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2016年3月 5日 (土)

田母野秀顕とその妻 (福島県三春)

 1882明治15年、福島県令三島通庸は「某が職に在らん限りは、火付け強盗と自由党とは頭を擡げさせ申さず」と豪語。書記官や郡長以下の県吏を更迭、腹心で固めると、山形県・新潟県の二方から若松、さらに栃木県に延びる*三方道路の建設を決めた。日本海岸を東京に結ぶ道路網の建設は、東北の米先地帯を東京に直結するとともに内陸を横断して兵力の日本海沿岸への急速な展開を可能にするのだ。

 3月、三方道路開設に着手、県は会津6郡連合会を招集し、欺いて、道路建設の人夫賃として巨額の人民負担を承認させた。これを発端とし5月、県議会は三島の専横に議案毎号否決で対抗。すると、政府は集会条例を改正、反対勢力の民権派や自由党を分断。
 7月、会津地方農民は会津自由党員らの指導で抵抗運動を開始、訴訟運動を展開。
 8月17日、田母野秀顕が会津若松で帝政党党員に襲われ重傷を負った。
 ―――(帝政党員を巡査に使って弾圧)福島県庁は、三春その他の帝政党員を召募、仮に巡査を命じる。人員はおよそ150~160名なり(明治16.2.2朝野新聞)

 11月、仙台で奥羽七州連合会に田母野は福島から参加、次いで会津若松に赴き、会津三方道路開鑿反対運動を支援する。
 三方道路開鑿問題で対立は激化し指導者・宇田が逮捕される。県内外の自由党の応援を得、農民はこれを機に数千人が弾正ヶ原に集合。喜多方警察署に押し寄せた。しかし、抜刀警官に駆逐され約二千人が一斉に検挙された。
 1883明治16年9月1日、河野広中ら福島自由党首脳部も逮捕、政府転覆の内乱陰謀があったとして国事犯に処せらる。
     “〔鮭〕〔三島通庸三県道路改修抄図〕、洋画家・高橋由一”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/10/post-a818.html

       
        田母野秀顕 たものひであき

Photo 1849嘉永2年、陸奥国三春藩士・赤松蔀の庶子。幼名を恵寛、のち秀顕。
  幼くして父を喪い、常楽院の修験者・田母野浄因の養子となる。活発で寺院の仕事より撃剣を好んだ。闘争心が強く負けるのを嫌い、猪突猛進で大抵の者が彼に従った。庶子の生まれをからかう者があり怒って打殺そうとしたが止められてやめる。
 少年時代、独り山形に向かった。その旅の行程は一直線、道路がなければ森でも川でもひたすら一直線に山河を友として歩き通した。暫く山形周辺にいたが帰郷、三春で河野広中に慣れ親しんだ。この交わりを通して民権思想を身につけた。

 1868慶応4年、19歳のとき戊辰戦争。奥羽の小藩に過ぎない三春藩は奥羽列藩同盟に使者を遣わし人質も差し出した。ところが、河野広中の実兄・河野守右衛門らは勤皇の志をたて密かに活動、田母野はそこに参加する。深夜ひそかに土蔵で密談し、やがて朝廷に使者を派遣し勅旨を得る。
 こうした三春の動きを隣の二本松藩が怪しみ、兵をだしてきた。その一方、板垣退助率いる西軍も三春に迫ってきた。
 そこで三春藩の断金隊(河野兄弟・田母野ら)は板垣に降伏、会津討伐に参加する。会津若松城を攻める戦のさなか、広中の兄が戦死した。

 1873明治6年、西郷・後藤ら5参議が辞職し、民撰議院の建白書を政府に提出。これを知った田母野は憂国の志に目覚める。河野らと三春で民権論や国会論を唱え、民権論拡張のために奥羽各地を奔走するようになった。
 1879明治12年、河野らと三春に「三師社」を結成、自由民権など政談をする。そして、高知の立志社と結ぼうと考え、河野広中が立志社に書簡を送った。返事が来て河野は三師社ならび石陽社を代表して土佐に赴いた。立志社から河野宛に書簡の文末は
 ――― 実に斯民の自由権利を伸張し天下の公利公益を増進せんと欲する者也。貴社は即ち我国の東北にあり、我社は即ち我国の西南にあり、故に互に相裨(ひ)し相補はば国家の事それ庶幾せんか。
 1882明治13年、愛国社を改組し国会期成同盟が大阪で結成され、以後、片岡健吉・河野広中らが中心となって国会開設運動を進める。

 1881明治14年、正道館を設け自由民権の理を少年子弟に教育することになった。田母野は創立委員の一人として書籍を購入したり政治哲学を講じ、雑誌も計画した。
  10月、東京で国会期成同盟が開かれ自由党を結成、会議が浅草・井生村楼(いぶむらろう)で開かれた。今回は田母野も参加した。

 1882明治15年、福島自由党員のため無名館を設ける。三島県令の圧政が始まると、田母野は福島町に常駐し自由党福島支部の運動の采配をふるった。
  8月ある日、無名館で河野広中・岡野知庄らと居合わせた。この時、付け狙う者があるから用心した方がいいと注意されたが、田母野は
「吾が身の危険なるが如き顧みる遑あらんや・・・・・・死すれば自由とともに死せん、生きれば自由とともに生きん」といって会津若松に赴き清水屋に泊まった。
  8月17日深夜、帝政党員に襲撃される。抵抗し争ったが相手は十数人、田母野は満身創痍の重傷。命は助かり迎えが来て三春に帰ったものの家で養生するより、負傷の身で西白河石川郡などを巡回した。

 188316年1月末、田母野は東京で検挙され若松の獄に送られ、同獄には先に捕らえられた河野ら5人がいた。高等法院で内乱陰謀罪に問われ9月、禁獄6年を宣告される。
 他は禁獄7年:河野広中。禁獄6年:田母野秀顕相澤寧堅平島松尾花香恭次郎澤田清之輔
 入獄から二ヶ月の11月29日、田母野は石川島監獄で腸チフスにより獄死、34歳。
 銀座三丁目の寧静館で葬儀が営まれ谷中・天王寺に葬られた。植木枝盛星亨など弔辞をよむなど盛大な自由党葬であった。

       田母野秀顕の妻、名はノブ
 気丈な女性で、重傷を負い帰郷した夫がすぐ民権運動を始めるのにも理解を示した。生活はもともと苦しく、夫が獄中にいる時はますます貧乏になったくじけず、洗濯の仕事をして十歳の娘を養った。そればかりか苦しい中、やりくりして新聞を購読
 それは夫が帰るまでに時勢を知り、学び、夫が出獄したら、夫の志、行動を助けようとしたからである。しかし夫はその甲斐なく死去。ノブを思えば、「あわれというも猶あまりあり」だが、田母野の友人は
「婦人の如きは真の天下の女丈夫というべきなれば、是より後も猶その節を貫き、美名を広世に成さんと吾れ是を疑わざるなり」 ノブを思いやり、励ます。

   参考: 『田母野秀顕詳伝』(安井乙熊著1883芝西堂) / 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『明治日本発掘』1994河出書房新社

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