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2016年2月

2016年2月27日 (土)

明治前期の英和辞書、三木佐助、イーストレイク

 ――― 明治の始めころは、英和辞書などと申す物は至って品が稀でござりましたのでその値もなかなか高かったのでござります。その頃私は、陸軍兵学寮の川勝丹波守と申された人のところへ出入りをいたしまして「英和語林集成」といふ辞書をたびたび払ひ下げをしてもらいました。その辞書一冊を45円ないし50円位で売ったことがしばしばござります・・・・・・  今一つは「和訳英辞林」と申す字書で、これは大阪今宮蛭子神社の南に薩摩の銭鋳場(ぜにいば)といふものがござりまして、そこに居られました五代といふ人から折々払ひ下げて貰いました。一冊たいがい25円位で買いまして30円位に売り捌きました。のち翻刻ができまして終いには1円以内まで下がりました。俗に「薩摩版の辞書」と称えたものでござります(『玉淵叢話』1902三木佐助)。

 明治初期の英語辞書の資料を探してたら、NHK朝ドラで今や大人気、五代様が出てきた。五代友厚が薩摩辞書を何冊も払い下げたのは、薩長藩閥政府の中心にいる薩摩人たちが新しいのを幾らでも買え不要になったからだろうか?
 この「玉淵叢話」口述の三木佐助は、京都山城国相楽郡和束郷白栖村の出身で1852嘉永5年生まれ。大阪の商人で古書・新刊の販売と漢文書籍・英語辞書・教科書出版などをし、出版事業に貢献した。
 その三木が自身の生い立ちや家族、商売の困難苦労と成功、出版事業についてなど気負いなく語っているのが『玉淵叢話』。
 明治の出版事情、同業組合、教科書出版のため文部省との交渉等など話題豊富で、読書好き明治好きには面白い。『明治出版史話』と題し、ゆまに書房から復刻されている。三木の肖像あり。
 『新撰英語教科書』の著者イーストレイクが、 『玉淵叢話』に英語で序文(意訳あり)を寄せている。三木と出会って、『英語会話教科書』を刊行した当時、三木は一小書肆(書店)に過ぎなかったがその後、7年の間に「資産を作り大出版業者になり驚嘆の外あらず」と成功に感心している。

  『和英語林集成』
 1867慶応3年、横浜のヘボンがヘボン式ローマ字見出しで編集、岸田吟香の助力を得て刊行。来日外国人が特に必要とした(『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館)。

   「薩摩辞書(『和訳英辞書』)
 幕末、安政5カ国条約以降、それまでのオランダ語から英学が中心となり洋書調所で、日本で最初の英和辞書『英和対訳袖珍辞書』が堀達之助が中心となって1862文久2年編纂出版された。その後、再版本が刊行され、それにカタカタによる発音表記、訳語の漢字によみがなをほどこした第三版『和訳英辞書』が1869明治2年に出された。これが薩摩学生編となっているため「薩摩辞書」と俗称され明治中頃まで広く用いられた。

   『英和字彙』
 薩摩辞書と並び明治前半期の二大英和辞書となったのが『*英和字彙』である。明治期における英和辞書の編纂に評価がたかったのはウェブスターNoah Websterで彼と関係の深い辞書を参照して編纂されたのが1873明治6年、刊行『(附音挿図)英和字彙』である。子安俊・柴田昌吉による5万5千語を収録、科学技術に関する用語や挿絵を収録した画期的な辞書である。「薩摩辞書」とともに広範囲に利用された。

 
    フランク・イーストレイク Frank Warrington Eastlake 
         1858安政5年1月22日~1905明治38年2月18日

 号は東湖、イーストレイクを直訳したもの。日本英学会の恩人の一人といわれる英語教育者、日本研究者。父親のウイリアムは歯科医で1860万延元年一家をあげて来日、横浜で開業。
 フランクはアメリカ・ニュージャージー州生まれ、父に連れられ一家で来日。その後、アメリカ・ドイツ・フランスで教育を受け、さらにベルリン大学で学び、23歳で博言学(言語学、音韻・文字・文法・語彙その他歴史的・地域的の諸相を明らかにし理論づける学問)博士を取得。語学の天才と称された言語学者。

 1884明治17年、再来日し、以後20年余にわたり英語教育などに寄与した。磯辺弥一郎国民英学会、増田藤之助と日本英学院を創設するなどした。
 1888明治21年、棚橋一郎と共訳 『(ウエブスター氏新刊大辞書)和訳字彙』(三省堂)を出版、同年ウエブスター辞書に準拠した本格的辞書 『(附音挿図)和訳英字彙』(島田豊・大倉書店)も出版され覇を競い合った。両者ともウエブスター大辞典を利用しているので百科事典的内容で似ていて、戦いは明治末まで続いた。
 1896明治29年、英語学者*斉藤秀三郎正則英語学校創設に参加し、長く教鞭をとった。 また、慶應義塾などにも出講し、数多くの明治期学生に英語を教授した。
 著書は『英和袖珍字彙』ほか多くあり、講義録を加えると著作は100冊をこえる。
    
 フランクの父は1887明治20年、52歳で没し青山霊園外人墓地に葬られ、フランクも病没して父の傍らに葬られた 。なお、フランクの長男パスカルは慶應義塾予科などで英語を教えた。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館

  <明治・大正期の英語学者、斉藤秀三郎(宮城県)>
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/05/post-cd69.html
  <明治のジャーナリスト・事業家、岸田吟香>
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/03/post-5df9.html
  <日就社・読売新聞創業のジャーナリスト、子安峻(岐阜県)>
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/04/post-38bb.html
  <山東直砥(一郎)の英語辞書>
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/04/post-fca1.html

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2016年2月20日 (土)

三閉伊一揆の指導者、三浦命助(岩手県閉伊医郡)

 2016年、東日本大震災後、初めて被災地で「東日本大震災復興の架け橋」と冠された岩手国体が行われる。復興の架け橋としたのは、「武士道」の精神を海外に広めた盛岡出身の *新渡戸稲造のことば「我、太平洋の懸け橋とならん」にちなんだものという。
 大災害が起こってからもう丸5年になるが、被災地にとっては痛手は未だ癒えず、復興は道半ば。国体が成功して大きな復興支援が得られるように。
  *新渡戸稲造: 「札幌遠友夜学校(新渡戸稲造)と有島武郎」
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/04/post-3c9a.html

 自然災害は恐ろしいが、苛斂誅求の失政も怖ろしい。苛酷な租税取り立ては人々を苦しめ一揆の引き金となる。百姓一揆というと江戸時代と思いがちだが、幕末明治の方が多く全国各地でおこった。岩手県でも三閉伊通一揆という大一揆がおこり、指導者・三浦命助(めいすけ)がよく知られる。
 三浦は南部藩領閉伊郡栗林村の出身。その上閉伊郡は岩手県東部、今の釜石線の沿線地域
 ――― 北上山系をもって脊梁となし、東西に分岐蜿蜒(えんえん、うねうねとして屈曲)する支脈の横谷と猿ヶ石流域に形つくられし盆地とによりて開かれし一地域。現在、遠野・釜石・大槌の三町、綾織・子友・鱒沢・宮守・達曾部・附馬・牛松・崎土・淵青・笹上郷・甲子・鵜住居・栗橋(旧橋野村栗林村)・金沢の14ヵ村を管轄(『上閉伊郡志』1913岩手県教育会)
 この地域は春になれば遠野の桜、観光名所の数々、世界遺産・橋野鉄鉱鉱山高炉跡など見ものがあり、なかなか佳さそうな地域。東日本大震災の痛手からどこまで復興しただろうか。そしてまた、この地域には自然災害とは別に困難な歴史があった。

     三浦 命助

 1820文政3年生まれ。三浦命助はもと菊池氏、故あって外戚の姓をなのる。陸奥国南部藩領閉伊郡栗林村の肝煎(きもいり、名主)の甥。代々六右衛門を襲名、号を明英。
   成長すると、遠野に出て南部藩士・新田氏に入門、四書五経を学んだ。
 1837天保8年、17歳から20歳にかけて秋田の院内鉱山で働いたらしい。
 1840天保11ねん、20歳のころから三閉伊(さんへい)通とよばれる盛岡藩領の三陸沿岸の農漁村を回って荷駄商いを行っていた。命助は「機略よく人を制し」たといわれ客に好まれたろう。ほかに米穀商を営んだという話もある。

 1844~1847弘化年間、盛岡藩主の苛斂誅求にたえかね一揆がおこる。南部藩主・南部利済は財政困窮により重税と御用金を課した。
 1837天保8年、海産業に対し米価と同じ重税を課したが、中でも三閉伊通 (野田通宮古通大槌通)が他より重かった。そのため、浜岩泉村(現田野畑村)の牛方弥五兵衛が首領となり、1万2千人余りが遠野に押し出し、御用金の撤廃をはじめ26ヶ条の要求を提出した。
 これに対し、南部支藩・遠野南部家は御用金の全免と12ヶ条を許可、後は追って調査し許可すると回答した。そして、家老横沢を罷免、藩主利済は隠居したが、一揆首謀者の弥五兵衛を捕縛、1849嘉永2年、斬殺した。
 そればかりか、遠野強訴が沈静すると南部利済は背信、公約を破棄して悪政を続けた。しかも、幕府の御用や参勤交代費が足りないとして負債の打開に新税・増税をし、さらに御用金を課した。

 1853嘉永6年3月、ふたたび数百人の農民が野田代官所を襲撃した。ところが指導者の忠兵衛が急死したため頓挫、しかし再び陣容をととのえる。三浦命助が、「これ経世済民の挙なり」と檄を飛ばして一味を募りこれに応じ、ついに推されて首領となり遠野に到る。
 遠野南部氏に訴状をだしたが、願いは叶わなかった。ために三浦ら一揆農民は仙台領気仙郡に向かった。のぼり旗、槍隊・棒隊、隊列を組んで浜通りを南下しながら資産家に軍資金や食料を出させ、出さないと家屋を打ち壊して歩いた。
 田老・宮古・山田と各村を押し出すにつれ大群衆となって大槌通に押し寄せ、釜石に集合したときには、一揆の人数は1万6千余人にも達した。約半数が仙台領気仙郡唐丹村への越訴に成功、仙台藩伊達氏に政治的要求と具体的要求49ヵ条を提出し訴えた。三浦命助は仙台藩、盛岡藩との交渉を展開していくなかで、指導者として活躍する。

 「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしい。役人が多いから減らしてほしい。金上侍を元に戻してほしい。御用金その他臨時税が多すぎる。租税請負を廃してほしい」などと要求したのである。

 遠野南部藩は仙台に赴き百姓の引き渡しを要求したが、仙台藩は預かり百姓として保護するとした。それで、南部藩は農民の願い通り、一揆の要求すべてを受け入れ、指導者の処分をしないことにして一揆農民を帰国させた。
 こうして、近世最大の百姓一揆は収束したのであるが、三浦命助は藩吏に憎まれ家に落ち着くことができなかった。それどころか、藩側から狙われ、村内の紛争にこと寄せて弾圧された。

 1854安政元年7月、三浦は村を脱出、仏門に入るなどして京阪地方を放浪した。
 1856安政3年、京都に上る。村を出てから10年以上たち、二条家家臣となった三浦は帰郷することにした。しかし逃走中の身にかわりはなく、領内の花巻に現れたところを捕えられた。公金横領と脱藩という罪で9年間、盛岡の獄中にあった。
 明治維新まであと4年という1864元治元年、病で牢死。44歳。 妻子に宛てた「獄中記」長文の書簡は、幕末期農民思想の特徴をよくあらわしているという。

    [三浦命助の碑

 1963昭和38年、栗林町民一同により生家の脇に建立された。揮毫は釜石市長をつとめたジャーナリスト鈴木東民

   参考: 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『日本史辞典』角川書店/ ネット2013年“三浦命助没後150年記念イベント(東北物語)/釜石市立栗林小学校”

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2016年2月13日 (土)

明治・大正・昭和期の映画俳優、上山草人(宮城県)

 今日は2月11日、一ヶ月後は東日本大震災から丸5年になる。宮城県東松島市野蒜地区で被災当時小学6年生だった子が高校生になり、被災した旧校舎を前に震災を語り伝える新聞記事を読んだ。野蒜に行ったことはないが、以前のブログで1881明治14年の野蒜港にふれた事があり気になった。
 “宮城県の自由民権家、大立目謙吾” http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/09/post-bfc0.html
 震災に襲われた6年生の男の子、体育館に避難したが津波が流れ込んできて、人々がのみ込まれていったという悲惨な目に遭った。思い出すのも辛いと思う。かける言葉がない。しかし、がんばって震災前の野蒜駅前の賑わいを語り伝えているという。逆にこちらが励まされた。
 1896明治29年6月15日の三陸地震津波のとき、宮城県吉浜では波の高さが24メートル余りに達したという。この大津波は、青森・岩手・宮城の3県にわたって猛威をふるい数百の村落が被害をうけ目もあてられぬ惨状であった。今回とりあげた上山草人(かみやまそうじん)は宮城県生まれ当時12歳、今でいえば小学6年生、津波の記憶はありそうだ。

      上山草人

 1884明治17年1月30日、宮城県遠田郡涌谷町で上山五郎の次男として生まれる。本名は貢。父は産婦人科病院を経営し宮城医学校教授をつとめた。
   母は父の愛人・角川浦路で、草人は親戚の家を転々とし10歳のとき父親宅に引き取られた。父親は厳しく愛情薄い幼少期だった。宮城県立第二中学校を卒業。
 1903明治36年、早稲田大学文科に入学。上京して父の友人である犬養毅家に寄宿し、在学中はテニスに夢中になった。このころ、新派劇の俳優・川上音二郎に共感する。文芸書を読みあさり、坪内逍遙の新劇運動に触発され男女劇研究生に応募。

 1905明治38年、日露戦争の鳳凰城陥落祝いの提灯行列の後に、父の訃報が伝えられ帰郷。一ヶ月後、再び上京するも境遇は変わり、牛乳配達をしながら大学に通う。苦学しているうちに病気になり、牛込の西方寺に間借りして静養することになった。そこへ三田千枝子が訪れてまめまめしく介抱した。千枝子は旗本の娘で新劇壇女優で芸名を山川浦路 (『結婚ロマンス』流浪の子著1919秀文社)。
 1907明治40年、大学を中退し東京美術学校に入ったが、のち中退する。
 1908明治41年、犬養毅の仲人で山川浦路と結婚。同年、東京俳優養成所第1期生となる。しかし、養成所の講師と衝突して排斥運動を起こしたため退所させられる。
 1909明治42年、化粧品開発に熱心だった草人は妻とともに「かかしや」という化粧品店を新橋に開店する。草人が開発した眉墨は人気を集め店は繁盛した。同年、坪内逍遙の文芸協会演劇研究所の研究生補欠募集に応募して合格。上山草人を芸名とする。
 
 1912大正元年、近代劇協会を*伊庭孝らと旗揚げ。俳優として「ファウスト」などを演じる。
     *伊庭孝: 明治期のテロリスト伊庭想太郎の養子。俳優・演出家・音楽評論家。
 草人は多くの俳優をかかえ、妻と共に苦しい新劇運動の旅をつづけ不動明王を信仰するようになる。内地はむろん満州へも渡るという生活を10年ほど続け、ついにアメリカに赴いた (『宗教体験実話』1933宇宙社)。

Photo
 1922大正11年、妻と長男とともにアメリカ方々を渡り歩いた末にロサンゼルスに落ち着き、日本語雑誌『東西時報』を発行し、ハリウッドへ行ってエキストラになった。
 1923大正12年、ハリウッドで映画スタートなり、ダグラス・フェアバンクス主演[バクダッドの盗賊]でモンゴルの王子役で共演。47本の映画に出たが殆どが日本人役でなく中国人の悪役などだった。
   写真: ハリウッド映画“キング・オブ・キングス”のペルシャの軍人役 “BIG-GAME”[明るくやさしく上山草人]http://biggame.sblo.jp/ 
 国際的東洋人として知られたが、トーキーがはじまると英語がしゃべれないため仕事が激減、帰国することにした。なお、妻の浦路は英語ができたため、草人が日本に帰国してもアメリカに残り、ロスで「Uraji」という名で化粧品業を営んでいた。

 1929昭和4年12月20日、天洋丸でサンフランシスコから日本へ向かう。船客は元満鉄総裁・林博太郎、元東京市長・永田秀次郎、大村海軍中将などで、その中に大阪化粧品商報社の今井安太郎・ゆう子夫妻がいた。
 草人は眉墨など美顔化粧術をやっていたとき今井の結婚式で花嫁ゆう子に眉墨をほどこした。今井は奇遇に驚き、旅行記 『世界一周旅日記』にそのエピソードを記している。

 1930昭和5年1月から、浅草・大阪・名古屋・京都・新宿の松竹座で「モンゴルの王子」を上演。
 1935昭和10年2月~3月にわたってロシア・モスクワで行われた第一回映画祭に松竹合名会社代表として出席。国債観光局政策の「四季の日本」を持参したが、ソ連の共産主義国体が日本の帝国主義と相容れない状態にあり日本の文化が理解されていないと報告 (『財団法人国際文化振興会事業報告書.昭和10年度』1937国際文化振興会)。
 1938昭和13年、「銃後の古巣飛び出して」慰問団に加わり軍地に赴く。東京を出発して長崎から上海へ渡る。以下その顔ぶれ。
 A班:松原操・赤坂小梅(歌謡曲)・赤坂喜美栄(三味線)・柳家権太楼(落語)・服部良一(器楽指揮)ほか5名。
 B班:川畑文子(歌謡曲舞踊)・渡辺はま子・伊藤久男(歌謡曲)・末広友若(浪曲)・上山草人(漫談寸劇)ほか5名。
 草人は三度ほど上海にいったが 『銃後の横浜:皇軍慰問号』(1938横浜市出動軍人後援会編)に寄稿
 ――― 最初は排日が表面化していなかったが、二度目は反感から排日のポスターが軒先に貼り付けられたりした。慰問にいったのに飛行機で運ばれたネタで天ぷらや刺身で労われ、旨いよりもったいなくて喉を通らなかった。戦いが激しかった跡には、墨痕もあらたに墓標がたちならび、名誉の戦史を遂げた新しい墓標の前に立つと涙が自然にでて止まらなかった。

 1954昭和29年、黒澤明監督[七人の侍]の琵琶法師が最後の出演映画で、晩年は不遇であった。
    同年7月28日、東京世田谷区の大脇病院で死去。70歳。
    墓所は青山霊園 (上山草人-wikipedia)。

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2016年2月 6日 (土)

明治の教育家・美術保護者、髙嶺秀夫(福島県)

 前回、「唱歌」が気になって伊沢修二を取り上げたら作曲家ではなく、文部省の役人、東京高等師範学校校長という経歴で意外な気がした。調べてみないと判らない。また解ると面白いなと思いながら、次は福島県の人物をと考えていると、偶然にも伊沢と留学し共に師範教育に尽くした会津若松出身の人物がいた。髙嶺秀夫である。

 1854安政1年、福島県会津若松市で生まれる。父は会津藩士・髙嶺忠亮。藩校日新館で学び漢学で頭角をあらわし*南摩綱紀とともに藩主松平容保の側近となった。
    * [会津藩士のカラフト、明治の教育者・南摩綱紀] 
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-4b87.html

Photo
 1868明治元年、戊辰戦争のとき、父は早く亡くなり母に育てられた秀夫はまだ14歳、白虎隊に加われず、御小姓として藩主松平容保の傍らに侍った。会津若松で籠城中、日夜砲煙弾雨に包まれた。
  秀夫の母は、舅姑と秀夫の弟妹を連れて隠れ、一時は死を覚悟したが生き延びることができた。秀夫ら会津藩士は戊辰の戦に敗れ東京に送られ謹慎となった。赦免後、秀夫は沼間守一の私塾に通い英語を学ぶ。明治のジャーナリスト・政治家として沼間を知る人も多いだろう。旧幕臣で戊辰戦争では会津に行って戦い、また子弟に語学を教えた縁もあるのだろう同塾では、山川健次郎・柴四郎らも学んだ。
 1871明治4年、藩命(斗南藩)により慶應義塾で洋学・漢学を学び、のち、教員もした。
 1874明治7年、福澤諭吉の推薦で文部省に出仕。
 1875明治8年7月、伊沢修二・髙嶺秀夫は師範教育研究のためアメリカ留学を命ぜられ、伊沢はマサチューセッツ州ブリッジ・ウォーター師範学校、髙嶺はニューヨーク州オスウィーゴー師範学校で学んだ。
 1876明治9年7月、オスウィーゴーを卒業。その後もアメリカで、翌年3月帰国するまで博物・心理学・生物学の学習に全力を尽くした。
 1877明治10年夏、ペニキーズ島で自然史のアンダーソン学校に通い、コーネル大学の動物学者バートワルダーの下で一学期間勉強した。当時、社会的反響をよんだダーウィンの進化論を知り動物学を学んだ。他にも動物学校などで研究し動物学を修めた。

 1878明治11年10月、帰国後、伊沢修二・東京高等師範学校(現筑波大学)校長補となり、髙嶺秀夫・校長補心得となる。

   [伊沢・髙嶺時代の改革] ――― 師範教育における最新の知識と識見をもって、東京師範学校の改善につとめた。2月、教則を改正、ついで9月~10月、諸規則を改正して師範学校としての組織を整えた。小・中学普通学科の教員を今迄より養成する場所とし、なお学科と教授法とを分離しないようにした。今迄のように生徒に本を読ませるだけでなく、生徒の自発性を重視した。また、格物学・史学哲学・数学・文学・芸術の5部門をたて、履修する課程を一目瞭然にし、修業年限も一年半延長した。
    (『創立六十年』1931東京文理科大学・東京高等師範学校共編)

 1879明治12年3月、伊沢修二校長に、髙嶺秀夫訓導兼校長補に任ぜられる。
 1880明治13年10月、伊沢・髙嶺「教科書編纂ニ付意見書」を提出、児童の心理的特性に留意すべき旨を主唱す。
 1881明治14年7月、伊沢文部省少書記官、髙嶺秀夫校長兼教諭に任ぜらる。同時に、軍人勅諭に関係が深い文部省御用掛・西周が校務嘱託となった。
 1882明治15年4月、「*ペスタロッチ主義教授法の普及浸透を期し、現職教員講習組織化の旨を稟議」(6月7日、師範学科取調員を募集)。わが国師範教育の基礎を確立し、注入主義を廃し、ペスタロッチの開発主義教育を主唱して教育会に影響を与えた。
     *ペスタロッチ: スイスの教育改革家。ルソーの『エミール』を愛読。

 1885明治18年、東京女子師範学校を合併、併せて付属する高等女学校・女児小学校・幼稚園をも所属となり、髙嶺はこれらを管轄したが、明治23年再び分離される。
 1886明治19年3月、『新教育論』(ゼームス・ジョホノット著・髙嶺秀夫訳)教授原理と実際の訳著全4巻を東京茗渓会から刊行。
  髙嶺に替わり同じ会津出身、陸軍省総務局制規課長陸軍歩兵大佐・山川浩、校長兼任となる。山川はまもなく専任校長となり12月陸軍少将に進んだ。
 1891明治24年8月、山川に替わり髙嶺秀夫、教授・校長兼教授に任ぜられる。
 1893明治26年9月、髙嶺に替わり*嘉納治五郎校長に任ぜられる。
     *嘉納治五郎: 教育家・講道館柔道の創始者。
 1899明治32年、東京美術学校(現東京藝術大学)校長を兼務。

 1901明治34年、「髙嶺秀夫氏家庭の安全弁並ドクトル、ス、ビルの事」
                                  (『家庭の教育』1901読売新聞)
  ――― 体育の用を兼ねて(髙嶺家)庭園の芝生を広くし大弓射的場を作りてパラレルバーを設け、且つバーは高低二段を設けて長幼各その体に応じ、その下には砂を敷き相撲土俵の代用に充てしむなど用意、体操、テニス、球投げ、二人三脚など日々運動の絶え間なからしめ・・・・・・子息三人いずれも皆よく技に長じ・・・・・・夫人も洋楽を学びたれば、食後の如きは一家団欒の際、常に夫人の音楽を聴き洋々春の如き中に談笑するなり
 ―――顧みれば今世のいわゆる紳士と称する者多くは家を捨て妻子を忘れ、己独り放蕩遊楽に耽るを・・・・・・髙嶺氏が家庭内の遊技和楽が善く平生勉学の鬱を散じて、その身内の安全を保つを以て蒸気機関の安全のため、弁を設けて時どきその気を漏らすに比し、旅行外遊の費用を要するも、善く身体を健康にし精神を爽快にし、新たに一層の勇気を喚起するものもあるを以て、これを医薬の黄金を投じてその効果を収むるに比し、名づけて安全弁といい、これを称してドクトル、ス、ビル(医師の書付)となし
      

 1907明治40年、第一回文展(現在の日展)審査員。
   近代日本の美術の保護奨励にも大きな足跡を残した。髙嶺は日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は3千点以上にもなり、浮世絵の研究を通して*フェノロサとも交遊していた。
    *フェノロサ: アメリカの哲学者・美術研究家。明治11年、御雇外国人として来日。
 1910明治43年、57歳で死去。葬儀には各界から千人以上が参列し別れを惜しんだ。
            墓所は東京豊島区駒込の染井霊園。

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