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2016年3月

2016年3月26日 (土)

活版印刷・鉛版のはじまり、加藤復重郎(江戸)・古井多助(長野県)

 ――― 永らく文撰工や植字工としてはたらいてゐた。小説など書くやうになつても活字は、鐵砲や、蒸汽機關や、自動車と一緒に、潮のごとく流れこんできたもので・・・・・・有難いとも思はぬやうな、恩澤に馴れたものの漠然とした無關心・・・・・・表現する文字が出來、多數の他人と意志を疏通、後世にまで己れの意見をつたへたりするやうなことが、どんなに大したことであるか
 ――― 加藤復重郎といふ日本最初の鉛版師、紙型をとつて活字面を鉛の一枚板に再製する工程であるが、紙型は雁皮紙を數枚あはせれば凹凸が鮮明になる、スペースと活字面の高低にボール紙を千切つて加減をとればいい、それを發見するまでの悲喜劇を織りこんだ苦心の徑路は、たとひ印刷關係でないものでも身うちの緊きしまる思ひがする。
 ――― 活字の字形を書いた竹口芳五郎といふ人は、平野富二に見出されるまで、銀座街頭で名札を書いてゐた、最初のルーラーの研究者・境賢治とか、活字ケースを創つた山元利吉の苦心談、近代日本の印刷術が完成するまでのたくさんの有名無名の發明者、改良者の苦心があつたが・・・・・・發明者とか改良者とかいふ人が、多くは産を成したわけではなく窮乏離散・・・・(『光をかかぐる人々』日本の活字1973徳永直)

   写真、明治初期の印刷風景。(『印刷製本機械百年史』よりM     加藤 復重郎  

 1848嘉永1年、加藤復重郎(かとうまたじゅうろう)、江戸浅草に生まれる。
 1868明治1年、安政の開港から9年経った横浜は、外国商館が建ち並び文明開化の先端をいく新開地であった。居留地から「タイムス」「ジャパンヘラルド」「ガゼット」「エキスプレス」、1870明治3年には「ジャパンメイル」「ファーイースト」など外字紙が発行された。日本では活版印刷が始まったばかりで同年、鉛活字を使った「横浜毎日新聞」が創刊されたばかりである。
 そのころ、加藤復重郎が横浜の「ジャパンヘラルド」および「ジャパンメイル」につとめ、外国人の職工から活字の鋳造・活版印刷・紙型鉛版などを学び、紙型鉛版の開拓につとめた。
 1873明治6年、加藤は知人で工部省在勤の阪谷芳郎(政治家・貴族院議員)から、勧工寮活字局製造の活字類の販売をすすめられた。その後、活字局は印書局となり加藤は印書局売りさばき方となり、かたわら印刷の仕事もする。
 印書局は、幕府以来の官営活版技術と設備の大半を引き継いで、1872明治5年9月に発足した政府刊行物印刷の国立機関。鋳造活字・紙型鉛版などの民間へ販売もしていた。その販売広告の主は「印書局活字売捌方 加藤復重郎」である。

  1874明治7年、加藤は、当時長崎の活版印刷の創始者・本木昌造のもとから東京にきていた平野富治と親交を結び、平野活版所(のち東京築地活版所)にいって、紙型鉛版の技術を教える。これに遅れること一年半、古井多助も紙型鉛版に成功する。
 1876明治9年11月、印書局は大蔵省紙幣寮所属となり、新工場が出来るとともに蒸気機関を据え付けて動力印刷を開始する。
  このころ加藤は加藤活版所を設立、各所の印刷を引き受ける。
 1877明治10年、『売薬規則』、『埼玉県管内区分宿町村名録』などを印刷する。
 1882明治15年、薬酒商の機関印刷所として浅草森田町10番地に積文社を設立、薬種方面の印刷物を独占した。
 1884明治17年3月、漢文『仰天嘆論』を著述刊行。
   (近代デジタルライブラリー  http://kindai.ndl.go.jp/ )
 1914大正3年、死去。66歳。

     古井 多助 

 1854安政1年、長野県に生まれる。
 1873明治6年、19歳で上京。上野広小路の活字製造業・蜷川初三に弟子入り。活字製法に従事研究するが、蜷川が廃業。二人一緒に銀座4丁目の印刷所・博文社に入る。

 古井は博文社社長の長尾景弼から洋書を見せられ、ステレオタイプの研究を命ぜられる。外国図書を手引きに紙型鉛版の製法を研究、工夫したが実用に至らなかった。そのうち脚気になり未完成のまま退社。

 1874明治7年、「読売新聞」が日就社印刷の子安峻らにより創刊された。「読売」は小新聞の元祖で娯楽と雑報が中心であった。当時の新聞は、まだ漢学的教養をもつ一部知識層の専有物に過ぎなかったので、読売ははじめから大衆を対象として口語体でふりがな付の平易な新聞を発刊したのである。
 1876明治9年1月、古井は「読売新聞」に入社。入社してすぐに、印刷技師・平山耕雲に命ぜられ、新聞4ページの紙型鉛版製作にとりかかる。苦心の末、3ヶ月で完成。同年11月11日の読売新聞は、初めて紙型鉛版によって印刷された。

 ふだんは前日から刷りはじめて翌日、午後までかかる印刷が、この日は朝までに完了。工場関係者は初刷りの新聞を手にして喜びあった。古井は、最初美濃紙をつかい、ついで雁皮紙、ボール紙と実験を重ね、何枚も糊づけしたり、組み版にかぶせた上から刷毛で叩いたり、炭火で乾燥するなど、さんたんたる苦心をした。やっと成功したものの新聞4ページの型どりに2時間以上もかかり、かえって手間どる状態だった。平山の指示で少年工4人を古井につけて養成、所要時間を1時間に短縮することができた。しかし、鋳込みが不完全なため印刷は不鮮明になりがちだった。

 1877明治10年、読売本社の銀座移転後、鋳込み機械を備え、全面的に紙型鉛版に切り替えた。このころ発行部数が増加し、手刷りが限界にきていた。大垣藩大砲鉄砲鋳立掛をつとめていた平山耕雲は、蒸気動力による印刷を考え、川蒸気の機関を買い入れ蒸気印刷をはじめる。紙型鉛版とともに新聞界における画期的な技術革新である。
 やがて古井多助は退社、神田で自ら印刷所を経営。晩年は、東京鉛版工業会の顧問をつとめた。
 1832昭和7年、78歳で死去。  

   参考: 『印刷製本機械百年史』1975印刷機械製本機械工業会/ 「読売新聞の誕生」/『コンサイス日本人名事典』三省堂/『印刷産業綜覧』三谷幸吉1937印刷往来社 

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2016年3月19日 (土)

自由民権家弁護士、伊東圭介と煙山八重子(岩手県)

    伊東圭介

 1857安政4年8月5日生まれ。盛岡藩目付役、伊東元右衛門の長男。
  盛岡藩の学校*作人館に入学。ここで原敬・佐藤昌介・阿部浩・東条英教・那珂通世・田中館愛橘なども学んだ。
   *作人館:  “東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)” http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-fbfd.html

Photo
 1873~1874明治6~7年頃、東京にでて小原洋学塾学ぶ。まもなく、父の命により帰郷して家督を相続、県の聴訴課(現在の裁判所)に勤める。このとき県令・島惟精からフランス民法の本を与えられる。
 伊東は、民法――主として国民の私権の通則を規定した法律―――に感ずる所があり辞職して、可明舎を設け法学を研究する。
 1875明治8年、代言人規則が公布され、伊東は受験して及第、免許代言人となった。
官尊民卑の風潮が強いなか伊東は弱い人々の味方となるため代言人資格を取り活動。貧しい人々の依頼を進んで引き受け、自身の正義感に基づいて処理したので司法官からも好意を持たれた。

 1876明治9年、協同社を設ける。当初は法律研究を目的としていたが、次第に自由民権についての論議となる。社員は小山英武・布施長成ら代言人と公証人の梅内直曹ほか。
 1878明治11年、盛岡の自由民権運動団体、求我社鈴木舎定は東京で板垣退助・星亨・河野広中らと接触していたが、郷土の思想統一のため盛岡に帰郷。
 1880明治13年、民権自由論はいよいよ盛んになり、国会期成同盟第2回大会が東京で開催される。

 1881明治14年、伊東圭介と鈴木舎定は協同社・求我社を合併して自由党盛岡支部を興す。伊東は演説に長け政談演説会には必ず演壇に立ち傍聴者を感動させた。
 期成同盟大会に出席した有志委員が会合して自由党組織を決議する。鈴木は岩手を代表して出席、自由党大会には星亨らと並び常議員席に就き日本の政治を担う大器と目されたが、志半ば、29歳で没した。鈴木の没後、伊東が求我社の中核として活躍する。同年、次女・八重子(のち煙山専太郎夫人)生まれる。

 1884明治17年、盛岡の長松院で政談演説会が開かれ、伊東は
「黒田内閣顧問の職務につき誹毀」したとして官吏侮辱罪に問われ、重禁錮2ヶ月罰金10円に処せられる。政府を真正面から攻撃する伊東はたびたび禁固刑に処せら演説を禁止された。
 その後、大同団結派に賛成し過般、後藤象二郎の入閣に際しては弁解委員となり、九州地方を遊説する。
 1887明治20年10月、後藤が民間政客をあつめておこした大同団結運動大会に出席。
  同年12月26日、保安条例公布・施行。伊東圭介は、片岡健吉・中島信行・中江兆民・*横川省三らとともに皇居周囲三里以内から追放となる。追放された人数は570名。
   *横川省三: “明治の志士・日露戦争の軍事探偵、横川省三” http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/07/post-5867.html

 1890明治23年7月1日、第1回衆議院議員総選挙。岩手県第2区(閉伊・九戸地区)から立候補、当選。
 1894明治27年9月1日、第4回総選挙に当選。同年9月13日、日清戦争のため大本営を広島に移す
   伊東は、すでに政治活動もできないほど体が衰弱していたが、広島で開催された臨時議会に出席。そのためこの後、12月22日召集された第8議会にはとても出席できる状態ではなかった。しかし自分の死期を悟った伊東は最後まで議会に出ようとして上京した。
 1895明治28年2月5日、議会開会中、同士の坂本安孝の家で逝去。伊東圭介まだ38歳、次女の八重子14歳、残された妻子の苦労も偲ばれる。

   参考: 『岩手県国会議員列伝・私撰投票』村上繁次郞1889哲進堂 /岩手県教育委員会・歴史文化課HP/ 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

          **********

    煙山八重子けむやま やえこ

 1881明治14年、伊東圭介の次女に生まれる。盛岡女学校(現盛岡白百合学園高校)卒業後、明治女学校普通科を経て、母校盛岡女学校などで教鞭をとっていた。夫の煙山専太郎は、早稲田大学史学科充実の功労者として知られている。
 1923大正12年9月1日、関東大震災が発生。八重子が住んでいた地域はほとんど被害を受けなかったが、下町を中心とした地域の惨状は目を覆うばかり。夫や帰る場所を失い、子どものミルクもなく困り果てた母親たちの姿を目の当たりにした八重子は、「何か私たちにできることはないか」と、友人の新渡戸コト(新渡戸稲造の養女)、塚原ハマ(盛岡女学校の同窓生)らと立ち上がる。3人は基金づくりに奔走、内務省、東京市、大震災善後会からの援助を得て、東京巣鴨上富士町に20畳ほどのバラック建て母子寮「愛の家」を設立、被災した母子たちを救護した。
 また、単に被災婦人を救護するだけにとどまらず、平時であっても扶養者を失った母子の生活の安全と向上を計ることが必要であると考え、託児所、授産および職業相談なども行い、日本における母子生活支援施設の礎を築いた。「愛の家」の活動は、公的な団体からの支援ばかりでなく、個人寄付やボランティア、友人たちの協力、そして夫・専太郎の理解により支えられた。
 1955昭和30年、死去。
   参考: 岩手県立図書館 <岩手復興偉人伝>       https://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/02.html 

 
   煙山専太郎

 1877明治10年、岩手県生まれ。明治・大正・昭和期の政治学者。
 東大卒業後から早大にあって国際政治史を講じた。卒業論文でもあった「近世無政府主義」は当時ロシア・ナロードニキの唯一のガイドブックであり、幸徳秋水・宮下太吉・管野すがらに大きな影響を与えた。
 1954昭和29年、死去。著書多数。
     参考: 『コンサイス日本人名事典』三省堂

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2016年3月12日 (土)

民権派教師・若生精一郎とその兄・若生文十郎 (宮城県)

 1847弘化4年、仙台藩槍術指南の若生徳之進の第3子に生まれる。兄は若生文十郎。
   幼くして漢学に志し和漢の書を読み藩校養賢堂で学ぶ。傍ら武術に励む。
 1869明治2年4月14日、若生文十郎、官名意により切腹。28歳。大聖寺に葬られる。文十郎は戊辰戦争時、軍務局副頭取・近習兼郡奉行で奥羽列藩同盟に奔走し活躍したが仙台藩は降伏、ついに
「世運の極まるところ方向を誤り、新政府軍によって切腹を命ぜられた」。若生文十郎の名は、『仙台藩人物叢誌』殉難の項に短いながら記されている。
 若生家は士分剥奪となり、精一郎は零落して貧困となった。それを見かねた友人らが「官途によって一時窮を免れんことを」と進めたが精一郎は聞きいれなかた。兄と同じ熱血漢の精一郎は困難な状況にあっても、兄の命を奪った新政府の官吏になろうとは思わなかっただろう。

 1874明治7年2月、小学校教師を育成する官立宮城師範学校に入学。学資は官費で寄宿舎があり、募集定員は150名、年齢は20から~35歳であった。地理・史学・算術・物理・画学(絵、地図)・体操・唱歌・博物・修身などを2年間学ぶ。
 1875明治8年、全科を卒業し7月19日宮城県派遣となる。

 1876明治9年4月、訓導(小学校教員の旧称)として四番小学校(培根小学校北四番丁木町通角)赴任。若生は校長相当(当時は校長という職名がなかった)二代目、初代の白極が培根小学校とした。
 培根(ばいこん)の意は、幼少期に基礎・基本をしっかり身につけ、将来さまざまな方面で才能を発揮させるというもの。この考えが幼稚園開設につながる。
    6月、宮城県令・宮城時亮宛て
「培根小学校へ裁縫仮規則を設けたく願書」を提出、明治11年4月、裁縫科を設置。
 子守のため授業を受けられない女児に「児を負いたるまま無月謝」で通えるようにした「子守学校」である。若生ら教師は幼児教育だけでなく女子教育にも目を向けていた。
    12月12日、若生は県に、木村敏(養賢小学校教諭・仙台師範学校長兼務)ら7名で、学齢外の年長青少年のための「夜学校設立願書」を提出。

 培根小学校生徒ははじめ2、30名に過ぎなかったが、3年後には500名になり校舎も新築。度量が大きく小さいことにこだわらない若生、児童を愛し児童からも慕われた。作文や社会科教育に熱心だったが、作文は丁寧に添削をしたので、児童は授業を待ち焦がれるほどで、宮城県下教員の随一と称された。
 1878明治11年、『小学作文類題』(松風竹影書楼)を編集発行、その序文に、小学校で作文の課題を与えるのに苦心してとある。実にさまざまな題があり、順に見ると明治初年の世相、若生の関心事がかいまみえ興味深い。
 次はほんの一例、
 ――― 春夏秋冬季節。手簡文:暑・寒中見舞い・友人の暑邪病を問う文・月夜友を招く文。   雑の部:富士山・博覧会・公園・新聞・算術・県会。  論説の部:教育の盛衰は国の強弱に関する・少年は草木の花時の如し・戦場にある友人に与うる文・花より団子とは如何なることなる・人の権利とは如何なるものなるや

    6月7日、培根小学校の同僚・矢野成文が、まだできてまもない東京女子師範学校附属幼稚園を見学するため上京。若生は矢野の附属幼稚園の開設計画に理解を示し協力する。
    10月、仙台に「鶴鳴社」を設立。

 1879明治12年3月27日、仙台区公立木町通小学校授業雇となる。
    6月、同校訓導白極誠一と協力して同校附属幼稚園を設立。この年、教師を辞職。
    8月、「宮城日報」創刊。若生が社長、社員に虎岩省之、塚本四素ら。

 1880明治13年、村松亀一郎(のち衆議院議員)、鶴鳴社員・田代・高瀬・浅尾らと「本立社」を結成。時、天下の政党こもごも至り交わるという情勢で、大阪に愛国社、福島に石陽社求我社北辰社、至るところ政談せざるはなしという情勢だった。
 若生は愛国社の*国会期成同盟第二回大会に東北有志の総代として上京、宮城県1330名、山形県76名の署名をもって参加。天下の志士に交わり論じた。また、政府に「国会開設哀願書」を提出したが却下された。
   *国会期成同盟: 田母野秀顕とその妻  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/03/post-2829.html
   10月、『宮城県地誌要畧』(桜田憲章著・若生精一郎閲)出版。
   11月、仙台に帰った若生は「宮城日報」を白極・桜田に任せて病気療養をする。
 ちなみに宮城日報は、福島毎日新聞と合併して改題「仙台福島毎日新聞」、さらに「仙台絵入新聞」ついで「河北新報」となる。

 1881明治14年4月、古川小学校の校長となるも9月、病気のため辞職。しばらく志田の山中で養生していたが、治らず再び仙台に帰ったが、政論をしなくなった。暮らしぶりは、まだ30代前半ながら、月琴を弾じ絵を描き、風月を楽しんだというが、家計を度外視して借金が重なっていた。それでも何事もないかのように暮らし、養生していたのだが、病に勝てなかった。
 1882明治15年3月25日、労咳によりまだ35歳という若さで死去。

    参考: 『東北各社新聞記者銘々伝』加藤甫1881章栄堂(宮城県下白石町)/ 前村晃・佐賀大学文化教育学部教科教育講座<千大区木町通小学校附属幼稚園の開設期の景況と史的位置> / 『明治時代の新聞と雑誌』西田長寿1961日本歴史新書

       **********

 2016.3.11東日本大震災・原発事故から丸5年。 
 毎日新聞2016.3.10“小中学生2万5000人減、岩手・宮城・福島3県から流出、少子化に追い打ち”の記事。それでなくとも日本は少子化が進んでいるのに、復興未だしの被災3県は尚更なのだ。
 東北は戊辰戦争の昔からたいへんな思いをしてきている。たまたま前回は福島の田母野秀顕、今回は宮城の若生精一郎・文十郎兄弟をとりあげたが、同時期に死去している。戊辰の困難を超えて高い志を掲げて活躍のさなかに斃れた東北の青年がたくさんいた。青年の早い死は惜しんで余りある。それから、ほぼ150年後、東日本大震災・原発事故が起き、今又、東北は苦労と困難の中にある。せめて、その事を忘れないで、ささやかながら応援したい。

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2016年3月 5日 (土)

田母野秀顕とその妻 (福島県三春)

 1882明治15年、福島県令三島通庸は「某が職に在らん限りは、火付け強盗と自由党とは頭を擡げさせ申さず」と豪語。書記官や郡長以下の県吏を更迭、腹心で固めると、山形県・新潟県の二方から若松、さらに栃木県に延びる*三方道路の建設を決めた。日本海岸を東京に結ぶ道路網の建設は、東北の米先地帯を東京に直結するとともに内陸を横断して兵力の日本海沿岸への急速な展開を可能にするのだ。

 3月、三方道路開設に着手、県は会津6郡連合会を招集し、欺いて、道路建設の人夫賃として巨額の人民負担を承認させた。これを発端とし5月、県議会は三島の専横に議案毎号否決で対抗。すると、政府は集会条例を改正、反対勢力の民権派や自由党を分断。
 7月、会津地方農民は会津自由党員らの指導で抵抗運動を開始、訴訟運動を展開。
 8月17日、田母野秀顕が会津若松で帝政党党員に襲われ重傷を負った。
 ―――(帝政党員を巡査に使って弾圧)福島県庁は、三春その他の帝政党員を召募、仮に巡査を命じる。人員はおよそ150~160名なり(明治16.2.2朝野新聞)

 11月、仙台で奥羽七州連合会に田母野は福島から参加、次いで会津若松に赴き、会津三方道路開鑿反対運動を支援する。
 三方道路開鑿問題で対立は激化し指導者・宇田が逮捕される。県内外の自由党の応援を得、農民はこれを機に数千人が弾正ヶ原に集合。喜多方警察署に押し寄せた。しかし、抜刀警官に駆逐され約二千人が一斉に検挙された。
 1883明治16年9月1日、河野広中ら福島自由党首脳部も逮捕、政府転覆の内乱陰謀があったとして国事犯に処せらる。
     “〔鮭〕〔三島通庸三県道路改修抄図〕、洋画家・高橋由一”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/10/post-a818.html

       
        田母野秀顕 たものひであき

Photo 1849嘉永2年、陸奥国三春藩士・赤松蔀の庶子。幼名を恵寛、のち秀顕。
  幼くして父を喪い、常楽院の修験者・田母野浄因の養子となる。活発で寺院の仕事より撃剣を好んだ。闘争心が強く負けるのを嫌い、猪突猛進で大抵の者が彼に従った。庶子の生まれをからかう者があり怒って打殺そうとしたが止められてやめる。
 少年時代、独り山形に向かった。その旅の行程は一直線、道路がなければ森でも川でもひたすら一直線に山河を友として歩き通した。暫く山形周辺にいたが帰郷、三春で河野広中に慣れ親しんだ。この交わりを通して民権思想を身につけた。

 1868慶応4年、19歳のとき戊辰戦争。奥羽の小藩に過ぎない三春藩は奥羽列藩同盟に使者を遣わし人質も差し出した。ところが、河野広中の実兄・河野守右衛門らは勤皇の志をたて密かに活動、田母野はそこに参加する。深夜ひそかに土蔵で密談し、やがて朝廷に使者を派遣し勅旨を得る。
 こうした三春の動きを隣の二本松藩が怪しみ、兵をだしてきた。その一方、板垣退助率いる西軍も三春に迫ってきた。
 そこで三春藩の断金隊(河野兄弟・田母野ら)は板垣に降伏、会津討伐に参加する。会津若松城を攻める戦のさなか、広中の兄が戦死した。

 1873明治6年、西郷・後藤ら5参議が辞職し、民撰議院の建白書を政府に提出。これを知った田母野は憂国の志に目覚める。河野らと三春で民権論や国会論を唱え、民権論拡張のために奥羽各地を奔走するようになった。
 1879明治12年、河野らと三春に「三師社」を結成、自由民権など政談をする。そして、高知の立志社と結ぼうと考え、河野広中が立志社に書簡を送った。返事が来て河野は三師社ならび石陽社を代表して土佐に赴いた。立志社から河野宛に書簡の文末は
 ――― 実に斯民の自由権利を伸張し天下の公利公益を増進せんと欲する者也。貴社は即ち我国の東北にあり、我社は即ち我国の西南にあり、故に互に相裨(ひ)し相補はば国家の事それ庶幾せんか。
 1882明治13年、愛国社を改組し国会期成同盟が大阪で結成され、以後、片岡健吉・河野広中らが中心となって国会開設運動を進める。

 1881明治14年、正道館を設け自由民権の理を少年子弟に教育することになった。田母野は創立委員の一人として書籍を購入したり政治哲学を講じ、雑誌も計画した。
  10月、東京で国会期成同盟が開かれ自由党を結成、会議が浅草・井生村楼(いぶむらろう)で開かれた。今回は田母野も参加した。

 1882明治15年、福島自由党員のため無名館を設ける。三島県令の圧政が始まると、田母野は福島町に常駐し自由党福島支部の運動の采配をふるった。
  8月ある日、無名館で河野広中・岡野知庄らと居合わせた。この時、付け狙う者があるから用心した方がいいと注意されたが、田母野は
「吾が身の危険なるが如き顧みる遑あらんや・・・・・・死すれば自由とともに死せん、生きれば自由とともに生きん」といって会津若松に赴き清水屋に泊まった。
  8月17日深夜、帝政党員に襲撃される。抵抗し争ったが相手は十数人、田母野は満身創痍の重傷。命は助かり迎えが来て三春に帰ったものの家で養生するより、負傷の身で西白河石川郡などを巡回した。

 188316年1月末、田母野は東京で検挙され若松の獄に送られ、同獄には先に捕らえられた河野ら5人がいた。高等法院で内乱陰謀罪に問われ9月、禁獄6年を宣告される。
 他は禁獄7年:河野広中。禁獄6年:田母野秀顕相澤寧堅平島松尾花香恭次郎澤田清之輔
 入獄から二ヶ月の11月29日、田母野は石川島監獄で腸チフスにより獄死、34歳。
 銀座三丁目の寧静館で葬儀が営まれ谷中・天王寺に葬られた。植木枝盛星亨など弔辞をよむなど盛大な自由党葬であった。

       田母野秀顕の妻、名はノブ
 気丈な女性で、重傷を負い帰郷した夫がすぐ民権運動を始めるのにも理解を示した。生活はもともと苦しく、夫が獄中にいる時はますます貧乏になったくじけず、洗濯の仕事をして十歳の娘を養った。そればかりか苦しい中、やりくりして新聞を購読
 それは夫が帰るまでに時勢を知り、学び、夫が出獄したら、夫の志、行動を助けようとしたからである。しかし夫はその甲斐なく死去。ノブを思えば、「あわれというも猶あまりあり」だが、田母野の友人は
「婦人の如きは真の天下の女丈夫というべきなれば、是より後も猶その節を貫き、美名を広世に成さんと吾れ是を疑わざるなり」 ノブを思いやり、励ます。

   参考: 『田母野秀顕詳伝』(安井乙熊著1883芝西堂) / 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『明治日本発掘』1994河出書房新社

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