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2016年5月 7日 (土)

ニコライとともに、佐藤秀六 (宮城県)

  熊本ではまだ地震がおさまらず被災された方々の難儀が続いている。改めて自然の脅威にさらされる地震国日本、明日は我が身かもと思うがうろたえるばかり。先日、東京神田お茶の水のニコライ堂の前を通りかかり、ふと、宗教者は大災害や大事件で困難に遭ったとき、何を考え、どうするだろうと思った。

      佐藤 秀六 (さとう しゅうろく
 
 1839天保10年3月4日、仙台藩士・佐藤大助の子として生まれる。
 1868明治1年、仙台藩を脱藩して函館に赴く。土佐の沢辺琢磨、佐幕派の残党ととともに新政府に抵抗しようとする者が函館に集まっていた。中には、キリスト教を利用し、外国の援助を借りようともくろむ者もあり、ニコライ(本名イァオン・ディミトロヴィチ・カサーツキン)に接した。
 ニコライはそうした青年に、日本語と友に日本の文化教養を学んだ。日本の古典まで読んで日本を研究したらしい。いっぽうで、キリスト教の大意、安心立命の道を示した。すると感化された青年たちは政治の道を放棄して信仰の道に入るものがあった。佐藤もその一人で、政治から一転して正教の伝道に挺身する。
 なお、ニコライの布教がはじめに届いたのは東北地方、とくに佐藤の出身地、宮城県には各町村至る処に教会が設置されたという。

 1871明治4年、ニコライ東京に出る。佐藤はニコライに続いて上京、その片腕として活躍。
 1872明治5年、正教会で受洗。 聖名はパウェル保羅。
 1873明治6年、「東教宗鑑」の翻訳を待ち、『教の鑑』として小野荘五郎らと共に出版。その他、教理研究書を多数発行。
 1875明治8年7月、東京で開かれた日本ハリストス正教会第1回公会で司祭候補に挙げられたが固辞して受けなかった。
 1877明治10年、公会で、酒井篤礼、高屋仲、影田孫一郎、針生大八郎らとともに司祭に叙聖された。
   ニコライを助けて日本ハリストス正教会の組織化に尽し、神田教会初代の管轄司祭となり、東京正教神学校に教鞭をとる。
    11月、福島ハリストス正教会。町の中心部に講義所を設け、仙台からパウェル佐藤秀六が招かれ講義を行い、函館からアナトリイ神父が来て説教会が催された。

    ニコライ堂

 1884明治17年3月、神田駿河台東紅梅町にニコライ堂の建設を始める。1891明治24年完成。東京復活大聖堂の土地を買収については、外国人の土地所有が認められないため、佐藤秀六が名義人となっている。

  ――― 露国人にしてカソリック教の伝道士なるニコライ氏、我国に布教すること数十年、いかばかりの信者を得たかは知らねど、よき地を相して、誰の目にもつくような大教会堂を建てたり・・・・・・宏荘雄偉を極む。堂塔よりは、東京の全市を見下すべし。鐘を置きて之を鳴らす、その声、十町の外に振ふ。耳ために聾せむとす・・・・・・ 扉ひらきてニコライ氏、金冠をかぶり金色燦爛たる法衣をつけ、十字架を手にして出で来たれば、信徒順に近づきて嘗むるにや、顔を押しつ来るやうにして戻り来る。十数の牧師、日本人のみなるが、冠はなくして、金の法衣をつけて其の左右に侍す。みな背低きに、ニコライ氏独りずぬけて高く、大きく、髭長くのびて状貌魁悟、神があらはれたるやうな観あり(大町桂月1906明治39年)

   ――― 待たれるのは日曜日である。朝に夕に祈祷の鐘であろう。ニコライ堂で撞く、眠れる者よ醒めよ、迷える者よ来たれよ、哀れなる者よ救われよの鐘の音に、私は心を傾けて聞き惚れるのである(白羊生1919大正8年)。

       大津事件

 1891明治24年3月9日、ニコライ堂の開堂式が催され、式には当時の閣僚、西郷従道、後藤象二郎伯爵も出席した。その二ヶ月後、大津事件が起こった。
     年5月、滋賀県大津で来日中のロシア皇太子(のちの皇帝ニコライ2世)を警備中の巡査・津田三蔵が襲い傷を負わせた事件。政府はロシアを怖れ、犯人津田三蔵の死刑を主張したが、大審院長児島惟謙は拒否。普通謀殺未遂罪、無期徒刑の判決で司法権独立を守った。
 事件後、ロシア正教司祭ニコライは青木外相と西郷内務大臣らの臨時列車に同乗して現地に向かった。傷ついた皇太子はホテルで静養していたが、はじめは見舞いの日本人をはねつけた。しかし、ニコライ司祭は部屋に通し一時間ほど話をしている。
 やがて、皇太子が帰国することになり、佐藤秀六は、日本正教会司祭代表のひとりとして神戸港に赴き、ロシア皇太子を見舞った。

 1898明治31年6月、『正教手引くさ』刊行。一冊を上中下巻にわけ説いている。近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読める。
 晩年は東京の正教女子神学校の校長を兼ねた。

 1904明治37年、日露戦争勃発にさいし、ニコライ教書を出し、日本の勝利と、両国の平和を祈るようにと信徒に呼びかける。戦争になってもロシアに帰国せず日本にとどまったニコライ、教会に石を投げつけられたりした。このとき、ニコライが独り教会にと思い込んでいたが、佐藤秀六を知ると日本人司祭も一緒だったと思える。
 1911明治44年9月5日、駿河台の一角で死去。享年72歳。多磨霊園に眠る。

    参考 :『日本キリスト教歴史大事典』1988教文館 /『東京遊行記』大町桂月1906大倉書店 /  『小僧六年・店頭夜話』白羊生1919富国出版社 /  『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社

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コメント

中井けやき様
はじめまして。
ご先祖様のことを調べていて記事を拝見しました。ネットでこんなに詳細にご先祖様のことを知ることができるとは思わなかったので、とても感動しています。
秀六さんのことを知りたくて、東京でニコライ堂の礼拝に何度か参加しています。脱藩してまでも想いを遂げようとした秀六さんの想いを受け継いだ私がこの時代にできることはなにか、そんなことを想いながらこれからの建築のあるべき姿を探求し続けています。
このブログを親戚みんなに読んで欲しいと思っています。
一言お礼をお伝えしたくて。ありがとうございました。

投稿: 佐藤秀六の末裔 | 2016年12月 1日 (木) 22時20分

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