« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年12月

2015年12月26日 (土)

長崎海軍伝習所・宮古湾海戦・中央気象台長、荒井郁之助

         荒井郁之助

   荒井郁之助、名は顕徳。幕臣・荒井顕道の長男。
 父の荒井顕道は幕府代官で『牧民金鑑』の編纂者として知られる。
  『牧民金鑑』とは、代官執務の便として、江戸初期から嘉永(1848~1853)に至る地方(じかた)支配(農村における民政一般)の法令・先例・慣行・史実を集録したものである。
 
 1836天保7年4月29日、湯島天神下の組屋敷に生まれる。
 1850嘉永3年、昌平坂学問所(昌平黌)に入学。また、書道・剣術・弓術・馬術を習う。
 1855安政2年、幕府小十人組番士、百俵十人扶持となる。このころ蘭学を学ぶ。
 1857安政4年、軍艦繰練所・長崎海軍伝習所で航海術を習得。
 1858安政5年、海軍(軍艦)繰練所世話心得。その後、順動艦長。
 1861文久元年、小野友五郎らと江戸湾の海防測量をし、千秋丸に乗り小笠原島に航海
 1862文久2年、軍艦繰練所頭取。順道丸船長となり徳川慶喜松平春嶽など大官を、大阪まで送ったり軍機の運輸など果たす。
 1863文久3年、講武所取締役、歩兵頭となりフランス人に歩操術を学ぶ。
 1865慶応元年、歩兵指図役頭取。大鳥圭介とともに横浜でフランス式軍事伝習を受ける。
 1867慶応3年5月、歩兵頭並に昇進。

Photo


 1868慶応4年1月、軍艦頭を命じられ海軍職に復帰。
   戊辰戦争勃発により、海軍副総裁榎本武揚らとともに幕府の軍艦を率い、新政府下の江戸を脱出して箱館戦争に身を投じる。
 蝦夷地に赴くや徳川将軍家の血筋が来るまでの間、指揮者を定め組織を確立するため、アメリカ合衆国の例にならって士官以上の者の入れ札(投票)を行った。そして、総裁・榎本武揚(釜次郎)、副総裁・松平太郎、海軍奉行・荒井郁之助、陸軍奉行・大鳥圭介/並・土方歳三ほかを決定した。

   ――― 余は海軍を督して回天丸に乗り組み戦闘の準備と調練。その方法は、右舷の砲を左舷に据え、左舷の砲を右舷に据え敵に面する舷には左右両舷の砲を一舷に集めて其強力を倍する・・・・・・ 回天の目指して戦ふものは敵の甲鉄艦にして、50斤の砲弾を函館にて鋳造し、その弾頭を鋼鉄となし、甲鉄艦に試むる用意をなしたりき。

 1869明治2年3月、五稜郭榎本軍の司令官として軍艦回天丸に乗り、蟠龍高雄2艦を従え、新政府軍艦隊が集合する宮古湾に出撃。榎本軍は頼みの旗艦・開陽を悪天候で失い回天丸が榎本艦隊の中心であった。

   ――― 新政府軍の軍艦、甲鉄陽春春日丁卯であるが甲鉄は当時日本における精鋭第一の軍艦である。その四艦の撃滅と甲鉄艦奪取のため、回天丸艦長・甲賀源吾と荒井司令官は奇襲作戦を展開。
 回天丸は、宮古湾に浮かぶ新政府軍艦隊の真ん中に乗り入れると同時に四方の砲弾を発射しつつ甲鉄艦に近付いた。そして抜刀した兵が兵が乗り移り大乱闘になった。回天の兵は血まみれになって良く戦ったがついに敗退。戦いが激しくなり艦長の甲賀源吾が敵弾に斃れて戦死、死傷兵も多く、荒井はやむなく引きあげを決断、箱館湾に退いた。

  5月11日、新政府軍が箱館総攻撃を開始。湾上の回天丸も砲弾をあび航行不能となりやむなく上陸して五稜郭に入った。一週間後の18日、ついに力尽き降伏。榎本・松平・大鳥・荒井の四将は出でて政府軍の軍門に降り、戊辰戦争が終わった。降伏人一同は東京に護送され、糾問所の獄に入れられる。その場所は幕府時代に大鳥圭介とともに、毎日出勤して陸軍の事を処理していた大手前歩兵屯所であった。
 3年間の獄中、『英和対訳辞書』を編纂し出獄後刊行。

 1872明治5年1月7日、特赦により禁獄御免となり出獄。開拓使五等出仕を命ぜらる。
    (明治8年、内務省地理局が気象掛(東京気象台)をおき気象観測を開始する。)
 1876明治9年、開拓使仮学校(のち札幌農学校)・女学校、事実上の校長を勤める。
 1877明治10年、辞職して東京に帰る。
   「工業新報」刊行。「測量新書」などを翻訳。西洋の三角式により観測の基礎をつくる。
 1879明治12年、内務省に出仕、内務省測量課長となる。当時、日本人は気象学に通じていなかったの広めようとした。また、海軍の気象予測能力の不足を痛感。
 1882明治15年~測候所新設も進み、観測機関の中央機関として中央気象台設置し、日本の気象事業の基礎を築いた。『地理論略』ウァルレン著・荒井郁之助訳・文部省刊。
 1883明治16年、初代中央気象台長に就任。その後25年間も地理局に勤務して、わが国の地図の整備に努めた。
 1887明治20年、新潟県の永明寺山(現三条市)で皆既日食観察を行い、日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させた。
 1889明治22年、『海上危険ノ時油ヲ撒スルノ説』著す、出版者・菊沢清光。
 1890明治23年、標準時の制定を行う。
 1891明治24年、退官。

 1893明治26年、榎本武揚と浦賀に遊ぶ。そのおり、幕府時代にここに小規模の船渠(ドック)あり、西洋型の船を建造した話になった。そこで、同志と図り、浦賀船渠株式会社を創立することになり、監査役に就任。
 1897明治30年、退社し、悠々自適の生活をおくる。
 1909明治42年7月19日、糖尿病がもとで死去。74歳。姻戚の田辺太一(連舟)が漢文で墓碑銘を記す。
   荒井は海軍職であったが水泳が不得手で、また下戸だった。人となりは、口数少なく穏やかで謙虚。人が宮古海戦の猛襲を問うと、「あの時は何が何やらサッパリ判らぬほどの激戦であった」と答えるのみだった。
 荒井の激動の生涯を見渡して、日清・日露戦争中の動静を伝える資料がないのに気付いた。戊辰戦争を戦った人々のかなりが日清・日露のために外征した。しかし荒井は既に50歳半ば過ぎ、出征することはなかったろうが、内戦を経て次は外国と戦争、何か思う所はあっただろうか。

   参考:
  写真、“荒井郁之助Wikipedia”
 [宮古湾の海戦、『日本軍事史』『箱館戦争写真集』]
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/03/post-b6f8.html
『回天艦長 甲賀源吾伝・函館戦記』石橋絢彦1933甲賀源吾伝刊行会/ 『近世名将言行録』1935吉川弘文館/ 『幕府軍艦[回天』始末』吉村昭1990文藝春秋

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2015年12月19日 (土)

漢学者・照井小作(一宅)、聞達を求めず(岩手県)

Photo 東日本大震災がおきて5年、復興未だし。そのうえ原発事故に遭った地域では故郷に戻れない。海沿いの大熊町町民の多くが同じ福島県内でも遠く離れた山の方、会津若松に移り住み、小中学校の先生たちと子らを見守っている。
 でも、生徒は年々減っている。二つある小学校のうち大野小学校は避難当初204名だった生徒が4月からは20名以下になりそうという。他校も推して知るべしだが、心を寄せるしかできない。せめてもと、福島・宮城・岩手を中心に近代の人物を掘り起こすうち、東北地方は昔から多々「困難にあっては、打ち克ってきた」と知った。そしてそれは、今なお続いている。写真は大熊町のマスコット、おおちゃん

 力になれないまでも応援の気持ちで書きはじめところ、東北の明治人を知ることによって得たものが自分の為になってた。そうと気づいたら、なおさら「東北」が褒められるといい感じ。中央に出て活躍した人物を知るのも楽しみだし、実力がありながら敢えて郷里で出世や栄達(聞達)を求めず己の道をいく人物もまた好ましい。そういう人物は紹介甲斐もある。照井小作はその一人。

 ―――  西南には多智多識の人物輩出したれども、冷静の思索に長じ、堅実の創才に長じたる人物は、寧ろ反って東北より出でたり。例えば国防の予言者たる林子平氏の如き、開国の先見者たる髙野長英氏の如きは、西南地方に生まれずして、共に東北仙台の生まれ、特に近代第一の卓識家たる佐藤信淵、平田篤胤の二氏の如きも、東北の秋田に生まれたり。世間また大槻盤渓、那珂梧楼の二氏が東北近代の二大儒たるを知れども、盛岡の照井小作、弘前の工藤他山を知るもの殆ど罕(まれ) なり。この二氏は一生聞達を天下に求めずして、終に村夫子を以て自ら草莽に朽ちたりと雖も、その学術文章は決して時流に譲らず。
          (東北の人物『明治人物評論・続』*鳥谷部春汀・明治33年)
  *鳥谷部春汀: 明治のジャーナリスト。調査の行き届いた材料を基本に、情理を兼ね備えた人物評で好評。

     照井小作

 1819文政2年、盛岡藩士・照井小兵衛全秀の子として生まれた。本名全都、通称小作。号は一宅、ほかに蟷螂斎(とうろうさい)。
 父の小兵衛は、南部藩主南部利済(としただ)に 天保年間(1830~1843)仕えていた。財政のことに精通し、家老東中務に抜擢されて奈良宮司とともに勘定奉行を勤務した。その後、冤罪によって藩主の怒りをかい、録も家屋敷も取り上げられた。途方に暮れた一家は知り合いをたよって、岩手郡篠木村に移る。山間の地で、慣れない農業を営む暮らしは赤貧洗うが如しであっが、小作は父を手伝いながら、家に残っていた論語・孟子などの四書に親しんだ。
 時に父から教えられるのが楽しみだったが、父は重い胃腸病を患い、耕作が思うようにできなくなり癇癪をおこし機嫌が悪かった。それのみか、医者の注意もきかなかったので、小作は父をなだめつつ看病に励んだ。やがて、その甲斐あって、幸いにも父は全快し、小作に病中の看病を感謝した。
 小作は看病や農耕の合間にも読書は欠かさなかった。こうして睡眠を削って、四書を何百回も読み込み、論語について深く思索した。なお、はじめは中島預斎、ついで古沢温斎について学び、研鑽に努めた。

 1852嘉永5年、藩学・明義堂の助教兼侍読となり、漢学を教えた。
 1866慶応2年、藩学学制が改正され、明義堂の規模が拡張され名称も作人館となった。小作は引き続き助教を勤めた。
 貧苦と闘いながら築き上げた学問で藩に召されたのである。照井は初学者を戒めていう。
「古書を学ぶには、粉餅をこしらえる心持ちでなければならない。粉餅は粉に水を入れて、なんべんもかき回し、まま粉のないように融和しなければよい餅にならない。心の中で深く思い、広く考えて、一点の疑いの残らないまでに、根気よくかき回して、すっかり自分の心に融和せなければ自分の物ではない」。
小作は、学問における姿勢は注釈ではなく本文を熟思することを重視した。
 現代人は自分も含めて四書五経どころか漢文も読めないが、明治人は江戸の生まれで藩校や学問所に通い、孔子や孟子は身近で共通の教養だった。欧米文化の採り入れに躍起にだった明治初期さえ、漢詩文集が盛んに刊行され、読者も多かった。それを理解できるだけの下地があったから、文人や学者の仕事を理解できたのだ。

 ところで、作人館には那珂梧楼(なかごろう/江幡五郎)がいたが、照井について
「定見の確かさは金城鉄壁の如く抜くべからざる者がある」と嘆賞している。照井の経学、儒教の教えを説いた書を研究する学問は、真に千古に独歩する概があったと称される。那珂はかつて照井と同じく南部藩侯の侍講であったが、経学においては自ら照井の造詣に及ばないと称して常に兄事した。

 南部藩は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わり 十三万石に減封され白石に転国、藩校は廃止になった。

 1869明治2年7月、南部利恭が白石から旧地盛岡に復帰、再び藩校が再開された。
  同年11月2日、照井小作は作人館大助教となった。11月13日、盛岡藩権少参事となり、大参事の東次郎とともに藩政に参画した。

 1870明治3年7月、廃藩置県があり、小作は職を辞し南部利恭に従い東京に出た。
  晩年、郷里に戻り、古書の解註をおこなった。中年ごろから、狂歌や俳句、絵もたしなんだ。
 1881明治14年2月21日、死去。63歳。碑は盛岡市旧桜山にある。

   日本に亡命した中国人、清末・民国初期の学者・政治家の章炳麟(しょうへいりん)は小作の遺著を読んで、「照井全都ハ千四百紀以後ニ生マレ、独リ能ク高励長駕ス、ソノ微綸ヲ引キ既ニ沈マントスル九鼎ヲ釣リ而シテ之ヲ絶淵ニ出ス云々」と嘆賞している。

   参考:
      『郷土資料・修身科補充教材』1935岩手県教育会盛岡支部部会/『興亜あの礎石・近世尊皇興亜先覚者列伝』1944大政翼賛会岩手県支部/ 『南部叢書』1931南部叢書刊行会

   東北三陸の地域総合開発を説いた熱誠の人、小田為綱(岩手県) 
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/05/post-4a1b.html
   東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-fbfd.html
   盛岡市
    http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/007499.html 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2015年12月12日 (土)

登米県権知事、漢学者・鷲津毅堂(宮城県・愛知県)

 旅の雑誌をみていたら、旧登米警察庁舎(警察資料館)・旧登米高等尋常小学校(教育資料館)などの趣ある写真にそえられた「登米町は別名“みやぎの明治村”と呼ばれる。それだけ明治の貴重な建築物を多く残す町。風雪に耐えてきた建物は町の盛衰を語る思慮深い賢人のようにも映る」の言葉通り、明治の人々の思い・洋風建築へ興味をかきたてる。
 仙台藩が誕生して現在の登米市は仙台藩の一部となった。伊達政宗部将の子、白石宗直は政宗から伊達姓を賜り寺池城(旧*登米町/とよままち)に入り登米伊達氏の祖となる。
  *登米: 宮城県北部、登米郡の町名などで、延喜式で郡名を「とよね」以来、「とま」「とよね」「とめ」と変化したが、「とよま」が町名に残る。
 明治維新後、仙台藩は戊辰の敗戦により62万石から28万石に大幅に減封され、版籍奉還によって4つの県に分割された。まだ戊辰戦争の記憶が生々しいなか漢学者・鷲津毅堂が新政府から登米県権知事に任命され、任地へ向かう旅の記録「赴任日録」(尾張・鷲津宣光)を書いた。
 「赴任日録」を読むと、江戸から東京と改められた地から陸奥国陸前までは遠く、泊まりを重ねての旅はけっこう大変だと分かる。駕篭と歩きの旅だから大雨、山越えには大弱り。知事の任お供は数十人のご一行様、小さな宿場は通り越し先まで歩かないと食事にありつけない。でも現代のように飛行機で一っ飛びは無理なかわりに、土地土地の状況がよく判る。稲穂が実らず青ければ民の困窮が察せられ、何とか救荒したいと考えを廻らす。その間にも名所古跡にいたれば学者知事は筆をとり感慨を漢詩で表現する。

      鷲津毅堂 宣光)

 1825文政8年尾張国丹羽郡丹羽村、鷲津益斎の長男。本名・宣光。
  幼い頃より父の教えを受け経史百家に通じていたが、さらに師について学ぶ。
 1845弘化2年、20歳。遺命により伊勢の津藩有造館教授・猪飼敬所に学ぶ。次いで江戸に出て昌平黌で学ぶ。
 1853嘉永6年、上総久留米藩の儒員に招かれる。
 1854安政元年、江戸に出る。
 1865慶応元年、尾張藩主侍読。翌年、明倫堂教授。3年、督学となって学制改革に尽力した。毅堂は勤皇の志が厚く、幕末維新の多難な時期に微妙な立場にあった藩主慶勝を補翼し、藩の進むべき方向を示した。
 1868維新後、藩主徳川慶勝が議定官に任ぜられると家老の成瀬とともに補佐。政府に徴されて権弁官。

 1869明治2年、大学少丞。次いで登米県(現・宮城県)権知事に任命される。
  戊辰戦争が終わり奥羽が平定した9月21日、東京を出発して千住まで見送りを受ける。草加・越谷そして粕壁(春日部)泊まり。翌22~25日、杉戸・栗橋・古河・間田・小山・石橋・雀宮・宇都宮・白澤・喜連川・大田原・鍋懸・越堀に至る。
 9月26日、連日の雨でぬかるみ滑って転ぶ者あり難儀する。蘆野に至り道は平坦になり雨も止んだが、稲が青々として直立、収穫されていない。七八月の台風で傷つき稲穂が実っていない。二岩三陸みなそうだというし、若松は更に甚だしいと聞けば心配で何と言っていいかわからない。人民は如何にして食料を得るのだろうか。救荒はどうしたらよいだろう。駕篭の中で思い悩んでいると「白河の関」だと声をかけられた。外へ出て能因法師が詠んだの古跡を見、古関をしのんで一絶を賦した。清岡知事を訪問。深夜大雨となる。
 9月27日、従者、ぬかるみに苦しむ。大和久・白河以北の村落みな荒涼としている。須賀川泊まり。28日、連日の雨だったが久しぶりの晴天。みな喜んで進み郡山に到着。本宮で休憩。石巻から高崎藩士が続々引きあげるのに出会う。戊辰の戦ので石巻を鎮め たが知事交代のため引きあげで、また二本松の官軍の戦を記す。
 9月29日、小雨が降るが午後は晴れ。機織りの音が聞こえ、信夫文字摺の出所『東鑑』を思いながら、桑折に至り泊まる。
 9月末日、越河。これより北は仙台藩旧封城で今は白石県管内。険しい道を岩石がふさぐ磨鐙の坂を過ぎて白石に至る。白石の知事を訪問しようとしたがまだ着任していなかった。その夜突然、松本奎堂の親友、岡千仭(鹿門)が訪ねて来た。仙台藩論に逆らい獄にあったが解放され憔悴していたが、元気に朝まで議論するので往生した。
 10月1日、舟で槻木を廻る。岩沼澤で飯。翌日、*塩竃神社に参拝し、船で松島をみて古詩一編を賦した。2日、今市を過ぎる。宮城野の旧地。塩竃神社は昔、国主新旧交代の時は祈ったので、弊物を進上して祷り、松島で休憩し高城に到る。夜雨。
   *塩竃神社: “戊辰の戦後処理、塩竃神社宮司、遠藤允信(宮城県)”
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/02/post-4338.html


 3日、快晴。三浦。村吏数人迎えに来る。三本木川を渡って県内に入ると先発していた黒田権少屬、熊城史生が出迎えにきていた。今春、土浦藩主が鎮めたので土浦藩吏・奥田図書がきた。
    登米郡は土浦藩取締地を経て涌谷県となり、のち登米県→一関県→水沢県→磐井県と変遷する。
 4日、本県管轄:土浦藩鎮所(戊辰戦後、土浦藩が取締り)の遠田・志田・登米三郡
 8日、土浦藩吏が来て、遠田・志田・登米三郡版籍及び官舎府庫を登米県に収める。
 10日、三局の分掌(訴訟・戸口・租税・殖産・修繕・橋梁・堤防ほか)をきめる。また、藩からの支給がなくなり武士の多くが困窮してい、武士に業につけようとつとめた。帰農の際には老農の意見を採り入れたり、その他の就業方法をさぐるなど、登米県在任中、救荒策に腐心し民政に努力した。
 1870明治3年9月8日、石巻県廃され登米県に合併(太政官日誌)。毅堂は尾張藩からの徴士であったためか藩政改革により免官となった。
Photo
 1871明治4年7月、宣教判官。廃藩置県あり11月、3府72県に整備される。
 1872明治5年、権大法官五等判事。
 1876明治9年、旧仙台藩領は宮城県に編入。「仙台県」でなく「宮城県」と改められたのは、明治新政府が仙台藩の雄藩イメージを抹殺したためだといわれている。
 1881明治14年、東京学士院会員に列す。学者としての最高府。
 1882明治15年10月5日、58歳で東京下谷の自宅で死去。ちなみに、毅堂は、小説家・永井荷風の外祖父にあたる。



   写真: 『郷土勤皇事績展覧会図録』1938名古屋市立名古屋図書館編

   参考: 『有隣社と其学徒』1925一宮高等女学校校友会編/ 『明治文化全集』明治文化研究会1969日本評論社/ 『毅堂集』1880鷲津宣光/ 『コンサイス日本人名事典』・『コンサイス日本地名事典』三省堂

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2015年12月 5日 (土)

ルビ付記者の活躍、磯村春子 (福島県相馬)

 「華やかな着物姿のアメリカ太平洋艦隊-艦長・将校夫人たち14人と日本女性一人」
1908明治41年9月26日東京の三越呉服店撮影の写真が、横浜開港資料館<館報「開港のひろば」102号展示余話> http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/102/03.html に掲載されてる。日本人は新聞記者・磯村春子、展示余話には春子と子どもの写真もある。
 明治41年と言えば日露戦争の勝利から3年の男社会、女性が表舞台に登場しただけで騒がれるような世相である。そういう状況で8人の子を産み育て記者を10年も務めたというから頭が下がる。筆者は知らなかったがNHKドラマ1986「はね駒」モデル女性という。その一生を垣間見るに面白いドラマだったにちがいない。

         磯村春子

 1877明治10年、福島県相馬郡中村町(相馬市)生まれ。小泉伊助とカツの長女。
 ◎ 宮城女学校(キリスト教主義の女子教育機関・宮城学院)に入学、寄宿舎生活をおくる。卒業後、母校で教鞭をとった。
 ◎ 実業家磯村源透と結婚、そして上京。女子大学(東京女子大学英文科)で学び、女子英学塾(津田塾大学)津田梅子にも師事した。
 1903明治36年、長男英一生まれる。

 1905明治38年、報知新聞に入社、記者になる。同社には、後に日本最初の婦人記者といわれる羽仁もと子が校正係として入社していた。春子の初仕事は、横浜港外に停泊の汽船の甲板上でイギリスから帰国した林董夫人のインタビュー

 ――― 交際界に名だたる大使夫人の帰朝とて、なからず心おくれしたが、勇を鼓して先ず刺(名刺)を通じた。然るに何事ぞ、受付は夫人へは伝えもせずにちょうど物貰(ものもらい)でもあるやうに、追い帰そうとするのではありませんか。
 私は、この時夢から醒めたやうな気がした。と同時に、新聞記者といふ職業を、初めて覚つたのである。世間から継子扱ひされる異分子ではない筈だ。どの集まりへも、入る事が出来て、同じ楽しみを擅(ほしいまま)にする事が出来ると共に、それを指導し、それを拡大し、並びにそれに光輝あらしめ得るのであると切に思われた。

 1908明治41年、春子は英語が堪能であったから外国人との接触が多かった。艦隊が横浜に到着した当日、旗艦コネチカットでスペリー司令長官と握手したこと、艦隊に同行するニューヨーク・サン紙記者との交流、旗艦ルイジアナ号を訪問し、水兵たちと歓談したなど。それらを「婦人記者の十年」で回想している。

 取材先にしばしば子どもを連れていき、当時の新聞は*ルビ付だったので、「子連れ」をもじって「ルビ付記者」と呼ばれた。家には女中がいたようだが、連れて行かなければならないときもあったのだろう。何があろうと子どもを放っておけない。
    *ルビ: ruby ふりがな用の小活字。

 1910明治43年9月8日、*山田猪三郎が開発した日本製飛行船の浮揚実験に同乗。
  *山田猪三郎:和歌山。気球・飛行船の先駆者で日露戦争で陸軍が旅順偵察用に使用。

 ――― 婦人の新聞記者で大立者と謂つぱ、先づ指を報知新聞の磯村春子夫人に屈すべく、次では時事新報の大沢豊子・下山京子、萬朝報の服部桂子、二六新聞の中野初子・山内藤子等を数ふべし・・・・・・もし夫れ最も畏敬すべき磯村春子に至つては、家に春秋の愛子三人あれど、新聞記者が好きで堪らず、外国人の訪問には何時も御姿を拝せぬとい云ふ事なし。日本の女は人形のように美しかるべきを想望して、はるばる渡来した外賓も、着港第一番に接する女子の風貌の、極めて男性的なるに、吃驚仰天せざるは無しとぞ。磯村春子を有する東京の新聞紙界は、以て誇りとすべき哉(『東京の女』松崎天民1910隆文館)。

 1912大正1年、『最新家庭のあみもの』実業之日本社刊。
 1913大正2年、『今の女』出版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951262/139?tocOpened=1
   目次:美人論・宗教心の乏しい女・夫が奮闘の首途・同級会の圧迫・産婆の見た家庭・展覧会は考へもの・探偵長の家庭・夫の命・素人と商売人・忘れ片見・美顔術師の店・事務服姿・歌劇役者の悶え・看護婦の立場・茶の湯の師匠・夢想女・鉱山師の妻・若き母・ホテルの主婦・俳優の妻・現金主義・歯科医の応接室・絵師の妻・発明家の二十年・婦人待合室・社会の裏口・誘惑・万年町の夕・落伍者・電車の客・目白台の婦人部落・女優部屋、付録・婦人記者十年。

 1915大正4年、「やまと新聞」明治~昭和に発行された政府・右翼系の日刊紙に移籍。やまと新聞は円朝の落語・講談速記を連載するなど娯楽趣味の紙面づくりが受けた。

 以後、春子は日本近代小説の英訳を志したが、完成したか分からない。この女性の翻訳なら欧米人に近代日本の感性をうまく伝えられたのではないかと思われ、その若い死が惜しまれる。
 1918大正7年、病を得て41歳で死去。長男磯村英一、のちの社会学者もまだ中学生であった。夫、磯村源透の記録は見当たらなかった。

          ********** **********

    <余 談>

 2015年12月、トルコとロシア間の緊張がニュースになっている。いろいろあって今トルコに世界の目が向けられている。そのトルコは親日的、そのきっかけとなった物語が【海難1890】という映画になて公開されている。1890年の海難事故と1985年のテヘラン邦人救出劇、奇蹟の実話という広告に、数年前に書いた記事を思いだし引っ張り出してみた。

“トルコ金閣湾で釣り、谷干城と柴四朗” 2010.3.16
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/03/post-4cc2.html
 “赤い羽根、エルトゥールル号義援金/エルトゥールル号の悲劇”2009.10.4
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2009/10/index.html
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2009/10/post-b138.html#more

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »