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2015年10月31日 (土)

博文館*私立大橋図書館、大橋佐平・大橋新太郎(新潟県)

 先日、図書館好きと話をしていて、閉架と開架どっちがいいかになった。開架の本は手に取れるが、古くなると廃棄される。閉架は目につかないが資料として保存される。今は図書館に行かなくてもインターネットで蔵書検索できるが、立ち読みできない。楽しい立ち読みも書店では遠慮がちにだが、図書館は制限無し、閉架書庫だとなおうれしい。
 だいぶ前、江戸博の展示ガイドボランティアを数年していた。ガイド終了後、閉架書庫に入るのが楽しみだったが、ある時からボランティアはお出入り禁止になった。閉架書庫に入れるなら、未だボランティアしてたかもって思うことがある。
 ところで、昔はお金がないと本を読むにも一苦労。借覧料が必要だったり、知り合いでない個人の蔵書は情報がなく本の存在が判りにくかった。明治期、公立図書館ができたが少ない。そういう時に私立図書館を開設したのが大橋佐平と大橋新太郎父子である。

      大橋佐平
              1835天保6年12月~1901明治34年11月

 越後国古志郡(新潟県長岡市)の材木商渡辺又七の次男に生まれる。1860万延元年、上村松子と結婚、1863文久3年、絶家となっていた大橋家を継いだ。
 1869明治2年、新潟県に奉職、長岡郵便局長、信濃川の渡船経営。渡船賃で少なからぬ収入があった。維新後、さびれてしまった長岡の復興に努力した。
 1879明治12年、長岡出版会社を設立し『北越雑誌』を創刊、また「北越新聞」(主筆・草間時福)を発行したが意見が合わず廃刊。次いで『越佐毎日新聞』を創刊したが、同17年筆禍により下獄。
 1886明治19年、家族を連れて上京

 1887明治20年6月、東京本郷の自宅に出版社・博文館を創業。最初の企画『日本大家論集』を創刊、初めのうちは風呂敷に包んで方々へ売って歩いた。出版は成功し、さらに「日本之・・・・・・」と名づけた雑誌、『婦女雑誌』『学生筆戦場』『明治文庫』など次々と出版、好評を博した。これに経営に企画力のある新太郎が加わり博文館はますます発展した。
 1893明治26年3月から10月まで欧米を巡遊、アメリカではクリーブランド大統領に謁見、ワシントンの新聞『イブニングスター』が、日本国第一の書籍雑誌発行所だと紹介。佐平を、眼光鋭く、口元は締まり、一見して意志に強き人だと書き立てた。

 1901明治34年11月3日、多くの嫡子・庶子に恵まれ、胃癌のため67歳で死去。
 ――― 金銭の成功は岩崎、三井に及ばずと雖も、社会に得たる利益はこれを社会に報いざるべからずと志願、図書館を設立して社会に寄与せしめたりき・・・・・・彼は永く日本における最も大なる寄付者の一人たるを失わざるべし
       (『樗牛全集:史論及史伝』高山林次郎1923博文館)

      大橋新太郎
               1863文久3年~1944昭和19年

 1863文久3年、大橋佐平の長男として長岡で生まれる。
          父が創立に関与した長岡洋学校、新潟師範学校講習所で学ぶ。
 1876明治9年、上京して中村敬宇の同人社に入る。後年、中村敬宇(正直)翻訳『西国立志編』の版権を譲り受けて刊行し、廉価で売りひろめた。
 1878明治11年、15歳。長岡に帰郷し、『越佐毎日新聞』を手伝う。
 1888明治21年、上京して博文館の経営を担当、『少年世界』『文芸倶楽部』など多種の雑誌を創刊。薄利多売や日記帳の発行により成功する。
 1894明治27~28年の日清戦争後、高山樗牛を主筆にして発刊した雑誌『太陽』の成功で、明治時代最大の出版社となった。
 1897明治30年、博文館印刷所を設立。
 1901明治34年、父佐平が死去、社長となる。この年、父が準備していた日本初の私立図書館である大橋図書館を設立。またこれ以後、日本書籍(教科書出版会社)、東京堂(書籍取次)、博進社用紙店など一大出版王国を築いた。
 1902明治35年、衆議院議員選挙に出馬、鳩山和夫をぬいて第1位で当選。
 1918大正7年、社長を辞し、東京瓦斯・東京電灯・第一生命・日本鋼管・王子製紙・三井信託・朝鮮興業など70数社の重役となり、「重役業者」と呼ばれた。
 1921大正10年、英米訪問実業団を組織し欧米各国を巡遊、視察。
 1923大正12年9月1日、関東大震災で自邸、図書館も焼失したが、やがて再興。
 1926大正15年~1944昭和19年、貴族院議員

  明治中期から大正にかけて博文館の名声は隆々たるものであったが、重役業に転向したせいか博文館は不振となり、野間清治の講談社が頭角を現して来、多年発行の雑誌は一つ一つ廃刊となっていった。
  尾崎紅葉『金色夜叉』の金貸し富山のモデルと言われるのは、ケチン坊という世評のせいなのだろうか。巨資を投じて図書館を建設したり慶應義塾のために広大な野球場を建設して寄付したりしているが、自分と縁のない方面にはしなかったからか。エピソードが豊富な人物で、将棋好きで誰彼となく指しては夢中になっていたなどもある。
 1944昭和19年5月5日、死去。82歳。

           大橋図書館

 1901明治34年1月、大橋佐平は、博文館創立15周年を記念し念願の
「内外古今の図書を蒐集し広く世人に閲覧せしめ公衆の便益に供する」ため私立図書館の設立を具体化。早くから和漢洋の書籍を集め、館の経営を石黒忠悳上田万年田中稲城(帝国図書館長)に委嘱して麹町の自邸敷地内に図書館を起工したが、間もなく死去した。

 1902明治35年、父の跡を継いだ新太郎が図書館館を創立。6月、閲覧を開始。以後、大橋家、坪谷善四郎、博文館関係者、安田善次郎を中心として館の充実を図った。
 1911明治44年、館外貸出。翌年からは夜間開館も実施。

 1917大正6年、坪谷善四郎が第二代館長となる。毎日の閲覧者は400人にもなった。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。大橋図書館は本館建物と蔵書88,300余冊が灰燼に帰してしまった。その後、全国から図書の寄贈や寄付を受けて九段下、飯田町に新築開する。閲覧者も増え書庫も増築、やがて全国一の私立公衆図書館に発展した。
 この戦争中にも被災しなかったが戦後の1949昭和24年館の建物は譲渡され、同28年解散。1957昭和32年、大橋図書館の蔵書は、港区芝公園の三康図書館に引き継がれた。

     参考: 『明治時代史大辞典』吉川弘文館、『コンサイス学習人名事典』三省堂。  近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ より以下、『流芳後世:長岡の人々』1942長岡市、 『四十五年記者生活』松井公吉1929博文館、 『財界巨星二十人伝』1937人物評論社

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