« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016年5月

2016年5月28日 (土)

大正・昭和期の労働家、丹野セツ(福島県)

 熊本地震から日がたつが、避難所で暮らさなければならない人がたくさんいる。同じ町内とはいえ、いきなり多勢の人と一つ所に寝泊まりする。考えるだけでも心身とも大変なことだが避難所がないと困る。それぞれの地域に作られ被災者の助けとなっている。
 毎日新聞2016.5.27記事によると、益城町立広安西小学校の体育館は百点満点の避難所だという。なんと、会社員の娘さんが運営を仕切ってい、行き届いた避難所になっているというのだ。温かい心遣いができ、しかも実行力のある娘さんが育った益城町、きっといい所。
 熊本県には、火の国の女高群逸枝のような激しい情熱の持主もいれば、心やさしく避難所の運営をきっちりやれる女子もいる。そこで、福島県生まれで元気な女子を探し、大正・昭和の労働家、丹野セツにしたが、生き様の激しさに息を呑むばかり。人の為に尽くすエネルギー、どこから湧いてきたのだろう。

     丹野 セツ

 1902明治35年11月3日、福島県生まれ。日立鉱山の坑夫長屋で少女期をおくる。
 ?年、高等小学校卒業後、日立本山病院(現・日鉱記念病院)に見習看護婦として勤務。
 1919大正8年、日立友愛会の発会式に参加して労働運動に入った。
 1921大正10年、以来、3回家出をして上京。
   労働者の町といわれた東京の亀戸に住み、紡績女工などをして働き、暁民会・赤瀾会に加入。
 1922大正11年、渡辺、南葛労働協会(のち南葛労働会)を組織。

 1923大正12年9月1日、関東大震災おこる。死者・行方不明者約15万人。
   大震災は不況下の経済に打撃。混乱の中、朝鮮人暴動の流言で軍隊・警察・自警団による社会主義者・朝鮮人の逮捕・虐殺事件が発生。 *亀戸事件で危うく死を免れ、東洋モスリン工女となる。南葛労働会は弾圧されると、東京合同労働組合を組織、丹野セツも夫と共に活動。
    *亀戸事件: 捕らえられた社会主義者が暴行、殺されたりしたのが明るみに出て、自由法曹団が調査を依頼された。 “生くべくんば民衆と共に、布施辰治” http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-0920.html

 1924大正13年、*渡辺政之輔と結婚。セツは、日清紡亀戸工場の女工となり、夫とともに日本労働組合評議会に加盟して労働者の解放をめざした。
    *渡辺政之輔: 1899明治32年千葉県に生まれる。父を早く喪い、小学校卒業と同時に、東京の亀戸で労働者となった。ロシア革命および民主主義運動に強い影響を受け、労働運動の先頭に立つようになった。
 1926大正15年、セツは日本共産党の再建の際に入党、評議会の大会で婦人部の設置を主張し、女子労働者の組織化を訴えた。
 1928昭和3年8月、非合法活動をしたため検挙される。
      夫の政之輔28歳の若さで共産党の委員長に選ばれる。同年、中国に渡っての帰り10月6日、台湾の基隆で警官隊に襲われ自殺。この日、妻のセツは捕らわれの身であった。
 1932昭和7年、懲役7年の判決を受ける。
 1938昭和13年、宮城刑務所を出獄。中国への脱出を試みたが失敗。派出看護婦や工場保健婦をして生活をする。
 1945昭和20年敗戦後も社会運動にたずさわる。
 1955昭和30年、共産党を除名される。

 1956昭和31年、東京都葛飾区に四ツ木診療所を開設。かつての活動の地、南葛飾で労働者の医療活動につくした。のち、四ツ木病院理事。

 Photo ひと雨降れば胸まで水没した「ゼロメートル地帯」葛飾区渋江町(現在の東四つ木地域)。輸出雑貨、ビニール・ゴム加工、金属玩具等の中小零細工場の密集地で、住民はこれらの下請工や内職で生活を営む人の多い町でした。国民健康保険もまだなく高い医療費の支払に苦労した中、「治療代が安く、よい治療をしてくれる自分たちの診療所が欲しい」と運動が広がり、月100円、200円の積み立てや1,000円、2,000円の小口借入金を集めて、1956年(昭和31)9月10日に四ツ木診療所は開設されました。
  写真:
 創立当時の四ツ木診療所。バラックの平屋が当時をしのばせる。
  “医療法人財団 健和会、「四ツ木診療所」歴史 HP”より 

 1987昭和62年5月29日、死去。85歳。

   参考: https://ja.wikipedia.org/wiki/ ウイキペデア-丹野セツ / 『コンサイス学習人名事典』三省堂 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編・新人物往来社

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2016年5月21日 (土)

火の国の女、高群逸枝 (熊本県)

 熊本地震の被災地出身スポーツ選手が活躍すると良かった!がんばれと世間みんなで拍手。そして、応援を力にかえて頑張る選手に拍手した側も励まされる。くまモンもまた被災地を励まし、被災者に励まされているみたい。熊本城の惨憺たる姿、昔を偲ぶよすが消えそうに見えるが、市町村ともども復興する日がきっと来る。そのお城とともに歩んできた熊本、明治の昔はどんな様子。熊本生まれの女性史研究家、高群逸枝が『女性二千六百年史』に書いている。
 ――― わが故郷の沈黙の山々を懐ふ。薩摩から日向にかけての国境の山々――阿蘇祖母市房白髪などなど。 わたしは城南釈迦院院岳の山あひに育った。その他にも、白山雁俣内大臣などの名山が遠近に起伏していた。
 ――― 祖母はわたしをおんぶして、山のお化けの歌をうたった。
   あの山に  ぴかぴかするのは  月か星か蛍か
   月でもない蛍でもない  あれは山下坊主の目のひかり 

      高群 逸枝
  
 1894明治27年1月18日、熊本県下益城郡豊川村(現・松橋市)に生まれる。本名はイツエ。父は教師。
   熊本師範学校女子部、中途退学。脚気を患っていたが回復して、熊本女学校(福田令寿校長)に編入、4年修了。
 ――― 熊本女学校の校庭には、楓がたくさん植えてあった。寄宿舎の裏に小さな小川があって、吹き寄せられた落葉が、あるものは沈みあるものは浮かんでいた・・・・・・川の向こうは*徳富屋敷とかいっていたが、蘇峰先生の在熊時代のお屋敷大江義塾の跡であったかもしれない(『女性史二千六百年史』厚生閣)
   *徳富蘇峰 熊本出身。同志社英学校(現同志社大学)中退後、自由民権運動に参画。郷里に大江義塾を設立し、青年教育にあたった。やがて、上京し「国民之友」 「国民新聞」を創刊。わが国の言論界に不動の地位を築いた。

    鐘淵紡績熊本工場の女子工員をへて小学校代用教員

 1918大正7年、四国遍路の旅にでて『九州日日新聞』に「娘巡礼記」を連載、評判となった。
 1919大正8年、橋本憲三と同居生活をはじめる。
 1920大正9年、単身で上京。
 1921大正10年、生田長江の推薦を得て、長編詩集『日月の上に』 『放浪の詩』。 大正14年、長編詩詩集『東京は熱病にかかっている』出版。     
    近代生活を呪う都市流民の心境をうたう天才詩人として文壇に登場した。この間に家出。

 1926大正15年、事件を素材にして長詩「家出の詩」や、評論『恋愛創生』を書くことによって、女性解放の思想家となった。 平等と社会参加を主張する女権主義に対抗して、特性の尊重と根本的社会変革を主張する女性主義と農本主義的なアナーキズムの立場をとって、平塚らいてうらと無産婦人芸術連名を結成し、夫、橋本憲三の援助もあって1930昭和5~6年、機関誌『婦人戦線』を発刊。 
 1927昭和2年、父死去。下中弥三郎らの農民自治会に加わり婦人部委員として活動。
 1930昭和5年、小説『黒い女』解放社、出版。
Photo



 1931昭和6年、ほかのいっさいの活動をやめて、女性解放のための女性史研究に専心することを宣言。世田谷の通称「森の家」をたてて面会謝絶の生活をはじめた。
   一日10時間以上も書斎で研究に専念し、終生かわるところがなかった。このため洋服はすべて窓際の日の当たる側だけあせて変色したという。

 ――― 女性史はまとまったものが無いばかりか、たまたま女性のことを集めているのは、みな人物を中心にした教訓書で、史学とはかけ離れている存在でしかない。そこで女性史とは何ぞや、といふことが、第一に問題となる・・・・・・私の修史の目的は、
   ①.可及的信頼するに足る女性史 
   ②.女性自らによる女性史である。
    男性史家の余力の及ばない部分への開拓を兼ねることが、努力の骨子である。
    在野の歴史研究家としての生活は、平塚らいてう市川房枝らがつくった高群逸枝著作後援会の援助と、なにより夫の憲三が家事や雑事をすべて引き受けるという並々ならぬ助力で高群を支えた。

       茶の歌
   ものおもひ疲れしときにいっぱいの にがき番茶はありがたきかな
   憂きことの多かるなべに人間は お茶のむすべを学びしならむ

 1936昭和11年、『大日本女性人名辞書』厚生閣
 1938昭和13年、『大日本女性史第1巻 母系制の研究』の大著を刊行。
 1940昭和15年、紀元二六〇〇年式典の年に合わせて『女性二千六百年史』を出版。 
    大政翼賛会傘下の大日本婦人機関誌『日本婦人』に「日本女性史」を連載。戦争協力への道筋は著作後援会の中心となった。
 ――― 故郷の妹の妙有尼が、その寺の法祖の伝記を送ってくれた。そこは三宝寺という田舎の小さな禅寺であるが、法祖は宝蔵国師鉄眼で傑僧である。

 1945昭和20年、敗戦後は女性史研究に祖国復興と女性解放をむすびつけようとした。
 1953昭和28年、『招婿婚の研究
 1954昭和29~33年、『女性の歴史』全4巻刊行。
 1958昭和33年、『日本婚姻史
 1964昭和39年6月7日、死去。

 死後、自叙伝『火の国の女の日記』1965出版。同書を若いころ読んで、世の中にはこんな人がいるのかと、夫・橋本憲三にも妻・高群逸枝にも感動した。しかし、肝心の研究は難しそうで読まなかった。現在、前出の著作の幾部かを国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧できる。 http://kindai.ndl.go.jp/  

   参考: 『民間学事典・人名編』1997三省堂 /『コンサイス学習人名事典』1992三省堂/「マイウエイno.77(原三溪に学ぶ公共貢献ものがたり・徳富蘇峰) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2016年5月14日 (土)

漁でもうけたら木を植えろ、水上助三郎(岩手県)

 ――― 地図を開いて我国(ぜんこく)の地勢を見よ。山岳重畳として平地は寔(まこと)に少ないので周囲は皆海である。この地勢から見ても我が国の水産業は国家経済上から見て尤も重きをなすと同時に、将来は大に発展する余地がある。又発展せしめねばならぬ地位にある。故に吾人は此の有望なる、水産界に貢献した事績を紹介するのも、無益な事ではなからうと思ふのである (大正6年、香坂昌孝)。

        水上 助三郎 (みずかみ すけさぶろう)

 北洋業業・三陸養殖漁業の先駆者となった水上助三郎。
 1864元治元年2月28日、仙台領気仙郡吉浜村(三陸町吉浜)の千歳部落に生まれる。父の助十郎は中流の半漁半農で、弟の斉三郎はのち代議士。斎之助という記述もある。同一人物の記名違いか、弟二人なのか分からない。
 1881明治14年、父の金70円をもって家出して東京に行き、せんべい屋の小僧をしたのち、養鶏に手を染めた。しかし、家に呼び戻されて結婚、父の漁業を助けた。妻の名はソデ。
 1887明治20年、ふたたび事業家を志して上京。単身、小笠原にわたって田中鶴吉天日製塩、製塩法を学んだ。
 1889明治22年、製塩に見切りをつけ、代わりに畜産をめざし、洋種短角牛二頭を買って帰郷したが、事業家になるのに失敗。しかし、のちの「水上短角」の租牛となった。
 1890明治23年、千葉県北条町高橋政之助について、沃土(ヨード)の製造を研究。海草からヨードの製法を学んだが長続きしなかった。

 1891明治24~26年まで捕鯨船に乗り組み、佐藤芳五郎について抹香鯨(マッコウクジラ)の漁撈に従事した。
 1893明治26年、水産局調査所の海洋魚類実地取調のさい、捕鯨爆裂火災係を託された。
   この間に、大日本水産会員となって水産業について研究し、やがて綿糸漁網の改良をし、鰤(ブリ)巾着網の製造をしたこともある。
 1894明治27年7月、日清戦争開戦。同年、津軽石川の鮭の沖取りをもくろんだが、不漁年にあたり失敗。
 1895明治28年4月、講和条約(下関条約)締結。同年、オットセイ狩りに乗りだし借船「権現丸」で三陸沖合に出漁したが、わずか9頭の捕獲に終わった。
   欧米諸国の密猟船が北海に出没し、政府も海獣猟期には軍監を派遣して監視をしたが効果がなかった。そこで、助三郎は弟の斎之助と二人で帆船を造り、予備後備の陸海軍人を乗組員として、そこにいって彼らの猟獲方法を実地研究して、彼らと利益を争った。

 1896明治29年、水上兄弟は、猟獲方および好猟場を充分研究したので、洋式の帆船「宝寿丸」を造って、各自銃手・会計・漁猟長となって出漁し、162頭とまずまずの捕獲をあげた。
 6月19日、三陸地震津波。死者2万7122人、流失・全半壊8891戸・船被害7032隻。
   このとき、出漁中の水上兄弟はこの三陸海嘯に遭遇。一度は北海道日高沖まで漂流して、ようやく命だけは助かった。県知事は特に命令して、海獣猟の率先功労者二人が一度に漁猟に出るのを差しとめた。

 1897明治30年、全額借金によって「千歳丸」74トンを建造する。北海道の医師で唐丹村(釜石)出身の鈴木多仲越喜来村(三陸町)の漁業家の刈屋譲右エ門の義侠的な出資もあった。
 翌31年、助三郎はすべてをかけて千島方面に出漁し、ついに成功をおさめた。以来、禁漁となるまで、自ら漁猟長として千島北海道付近の海洋にでた。
 1900明治33年、 樺太(カラフト)に人を派遣して漁場を入札、サケ・マスの漁業に従事、同島で灌水器を使用してナマコ・ホタテ貝の採取をなし加工を手がけた。
 1901明治34年、オットセイ猟船「第二千歳丸」84トンを建造して地歩を固めた。

 1902明治35年、千島列島占守島で*郡司成忠とサケ・マス漁をした。
   *郡司成忠: “千島占守島/夏草の間に戦車”  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/08/post-0824.html

 1903明治36年、カムサッカ方面でも漁場を払い下げ、サケ・マスなどの漁業に従事。同年、ベーリング海でのオットセイ猟は2隻で4200頭という空前の記録となり一躍「オットセイ王」の名を得た。
 1904明治37年2月、日露戦争開戦。翌年、アメリカで講和、ポーツマス条約に調印。
 1906明治39年、シイタケの人口栽培を普及。翌40年、千歳に缶詰工場を建設。

 1908明治41年、東宮(大正天皇)東北行啓のさい、拝謁し、令旨ならびに御下賜品を賜った。同年、松島湾杉之浦でウナギの養殖をはじめた。
 岩手県は著名な鮑(アワビ)の産地であったが、なかでも助三郎の郷里、吉浜村および馬頭は盛んであった。しかし、当時は年が経つほどにアワビが小型になって年々産額が減少していた。
   助三郎は当業者・平田と率先して、漁業組合の規約で、三寸(約10cm)以下のアワビの捕獲を厳禁した。自ら監視の役目をつとめ、漁獲日数も減らしたが、却って産額が増加した。しかし、当時は一ヶ月2000余円の産額しかなかった。未だ改良の余地ありとみた助三郎は、平田某と共同で1908明治41年から向こう10年間、一年3千円で吉浜・馬頭の両村を借り受け、新繁殖方法の実行に着手した。
 考案した繁殖法は、捕獲するアワビの最少限度を大きくして、小型の物は捕獲しないと決めたのである。そして3年目、三寸五分以上の物のみを採取して年額6000円、4年目には8400円、5年目12000円、6年目16000という巨額の収入を得た。アワビの形を大きくし品質も改良、「吉浜(きっぴん)アワビ」の名をあげた。「きっぴん」は吉浜の別称。
 また、松島湾の入浦に国有林120ヘクタールを払い下げ、村民にも分収林として魚貝養殖の目的で払い下げた。

 1912明治45年、オットセイ猟が廃止になると、メキシコ沿岸でのアワビ漁に注目。メキシコの富豪の特許海面のうちカリフォルニアおよび太平洋一千哩の海面共同経営を契約。漁夫を送って実行したが、5年ほどで廃業した。
 1917大正6年からは、小壁、大建などの建網漁場を経営、ワカメ加工にも着手して三陸漁業の振興に大きな足跡を残した。吉浜湾南岸の小壁漁場はブリの定置網で知られるが、近年は、サケの水揚げが多い。

 組合の積立金に自ら9200円を支出して、道路の改築、学校の増築にあてた。小学校の敷地を寄付、米崎村の道路改修費の寄付、戦時*恤兵費、東北地方凶作のさいの救恤寄付・義援金など8千円に達している。いっぽう、函館や塩釜でなどで豪遊した話も。
   *恤兵(じゅっぺい): 金銭や物品を贈って戦地の兵士をなぐさめること。

 大正11年7月30日、東北大学付属病院で死去。58歳。
   死の直前に緑綬褒章を贈られる。助三郎の前半生は失敗の連続だったが、義侠的な出資を得ておこなった北洋出漁が実を結び成功をもたらした。「耕海富国」という言葉を好み、三陸一円や、広くは国家の発展という立場から漁業を考えたところに助三郎の大きさがあった(大友幸男)。
 「カキの味ひ」というパンフレットを大量に印刷して宮城県下などにばらまいたが、その内容は今日でもそのまま役立ちそうだという。水上助三郎という人物はエピソード豊富で、行動力と行動範囲は半端ではなく、なんともダイナミック。助三郎のいうように“漁でもうけたら木を植えろ。不漁の年は山が助けてくれる”を実行しようとする地域があるのをニュースで見た。助三郎の故郷、岩手県気仙郡三陸町はきっと今もそうしている。東日本大震災から丸5年過ぎた、どこまで復興したでしょう。

   参考: 『模範農村と人物』香坂昌孝1917求光閣書店 / 『岩手の先人100人』大友幸男ほか1992岩手日報社 /『日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2016年5月 7日 (土)

ニコライとともに、佐藤秀六 (宮城県)

  熊本ではまだ地震がおさまらず被災された方々の難儀が続いている。改めて自然の脅威にさらされる地震国日本、明日は我が身かもと思うがうろたえるばかり。先日、東京神田お茶の水のニコライ堂の前を通りかかり、ふと、宗教者は大災害や大事件で困難に遭ったとき、何を考え、どうするだろうと思った。

      佐藤 秀六 (さとう しゅうろく
 
 1839天保10年3月4日、仙台藩士・佐藤大助の子として生まれる。
 1868明治1年、仙台藩を脱藩して函館に赴く。土佐の沢辺琢磨、佐幕派の残党ととともに新政府に抵抗しようとする者が函館に集まっていた。中には、キリスト教を利用し、外国の援助を借りようともくろむ者もあり、ニコライ(本名イァオン・ディミトロヴィチ・カサーツキン)に接した。
 ニコライはそうした青年に、日本語と友に日本の文化教養を学んだ。日本の古典まで読んで日本を研究したらしい。いっぽうで、キリスト教の大意、安心立命の道を示した。すると感化された青年たちは政治の道を放棄して信仰の道に入るものがあった。佐藤もその一人で、政治から一転して正教の伝道に挺身する。
 なお、ニコライの布教がはじめに届いたのは東北地方、とくに佐藤の出身地、宮城県には各町村至る処に教会が設置されたという。

 1871明治4年、ニコライ東京に出る。佐藤はニコライに続いて上京、その片腕として活躍。
 1872明治5年、正教会で受洗。 聖名はパウェル保羅。
 1873明治6年、「東教宗鑑」の翻訳を待ち、『教の鑑』として小野荘五郎らと共に出版。その他、教理研究書を多数発行。
 1875明治8年7月、東京で開かれた日本ハリストス正教会第1回公会で司祭候補に挙げられたが固辞して受けなかった。
 1877明治10年、公会で、酒井篤礼、高屋仲、影田孫一郎、針生大八郎らとともに司祭に叙聖された。
   ニコライを助けて日本ハリストス正教会の組織化に尽し、神田教会初代の管轄司祭となり、東京正教神学校に教鞭をとる。
    11月、福島ハリストス正教会。町の中心部に講義所を設け、仙台からパウェル佐藤秀六が招かれ講義を行い、函館からアナトリイ神父が来て説教会が催された。

    ニコライ堂

 1884明治17年3月、神田駿河台東紅梅町にニコライ堂の建設を始める。1891明治24年完成。東京復活大聖堂の土地を買収については、外国人の土地所有が認められないため、佐藤秀六が名義人となっている。

  ――― 露国人にしてカソリック教の伝道士なるニコライ氏、我国に布教すること数十年、いかばかりの信者を得たかは知らねど、よき地を相して、誰の目にもつくような大教会堂を建てたり・・・・・・宏荘雄偉を極む。堂塔よりは、東京の全市を見下すべし。鐘を置きて之を鳴らす、その声、十町の外に振ふ。耳ために聾せむとす・・・・・・ 扉ひらきてニコライ氏、金冠をかぶり金色燦爛たる法衣をつけ、十字架を手にして出で来たれば、信徒順に近づきて嘗むるにや、顔を押しつ来るやうにして戻り来る。十数の牧師、日本人のみなるが、冠はなくして、金の法衣をつけて其の左右に侍す。みな背低きに、ニコライ氏独りずぬけて高く、大きく、髭長くのびて状貌魁悟、神があらはれたるやうな観あり(大町桂月1906明治39年)

   ――― 待たれるのは日曜日である。朝に夕に祈祷の鐘であろう。ニコライ堂で撞く、眠れる者よ醒めよ、迷える者よ来たれよ、哀れなる者よ救われよの鐘の音に、私は心を傾けて聞き惚れるのである(白羊生1919大正8年)。

       大津事件

 1891明治24年3月9日、ニコライ堂の開堂式が催され、式には当時の閣僚、西郷従道、後藤象二郎伯爵も出席した。その二ヶ月後、大津事件が起こった。
     年5月、滋賀県大津で来日中のロシア皇太子(のちの皇帝ニコライ2世)を警備中の巡査・津田三蔵が襲い傷を負わせた事件。政府はロシアを怖れ、犯人津田三蔵の死刑を主張したが、大審院長児島惟謙は拒否。普通謀殺未遂罪、無期徒刑の判決で司法権独立を守った。
 事件後、ロシア正教司祭ニコライは青木外相と西郷内務大臣らの臨時列車に同乗して現地に向かった。傷ついた皇太子はホテルで静養していたが、はじめは見舞いの日本人をはねつけた。しかし、ニコライ司祭は部屋に通し一時間ほど話をしている。
 やがて、皇太子が帰国することになり、佐藤秀六は、日本正教会司祭代表のひとりとして神戸港に赴き、ロシア皇太子を見舞った。

 1898明治31年6月、『正教手引くさ』刊行。一冊を上中下巻にわけ説いている。近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読める。
 晩年は東京の正教女子神学校の校長を兼ねた。

 1904明治37年、日露戦争勃発にさいし、ニコライ教書を出し、日本の勝利と、両国の平和を祈るようにと信徒に呼びかける。戦争になってもロシアに帰国せず日本にとどまったニコライ、教会に石を投げつけられたりした。このとき、ニコライが独り教会にと思い込んでいたが、佐藤秀六を知ると日本人司祭も一緒だったと思える。
 1911明治44年9月5日、駿河台の一角で死去。享年72歳。多磨霊園に眠る。

    参考 :『日本キリスト教歴史大事典』1988教文館 /『東京遊行記』大町桂月1906大倉書店 /  『小僧六年・店頭夜話』白羊生1919富国出版社 /  『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社

| | コメント (1) | トラックバック (0)
|

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »