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2015年11月

2015年11月28日 (土)

明治の西洋木版・東京美術学校フランス語教師、合田清

 世の中には大小さまざまな催し物があり、審査をして表彰するものもある。スポーツのように優劣が見えにくい文化・芸術分野では審査が重要である。先だっては、一旦決まった2020年の東京オリンピックのエンブレムが取り消されたばかりか不名誉は審査委員にも及んだ。いろいろよくなかったと思うが、仕組みにも問題があったのではないか。公平なやり方で良い作品・立派な人を選び出すのは難しい。そのためには技能に加え心ある審査員が必要と思う。
 明治期にも国内外で博覧会が催され審査官が選ばれた。全国勧業博覧会には「審査官列伝」などというもがある。その列伝で合田清に目がいった。実は、明治期の印刷業に関してで「合田清の西洋木版が活版印刷の挿絵に利用された」を読んだばかりだったから。
 そしてその時、昔の本は絵や写真のページが独立していたのを思い出し、その訳は印刷が別々だったからと気付いた。絵と活字のページは製本のさい挟み込んでいたのだろう。今はこんなブログでさえ文字と写真を並べるのは簡単、技術の進歩はすごい。ただ、表現が技術の進歩に追いついているのかどうか。

       合田 清

  1862文久2年5月7日、父は幕府の旗本田島氏。江戸赤坂で生まれる。幼いころから物事に綿密で何事にも熱心だった。
Photo 1880明治13年、儒家・合田錦園の家に入り和漢学を修める。ところが、明治の世となり新しい事に目が向くと、儒学で一家をなすには数年の修学では目的を達せられないと学問に熱が入らなくなった。それより世に求められるような業務につきたいと考えた。その折しも実兄・田島應親がフランス公使館付きとなり渡仏することになった。清は兄に自分もフランスに行きたいと相談すると兄も喜んでくれた。

 同年五月、兄とともにフランス留学のため横浜を出航。留学の名目は農学研究だったらしい。資料によっては農学研究に留学したが、美術の道に進んだとある。ともあれ、清はパリでフランス語を学んだ。言葉ができなければ教えが理解できない。やがて日常会話に不自由がなくなるとベルサイユに移り、さらに語学と美術を学んだ。

 1881明治14年4月、パリに戻る。パリの清は「吾が生涯の業は何を営まん」あれこれ思い巡らし「巴里は世界第一の華美を好める地にしてヨーロッパ全州の流行はこのパリより及ぶと言える程なれば事に美術品を尊べり・・・・・・必ず美術の中に何か得意の技を学ばん」。
 そして写真木版の技に心を留め学びたいと考え、兄と同宿の留学生で画家・山本芳翠にも相談した。山本は清の決心を聞くと、当時パリで評判の「バルバン工房」彫刻学校で小口木版(木版彫刻)を学ぶよう薦めた。 

  山本芳翠は美濃(岐阜県)の人。洋画家ではじめ京都で南画を修業、のち工部美術学校に入学しファンタネージの指導を受けフランスに留学していた。パリでジェロームに師事するかたわらルーブル美術館に通って模写に打ち込むなどして、フランスに3年いて帰国し、日本で合田清とともに彫刻の工房を立ち上げる。

 さて、清は山本に勧められたバルバンに弟子入りして技を習う一方、画学専門夜学校主のバーニスについて絵を習った。なお、フランス語をアルカンボーに学んだ。
 1885明治18年5月、パリで開かれた美術展覧会に木版画を出品して認められる。作品は画家モンバールが描いた景色の密画を彫刻したもの。10月、ベルギー・アンヴェルス万国博覧会を見学し暫く当地に留まり美術を研究して12月パリに戻った。

 1886明治19年2月、バルバン工房を卒業。ある日、著名な彫刻師チリャの作品を目にして「稀なる彫刻かな、上には上がある」と感嘆、その刀風を慕いついにチリャの工房に入り通学した。その合間に他の彫刻家の工房や堀り方を見学して歩いた。
  3月、日本の文部省から上野の教育博物館に陳列するため、西洋木版の順序を示す図画を彫刻し、又その技術に用いる諸機械を購入するよう命令があり、清はそれらを取り纏めて日本に送った。
  5月、木版画をパリの美術展覧会に出品し前回に勝る賞賛を受けた。作品は画家・エミル・アダムの農夫が家に帰る図を彫刻したもの。

 1887明治20年4月、チリャのもとを辞す。5月、パリ「モンド・イリュストレー新聞社」から日本特別通信員を嘱託され挿絵彫刻者となる。清は日本ではまだこの技術を得た者は一人もいないから帰朝してこの技術を広めたく思い7月、帰国の途についた。帰国後は文部省の嘱託を受けて高等読本・教科書の挿絵彫刻に従事した。
 1888明治21年3月、芝区桜田本郷町14番地に山本芳翠と木版彫刻所を開いた。「生巧館」と称し、小口彫(西洋木版彫刻)を教え、かたわら彫刻の依頼に応じた。開業をはじめてすぐから盛況で徒弟も20人余り。「絵入朝野新聞」の挿絵は清の彫刻で、黄楊(つげ)の小口に彫刻する西洋木版が活版の挿絵に利用されたのである。
 1890明治23年4月、生巧館を赤坂溜池に移す。
 1896明治29年、東京美術学校(東京藝術大学美術学部)フランス語講師
 1899明治32年8月、臨時博覧会鑑査官となる。12月、東京美術学校教授を辞す。
 1900明治33年2月、パリ万国博覧会出品連合協会委員としてフランスに渡航、教育部主任として監督した。なお、博覧会に自分も木版画を出品した。
 1901明治34年3月、フランスから帰国。再び東京美術学校フランス語教授。
 1903明治36年、第5回内国勧業博覧会審査官。当時の住所・東京市麹町区平河町6丁目14番地
 1938昭和13年、死去。76歳。

  合田清の西洋木版のつぎに網目写真版が用いられ製版の容易さと写実性で画像印刷と速報性を両立させ、日清戦争報道での印刷の盛行をもたらした。それから120年余、技術の進歩と共に情報量は物凄いことになって世はまさに情報の海。
 なお、山本芳翠は1906明治39年死去。合田清と法律研究のためパリ留学中だった黒田清輝(明治・大正期の洋画家)の美術への転向は山本の示唆によるといわれる。山本の後進育成、洋画界の振興に尽くした功績は大きい。

     参考: 『日本豪傑伝・実業立志』篠田正作1892偉業館/ 『第五回内国勧業博覧会審査官列伝・前編』1903金港堂/ 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 

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2015年11月21日 (土)

『横浜新誌』『伊賀国名勝図』編著、川井景一(岩手県)

 近ごろ外国からの観光客が増えて、有名観光地より日本人でも詳しくない地方や施設を見学するらしい。ネット社会だから来日前にいろいろ目星を付けやすそう。そうしたなかで忍者も人気らしい。忍者と言えば伊賀、たまたま『伊賀史の研究三十年』という本をみつけて目次をみたら、『横浜新誌』の著者についてが出ていた。伊賀と横浜、どんな関係がと思ったら『横浜新誌』著者が伊賀の地誌を出版していたのだ。その本が『伊州故事考』『伊賀国名勝図』で著者は、東京府平民・川井景一。
 ところで川井景一は、他の著作には岩手県平民とあり、明治後半は東京府士族としている。岩手県から上京して仕事や著作をしていたようだ。難しい文章を書き漢詩もできるのに経歴が判らない。岩手県のどこで生まれて誰に学問を教わったのか、なぜ地誌に興味を抱いたのかも分からない。著作からしか手がかりがないが気になって、分かる範囲で取り上げてみた。

      川井景一

 岩手県平民とあるので岩手県出身と考えられるが、岩手の何処でいつ生まれたか分からない。号は、杜陵迂人。晩年は浅草観音境内で、当時流行の「早取り写真師」として生活していたという。動物写真帖を出版している。

 1876明治9年5月、『関東八州地誌略・相模の部』 岩手県平民・川井景一編
   同6月、『続・神奈川県地誌略』川井景一著。*版権免許、神奈川県平民池田真七・高梨栄蔵。
   同8月、『神奈川県地誌略』編輯・製本所(神奈川県御用金港堂・原亮策)
   *版権免許: 明治政府は官許のない出版を禁じ1869明治二年、出版条例を制定、事前許可・納本義務・版権保護・出版禁止事項などを定めた。出版の届け出先は太政官から文部省へ、次いで内務省に移ると自由民権運動を警戒し罰則が厳格化する。

 1877明治10年 『小学作文捷径』上下巻、著
Photo   同3月、『横浜新誌』初編を刊行。当時評判の服部誠一の『東京繁昌記』の例にならった文明開化の横浜の風物誌である。開港後の横浜風俗の一端を写していて興味深い冊子というが、作者については当時もあまり知られていない。題字は、幕末・明治期の漢詩人、大沼沈山が寄せている。著作に著名人の名があるのは、この『横浜新誌』のみで、著者川井景一については判らないが、諸処方々へ赴き見物記でない詳しい地誌を記した人物として興味深い。なお、『明治文化全集・風続編』(日本評論社)に採録されてい、挿絵と文章で開港地横浜の賑わいが偲ばれる。写真は同所挿絵より。書肆(しょし書店)の店先。


 同5月、『浅草新誌』初編。岩手県平民、東京の住所・東京第五区十一小区馬道街七丁目十番地。売れなかったのか続編見当たらず。

   同6月、『成田繁昌記成田山新勝寺などいろいろ文章と絵で紹介している。数頁にわたる付録〔明治五年七月東京深川ニ於テ開帳奉納金講名表〕が興味深い
   ―――金五百円フカガワ内陣御畳講中・網屋平八・・・・・・から始まり、お終いは金二円五十銭・ホンジョ柳原四丁目講中。
 同8月『安房地誌略』 『上総地誌略』川井景一編

 1879明治12年6月 『房総地誌提要:小学諳記』岡本運広編・川井景一閲正 三省社発行。38頁足らずの和本で地図付、文字も読みやすい。小学校のテキストらしい。ちなみに奥付によれば、編者の岡本運広は群馬県士族。
 
 1887明治20年8月 内務省地誌課に奉職、地誌取調となり用務を帯びて三重県に出張。伊賀上野・津、両地に数年滞在したらしい。当時40歳くらいらしい。40歳とすれば幕末の弘化・嘉永はじめ生まれになる。
 伊賀の村名は解らないが戸長役場で川井に面会した小学校教員がいたと「伊賀史の研究三十年」(伊賀史談会1937)著者・佐々木弥四郎が書いているが、詳しい事は分からない。

 1888明治21年7月、公務の余暇に、『三国地誌』伊賀の部、また伊賀風土記・伊賀史・准后伊賀記・伊賀政事録録・伊賀名勝記・十楽庵記の6書を集め、増訂『伊山故事考』を出版。年末に伊賀を去って津に赴き一年くらいいたらしい。 なお、『伊山故事考』の収めた6書は徳川時代の偽作のようだが、当時は正真正銘の地誌材料と信じられていたという。
 川井は、伊賀を去るおり『伊賀国名勝図』を発行。名所旧跡の実景を図に写し、付録に伊賀滞在中に親しくなった学者文人から贈られた詩歌を掲載。

 1891明治24年2月『大和国町村誌集』全8巻 川井景一選編述。奈良県知事小牧昌業・題字。東京府平民・奈良県添上郡奈良町大字西城戸10番地寄留。
  同11月 『奈良県名勝志』川井景一(同奈良県)版権所有・川井希世。
 1895明治28年7月、『和州社寺大観』編輯兼発行。奈良町大字高畑二四二番地
 1897明治30年4月、『動物写真帖』川井竹・編輯発行、発行所・川井景一(東京市浅草区北清島町108番地)
 1898明治31年9月 『西洋美術資料』第一編~第六編
 1906明治39年(明治29・30.31・35・39年)、『国宝帖:美術写真』東京府士族・川井景一編集発行

 1912明治45年7月 『十二月帖』田中蓬煙筆・川井景一著作発行
 1913大正2年 『十六羅漢』東京府士族 著作兼発行者 川井景一(東京下谷区入谷町90番地) 印刷人・川井徳蔵 (同町同番地)
 この年の年齢を推測すると66歳くらいになる。

 川井景一の地誌は記された地域に残り、国会図書館デジタルライブラリーでも読めるのに、本人の生年月日や出生地などの記録が見つからない。事蹟があるのに分からないことばかりで、<歴史上の出来事も記録がなければ無かった事になる>と聞いたのを思い出した。

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2015年11月14日 (土)

明治の弁護士・特許弁理士、岩崎惣十郎&高橋順平(宮城県)

    【宮城県気仙沼市に、裁判官として赴任経験のある弁護士が今春、
    骨をうずめる覚悟で移住してきた。仙台弁護士会の原田卓(たかし)さん。
    「新人の気持ちで、街を歩き、問題を掘り起こしていきたい」と意欲を燃やす】
 〔希望新聞〕(毎日新聞2015.10.16)に“死ぬまで「気仙沼の弁護士」”という東京出身の弁護士さんの記事に心打れた。東日本大震災に加えて原発事故があった大熊町のように遠く離れた地(会津若松)に避難しないでも故郷に住めるが、大震災から4年半もたつのに復興未だし。そして冬を迎える。でも気概のある弁護士さんが移り住んだ気仙沼はいくらか寒さが和らぎそう。

 今から百年ほど前の『気仙沼案内』を開くと、気仙沼が早くから栄えていた様子がしのばれる。その案内に郷土の大文学者・歌人の落合直文の歌がのっている。
   遺つ祖のいさを思へは剣大刀 刃のかけたるもうれしかりけり
   此の秋のみのり如何にと夜も尚 夢に門田の畦めくるらむ

そして、気仙沼の弁護士事務所も掲載されている。
   (三日町) 石森弁護士事務所 石森多利之丞
   (八日町) 佐々木弁護士出張事務所 仙台・佐々木幸助
 ただ、名前が判ったが他の資料が見つからず、仙台の弁護士を探すことにした。明治生まれの宮城県出身弁護士といえば布施辰治が有名だが、http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-0920.html  今回は岩崎惣十郎と高橋順平にした。二人は筆者がイメージする弁護士像と少し異なるが、その経歴から明治の殖産興業の世が察せられるようで取り上げてみた。

         岩崎惣十郎
                  衆議院議員・弁護士

 1860万延元年2月5日、青葉城頭の広瀬川の畔、岩崎家に生まれる。
 1877明治10年、祖父・岩崎清が隠居し家督を継ぐ。藩校・麟経堂に入り、また藩儒・岡鹿門 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/05/post-de84.html
について漢学を修め、21歳で上京。
 1881明治14年、専修学校を卒業して明治法律学校(のち明治大学)入学、経済・法律を学ぶ。
 1882明治15年、判検事試験に及第、判事補に任ぜられ大阪裁判所に赴任。まもなく辞任し弁護士となる(この間、年次不詳)。
 1899明治32年、奥村靖一と共に発起人となり明治大学校友会・宮城県支部を設立。
 1908明治41年、<日本弁護士名簿>によれば仙台市地方裁判所所属弁護士43人。
            岩崎惣十郎・仙台市片平町60番地・電話446。
 1912明治45年、総選挙に仙台市から立候補、当選。
 1917大正6年、再び仙台市から立候補、当選。

   肩書き:衆議院議員・塩水港精糖株式会社七十七銀行仙台瓦斯株式会社大崎水電株式会社の監査役。弁護士。
 ――― 君は東北弁護士会、また東北政界の一雄将なり。いわんや攻法の余暇をぬすみ、今や実業に腐心して現に諸会社に関係し進んで東北振興を以て当面の急事なりと警醒しつつあるをや。君の如きは孰れの方面よりするも六県七州の代表的人物として推重せざるべからず(『大正人名辞典』1918東洋新報社)。

         高橋順平
                 弁護士・特許弁理士
 
 1872明治5年5月29日、宮城県遠田郡田尻町の高橋弥蔵の次男に生まれる。
 1893明治26年、上京して大日本水産会社水産講習所に入り、29年卒業。
 1896明治29年、日本法律学校に入学し法律経済学を学ぶ。
 1899明治32年6月、弁護士試験に合格、弁護士事務所を開設。水産上の事件に関係し名を得る。
       この年、特許・意匠または商標に関する特許代理業者が公認された(登録138名の殆どが弁護士、工学士など技術者は少数)。
 1903明治36年8月6日、特許弁理士登録: 東京市神田区錦町1丁目1番地Photo


 1906明治39年、金華山漁業株式会社を設立。

  ―――  金華山沖は本邦において著名の鯨族群来の処なるにより、近年捕鯨会社の創立多く、事務所を宮城県塩竈町に置けり。図は所有のアメリカ式捕鯨船金華山丸にして346屯余、明治40年5月進水、本年6月より捕鯨に従事し成績良好なり
  (『東宮行啓記念宮城県写真帖』1908宮城県)。

 1908明治41年5月、帆船海上保険株式会社を創立。また、海獣(ラッコ・オットセイ)の捕獲事業に着手。
 1909明治42年、特許代理業者は特許弁理士と改称される。のち「弁理士」に改称。
 1925大正14年、<日本弁護士名簿> 高橋順平(宮城)京橋区北槙町14 電話・銀座4743
  ――― 金華山漁業株式会社を設立し推されて之が取締役と為り、経営宜しきを得て今日の隆盛を見るに至れり・・・・・・吾人は由来消極的なる法曹界より君の如き積極的事業家の出でたるを快として措かざるなり(『大正人名辞典』1918東洋新報社)。

 余談:
 引用資料の漢字が読めず(該当する漢字が見当たらず)“ラッコ”“オットセイ”と判るまで苦労?した。それにしてもあの愛らしいラッコや大きなオットセイを捕獲してたとは・・・・・・。
  『気仙沼案内』(小山源蔵編1911富田本店)に掲載の落合直文の歌は、「案内」発行元の富田家幅からとある。それから11年後、内容一新『新気仙沼案内』が写真入りで上武川商店から発行されている。何がどうと言うのではないが、どちらも商店から発行されているのが面白い。大震災の被害から復興に励む市民の方だと昔懐かしいものに出会うかも。二冊とも近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/  で検索、読めます。

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2015年11月 7日 (土)

学術技量、詩文にすぐれた兄弟、大竹多気と松田学鴎 (福島県)

  ときにコメントを寄せてくださる方があり励みになっている。その方々も、幕末からこっちの歴史、ご自分で調べているかも知れない。近代の史資料には刊行されたものも多く、また明治・大正時代の書籍や雑誌、新聞なども探せばけっこうある。とはいえ、なかなか欲しい情報に辿りつけない。しかし資料漁り、意外に無駄にならない。目的物でなくても興味深い人物、事蹟に出会えることがあるから。いい学校・いい会社コース途上の人は別にして、好きで調べ物をしてる者は興味の赴くまま好きなだけ寄り道できる。
 ところが、明治維新後、会津人が勉学するのは容易ではなかった。賊軍とされた側にとり学問知識は生きる術、処世に必須だ。食うに事欠いても励まなければならない。その奮闘努力のさなか、もし兄弟がいれば励ましあえるだろう。会津の兄弟は山川浩・山川健次郎、柴四朗(東海散士)・柴五郎が有名だが、大竹多気(おおたけたけ)・松田 甲(学鴎)兄弟も活躍した。そして兄弟ともに詩文をよくした。

      大竹 多気 

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 1862文久2年10月7日、父は会津藩士・松田俊蔵。藩のエゾ地支配により一家で北海道に赴中、現在の北斗市で生まれた。多気は同じ藩士の大竹作右衛門の養子となる。養父は斗南藩会計係をつとめ、のち事業をし失敗するが、やがて回漕業で成功する。
 1873明治6年、上京。久留米藩主が創った有馬私学校に入る。同級生に内村鑑三
 1874明治7年、攻玉社(近藤真琴)、次いで工部寮小学部入学。攻玉社には弟松田甲や藩主の子松平容大も入る。主宰の近藤真琴とは卒業後も交流を続けた。

 1877明治10年4月、工部大学校入学、機械工学を学び明治16年卒業。工部学校時代は病気がちで、英語の本を読み、雑誌『少年園』へ寄稿など文学的活動をしていた。

 1883明治16年5月、千住製絨所の雇員となる。
  千住製絨所は明治政府が設立した官営模範事業の一。毛織物の振興と羅紗製製軍服生産のため明治12年東京足立区千住に建設、のち一般の需要に応じたが経営は赤字だった。

 1885明治18年、製絨所を管轄する農商務省からイギリスに派遣され、留学して染色法・機織法などの研究と機械類の買い付けであった。ヨークシャー大学ハンメル教授に科学及び色染技術を学んだ。大竹はそれらを学問的に学んだ最初の日本人といわれる。
 1889明治22年、帰国。日本の機織および色染の両方面を開拓した。当時の日本の染色技術は天然染料を主流としていたため、色落ちの問題を抱えていた。生糸生産国でありながら付加価値のある製品を輸出できなかった。そこで大竹は、学問的知識がなくても利用できる染料の分類方法を紹介し、合成染料を導入し発展に寄与した。
 1900明治33年、千住製絨所の技師に昇進。東京帝大や東京工業高等学校講師をつとめ、明治34年、工学博士の学位を授与された。
 1902明治35年4月、千住製絨所長。『自動織機』を著し後の開発に影響を与えた。
 1908明治41年、官制変更により工務長に降格。

 1910明治43年6月、東北帝国大学教授 兼 特許局技師米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の事務取扱を命ぜられる。この年、会津若松城を訪れ、和歌を詠んだ。

    そのかみの うらみも深く 紅のちしほ染め出す 城のもみぢ葉

 1911明治44年、米沢高等工業学校長 兼 特許局技師となる。大竹を初代校長に推挙したのは米沢出身で農商務大臣の経験がある*平田東助。米沢高工の図書館開設の際、大竹は蔵書、雑誌を多数寄贈する。
*平田東助   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/05/index.html

 1914大正3年6月、第八高等工業学校(桐生高等染織学校)の創立準備委員に任ぜられ、大正5年1月、初代校長となる。同校は群馬大学理工学部の前身で、大竹は最初の入学生34名を前に「艱難汝を璧にす」の言葉を贈り、覚悟を促した。しかし、病のため
 1918大正7年7月、在職中、自宅で死去。

  ―――(未だ56歳) 36カ年の久しき、本邦染織工業並びに染織工業教育のために尽瘁されたつ功績は偉大であった。日本の織物を学問的に研究した元祖であるが、先生は「メカ」の人にして同時に科学及び色染の人であったのです(中略) 先生は趣味として文学を愛せられ、詩に、和歌に、名文に於いてその道の士に認められた。先生、今や無し、月日は流れて十年、青山墓地にあぁ!!(「故工學博士大竹多氣先生」桐生高等工業学校色染会)。
 写真 『色染叢書・第11号』より。

      松田 甲 (学鴎)

 1864元治元年7月7日、生まれる。戊辰戦争後、多くの会津藩士とともに一家で下北半島の斗南に移住、次いで北海道に渡るも困難な生活が続いた。
 1878明治11年、兄、大竹多気の居る東京へ。
 1879明治12年、近藤真琴の攻玉社に入り測量学を学ぶ。攻玉社の友人に、日露戦争に出征し旅順港の閉塞作戦で戦死した広瀬武夫がいる。師の近藤真琴は旧鳥羽藩士、蘭学により測量・航海術を修得、幕府海軍操練所翻訳方・測量学教授の補助をつとめた。

 1882明治15年、参謀本部の測量技師となり、日清・日露戦争に従軍。おそらく、同じ参謀本部に属し清国差遣となった砲兵中尉の柴五郎と会津人同士、話もあっただろう。
 1890明治23年、漢詩結社「星社」に加わる。星社主宰の森槐南は常識あり政治力もある能吏。伊藤博文の殊遇を受けていたから良く言わない者、敵も多かったが、詩人としてすぐれていた詩壇の巨星。
 松田は、少年のころから漢詩の心得はあったが、職業柄各地の山川に触れるうちに詩情を動かされ熱中するようになった。明治30年代になると、複数の詩会に出入り、また「百花欄」などの詩雑誌に絶えず詩を寄せ、漢詩人としての地歩を固めた。

 1906明治39年日露戦争後、臨時測量部の測量主任として、台湾・朝鮮・満州などを踏査。
 1908明治41年、南清方面、翌年は蒙古方面に派遣されて実測に従った。
 1911明治44年、参謀本部を退き、朝鮮総督府臨時土地調査局監査官となる。

 1918大正7年4月、朝鮮総督府臨時土地調査局が解散となり、請われて朝鮮総督府逓信局の吏員養成所に迎えられた。この年7月、兄の大竹多気が死去。一時帰国して葬儀に出席したのか、のちに青山墓地に参ったかは判らない。
 1919大正8年、斎藤実朝鮮総督が京城に赴任。松田は斉藤の殊遇をうけ、いくつかの漢詩社の創設に関わり、自らも漢襟社を始めて後進の指導にあたった。
 朝鮮総督府吏員養成所では、修身・国語を教えた。
 1923大正12年、退官後も総督府嘱託となって文書課に勤務。この頃から、日鮮文化交流史に著述をはじめ、日本と朝鮮の融和に尽くした。

 1933昭和8年、古稀を迎えて退職。これまで続けてきた著述に精を傾けて過ごす。松田は、漢詩の他に和歌・俳句を嗜み書もできた。その著作、筆者に漢詩文は読めず『皆夢軒詩鈔』は無理なので、『日鮮詩話』を開くと、第一編のはじまりは、日鮮共栄〔徳川時代の朝鮮通信使〕。
 先だってのニュースに、日韓の人々が自転車で通信使の行程を辿るというのがあった。互いを知ることが融和の始まり。
 1945昭和20年7月17日、終戦目前に死去。81歳。

   松田の死後、長く勤務した参謀本部は廃止となり、同じ参謀本部に属した会津人柴五郎も敗戦4ヶ月後に死去。こうしてみると、二人とも物心ついたときは戊辰戦争、そしてまた第二次世界大戦の敗戦。この間に幾つもの戦争があった。しかし戦後70年戦争がなかった。この平和がいつまでも続きますように。

   参考: Wikipediaフリー百科事典「大竹多気」 / 『明治文学全集・第62巻』1983筑摩書房/ 『色染叢書・第11号』1927桐生高等工業学校色染会編/ 『日鮮詩話・第一編』1927朝鮮総督府

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