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2016年1月

2016年1月30日 (土)

小学唱歌・音楽教育と吃音教育の先達、伊沢修二 (長野県)

  てふてふてふてふ なのはにとまれ  なのはにあいたら さくらにとまれ
  さくらのはなの さかゆるみよに    とまれよあそべ あそべよとまれ 
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 この歌は享保ごろの童謡より取れり・・・・・・歌趣は例の勤励にて、蝶蝶よ止まるならば菜の葉にとまれ、然れども性として物に好悪あれば飽きたら、それより香しき桜にとまれといひて、児童の勧学を諭し・・・・・・桜の咲くと栄ゆるを懸けて御代を頌揚
  (『小学唱歌集評釈』旗野士良1906同文館)

 1872明治5年、近代の学校制度を定めた[学制頒布]によって「唱歌」が小学校の一教科となったが、全く形式だけのことであって事実は「当分之を欠く」であった。原因は、教える教師がなく教材も無かったからである。
 1879明治12年、伊沢修二の意見により文部省内に音楽取調掛を設置。のち音楽取調所と改称、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の前身である。第一の事業として伊沢が中心となり、アメリカ人メーソンも加わって『小学唱歌集』を編纂。
 1880明治13年2月、伊沢修二のアメリカ留学中の恩師ホワイチング・メーソンが招きに応じて来日、西洋の声楽を興す基礎を作った。
  メーソンは知人らに「日本に行くことはむだだ。日本に新しい音楽などが興るものか」と反対されたがそれを押し切ってやってきた。来てみて、日本には雅楽もあるし俗曲もある。陸海軍の軍楽隊もあり洋楽の基礎はできていると意を強くした。男・女の師範学校、付属の幼稚園へ行って直接教えた。幼稚園では庭に出て幼児らに取り囲まれ教えたが、貞明皇后(昭和天皇の生母)もそのときメーソンから唱歌をならった一人だという。滞在2年半の間に、宮内省雅楽部の上真行らも入門してチェロその他を学んだ。

      『小学唱歌集』

 1881明治14.11.24、初編発行。「美しき」(スコットランド民謡)、「蝶々」(ドイツ民謡)、「蛍」(スコットランド民謡)、「故郷の空」ほか33曲を載せている。
 1883明治16.3.18、第二編。「霞か雲か」(ドイツ民謡)、「舟あそび」など16曲。
 1884明治17.3.29、第三編。輪唱曲や合唱曲があり、今も歌われる「仰げばたふとし」「庭の千草も虫の音も」など42曲が載っている。
 ――― 「小学唱歌集」三冊を通して、明治の末年に、小学校で実際に教えられた歌や、人の歌っているのを聞いて覚えた歌の見いだされるのがなつかしい (森銑三明治東京逸聞史』東洋文庫)

 1886明治19.11.3、帝国大学で唱歌会が催された。
 ――― 今の教員学生はいずれも未だ小学唱歌などのない時代に大きくなってしまったので、少しくらいは唱歌の心得もなくてはと演習会がうまれた。「見渡せば」「春の弥生」「すめら御国(みくに)」など学生が歌い、教員が「富士の山」など歌い、最後に合同で「蛍の光」を歌った。その他が「ラ・マルセーズ」「燕」を歌った。

 1907明治40年、小学校令が改正されて義務教育年限の延長が実施され、「唱歌科」が必須科目となる。
 1910明治43年、「尋常小学読本唱歌」発行。「カラス」「春が来た」「水師営の会見」など27曲全部、日本人による作曲。    

      伊沢修二

 1851嘉永4年6月、信州高遠(長野県)に生まれた。号を楽石
 1867慶応3年、江戸に出て洋楽を修め、ついで京都にでて蘭学を修める。
 1870明治3年、19歳、大学南校に入学、5年卒業して文部省に入る。
 1874明治7年、愛知師範学校長となる。

 1875明治8年、文部省留学生としてアメリカ・ブリッジウォーター師範学校に入り、教育を研究すると供に音楽を学んだ。卒業後、ハーバード大学に進んで理学を修める。
 1878明治11年秋、帰朝。
 1879明治12年3月、東京師範学校長となり、従来の制度に大改革を加えて科学的教育学を教授し、ペスタロッチの教育説を唱道した。また、音楽取調掛を兼任し唱歌集を出版。

 1880明治13年、メーソン来日。洋楽に基礎をおき、和洋音楽の融合もある程度考慮に入れた唱歌教授のカリキュラムを創案するなど、わが国の音楽教育の基礎を築いた。メーソンによってたてられた基本方針がその後長く義務教育を通じて無批判に踏襲され、その結果、日本人の音楽趣味の発達は阻害されたといわれる。
 (筆者) 21世紀の今、様々な手段が発達して世界中の音楽が簡、しかも瞬時に手に入り楽しめる。歌に限らず様々な物事がものすごい勢いで進化しつつある。スマホで音楽を聴く孫たち、彼らが大人になったときの世の中が予測がつかない。ますます便利になってるだろうと思う一方、なぜか不安がよぎる。たぶん、物の進歩に心が追いついていけてるか自信がないせいだろう。

 1881明治14年、文部省教科書編集局長になり西洋音楽の普及につとめ、「小学唱歌集」を編集。尋常小学読本・高等小学読本など国定読本を編纂した。
 1882明治15年、『学校管理法』、明治21年 『教育学』を出版、どちらも版を重ねる。
 1890明治23年、東京音楽学校長となる。「紀元節の歌」など唱歌の作曲ある。
 1894明治27年、辞職し、「国家教育社」を創立し、国家主義の教育を唱え、雑誌『国家教育』を発行、忠君愛国主義の教育を鼓吹した。『伊沢修二教育演説集』出版。
 1895明治28年、日清戦争後、台湾が日本の版図となるや自ら進んで教化にあたり、台湾総督府の学務部長をつとめる。
 1897明治30年、多年の功績により貴族院議員に勅選される。
 1899明治32年8月、東京高等師範学校校長。翌年、病のため辞職。以後、公職につかず、吃音矯正の研究につとめた。
 1903明治36年、東京小石川に「楽石社」を創設して吃音矯正につとめた。恩恵によくしたものは5千余名に及ぶという。
 1911明治44年、『吃音矯正練習書』、翌45年、『吃音矯正の原理及実際』出版。 
 1917大正6年5月、病で没す。享年67歳。

  参考: 『伊那案内』 岩崎清美1926西澤書店/ 『日本史辞典』『コンサイス人名事典』三省堂

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2016年1月23日 (土)

日本速記法の創始者、田鎖綱紀(岩手県)

An old man may have a youthful heart, and a poor may have a noble inclination.”――― 人は老ゆるも心は老いず、人窮するも志は撓まず 

  これは『大日本早書学』の緒言です。著者田鎖綱紀は速記術の創始者で幕末・安政生まれ、万延・文久・元治・慶応・明治・大正・昭和まで生きた。今は文字はもとより絵も音も何でも機械が記録する世の中になった。今、速記が用いられているか判らない。でも、速記を知ると往時の社会がうかがい知れ、今に残る速記による書籍から明治・大正、昭和初期も垣間見える。
 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/  <速記>を検索すると3000以上もの書籍がある。落語講談本から訴訟記録、何冊もの「維新史料編纂会講演速記録」「県会速記録」。かと思えば、三陸地震・津波で死者3008人の記録「岩手県昭和震災誌・昭和8年3月3日」帝国議会速記録というようなものがあり、78年後に東日本大震災が起こった。被災映像の生々しさは忘れられない。こうしてみると記録の技術は驚くほど進歩したが、災害を無くす科学技術の方は未だし。

        田鎖綱紀  (たぐさり こうき)                                 

 1854安政元年8月15日、南部藩士・田鎖仲蔵の次男として盛岡油町(盛岡市本町通)で生まれ、嗣子のない田鎖本家を継いだ。幼名・八十吉、筆名・楳(うめ)の家元園子。
 祖父の田鎖左膳は、越後流兵学の免許皆伝。盛岡藩主・南部利済の側近であったが、「君側の三奸」の一人として領民から恨まれ、三閉伊一揆を誘発。一揆の影響で藩主が謹慎を命ぜられると左膳ら三人の側近も失脚、藩政から遠ざかる。孫の綱紀は戊辰戦争前、髙野長英の弟子・内田五観に師事、英学を学ぶ。

 1868明治維新後、旧藩主が東京に開いた共慣義塾で学ぶ。
 1869明治2年、大学南校(東京大学)に入り英語や数学、測量術を学んだ。在学中、師のウィルソンがもっていた、「ポピュラー・エデヰュケーター」で、ピットマンの速記をはじめて見た。
 1870明治3年、新橋-横浜間の鉄道敷設の測量作業に従事。
 1871明治4年、旧盛岡藩士・一條基緒の紹介で、工部省鉱山寮(のち鉱山局)に出仕。
 1872明治5年、御雇外国人ガットフレーの命で秋田県の大葛金山に赴き、アメリカ人技師士ロバート・G・カーライル博士と出会う。そこでは博士らが母国との手紙のやりとりに、グラハム式速記を使用していた。綱紀は外国では速記が普及していることを知って興味をもち、日本語の速記化を思い立った。
 1876明治9年、病を得て鉱山を下山。東京で療養生活をおくる。その後、独力による速記術創設に悪戦苦闘がはじまる。
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 1878明治11年、「内外教育新報」に就職。業務のかたわら中国語を学んだほか、のちに朝鮮語やエスペラントも学んだ。
  「内外教育新報」は、信濃国(長野県)飯田出身の田中義廉が主宰。
 田中が文部省にいたときに編纂した『小学読本』はわが国最初の小学国語読本で、世に大きな影響を与えた。その新聞に和歌山県の下村房次郎(県会議員・和歌山日日新聞主宰)が絶えず起稿していた。田鎖は関西方面に出張すると下村に会い、遊びも一緒にした。下村には「教育新論及修身階梯」など著述があり、意気投合したのだろう。
 この年7月、『英和記簿法字類』を発行。これは、ある依頼に応じてイタリア記簿法を学んで発行したもので、日本で最初の簿記の単行本とされる。


 1879明治12年10月3日、「内外教育新聞」を主宰する津田が死去したため、新聞は廃刊になってしまった。そのとき、田鎖は和歌山に居たので、東京に帰るため下村から30円借りて陸路大阪に赴いた。さらに神戸迄行き、船で横浜に行くつもりだった。しかし、手元に7円しかなく困っているとき、藤田積忠という人物にめぐり会った。藤田は、東京にあてがなければ、神戸の支那語学校に肩入れてみないかと、田鎖に声をかけ田鎖はやってみることにした。藤田の経歴は判らない。
 学校は日本と中国との貿易のため五代友厚、藤田などの後援により設立。中国人三人を先生に雇い、田鎖が当面の名義人校長となった。ところが学校は翌年、はやくもつぶれてしまった。田鎖は学校の名義人として1万円の借金を背負うことになり、和歌山の旅館・富士源で自殺を図ろうとしたが、そこへ下村房次郎が駆けつけて止めた。田鎖は思い返し、東京に逃げるように帰った(下村房次郎の息子、下村宏『思ひ出草』)。
 *下村宏: 大正・昭和期の政治家・ジャーナリスト。昭和天皇の玉音放送でも知られる。

 1880明治13年、東京麹町元園町に下宿し、日本語速記法の発明に没頭した。それから3年にわたりお茶の水の聖堂・上野の教育博物館・番町の塙保己一文庫・浅草蔵前の千代田文庫などに弁当持参で通い詰め研究をすすめた。そして、グラハム式の英語速記法を日本語の速記に翻案し発表する。

 1882明治15年9月19日、「時事新報」に「日本傍聴記録法」を発表。
    10月28日、「日本膨張筆記法(速記術)講習会」を開催、24人の生徒に自身の編み出した速記法を伝えた。以後、普及に努めたがまだ実践的でない点もあり、生徒たちは田鎖の速記に独自の改良を加えた。
 1883明治16年、事業母体を日本傍聴筆記学会とし、全国規模で速記教育を行った。
    7月、「郵便報知社」が田鎖の門人・若林玵蔵を招き入れ、自由新聞紙上の記事取消請求に関する談判の顛末を速記させたのが速記実地応用のはじめ。若林はまた、三遊亭円朝の講談『怪談牡丹灯籠』を速記して世間の評判となった。
 1884明治17~18年ころから、学術・技芸・宗教などの集会、演説を速記して新聞紙上に掲載されることが多くなり、学者や新聞記者もこれを用いて著述するようになった。そのスピードは一分間に約300字くらいであった。この速記に元老院の金子堅太郎が目をつけ、国会議事録への採用を提案する。
 1890明治23年、第一回帝国議会が開かれ、両院に議事録はことごとく速記を用いた。明治40年ごろには、常任速記者が5、60人もいたという。

 1894明治27年12月24日、速記の発明者として藍綬褒章授与される。
 1896明治29年、終身年金(第一号300円ずつ)を下賜される。
 1908明治41年、中国語速記術、朝鮮語速記術を発表。
 1913大正2年、『大日本早書学』博文館から発行。写真はこの本の速記文字。巻末の質問票からは普及への熱意が感じられる。
 1916大正5年、エスペラント速記術を発表。
 1927昭和2年、74歳。下村宏を訪ねて前出、房次郎との想い出を語る。
 1938昭和13年5月3日、東京上目黒で死去。享年85。
       自作の戒名は「日本文字始而造候居士(にほんもじはじめてつくりそろこじ)」。

     参考: 盛岡市ガイド(盛岡市教育委員会)田鎖綱紀/ wikipedia田鎖綱紀/ 『思ひ出・二黒の巻草』下村宏1928日本評論社/ http://sokkidouraku.com/t12/takusari.html 田鎖綱紀

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2016年1月16日 (土)

宮城県において国会開設運動第一の人、村松亀一郎 

 今回の主人公、村松亀一郎がが弁護士資格を得た年の年表をみていたら、
“この日から満20年をもって丁年(成年)とする”明治9年4月1日太政官布告が載っていた。
 近ごろ、荒れた成人式がニュースになっているが、大方は無事に行われているのではないか。遙か昔の成人式、自分は欠席。親に振り袖はいらないからと旅費をもらって九州一周した。まだ、新幹線もない時代、東京駅発の寝台車で長旅はきつかったが、いい想い出。昨夏、飛行機で長崎へ一っ飛び、平和像の前に佇み、あれこれ思う所があった。

      村松亀一郎

 1854嘉永7年10月、宮城県登米郡西郡村字西郡11番地に生まれる。父は村松固四郎といい、仙台藩士大内氏の家臣。
 1865慶応元年、11歳。父が他郷で病死。幼い弟とともに祖母と母に育てられる。
 1868明治元年、14歳。叔父の村松直人に漢学を学び刻苦勉励するなかで、東京に行って広く有為の士と交わりたいと母に相談したが許されなかった。
 1871明治4年5月、母が紡いだ生糸を売って旅費にあて東京にでた。しかし、維新から日が浅く旅券が無い者には身の置き所がなく、ついに仙台に帰った。帰仙して、開業医・大槻良達の弟子となり一年余り医業を学びつつ、密かに上京を考えていた。

 1872明治5年、再び上京して某医家の食客となり医業を学んでいたが先が見えず、半年後、横浜に赴く。外国人の書生になって学ぼうと考えたのだ。しかしツテがなく、横浜停車場の車夫となって働いた。
 あるとき、客を乗せ走っていて疲れのため昏倒してしまった。そのとき、紹介してくれる人があり相州高座郡大矢村の小学校教員になることができた。2年間の教員生活で学資がたまり、また上京。

 1876明治9年、東京神田五軒町元田直が創立した「法律学舎」に入り、モンテスキューの万法精理・清律綱領・改定律令など内外の法律書を読み研究する。このとき民権説の利益や公平性を発見し、民権伸張に奔走することを決心した。
  同年11月、司法省試験に合格し代言人(弁護士の旧称)となる。
  元田の法律学舎が長野県長野町に第三分局を設け、選ばれて分局長となり長野に赴任。松本・上田で代言業務、訴訟事務に従事するかたわら法律学の普及に務めた。
 1879明治12年1月、東京に戻る。9月、大井憲太郎が創設した法律学校・明法学舎の分舎を仙台に置くことになり主幹となる。
  法学生徒を養成し訴訟事務を行おうとしたが、学問といえば漢学の時代で思い通りにいかなかった。それでもなお屈せず、田代進四郎若生精一郎高瀬真之輔らと提携して、西欧の政治書を講義し自由民権を説いた。

 1880明治13年、河野広中らが仙台に来て民権説をとなえると、これに同調して「東北七州懇親会」を開催。
  同年3月15日、大阪で第4回愛国社大会が開催され18日、会場を移し愛国社とは別に国会期成同盟が発足。大会は第1回国会期成同盟大会に切り替わり、最初から紛糾。愛国社いわゆる立志社の主流による国会開設願望書提出が行われなければならないとする土佐派と他の政社が対立したのである。
  ともあれ、国会期成同盟規約が、福島の河野広中岡田健長宮城の村松亀一郎、土佐の植木枝盛北川貞彦、福井の杉田定一、愛媛の小島忠里の7名により作成された。
 1881明治14年10月1日、各地から国会期成同盟大会出席のため上京した有志委員の会合で、期成同盟と合体、自由党組織(総理・板垣退助)を決議する。宮城県からは村松亀一郎二宮景輔高橋伝が出席。
  同10月12日、明治23年国会開設の勅諭(明治14年の政変)。この年は民権結社の設立・憲法案起草活動もっとも活発であった。

 1882明治15年、時の福島県令・三島通庸は農民の先頭にたった河野広中らの自由党を弾圧し、福島事件が起きた。河野らは逮捕され、山口千代作田母野秀顕が仙台に逃れてきた。村松は二人を匿い、旅費を渡して東京へ行かせた。
 1883明治16年1月8日、村松の家に家に巡査が来、国事犯・兇徒嘯集の嫌疑で福島県・信夫警察署に連行される。次いで福島監獄に繋がれた。
  5月、経禁錮3月罰金15円の刑を言い渡される。村松は納得がいかず上告し保釈となり、ひとまず仙台に帰った。出獄後、代言人としての名声が高まる。しばらくは政治を離れ本業の弁護業に務めた。

 1884明治17年1月、宮城県会議員に当選したが告保釈中の身で、議場に臨めない。
 1885明治18年2月、上告棄却となり福島に行き入獄。三ヶ月間、赤い獄衣を着る身となりさすがに辛かったが、同じ獄に官吏侮辱罪(三島通庸に)で服役中の福島県人・岡田健長ら政友がいたので励まし合えた。
  5月22日、出獄。仙台からは田代進四郎藤澤幾之助、福島の有志らが出迎えた。翌日、帰仙すると岩沼駅に政友らが出迎え、ここでも出獄祝いの席を設けてもらった。
  「悪鬼の如き獄丁に平伏していた刑人は今日に至りフロックコートの洋服で諸名士に囲まれ幾百人の盛座の中にて美酒佳肴の饗応を受く、真に世は塞翁が馬にぞある」。
  こののち県会に出席し、以後、9年間在職した。

 1887明治20年春、大同団結を唱える後藤象二郎が東北を遊説、仙台にも来る。村松は大いに賛同して有志を集め尽力した。折しも、井上馨の条約改正論が出ると大反対、中止の建白書を提出したうえ各地を遊説、「国権を毀損する」として政府を攻撃した。
  また藤澤幾之助・岩崎惣十郎らと東北懇親会を催し、政論社、抱一館を設立した。

 1889明治22年4月、仙台市会議員に当選。5月、市会議長に当選。
 1891明治24年、宮城県会議長に当選。
 1892明治25年、第二回衆議院議員当選。
 1902明治35年、第七回衆議院議員選挙 ~ 1915大正4年、第十三回衆議院議員選挙まに連続当選。
 この間、刑事訴訟法中改正法律委員・鉄道国有法案委員・弁護士法中改正法律案委員・監獄法案ほか5件の委員・印紙犯罪処置法案委員。明治44~45年、治安警察法改正委員。大正2年~15年、動産登記法改正法律案委員・刑事略式手続法案委員・徴兵令改正法律案委員・教育改善及び農村振興基金特別会計法中改正法律案委員を務めた。

 1925大正14年秋、衆議院議員選挙に落選中であったが特別大演習の大本営に召し出された。
  10月、第十五回衆議院議員補欠当選。ここまで議員当選9回、在職年数20余年で没後、勲三等追贈。
  住所:仙台市東一番町83番地
 1928昭和3年9月22日、病で死去。77歳。

    参考: 国立公文書館アジア歴史センターHP /『日本弁護士高評伝』日下南山子1891誠協堂 /『宮城県国会議員候補者列伝』藻塩舎主人1890晩成書屋 /『宮城県国会議員列伝:撰挙便覧』日野欽二郎1890知足堂 /『伊藤痴遊全集・第15巻』伊藤仁太郎1930平凡社

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2016年1月 9日 (土)

戊辰をこえて明治政府 農商務省技師、河原田盛美 (福島県)

 今回誰にしようと考え中、[会津木綿と仕事づくり](2016.1.7毎日新聞)が目に入った。大震災・原発事故で会津若松に避難中の大熊町生まれ女性と会津坂下町生まれ経営者の対談記事、力を合わせ会津木綿を製造・販売している。対談から困難な環境にあっても、地域活性化に努める人の輪と心意気が伝わってきた。事業が盛んになりますように。

 会津木綿は福島県会津地方で古くから使われていた厚地の織物。会津坂下町は藍染めの糸で織られる「青木木綿」の産地で、工場は30軒以上あったが今は2軒という。
 ――― 会津木綿、販路は主として農村僻陬であった。都会人の趣味好尚から縞柄・地質が時好に適しないと非難があるが、糸の太い蛮カラ極まる田舎向きの会津木綿は、より多く田舎から歓迎される勢いで、当業者も儲かり産額も増嵩し結果を収めている。
         (『会津繁昌記』佐藤久米三郎・田尻浅之助著1922高阪信文堂) 
 原料糸を細くし縞柄を派手にするなど都会向きの品を作らなかった会津木綿、でも南会津郡出身、農商務技師・河原田盛美は丈夫でいいと着たかもしれない。長年、広く全国各地を歩き回り調査研究、なにより故郷を愛していた。

    河原田 盛美 (かわらだ もりはる)

 1842天保13年、陸奥国南会津郡伊南村宮沢(現・福島県南会津町宮沢)の河原田弥七の長男として生まれた。
  幼少期から学問や和歌を習い、医書や武術、万葉集や古事記などの古学もまなんだ。
 1858安政5年、16歳から下野、武州・総州・伊勢を旅する。その後も、奥州、越後、出羽諸国を遍歴。旅の見聞で、現地の事物から学ぶ学問、仕事の精神的基幹が養われた。
 伊勢神宮参詣のおり知遇を得た荒木田守宣守卜により実名を盛美(もりはる)としたが、生地の南会津地方では「もりはる」でなく「もりよし」と呼ばれる。
   幕末には、関東、東海、伊勢、大和、四国、山陽道をへて京都に入り中山道を巡歴。
 1865慶応元年、23歳で名主の父に替わり勤め、それ以後、会津藩士として仕事。
   会津藩の檜枝岐村で上野国との国境守備についた。藩の内命で、上野、下野、江戸、下総、常陸を巡回、時局の情報収集もして幕府の閣僚、藩主に接見した。また、蚕卵紙を改良、横浜の外国商人と取引するなど殖産への先見性をみせた。

 1868慶応4年から1869明治2年にかけて戦われた戊辰戦争で会津藩士として戦ったが、明治維新後、若松県で生産局御用掛・通商掛となり産業の育成をになった。その間にも本草学を学び、開墾、養蚕などの改良に腐心した。
 1871明治4年、近衛家家政に従事。

 1873明治6年、大蔵省租税寮に出仕。近代国家へ生まれ変わろうとする時代にあって有能な人材が多く求められたのである。賊軍の出身であろうとも能力がある人材は必要である。
   明治政府の大久保利通は「国の強弱は人民の貧富により、人民の貧富は物産の多寡にかかる」として民業の育成を図った。殖産興業に励む日本、ここに河原田の知識と技能を活かす道があった。
   また、河原田は二院制国会開設建白書を提出し、地方制度の研究にも取り組んでいた。
 1874明治7年、内務省地理寮出仕。同年9月、内務省琉球藩事務取調掛
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 1875明治8年5月、*琉球藩在勤となり、以後、琉球、与論島、喜界島など南島と関わる仕事に従事。夜光貝、海産物、動植物、を採集し、南島産物の拡張を図った。
   *琉球藩: 廃藩置県のとき琉球はひとまず鹿児島県の管轄になったが、明治5年、琉球藩を設置して政府の管轄下におき、国王を藩王とし外交権を剥奪。やがて台湾出兵、琉球処分へと至る。
 
 1884明治17年8月22日、『沖縄物産志』執筆に着手。現地では、地元の人とともに動植物を採集、栽培、保存、実際に図の作成を行っている。引用の東洋文庫版のページをくると実に細密な図があり細部も判る。
 1886明治19年、農商務省、「日本水産誌」三部作を企画。河原田はこのうち『日本水産製品誌』を担当。江戸時代から水産物の清国やアジアへの輸出は行われていたが、明治になっていっそう盛んになった。海産物は輸出の主要商品であった。
 このころから、植物学者・農政家の田中芳男(信濃国飯田出身・のち貴族院議員)のもとで、日本水産関連の仕事に専念し前出の『沖縄物産志』をはじめ多くの水産書を著す。その間、水産博覧会審査官や、島根県、石川県、静岡県、岩手県などの水産巡回教師をつとめる。

 1890明治23年、家督を継いだ弟が死去。
 1891明治24年、農商務省を辞職し帰郷、過疎地の南会津地方の殖産興業に努める。新しい作物の導入や育成に努め、麻栽培と養蚕にも力を入れた。
  また、地域物産を活かす交通の便を考え、地域の有志と野岩越鉄道の敷設を計画、測量にかかっていたが日清戦争のため中止になってしまった。
 1894明治27年7月、日清戦争開戦 ~28年。
 1896明治29年、河原田が発起人となり、田島銀行を設立、支配人を務める。福島県議会議員となるが年次はわからない。
 1904明治37年、生家のある宮沢集落で火事があり、類焼。母屋や数棟の蔵が焼け、惜しいことに沖縄などから持ち帰った、海産物・標本類が焼失。
   同年2月、日露戦争開戦 ~明治38年。
 1914大正3年、南会津の地域振興に力を注ぎ、地方実業家として生き「水産翁」と呼ばれた生涯を終える。72歳。
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  参考: 河原田の著作は近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ にあるが、経歴を書いたものがなく殆どを 東洋文庫『沖縄物産志――附清国輸出・日本水産図説』解説を活用。同書「解説――河原田盛美と実業の世界」に感謝。 図も同書より。
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2016年1月 2日 (土)

彰義隊・伝道者・文学界・幕末小史、戸川残花(江戸・備中)

 なんとも地味な“けやきのブログⅡ”アクセスありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
 昨年の漢字は「安」でした。安心・安全の「安」というのに、「不安の安」かと思っちゃいました。そう思わせる事件事故が多く、気候も温暖化のせいか変。そのうえ、今の日本には戦争の二文字がのしかかっているような気がします。孫をもつ世代でも戦争の記憶がなく、戦争を語れる人はごく少数です。宇宙飛行士・毛利衛さんの「正義の戦争ない」(2015.12.30毎日新聞)をしっかり受け止め、子や孫に伝えたい。
 ところで、明治人は戊辰戦争にはじまる幾度とない戦争が身近でした。牧師で詩人の旧旗本、戸川残花も幕府が倒れ彰義隊に参加して上野の山で戦いました。その後をどう生きたのでしょう。

        戸川 残花

 1855安政2年10月22日、江戸牛込の旗本の家に生まれる。本名、安宅(やすいえ)
 家録を継いで、備中国早島庄の領主となり、禄5000石を食む。母の生家水野土佐守の影響で、西欧文化に憧れる。
 1865慶応元年、長州征伐(江戸幕府と長州藩の戦争)。病気がちな兄・安道の名で出陣。
 1868慶応4年3月、数えの14歳で兄の名代としてアメリカの蒸気船で品川港から神戸港をへて、京の太政官(維新政府の最高官庁)に、懇願書と岡山藩主の添書を提出。領地が、現・岡山県早島町にあった。
  同年5月、少年ながら彰義隊に参加し上野の戦争で敗れる。

 ――― 編者(戸川)かつて「彰義隊戦史」に序す。 寛永寺一日の雨に彰義隊は敗れしと雖も、三河武士の骨法は300年間情緒に激して響けり・・・・・・
「玉疵も瘤となりたるさくらかな」と詠ぜしことあり。博物館に弾丸を包んだままの木あり・・・・・・慶応4年戊辰5月15日、降りしきる五月雨の中を恐れ多くも輪王寺宮法親王は落ちさせたまいしなり。寛永年間より東叡山と仰がれ、瑠璃殿も、吉祥閣も、法華常行両堂も、束の間に炎と昇り、煙と消え失せしなり。大小の寺院も同じく無常の夕露とのみ、若葉青葉に滴る惨状と変じ、御本坊すなわち宮様の御住居も焼け失せたり (『東京史跡写真帖』戸川残花編1914画報社)。
  同年6月、一族と共に領地の備中国早島に移り住む。

 1869明治2年、版籍奉還により領地を返納。早島戸川家は嘉永年間の借金が3万両、利子数千両もある上に幕末維新の動乱で借金がかさんでいた。財政は事実上破綻していたから、領地を返納したことにより借金地獄からは解放された。それにしても、政府は各地の返納領地の借金を返済したのでしょうか?
 1869明治3年、領地を失い江戸に戻ったが、江戸の邸は大隈重信邸となっていたため、維新政府から与えられた代替え邸に住んだ。その後、開成学校(大学南校)、慶應義塾で勉学に励んだ。

Photo 1873明治6年9月、築地の戸川邸の向かい側に教会を設立した(のち新栄教会)宣教師ディビッド・タムソンに聖書を学ぶ。
 1874明治7年12月、タムソンより受洗。ミッションスクール築地大学校で学ぶ。
 1883明治16年からしばらく、巡回伝道者として、アメリカン・ボードの宣教師ベリー・J・Cと京阪神および岡山で伝道に従事する。
 ――― 弁舌は自ずからユーモアあり、皮肉あり、精彩あり、言い回しの巧妙なる所は、純江戸っ子弁でなければ、到底旨くゆくものでない。説教していた時も、誠に品の良い口調であった。

 1887明治20年ごろは岸和田教会の牧師、その後、麹町(高輪)教会牧師。
 1890明治23年、子ども向けの楽しい童話『猫の話』を刊行。
 1892明治25年5月、『新撰賛美歌のてびき』ほかキリスト教関係の書籍・冊子を著す。伝道者を辞めるまで約10年間、賛美歌の作詩、翻訳、編集に従事、植村正久主筆の『福音週報』『福音新報』『日本評論』などに執筆した。

 1893明治26年3月、松村介石と協力して雑誌『三籟』を創刊。同年、「築土文学会」をつくり、植村正久・尾崎紅葉・山田美妙・北村透谷・巌本善治・宮崎湖処子など会した。

  同年、星野天知主宰の『文学界』の客員となり詩文を寄稿。中でも七五調と五七調を混用した哀れにして上品で美しい詩 「桂川(情死を吊ふ歌)」は、北村透谷に激賞された。
  同年、毎日新聞(横浜毎日)の客員となり小説も書いた。

 1897明治30年から3年間、旧幕の遺臣の名をもって生き、埋もれつつある幕府側の足跡を歴史に留めようと、勝海舟榎本武揚の協力を得、また古老の話を聞き取るなどし、雑誌『旧幕府』を編集・発行。
 また、史書・史伝の著述にいそしんだ。『幕末小史』は、追懐の情を史料探査に融解させた幕府滅亡史ともいえる。その意味で、島田三郎・福地桜痴(源一郎)・山路愛山ら旧幕出身の史論家の一人と数えられる。ほかに『海舟先生』『江戸史跡』など著す。

 1901明治34年、日本女子大学の創立に成瀬仁蔵とともに参画。国文学教授となった。
   同年、紀州藩邸跡(現東京都港区)に作られた、紀州徳川家の南葵文庫の主任学芸員を務めた。

 ――― 純江戸っ子弁であるから、非常に言葉に富んでいる。ベランメーから遊ばせ語まで、噛み分けのみ込んで居られるので、言い回しが誠に巧だ。氏が女子大学創立当初、寄付金勧誘に、ドッカと応接室に腰を下ろし、穏やかな粘りけある弁で、根気強く説かれるので、大抵は往生して多少の寄付をする。さすがの大隈伯も、氏の根気に負けて勧誘に応じた。・・・・・・氏は西行の『山家集』は最も得意とする所で、その講義を聴くと、眼前西行が彷彿するという評判である (『現代名士の演説振』小野田亮正1908博文館)。写真「演説の図」も同書)。

 晩年は、本郷教会(弓町教会)に属したが、キリスト教を離れて禅にはいった。唯心的、神秘主義であるとともに社会への批判、世俗的権威への抵抗を行う多面的な浪漫主義精神の持主であった。その他、謡曲・俗曲・碁・釣り・骨董癖などなかなか趣味も広い。
 1923大正12年9月1日関東大震災に遭い、自宅(現東京都品川区大井町)が倒潰、大阪の天王寺にいる長男と同居。
 1924大正13年12月8日、死去。69歳。

   参考:『日本キリスト教歴史大事典』1988教文館/  Wikipedia戸川安宅/ 戸川残花の著作は近代デジタルライブラリー  http://kindai.ndl.go.jp/ 読めるものもある。

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