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2016年4月

2016年4月30日 (土)

自由党員たびたび保釈、安瀬敬蔵(福島県)

       安瀬敬蔵 (あんぜけいぞう

 1841天保12年、陸奥国田村郡堀田村(田村市)の庄屋の家に生まれる。
 明治初年、河野広中と接し、奥羽振興について議論する。
 1873明治6年、河野広中が常葉村*戸長のとき副戸長をつとめ、以後、磐前県(福島県東部)各地の戸長をつとめる。
      *戸長: 郡区町村編制法下の町村の長。旧来の名主、庄屋層から編制され政府行政官と町村代表者の二面性をもつ。
  旧相馬藩の有志、愛沢寧堅と謀り、政社を結ぼうとしたが、果たさず。河野広中と磐城平に会し、河野広中と土佐高知に赴き、板垣退助とあう。これにより喜多方地方に民権運動が芽生え、自由党の根強い地盤になった。
 1877明治10年、喜多方町戸長となる。
 1878明治11年、宇田一成らと愛身社を設立。戸長役場を社員の集会場に提供し、保管の物品を消費したとの嫌疑で、投獄される。
   後藤象二郎が東北に来、東北七州会に出席。喜多方病院設立にもつとめた。   
 1879明治12年、コレラが流行、予防に尽力。
 1880明治13年、愛国社再興大阪大会に代表を派遣し、国会開設請願書を提出。
 1882明治15年2月、自由党会津部理に就任。3月、喜多方警察署襲撃事件(弾正カ原)が起きたが、事件前に兇徒嘯集の嫌疑で若松監獄に捕らわれ投獄、保釈。しかし、証拠はないが余罪があるとして再逮捕、また保釈。政府と対立する自由党への取締りが厳しかった。こういう時代への後戻りはない方がいいが、なぜか不安がよぎる。
 1883明治16年3月、福島県令三島通庸の不正工事を宮城控訴院に告し有志とともに投獄されたが、保釈。
 1884明治17年、高田事件赤井景韶の逃亡幇助、加波山事件三浦文次をかくまったとして逮捕、保釈された。この事件などもあり、士族から豪農層にかけ広い支持をうけた自由党だが、統率できなくなり解党する。
 1886明治19年2月27日、安瀬は嫌疑がとけ釈放された。しかし昼夜を問わず探偵につきっきりで監視された。河野広中との接触を警戒された。
 1887明治20年、不平等条約改正問題がおこり安瀬は上京しようとしたが、治安妨害の恐れのあるものを皇居外3里に追放という保安条例のため行けなかった。そこで、会津地方に赴き、自由党再興を目指した。
 1888明治21年5月、おりしも後藤象二郎が大同団結を唱え、大同倶楽部設立委員として上京。のち会津五郡倶楽部を設立。

 1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法が公布される。
 1890明治23年7月、第1回衆議院議員選挙に自由党から立候補する。
   この総選挙はわが国はじまって以来で取締る政府も経験がなく、選挙人もその知識が浅く選挙権は忠実に行使された。福島四区(南会津・北会津・大沼・耶麻・河沼)は定員一人。山口千代作が当選、安瀬と同志の宇田成一も落選。安瀬はその後も第4回まで立候補するが、いずれも及ばなかった。
 立候補者8人の得票数は、山口千代作1372、三浦信六1053、山川浩849、佐藤泰治633、安瀬敬蔵370、柴四朗203、石川弥71、宇田成一38。
 ちなみに福島三区の河野広中は1526票を得て当選(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。

 1981明治24年、郡山と新潟を会津経由で結ぶ鉄道(現在の磐越西線・磐越東線)の官設鉄道敷設運動起こる。
 1892明治25年9月14日、自由党派を中心に岩越鉄道期成同盟会が設立される。自由党派は星亨をまねいて演説会を催すとともに、安瀬敬蔵らは10月に岩越線の実現を目的とする会津親民会を結成した。旧自由党の人脈がある安瀬は北越にも出向き、設立にむけて運動した。
 岩越鉄道はその後、鉄道敷設法に盛り込まれたものの、政府が着工しなかったため、私設鉄道運動に変わり、岩越鉄道株式会社が認可され、1899明治32年、郡山・若松間が開通する。

    晩年の安瀬敬蔵

 福島町にて代言人をつとめ、若松町にて法律事務所を開く。また、*熊本移民合資会社・福島出張所代理人として活躍。
 明治半ばころ、海外渡航ための移民会社ぞくぞく設立された。熊本移民会社海外渡航株式会社(広島)、東京移民合資会社森岡商会日本移民合資会社(神戸)は、「五会社」と呼ばれた。五会社は関連の京浜銀行と共謀して、「見せ金」の貸借や預金関係で移民から金銭を搾取して、巨利をむさぼっていたという説もある。安瀬がそういうこともあるのを知っていたかどうか。

 ――― 資産があれば単独移住も可なり。募集期間にその土地の移民会社の代理人に応募し、その代理人または移民募集人の説明する移住地の事情を聞き取り、申込書に調印して手数料を納め、保証人を立てその上で移民会社と契約が成立する。代理人がうける手数料は一人につき8円位であるが、この手数料をかなり増加し、または自己の所得を多くするため、あらゆる曲事が行われる(『到富成功南米移住法』T7.7.20 大森清次郎 広友社出版部)。

   *熊本移民会社:“明治期、ホノルルの名物男・勝沼富造(福島県三春)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/08/post-23d1.html

 1903明治36年6月、郷里に帰る。
 1908明治41年、死去。68歳。

   参考: 『安瀬敬蔵君小伝』(福島県第四選挙区衆議院議員候補者)山寺清二郎 / 「うつくしま電子辞典」 /『明治時代史辞典』吉川弘文館 / 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社

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2016年4月23日 (土)

明治期、熊本出身二人の池辺、池辺義象・池辺三山

 ――― およそ信義に大節の信義と小節の信義とあり、是非順逆の理をわきまえ、盡すべき所に盡すは、大節の信義なり。私情にかられて小節の信義に身をゆだね、遂にあらぬ禍を蒙り、千載の下に、汚名を流すような事あるべからず・・・・・・加藤清正の如きは、常に「臨大節不可奪」(大節に臨み奪うべからず)という語を守り、私憤私情を忍び、武士道の神とさへ仰ぎ崇められぬ。
                         (池辺義象1905明治38年)

 2016年熊本地震。熊本県と大分県も大きな地震が襲った。一週間経っても地震が続き、強い雨にも見舞われた。映像を見てあまりの惨状にことばがない。実際に被災されている方々の衝撃と困難はいかばかりか。どうかご無事で、祈るばかり。
 はるか以前、熊本に行ったとき雪で交通止めになり阿蘇山を観光できないことがあった。南国で雪! そのときは阿蘇山に行けなくて残念だったが、後年、緑の阿蘇山を訪れ、あの時の雪の阿蘇は貴重な経験かもしれないと思った。
 熊本城に10年位前に行ったが、さすが築城の名手・加藤清正が築いただけあって素晴らしく風格もある。これぞ城!と思った。それが、今回の激震で至るところ崩れ落ち・・・・・なんと無惨な。
 熊本城には清正の築城以来、さまざまなエピソードがある。なかでも西南戦争については城外の激戦地も含めて、広く日本中に語り伝えられている。

       池辺三山 (いけべさんざん)

 池辺三山こと吉太郎の父は、肥後西郷といわれた熊本藩士・池辺吉十郎、肥後国玉名郡の人。
 明治維新後、熊本藩少参事となった。隠居後、子弟の教育に携わっていたが、西郷隆盛が挙兵すると同志と応じた。その西南戦争では、熊本隊隊長として戦ったが、政府の徴兵軍隊に敗れ、後事を図ろうと脱走した。しかし捕らえられ、長崎臨時裁判所で死刑の判決、斬罪された。

 1864元治元年3月12日、池辺三山、本名・吉太郎は熊本京町宇土小路で生まれた。
 1877明治10年、父の死後、13歳で親友の国友重章の父・国友古照軒に漢学を学んだ。
 1881明治14年、上京。中村正直(敬宇)の同人社慶應義塾に入ったものの学資が続かず辞め、翌15年、佐賀県庁職員となった。
 1884明治17年、再び上京して旧熊本藩主細川家の学生舎監となった。

 1888明治21年、大阪に移り、東海散士柴四朗『経世評論』編集と論説を担当した。
  当時、幕府が締結した「不平等条約」を対等条約とするための条約改正問題が盛んに論議されていた。その条約改正問題の中心人物の一人、谷隈山中将に会うため、三山は東海散士に同行して、経世評論記者として谷をインタビュー。
 この谷干城こそ西南戦争で熊本鎮台司令長官として熊本城を守備して西郷軍を退けた将軍である。谷は三山に応えて
 「近来、後藤象二郎が奔走してる大同団結運動について困難であるけれども、政治がよくないときは矯正する勢力はいつの時代でも必要であろう」と。これを聞いた三山は
 「吾人が中将に望む所は亦此にあるなり」と条約改正に期待をよせた。ちなみに、税権の回復を達成したのは1911明治44年である。
 その日、谷は日記に「十二月三日土佐を発す。同四日神戸に着す。此日柴氏も来る。池辺吉太郎も亦然り、吉十郎氏の子なり」と記した。刑場の露と消えた敵将、池辺吉十郎の息子が条約改正問題で目の前に現れたのである。吉十郎の子を前に、谷の胸をどんな思いがよぎったろう。

 1890明治23年、『経世評論』経営不振のため上京、陸羯南『日本』新聞に入社。
 1892明治25年、旧藩主家の若殿・細川護成(もりしげ)の補導役としてフランス・パリに行く。細川護成は元熊本県知事・元総理大臣細川護熙(もりひろ) の大伯父。
 三山は3年半のパリ滞在中、池辺鉄崑崙の名で「巴里通信」を『日本』に掲載、日清戦争前後のヨーロッパの対日観や戦争観を伝えて好評だった。

 1897明治30年、『東京朝日新聞』主筆となり編集陣を刷新して紙面を充実。ナショナリズムに基づく権力への不偏不党的な言論活動を通じて、東京の新聞界で地歩を高めた。
 1907明治40年、文芸欄を新設して夏目漱石を『東京朝日新聞』の社員に迎え、漱石の作品を同紙が独占発表することになった。東京帝国大学教授を約束された漱石の朝日入社は、同紙への知識人読者の関心を高める契機となった。朝日の発行部数は急速に伸び、三山は長期にわたり主筆をつとめた。
 ところが、社内から長年の主筆、三山への不満が高まってきた。おりしも、新聞を通じ世論工作を行うとする桂太郎首相が三山への接近をはかった。三山がそれに応じると、三山への不信が社内ばかりか世間にも伝わった。
 1910明治43年、三山は村山竜平社長に辞意を申し出、朝日新聞を去った。
 1912明治45年2月28日、心臓疾患のため48歳の若さで急逝。
  ジャーナリスト政論記者・池辺三山は、陸羯南徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称されている。

      池辺義象 いけべよしたか

 1861文久元年、熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれる。号は藤園。
 1877明治10年、西南戦争の後、伊勢の神宮教院で学ぶ。
 1882明治15年、東京大学古典講習科に入学。同級に落合直文関根正直がいた。
 1886明治19年、卒業。国学者・小中村清矩(こなかむらきよのり)の養子となる。
    この年、『東洋学会雑誌』を発刊。
 1888明治21年、宮内省図書寮属をへて第一中学校嘱託。
 1890明治23年、第一中学校教授となり、女子高等師範学校教授を兼ねる。次いで、帝室博物館歴史部員、史料編纂委員をつとめる。
 1897明治30年、池辺姓に復する。翌31年、パリに遊学、画家の浅井忠と出会う
 1901明治34年、帰国。翌35年、京都帝国大学講師。
   池辺義象は早くから古典の改良を意識していた。とはいえ筆者に古典は難しく手に余る。それでも、次の文からは知識を得ようとする人間への理解がうかがわれ、人間味を感じる。それにしても、国文学者・法制史家・歌人の池辺義象は熊本人である。千葉県の村の図書館と、どんなつながりなんだろう。

   「図書館は人民の生命なり」(池辺義象)

 ――― 塵埃に埋もるる都市の人民が、時間を盗んで公園に集まるは何の為かというに、敢えて怠けんとのみにはあらず、少しにても新鮮の空気を吸い、青緑の草木をみていわゆる命の洗濯の必要あるが故なり・・・・・・図書館は何の為にあるか、言うまでもなく人々の知識の文庫にて・・・・・・図書館は人々に知識を与える一大文庫にして、都市の公園が、人民の生命たるがごとく、図書館もまた実に人民の生命なり。
          (千葉県香取郡常盤村『杜城図書館報告・第1』林為次郎1909)

Photo
 1907明治40年、『当世風俗五十番歌合』刊行。日露戦争後の世相を反映する職人歌合形式の掉尾を飾る作品、浅井忠の絵に池辺作の和歌を配した。
 写真は『当世風俗五十番歌合』の浅井忠の絵。近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読める。

 1914大正3年、宮内省臨時編集局編集、翌6年、御歌所寄人。
 1918大正7年、臨時帝室編集局編修官。
 1923大正12年3月6日、死去。63歳。

   池辺義象編著:
 『国学和歌改良論』、『大政三遷史』、『日本制度通』、『中等教育日本文典』『新撰日本外史』(ともに落合直文と共著)、『銀台公』、『偉人幽斎』その他。古典の校訂・注解・評釈にも多く関与した。
 歌人としては、詠草を雑誌『大八洲学会雑誌』『しきしま』などに発表した程度で、家集は公刊されていない。題詠が主のようす。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『民間学事典・人名編』1997三省堂

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2016年4月16日 (土)

伊能嘉矩・『台湾文化志』 & 坪井正五郎・弥生土器 (岩手県 & 江戸)

 坪井正五郎(つぼいしょうごろう)
 1863文久3年1月5日、江戸に生まれる。父は江戸後期の蘭医学者・坪井信道の養子の坪井信良(佐渡養順)。父の信良も幕府の奥医師をつとめた蘭方医。

 伊能嘉矩(いのうかのり)
 1867慶応3年5月9日、陸奥国閉伊郡横田村(岩手県遠野市東館町)に生まれる。伊能家は学者の家系で、学問の環境に恵まれていたので、祖父や周囲の学者から、修身・歴史・文章・国学などを聴講、伊能は早くから学問に親しんでいた。1874明治7年2月、小学校入学。
 1880明治13年、伊能、小学校全科を卒業。

 1884明治17年、坪井正五郎、東京帝国大学在学中に有坂鉊蔵・白井光太郎とともに本郷弥生町(東京都文京区向ヶ丘弥生)で*弥生式土器を発見する。同年「人類学界」を創立。
  *<市中及び近郊に存する太古の遺跡>(『東京案内』坪井正五郎1907裳華房)
  *〔弥生式土器発見の碑〕 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/04/post-9c28.html

 1885明治18年3月、伊能は19歳で東京遊学。麹町区の斯文黌を受験し中等科終年期に編入され、寄宿舎に入ったが学資が払えず退学。
    5月、二松学舎に入り、柳塾第五房に住み「日本維新外史(漢文)」を書いた。苦労の日々であったが、ときに師範学校制度の改正があり、岩手県立師範学校が給費生を募り、伊能は推薦で入学できた。

 1886明治19年、坪井は「人類学雑誌」を創刊。伊能も人類学界入会。

 1889明治22年、坪井は東大理学部助手となり、翌23年から3年間イギリス留学。
   同年2月11日、憲法発布の日。伊能嘉矩ら岩手師範生徒4人が寄宿舎騒動を起こし放校された。
    時の文部大臣・森有礼が食事三食ともパンと肉類の洋食、時事に関する新聞雑誌類を退けたので反発して騒動を起こしたのである。有名な寄宿舎騒動であるが、放逐された4人は相前後して上京。
 伊能は筆耕により食費を得て図書館に通って勉学につとめた。その秋、伊能は「東京毎日新聞社」に入り編集事務の傍ら、私学に通い外国語などを補習。

 1891明治24年夏、伊能は「東京教育社」に入り、雑誌「教育報知」の編集を担当。
 1893明治26年、坪井はイギリスから帰国後、帝国大学理科大学教授として人類学を講義。
   伊能は、「大日本教育新聞」が再興されることになり招かれて同紙の編集長となり、その一方、坪井正五郎から人類学を学ぶ機会に恵まれた。
 1894明治27年、伊能は「人類学雑誌」に談話筆記<オシラ神につきて>を寄稿。これ以後も「人類学雑誌」に寄稿する。

 1895明治28年、伊能は、人類学の補助学として日本周囲諸民族の言語研究の必要を感じ、朝鮮支那語協会で清国人・滋肪について清国官話、山崎英夫および朝鮮人に朝鮮文を学んだ。また、北海道のアイヌ人バットレンについてアイヌ語を学ぶ。

  同年4月、日清戦争後、台湾が下関条約により清国から日本へ割譲され、台湾総督府設置。11月、伊能は植民地統治まもない台湾に渡航、はじめ陸軍省雇員の名義、のち総督府民政局につとめ事務をとる。
 台湾で伊能は、台湾土語(昔から使われている言葉)講習所に入り、通訳・吉島俊明および台湾人・陳文卿に厦門語系に属する台湾土語を修め、台湾在住の漢人に養われていたアイおよびイヴァンについて、アタイヤル種族の土語を研究し、かたわらマレイ語を自修。
 「人類学雑誌」12月号に<台湾通信第一回>を寄せた。
 やがて台湾の軍政を改め民政組織になると伊能は、総督府嘱託となり台湾の地理・歴史の研究に着手。台湾はこれまでの争乱で、文籍図書が散逸、史蹟など破壊されてしまったので、伊能は公私の旅を利用して蒐集につとめ、考証の資料とした。

 1899明治32年、坪井正五郎、理学博士となる。

 1900明治33年7月、伊能は台南県下を巡視、手記「南遊日乗」を残した。渡台後の約10年間、5回ほどの実地調査を行い、また、台湾関係書15冊のうち10冊もの著書を残した。
 伊能と台湾との関係はその臨終に至るまで連続し、台湾における調査編集で、伊能が直接関係しなかったものは少ないといわれる。
 1904明治37年10月2日、伊能嘉矩は、人類学会会長・坪井正五郎から人類学研究の功を顕彰される。

 1905明治38年、伊能は職を辞して日本に帰国。遠野町に帰郷後、『台湾文化志』を起稿、また、『大日本地名辞典』の「台湾の部」をはじめとして論文を執筆、発表。
  晩年まで郷土を研究、遠野を中心に調査研究および執筆活動を盛んに行った。伊能は、酒・たばこを嗜まず終日、書斎にこもって筆硯に親しむ生活だった。
  同年、坪井正五郎、帝国百科全書・博文館『普通人類学』八木奨三郎著を校閲。

 1906明治39年、坪井、帝国学士院会員。これまでに、足利古墳埼玉県吉見百穴東京西ヶ原貝塚芝公園丸山古墳群などを発掘調査し、日本考古学の発展に寄与した。また、日本原住民としてコロボックル説を提唱。
 ――― 先生の唱えられたコロボックル論、エスキモーとの類似説は、根拠を変わりやすい風俗習慣の類似に置き、然も両者の存在年月日に数千年の差のあるのを軽視したため、今日ではもう役に立たなくなってしまった・・・・・・しかしながらこれ畢竟、時勢の然らしめたのに外ならぬ。坪井先生の時代に於ては、専門学者だけにより外わからない様な深い論文よりも、人類学の概念の宣伝の方が必要だったのだ。当時、日本のどこに遺跡があって、如何なる遺物が発見されるかといおう概念すら不明であった。先生の語力はその存在の末期において、この目的を達せられた。而して直接間接に、弟子の多くを養成せられたのである。
                   (『日本原人の研究』清野謙次1925岡書院)

 1910明治43年11月18日、『石神問答』柳田国男著に次の 「陸中遠野なる伊能嘉矩氏より柳田へ」(柳田賢臺へ、陸中遠野村 伊能嘉矩)を掲載。この書簡は、日本各地の土俗・民間信仰・伝説などを資料として日本民俗学を研究する柳田の「山人説話シャクジン」についての説。

 1911明治44年、坪井正五郎、欧米学事視察に派遣される。

 1913大正2年、坪井より4歳下の伊能嘉矩、この年、『上閉伊郡志』を著す。
   同年5月26日、坪井正五郎、ロシアペテルブルグの第5回 万国学士院連合大会に日本代表として出席中、急性穿孔性腹膜炎のため客死。50歳。
  ―――理学博士坪井正五郎は、博士界のチャキチャキにして而もまた人類学者の大立者なり。新版図極北の人類を研究せんと欲し、去夏、鞭をあげて樺太に向ふ。彼地に着するに及んで、霖雨あいにく降り続き、濁水野に溢れて毎日宿屋の籠城を余儀なくされる。正五郎ここに於て紙を丸めて一個一個のテリテリ坊主をこしらへ、以て翌日の晴天を呪ふ、樺太の天地にテリテリ坊主のあれますは之を以て嚆矢となす。
                        (『名士奇聞録』嬌溢生1911実業之日本社)

 1925大正14年9月30日、伊能嘉矩、病のため死去。59歳。
  ―――(柳田国男) 伊能嘉矩は、人間の歴史をその基礎から観察しようという地方学問の独立宣言を最初に世に投じた人であった/先生は東奥遠野のみの奥人では無かった。日本一国の学者の態度を以てその郷土を愛し、またその郷土に立脚して、弘く内外の事相を学ばれた。たとへ学問は奥遠く、人の生涯はよし短くとも、その志は永く諸君の間に活き、且つ成長することであろう。

  伊能嘉矩の著作: 柳田国男が尽力して成った遺稿集『台湾文化志』(1928刀江書院)は名高い。/『台湾蕃人事情』1900/『台湾志』1902/  『遠野史叢』第1~7編/ 遺稿集『遠野夜話』。

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2016年4月 9日 (土)

仙台の交通と電気、電狸翁・伊藤清次郎 (宮城県)

 僕は、金沢の貧乏儒者の倅で、弟妹も多かったので、大学を出るとすぐに働いて金をとらなければならなかった。幸ひ電気といふ新しい学問をしたので、就職の心配はなかった・・・・・・僕はよい仕事をしたいと思って、伊藤清次郎君の仙台電気にしばらく居ったが、その時始めて、市外の三居沢川カーバイトの試験をやった。夜店で使ふ、アセチレン・ガスを造った・・・・・・三居沢川のカーバイト事業は、東京大学工学博士・藤山恒一君、日窒の市川誠次君、伊藤君の4人で事業化した(『今日を築くまで』1938*野口遵)

  *野口遵(したがう): 大正・昭和期の実業家。大正期、硫安製造に成功し、宮崎県延岡に日本最初のアンモニア合成工場を建設、昭和に入ると朝鮮へ進出、やがて20数社の社長を兼ね新興財閥を形成する。

            伊藤 清次郎

 1856安政3年4月18日(1856.5.21)、伊藤清治とよねの次男として仙台河原町で生まれる。髭をたくわえた表情が狸に似ていることから号を電狸、口述『仙台昔話 電狸翁夜話』がある。

 祖父の小西利兵衛仙台城下河原町の薬種・雑貨を営む富商で、藩への献金――二百両を仙台藩校(養賢堂)医学館へ献納して、士分(金上侍)武士身分を与えられ、利兵衛は次男の清治を分家し本姓の伊藤を名乗らせた。士籍をもつ肩書きは伊藤清次郎の日常の生活や精神形成に大きく関係した。これといった教育機関の門をくぐったことはないが、独学で機械・電気に強い関心を示した。
 13歳のとき、戊辰戦争で輪王寺宮が仙台に来駕したとき御附人となる。

Photo     伊藤清次郎邸

 1872明治5年、伊藤は、戊辰戦争で会津追討のみぎり、九条公のお供の医官用の馬車が東京から船で寒風沢に送られ、仙台に運ばれたものの放置されていた4台の払い下げを受け、新河原町に一般用として人力車営業を開始、営業者は清水総八と称した。
 1877明治10年4月、西南戦争の時、伊藤は仙台から消防巡査百名を引率して東京に上り、警視庁に送り届けた。その帰り、伊藤は馬車を買い求めて仙台に帰り、往来乗合馬車業を営み、屋号を仙里軒とした。これが、仙台における馬車営業の始まり。
 1884明治17年、仙台区会議員。

 1888明治21年7月1日、三居沢の宮城紡績会社(社長*菅克復) 藤山常一が、紡績機用の水車を利用して発電機を取り付け、烏崎山上にアーク灯1基、工場内白熱灯50灯の試験点灯に成功、東北に明かりを灯した。日本初の水力発電による電灯の灯りである。
   *菅克復(かんこくふく): 仙台支藩一ノ関藩士の家に生まれ、明治維新後、武士の失業救済に心を砕く。私財で綿織機器を購入機織場を設立して士族の子女に職を与えたり、三居沢に宮城紡績株式会社を創設した。
   *藤山常一: 父は幕末から明治にかけ活躍した技術者。特にガラス工芸、印刷、鉛筆製造などに顕著な実績を残した。野口遵に紹介され仙台電燈会社の技師長となる。

 1889明治22年、仙台市会議員
 1892明治25年、宮城県会議員

 1894明治27年、宮城水力紡績株式会社が発電事業を始めるにさいし菅克復社長は、伊藤清次郎を宮城紡績の取締役に招く。以後、伊藤は議員に返り咲きせず実業に力を尽くした。
 1899明治32年10月、宮城水力紡績製紙株式会社と仙台電灯株式会社が合併、「宮城紡績電灯株式会社」と社名を変更。伊藤清次郎は取締役社長となる。会社は広瀬川の河岸にあり、そこから遠くない眺望絶佳の所に三居沢不動がある。

 1903明治36年、日本初の*カーバイト製造を成功。三居沢カーバイド製造所は伊藤清次郎を社長として山三カーバイド会社を設立。さらに、野口遵と後輩の藤山常一、同級の*市川誠次、宮城紡績電灯の伊藤清次郎らが携わり、日本カーバイド商会を設立。カーバイド商会は、カーバイド製造に関する技術に改良を加え、窒素肥料として石灰窒素や硫安にする革新的な技術を発展させた。伊藤は協力を惜しまず、その推移を見守った。
   カーバイト: 炭化物。生石灰とコークスを電気炉で熱するとできる。水と反応してアセチレンガスを発生。肥料の原料になり、今日では人工繊維、調味料などに利用されている。
   *市川誠次:当時、「カーバイド1ポンド4銭のものを6~7銭で売り、事業拡張していった。日露戦争の最中には、旅順攻撃の爆薬にカーバイドがいるとのことで、13~14銭で売り、調子がよかった」。

 1906明治39年、伊藤は、仙台電灯会社(配電)を合併。宮城紡績電灯会社社長として電気の発展・普及に努めた。世人に「電気頭」と呼ばれ、自らも電狸と号した。同年、石灰窒素、硫安製造工場は電力を大量に消費するため、発電所の建設が必要となり、野口は電源開発会社・曽木電気を設立。1908明治41年、曽木電気と日本カーバイド商会が合併して日本窒素肥料となる。

 1911明治45年12月、伊藤はこれまで仙台の電気事業を牽引してきたが、電力事業の拡大に伴い、私企業として維持管理することが困難となってきた。そこで電気事業の全てを仙台市に移管することになった。
 1902大正元年、仙台市と宮城紡績電燈社長・伊藤清次郎との間で、譲渡に関する折衝が行われた。譲渡費については種々紆余曲折を経たが、東京帝国大学教授工学博士・山川義太郎の示した裁定額で妥結した。三居発電所は仙台市に移管後、東北配電株式会社をへて、1951昭和26年、東北電力株式会社となる。
 
  <三居沢電気百年館>HPより。  宮城の近代化遺産は、三居沢において進められた三事業所、宮城紡績会社・三居沢発電所・三居沢カーバイド製造所で構成されており、前にこれら3社の所在位置を示す鳥瞰図の設置を切望している(仙台市青葉区荒巻字三居沢)。

  1919大正8年、伊藤清次郎、仙台市街自動車会社(仙台市営バスの前身)の創設に参画。
 1933昭和8年3月3日、三陸地震・津波、死者3008人。義援金10円送る。
 1938昭和13年11月13日、死去。82歳。仙台・寿徳寺に眠る。
 「仙台昔語 電狸翁夜話」は、幕末から明治にかけての仙台の様子を知る第一級の資料となっている。筆者は未見だが、法政大学・早稲田大学図書館に所蔵されている。

    参考: http://www.tgmech.com/index.php?FrontPage さんえる(東北学院大学工学部機械の同窓会) / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『仙台繁昌記』1916富田広重 / 『仙台アルバム』1915白崎民輔(白崎写真所)

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2016年4月 2日 (土)

漢詩人・俳人父子、大須賀筠軒・大須賀乙字(福島県)

 旅立ちの春、小学6年生は中学校の制服で卒業式に臨むことが多い。大震災と原発事故に遭った大熊町民の多くが学校ともども会津若松市に移転。大野・熊町小学校の生徒は一年間だけ大熊町の校舎で、あとは会津若松市内の校舎で学んだ。年々生徒が減るという厳しい現実。今春の卒業生は22名で、しかも進学先はあちこち分かれる。大熊中学へ9名、会津若松市内の中学8名、いわき・郡山市の中学3名、遠く九州福岡県の中学へ進学する卓球少年もいる。家族の都合で生活根拠地が変わるのは仕方なく無理もない。とはいえ、見送る先生方の心中は察して余りある。
 ところで、いわき市内の中学に進学する生徒の先輩にあたるか分からないが、磐城ゆかりの学者と俳人の父子がいる。江戸時代に磐城を治めていたのは磐城平藩、幕末の平藩に儒学者・神林復所という人がいた。その末子が明治の漢詩人・大須賀筠軒で、その次男が明治・大正期を代表する俳人の一人、大須賀乙字である。

      大須賀筠軒おおすが いんけん)

  筠軒の漢詩、「平城の墟を望み、戊辰戦沒の諸子を憶うあり・・・・・・」長いので読み下した他詩を末尾に引用した。声に出して詠むといっそう胸せまる。   

 1841天保12年、福島県磐城で儒者・神林復所の末子として生まれる。
    幼い頃、四書・五経の素読を受ける。若くして昌平黌に入り、安積艮斎に学んだのち平藩儒学者となる。
 1864元治元年、24歳で大須賀家の養子になるが、義父は詩酒を愛して家事を顧みず短い生涯だった。後を継いだ筠軒は家事の煩労を忘れようと各地を放浪し仙台に遊学、詩を大槻盤渓に学び、岡鹿門と交流し親しくなった。
 1865~68慶応年間、逼迫している藩財政のために荒れ地を開拓して藩費の不足を補うことを献策。ところが有司の怒りに触れ禁錮となった。のち、赦されたが士籍を離脱。

 1868明治維新後、以前の献策を藩公に認められ藩の督学となる。
 1871明治4年7月、廃藩置県。大須賀は初代の相馬郡長(福島県行方・宇田二郡)となり、農村の振興・教育の奨励に努め、みるべきものがあった。
 1881明治14年、乙字生まれる。筠軒は各地を放浪していたので、家には年若い妻と幼子(乙字)がつましい暮らしをしていた。
 1882明治15年、官職をしりぞき、もっぱら文学に親しむ生活に入る。
 1894明治27年、福島県安積中学の漢文教師となる。
 1896明治29年、仙台第二高等中学校予科の漢文嘱託、ついで教授となる。
 1901明治34年、教師を辞職して悠々自適の生活に入る。
   佐沢香雪・永沼柏堂を指導する傍ら、友人の重野成斎・小野湖山・滝川君山らと交流を重ねる。土屋竹雨は門人。
 1912大正1年8月28日、71歳で死去。
     著書: 『舟門漁唱』 『緑筠軒詩鈔』など。

                  ***   ***

      大須賀乙字 (おおすが おつじ

    古暦なつかしき日の夢を繰る    
    夕焼のうつらふ空や合歓の花
    踊子の負はれて戻る朧月      
    遠く夕立つて来る森音聞きゐたり

 1881明治14年、福島県宇多郡中村町(のち相馬市)に生まれる。本名、績(いさお)。
   母うめは後妻で夫や子に尽くし、手は松の膚のように荒れていた。乙字はそうした母の姿に
「弱々しい普通の女にとって涙多い生涯であったことを思えば、芸術に身をゆだねる者の周囲の惨めさに戦慄する」(自叙「現在に活くる過去」)と記す。
      俳号乙字は『西陽雑狙』にある虎之威、虎の両脇にある威骨の形が乙字をなしているところから。
 1895明治28年、父の勤務する福島県安積中学校(福島県立安積高等学校)へ入学。
 1898明治31年、宮城県第一中学校へ転学。
 1901明治34年、第二高等学校に入学。中学時代は野球、高校ではテニスに熱中し、佐藤紅緑らの「奥羽百文会」に参加する。

 1904明治37年、東京帝国大学文学部国文科入学。在学中から河東碧梧桐の門下として才能を示した。率直な性格はしばしば誤解をまねき知友にも敵を作ることが多かった。
 1905明治38年、「東京日日新聞」の俳句選者となる。
   東大在学中に発表した「俳句界の新傾向」は俳論家としての名を高からしめた。活動期間は10年余りに過ぎなかったが、その間、正岡子規に代表される明治俳論史上に、新しく近代的な画期的ともいえる俳論の金字塔を打ち立てた。乙字俳論の基礎をなすものは革新的なロマンチシズムの精神ではなく、伝統尊重と芭蕉への復古精神に貫かれていた。その点では保守的であり、クラシックで乙字俳論の正統派的な性格と特色がある。
 1908明治41年、東京大学卒業。「東京日日新聞」に[新俳風論]を載せ、論文は俳壇に大きな影響を与えた。卒業後、曹洞宗大学(現、駒澤大学)、東京音楽学校(現、東京芸術大学)の講師を兼任。
 
 1910明治43年、高等女学校(現、麹町学園女子校)で教える。10月千代と結婚。
   乙字は帝大出で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。同じ旧制二高出身で才能も評価された乙字に碧梧桐の期待は高かったが、同人同士の内部対立により離脱。 
 
 1915大正4年、妻千代病没。臼田亜浪と「石楠花」(しゃくなげ)を創刊、二句一章の型や「俳壇復古論」を主張して句作に励んだ。
 1916大正5年4月、東京音楽学校(現、東京藝術大学)教師。年末、松井まつ子と再婚。
 1917大正6年、『鬼城句集』を刊行。広く村上鬼城の句業を推奨した。
 1919大正8年、同人間の軋轢から内紛を生じ「石楠花」を去る。
 1920年大正9年1月10日、全国的に流行したインフルエンザ(スペイン風邪)にかかって40歳で永眠。
    著書: 『乙字句集』『乙字俳論集』『乙字選碧梧桐句集』ほか。

  参考: 『明治文學全集・明治漢詩文集』1983筑摩書房/ 『現代日本文学大事典』1965明治書院/  『コンサイス日本人名事典』1993三省堂

        ***   ***

                      大須賀筠軒
       
  平城の墟を望み、戊辰戦沒の諸子を憶うあり。七古一篇を賦して之を弔う。
                                                    
  山河 襟帯 古の金湯
  猶見る 城墟の夕陽に立つを
  華表 鶴帰り 人何にか在る
  老煙 枯木 秋 荒涼
  憶い起こす 七州連衡のとき
  百戦 此の地 王帥を扼す
  大砲 雷の如く 小銃は雨
  伏屍 縦横 血は杵を漂わす
  一死 惟知る 其の君に報ずるを
  草間 活を竊むは是狗鼠
  嗚呼 君臣義を結びて三百春
  危を見て命を授くる 幾人か有る
  ?公の輪に扣くは義士に非ず
  夷吾の鉤を射る 或いは忠臣
  当時 寧ぞ知らん 順逆を誤るを
  此の心 何ぞ曽て甘んじて賊とならん
  若し地を易えて錦旗を捧ぜ令めば
  千秋 廟? 長く血食せん
  君見ずや 口を勤王に藉りて赤誠無く
     誠
  去就  利を惟い 生死を争うを
  昨日の忠臣 今日の賊
  満地 戦塵 血腥を吹く

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