である。栄華を誇る人物と庶民の老夫、作者の製作意欲はどちらに傾いていただろうか。頼まれて彫る、自由に作りたいものを彫る、そんな葛藤があったのかどうか、
 1914大正3年、突然、彫刻界から引退、房州飯山町(千葉県館山市)に隠棲する。
 1936昭和11年、「現代美術の揺籃時代」を高村光太郎の編による談話を発表。高村光太郎の父、高村光雲は東京美術学校教授で明治を代表する彫刻家である。
 1942昭和17年7月18日没。86歳。

  
 守敬製作の像は戦時中の金属供出で失われたものがあるが、
―――館山で制作された守敬自身の胸像は岩手県立博物館で常設展示されている。
  長沼邸は、館山市立博物館本館近くに現存し、今なお彼の彫刻道具のほか、原敬をはじめ、森鴎外、黒田清輝、高村光太郎の手紙など、彼の交友の広さを物語る貴重な資料が、東京に住む子孫に、大切に伝えられているようです。
     (安房文化遺産フォーラム  http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=414)

   参考: 『明治時代史大辞典』吉川弘文館/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂/ 『第五回内国勧業博覧会審査官列伝. 前編』1903金港堂

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2015年10月17日 (土)

気骨に富み詩才卓抜な、国分青厓 (宮城県)  

     唯だ利を射る         青厓 国分高胤

  操觚(そうこ文筆業者) 弊あり 幾時か除く
    著述 僅かに成って 魯魚(誤植)多し
  勢ふに乗じて 奸商 唯利を射る
  機に投ずる猾士(ずるい男) 誉れを求めんと欲す
  人情 原(もと)好む 新奇の事
  世俗 争ひ伝ふ 猥褻の書
  名教 更に毫末の補ひ無し
  汗牛充棟 遂に如何

 「唯射利」は作者、国分青厓(こくぶせいがい)が不良図書の氾濫、悪徳出版社の売らんかな主義に痛棒を加えたもので、その意味は次ぎである(参照、角川『日本漢詩鑑賞辞典』(猪口篤志)。

 ――― 文筆の弊害はいつになったら除かれるのだろう。著述のやっとできたと見れば誤植だらけ、組成乱造品ばかりだ。というのも、時流に乗って悪徳商人はただもうけることばかり考えるし、ずる賢い男は、これを機会と著者の名誉を獲得しようとするからである。世俗は争ってエロ本を買いあさる。道徳教育などは何の足しにもならない。こうして悪書はどんどん増えて、汗牛充棟の有様となる。この成り行きを一体どうしたらよいのだ。

 筆者は、漢詩・漢文は全くダメ、李白・杜甫、史記・三国志ぐらいしか浮かばない。しかし、明治人には普通のことらしく、旅に酒に興にのると漢詩を作った。夏目漱石の漢詩は有名、石川啄木も白楽天をヒントに短歌を作ったこともあるそう。日露戦争出征の乃木将軍「金州城下作」は知る人ぞ知る。また、東海散士『佳人之奇遇』挿入の詩は多くの明治青年が愛唱、物理学者の寺田寅彦も、自分も愛唱したと日記に綴っている。それほど、漢詩、漢文は昔の日本人共通の教養だったのだ。しかし、今は、勉強しないと読むだけでも難しい。したがって漢詩人も知らない。でも、詩人の名と同時代の人物をあげれば、少しは時代の空気が感じられるかなと思う。

 ところで『佳人之奇遇』挿入、人気の詩は国分青厓が代作したとも言われる。散士(柴四朗)と青厓は一緒にいた時期があり、ありそうな話だ。二人は山東直砥(一郎)が主宰した北門社で、山東の同志・友人の横尾東作から短い期間であるが英語を教わった。
 旧会津藩士・四朗と旧仙台藩士・青厓はともに戊辰の戦に敗れた側、新しい学問を身につけ世に出たいとの願望は同じ。物語を綴る散士の意をくみ、詩を創作し吟ずる青厓、二青年の熱い感情は想像できる。なお、横尾東作は以前取り上げたので、よければ次を。
 “戊辰戦争スネルと横尾東作(仙台藩士)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-58cc.html

 
               国分青厓

Photo 1857安政4年5月5日、宮城県遠田郡小塩村(田尻町小塩)、仙台藩士・盛久の家に生まれる。名は高胤、字は子美、青厓または太白山人と号す。幼名は横沢千賀之介、のち遠祖の国分姓に改めた。

 藩校・養賢堂の教授・国分平蔵に漢籍、落合直亮(落合直文の養父)に国学を学ぶ。
 1876明治9年、上京して司法省法学校第一期生となる。同期生は原敬陸羯南(くがかつなん)、福本日南ら。
 1879明治12年、国分は、薩摩藩出身の植村校長排斥運動の首謀者として原敬や陸羯南とともに退学させられた。俗に言う「学校賄征伐事件」で、寄宿舎の食べ物が貧弱なので学生たちがしばしば抗議。ある夜、勝手に食堂に集まってランプを灯して食べ騒いだ。関わった生徒一同は禁足となり保証人預けとなる。保証人の父兄らは生徒に帰校するよう言ったが、生徒らは納得しなかった。
 原敬は騒ぎに参加していなかったが生徒代表として校長、ついで大木司法卿にまで陳情した。しかし、生徒側の敗北となり、数人が退学、原敬も同罪で官費生から浪人生となった。
 後年、首相となった原敬の邸で、放逐と廃学の仲間が原邸で会合、国分青厓も参加して近況を語り昔を懐かしんだ。
 さて、退学した国分は「大阪朝野新聞」記者をしやがて陸羯南の「日本」新聞に移る。

 1889明治22年、陸羯南「日本」に入社するや評林欄に漢詩によって時事を風刺、青厓の「評林体」の詩は一躍有名になった。評林欄の内容は、政府、政界の腐敗や退廃を攻撃して国民の不幸を訴える一方、熱烈な忠君愛国的なこともあり、ことに日清・日露戦争では好戦意識をあおりたてた。
 1890明治23年、本多種竹、大江敬香とはかり森槐南(もりかいなん)を加えて星社を興した。詩「風雨華厳の瀑を観る歌」は副島蒼海(種臣・政治家)に激賞された。しかしその後、森槐南とは詩風、意見が合わず袂を分かち、一時詩壇から遠ざかる。
 1894明治27年、日清戦争がおこると陸軍大将山県有朋に従って清国に7ヶ月ほど滞在。その間、家族に手紙をださなかったばかりか、帰国しても新橋の宿・川長に一泊。翌日は銀座に出て、家族の心配をよそに日暮れにやっと帰宅という有様だった。大正に入ってから、田辺碧堂らに請われる形で詩壇に復帰する。

 1923大正12年、大東文化学院創立と共に招かれて教授となり漢詩文を講じた。
   学校は衆議院・貴族院の共賛により東京市麹町に建設。授業料の徴収は無し。卒業後、本科は漢文科中等教員無試験検定の資格、高等科は高等教員無試験検定の資格が得られた。
 かたわら、雅文会など様々な漢詩結社の指導にあたり、風雅の鼓吹に努め、雑誌『昭和詩文』を主宰するなど精力的に活動した。その詩は、「芳野懐古」などにみられるように国士的気風に富む。 「芳野懐古」は後醍醐天皇陵に参拝した折の作であるが、同様の「吉野に遊び南朝の古を懐う」といった題材は好まれ、「吉野三絶」などがある。
 1933昭和8年、土屋久泰(大東文化学院幹事)らと中国に旅行し、山海関に至り万里の長城に上がり大平原を眺望。
 1937昭和12年、漢詩界を代表して帝国芸術院会員に推される。
 1944昭和19年3月5日、病で死去。88歳。
  人となり、気骨に富み、詩才卓抜、作品の富める事わが国古今第一といえるが、詩集は『詩薫狐』が生前唯一のもの。没後、木下彪編集による『青厓詩存』二冊が刊行されたが、明治期の詩の多くは散逸している。

参考:  『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/  『日南集』福本日南1911東亜堂/  『最新官費貸費学校入学案内』受験研究者編輯部編1931白永社 
 

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2015年10月10日 (土)

出発点は新聞売り子・古本から星製薬創業、星一(福島県)

 江戸から明治になると士農工商の身分制度がくずれ、誰にも道が開けた感があるが、やはり財産も縁故も無い者には厳しい。せめて学問知識を身につけたいと意欲はあっても貧しいと高等の専門教育は受けられない。まして留学など思いもよらない。しかし、明治青年はあきらめない。身を粉にして働き学資を得、知恵も絞って志を遂げる。その代表の一人が実業家で政治家の星 一(ほしはじめ)である。

       星 一
 
 1873明治6年12月、石城郡錦村で生まれる。農家で豊かでない上に、父の星喜三太が政治に興味をもち、ことさら貧しかった。地域の学校を卒業するのもやっとの身だったが、星はアメリカへ行きさえすれば得るところがあるに違いないとの希望を抱いた。
 折しも磐城郡役所が、小学校教師を速成的に養成する必要から「授業生養成所」を設け、生徒を募集した。星も志願して半年後、優秀な成績で卒業すると、郡長に師範学校を薦められたが辞退。そして、養成所で得た80円を父親に見せ、志を話して許しを得ると上京した。

 1891明治24年、18歳で私立・東京商業学校に入学(別に官立の高等商業学校があった)校長は高橋健三)。高橋健三は明治の官僚、ジャーナリスト。のち第二次松方内閣書記官長に就任。
 星に郷里からの送金は少なく苦学のさなかでも、アメリカ行きを考えて日本固有の技芸を身につけようと生け花の懐古にも通った。星の努力と周到な準備に驚くが、この先もやみくもに突き進むばかりでなくよく考えて道をゆく。
 1894明治27年、21歳で卒業、父がアメリカ行きの資金にと300円送ってくれた。
  渡米前、日本を知るために3円50銭で古自転車、2円で東京神田の古本屋で一冊2銭3銭の本を買集め、古外套と麦わら帽子も買って旅支度をし、残った290余円は銀行へ預けた。
 星は2円だけもって自転車で東京を出発、品川、川崎、保土ヶ谷と東海道を、古本を売りつつ旅をしていた。途中、自転車が壊れたので古本を背負い、木賃宿、停車場、古寺などに寝、どうにか大阪に辿りついた。その夜、木賃宿の宿代を払ったところで貯えがつき、東京商業の校長だった高橋健三が主筆となっている大阪朝日新聞社を訪ねた。
 高橋に事情を話し、朝日新聞をもらい受けて梅田の停車場へ行き、毎日、もらった15部を呼び売りした。そんな星に高橋夫人も感心、新聞社に来る新刊紹介の読み残し300冊を与えるよう助言してくれた。星はその古本と行商品を仕入れた。さらに大阪商船会社への紹介状をもらい、自ら交渉して船賃は船中の労働を条件に無賃で乗船させてもらえることになった。
 神戸から汽船で九州の東海岸から鹿児島、琉球(沖縄)、長崎、門司と行商をすることができた。無銭旅行にも等しい旅を終え東京に戻ると、次は故郷の錦村へ帰り父母に別れを告げ、いよいよアメリカへ出発した。

 さて、アメリカ・サンフランシスコに到着したものの一文無しの星一、日本福音会を頼って奉公口を探した。そして、いろいろな店で皿洗い・窓拭き・床掃除などして働いた。しかし働くだけでで勉強する暇がないので、着の身着のままニューヨークへ行った。
 折しも真夏で避暑地のニーポート海岸が賑わっていたので、別荘の家僕などして働き150ドル稼いだ。その金をコロンビア大学授業料1年分として納め、経済学、統計学を学んだ。
 生活費を得るため日曜日だけ働ける家を探し下働きをしたが、そこの主婦の信用を得て家に置いて貰えることになった。こうして、1901明治34年、コロンビア大学を卒業することができた。

 卒業後、すぐに帰国せず、ニューヨークで日本語の週刊新聞〔日米週報〕と、英語の月刊雑誌〔ジャパン アンド アメリカ〕を発行した。雑誌の方はまもなく雑誌「英文週報」に合併される。日本の官庁の保護金をもらったが経営困難で、「日米週報」は帰国するとき手放した。
 この間、ヨーロッパ、アフリカのアレキサンダーやカイロにも行き、ナイル河を眺め平原の広さと河岸に木がないのに驚く――― 森林の無いということが、自然と協力をしないということになるのだ(星一『自国を知れ進歩と協力』)。また、在米中、同郷の野口英世後藤新平と知り合い親しくなる。

 1905明治38年帰国、暫く横浜のアメリカ人の仕事を手伝って生計をたてていたが、一年ほどして、ツテを求めて農商務省の嘱託となり外国の経済調査を行った。次ぎ、月賦で自転車を買い深川・本庄・上野・新橋の商店を見て歩き、いろいろ分析した結果、売薬業に発展の余地を見いだす。
 1906明治39年3月、初代韓国統監伊藤博文に随行、京城に三ヶ月滞在。各人の住宅地に一本なり日本なりの木を植えることが必要ではないかなどとの感想を抱いた。

 1908明治41年、福島県から衆議院議員に当選(桂内閣の時代)。東京小名木川に資本金400円で製薬所を設け、湿布薬イヒチオールを製造して成功、莫大な利益を得た。
 1911明治44年、資本金50万円で星製薬株式会社創業。西五反田に近代的な工場を建設して、株式の公募・衛生面・福利厚生重視など新しい経営を行い、大衆に的を絞った新聞広告を掲載する。宣伝文「クスリはホシ」は世間に広まった。
 1921大正10年、台湾にキナを造林(『キナに関する座談会速記録』昭和9年於台北鉄道ホテル)。南アメリカ原産のキナの樹皮からとれるキニーネは解熱剤で、マラリア病の特効薬。星は台湾でも事業をすすめ、南米ペルーに広大な薬草園をつくり、モルヒネ・コカイン・キニーネなどの製造に成功し「製薬王」といわれた。
 1922大正11年、星製薬商業学校(現・星薬科大学)を設立。

 1925大正14年、解剖学者小金井良精の次女せいと結婚。
   この年、阿片令違反で起訴される。台湾経営に腕を奮った後藤新平の政治資金の提供者だったこともあって、アヘン令違反で逮捕された。成功をねたむ同業者の嫉妬や政党間の争いから汚名を着せられ、2年にも及ぶ裁判で無罪となったものの大きな痛手をこうむった。

 1926大正15年、太平洋製薬設立。長男・親一(SF作家・星新一)生まれる。
 1946昭和21年、衆議院議員総選挙、3回目の当選。翌年、第一回参議院議員通常選挙全国区に民主党から出馬しトップ当選を果たした。
 1951昭和26年、星製薬は昭和20年の空襲で主力工場を破壊され、敗戦で海外拠点も失っていたが、星は再建を図っていた。しかし、ペルーへの日本人移民とコカイン栽培計画のため滞在していたロサンゼルスで客死。78歳。著書、多数あり。
 星製薬は息子の親一が継いだが経営は傾いてい、親一は会社を手放し、後にSF作家となる。 

    参考: 『民間学事典』1997三省堂/  『裸一巻から』1924実業之日本社/ 『星一とヘンリー・フォード』京谷大助1924更生閣/  愛知県壱万円以上実業家資産名鑑・大正拾壱年拾月現在』若越書院(富山県・新潟県・福岡県なども内容同じ、後半にそれぞれ各県の実業家名を掲載)

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2015年10月 3日 (土)

大正9年の国勢調査 と 統計学者・杉亨二

 今年2015年は国勢調査 第20回、インターネットでの回答も可能となった。折しも、否応なくマイナンバーの通知が届くことになっている。何だか見えない糸で絡めとられる気分だが、孫の世代はスマホと同じく、マイナンバーが日常の当り前になりそう。
 国勢調査は1920大正9年10月1日、第一回調査が実施された。以後10年毎とその中間、西暦年数の下一桁が〇の年に大規模調査(本調査)、五の年に簡易調査が行われている。第一回国政調査が実施された日は全国的な荒天だった。たまたま今年の調査日も、猛烈低気圧による暴風雨が全国的に吹き荒れた。

    1920大正9年10月1日、第一回国勢調査

【総人口7698万8379人、内地人口5596万3053人、外地人口2012万5326人】
 “外地人口”に一瞬ウン? そう、日本が領有していたカラフト・台湾・朝鮮のことだ。昭和になると満州・南洋が加わる。植民地を獲得して拡がりすぎた日本は遠くなったような、そうでもないような・・・・・・ともかく、世界第一次大戦にも勝利し一等国を目指したていた時の初国勢調査、する側される側、どんなだったろう。
 近代デジタルライブラリーには、800を超す国勢調査関係本や報告類、国政調査員を褒賞する写真帖・記念帖に名簿もある。調査員は地方の名士を選んだらしい。

 「国勢調査に混じらぬ人は死んだお方か影法師」
 「この調査に洩れては国民の恥です」
これは日本で初めて国勢調査が実施されたとき宣伝のため用いられた標語であるが、ほかに歌も作られた。

 ――― 調査の事柄は誰の前で言っても差し支えない事柄でありますから正直に正確に申し出でて貰いたい。噛んで含めるように説き廻ったが、それでも未だ十分でないので、歌を作って謡い聴かせた。その一つに
    ゆふべ来られた花嫁さまも 籍になくとも妻と書く

 ――― 調査するという定日には、なるべく遠方へ旅行しないように、もしやむを得ず旅行するならばその旨を届けるように、その調査は旅行先でも親類でも何処でも構わず・・・・・・今まで日陰者の取扱を受けて役場の帳簿に載っていなかった内縁の妻・・・・・・長きは10年も15年も内縁の妻で済ませてきた人達の戸籍が、急に天下晴れての本妻に据わるという訳だ。今迄の私生児が立派に庶子と認定されたり、又は俄か拵えの結婚届が戸籍係の前に山と積まれるようになった。
                (『面白い日本歴史のお話』中村徳五郎1922石塚松雲堂)   
 (引用文に今では使わない言葉があるが、時代を写すとしてそのまま引用)

 国勢調査は、1902明治35年すでに法律化されていたが、すぐ実施されなかったのは、日露戦争の戦費調達のため無期延期となったからである。また、「国勢調査に関する法律」が整うまで長い時間がかかったが、早くからその必要性を説いて止まなかったのが杉亨二(すぎ こうじ)である。自叙伝を中心に生涯をみてみる。

       杉 亨二

 1828文政11年 長崎の唐人屋敷の近くで生れる。幼名、純道。
 早く両親を喪い祖父・杉敬輔がいたが貧しかった。祖父は医師で少し算術を教えてい、その弟子たちが杉の面倒をみてくれた。
 天保の飢饉のときは、飢え死にする者があって子ども心にも恐ろしかった。大阪では大塩平八郎の乱がおき、大塩は窮民を救ったと評判が高かった。そのころ、公議の時計師・上野俊之丞に預けられた。こき使われたても親のない悲しさ絶えるしかなかった。
 上野時計店では時計だけでなく西洋の細工物を作っていたこともあり、大阪の緒方洪庵と懇意で、緒方の弟子たちが上野家に寄寓していた。杉少年は、彼らの用足しをしてやる代わりに夜間に論語や孟子の素読をしてもらった。
 やがて緒方と懇意の村田徹斉が大村(長崎県)に帰って医者をするから、手伝えば学問をさせるというので大村へついていった。しかし、働くばかりで学問ができず4年ほどしてやめて、大阪の緒方洪庵の塾に入った。所が学資がなく夜は町に出て按摩をするなどがんばったが脚気になり緒方塾をやめた。行き所がなく再び大村藩の村田徹斉の所に戻り手伝ううち村田が江戸詰になった。それで供をして江戸に出、いろいろツテを頼り写本、翻訳の手伝いをするなどして学資を貯めると、杉田玄白の孫・杉田成卿の塾に入った。ここでよく学ぶことができ、翻訳の力もつけた。

 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが来航して大騒ぎ。この後、武蔵国(おし)の奥平氏に仕え、月二両と家を与えられ蘭学を教授したが不快なことがあってやめ、そのころ出会った勝海舟の世話になる。
 杉はせっかく職についても自分の志や考えと違うと辞めてしまい新たな道を探す。勝海舟の元に行ったのも勝に会い、自分はこれこれの人間だと訴えて置いてもらえた。他にもこうした話はあり、当時の青年は刻苦勉励よくがんばるが、それを受け入れ後進を育てる懐の深い大きい人間がいたのだ。

 1860万延元年、幕府の蕃書調所に出仕、32歳。ここでさまざまな欧米の書籍を読み、統計書を知り驚く。そして日本にも必要であることを痛感、統計の勉強を志した。

 1868慶応4年、徳川家は駿河に移住。幕府に出仕していた杉も静岡に移住。
 1869明治2年、戊辰戦争終結。静岡地方で自ら街頭に出て統計調査し「政表」(統計表)をつくる。静岡では清水次郎長に開墾を勧めたり、沼津兵学校でフランス語を教えた。

 1870明治3年7月、明治政府に出仕。「奴隷廃止・四民互いに婚姻を許すこと・土下座を廃すること」を上申。
 1871明治4年、政表の取調を命ぜられ、翌5年わが国最初の統計年鑑「辛未政表」を編纂。
 1873明治6年、国勢調査の必要(一つの「国」全域にわたるセンサスの実施)を上申

 1879明治12年、山梨県でわが国最初の近代的な人口調査を実施。
 1881明治14年、統計院設置。杉は山梨県「甲斐国人別調」を作成。
 1883明治16年、陸軍用地を借り共立統計学校を新築して生徒を募集、2年で廃校。
 1885明治18年12月、統計院廃止となり統計局となり辞める。57歳。
 1903明治36年、国勢調査準備委員会が設置され、委員となる。
 1910明治43年5月27日、国勢調査準備委員会委員
 1913大正2年6月13日、国勢調査準備委員会官制廃止、
 1917大正6年、没。89歳。
   
   参考:  『杉亨二自叙伝』1918杉八郎/ 『国勢調査 日本社会の百年』佐藤正広2015岩波現代全書/ 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『近代日本総合年表』岩波書店/  

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