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2016年5月14日 (土)

漁でもうけたら木を植えろ、水上助三郎(岩手県)

 ――― 地図を開いて我国(ぜんこく)の地勢を見よ。山岳重畳として平地は寔(まこと)に少ないので周囲は皆海である。この地勢から見ても我が国の水産業は国家経済上から見て尤も重きをなすと同時に、将来は大に発展する余地がある。又発展せしめねばならぬ地位にある。故に吾人は此の有望なる、水産界に貢献した事績を紹介するのも、無益な事ではなからうと思ふのである (大正6年、香坂昌孝)。

        水上 助三郎 (みずかみ すけさぶろう)

 北洋業業・三陸養殖漁業の先駆者となった水上助三郎。
 1864元治元年2月28日、仙台領気仙郡吉浜村(三陸町吉浜)の千歳部落に生まれる。父の助十郎は中流の半漁半農で、弟の斉三郎はのち代議士。斎之助という記述もある。同一人物の記名違いか、弟二人なのか分からない。
 1881明治14年、父の金70円をもって家出して東京に行き、せんべい屋の小僧をしたのち、養鶏に手を染めた。しかし、家に呼び戻されて結婚、父の漁業を助けた。妻の名はソデ。
 1887明治20年、ふたたび事業家を志して上京。単身、小笠原にわたって田中鶴吉天日製塩、製塩法を学んだ。
 1889明治22年、製塩に見切りをつけ、代わりに畜産をめざし、洋種短角牛二頭を買って帰郷したが、事業家になるのに失敗。しかし、のちの「水上短角」の租牛となった。
 1890明治23年、千葉県北条町高橋政之助について、沃土(ヨード)の製造を研究。海草からヨードの製法を学んだが長続きしなかった。

 1891明治24~26年まで捕鯨船に乗り組み、佐藤芳五郎について抹香鯨(マッコウクジラ)の漁撈に従事した。
 1893明治26年、水産局調査所の海洋魚類実地取調のさい、捕鯨爆裂火災係を託された。
   この間に、大日本水産会員となって水産業について研究し、やがて綿糸漁網の改良をし、鰤(ブリ)巾着網の製造をしたこともある。
 1894明治27年7月、日清戦争開戦。同年、津軽石川の鮭の沖取りをもくろんだが、不漁年にあたり失敗。
 1895明治28年4月、講和条約(下関条約)締結。同年、オットセイ狩りに乗りだし借船「権現丸」で三陸沖合に出漁したが、わずか9頭の捕獲に終わった。
   欧米諸国の密猟船が北海に出没し、政府も海獣猟期には軍監を派遣して監視をしたが効果がなかった。そこで、助三郎は弟の斎之助と二人で帆船を造り、予備後備の陸海軍人を乗組員として、そこにいって彼らの猟獲方法を実地研究して、彼らと利益を争った。

 1896明治29年、水上兄弟は、猟獲方および好猟場を充分研究したので、洋式の帆船「宝寿丸」を造って、各自銃手・会計・漁猟長となって出漁し、162頭とまずまずの捕獲をあげた。
 6月19日、三陸地震津波。死者2万7122人、流失・全半壊8891戸・船被害7032隻。
   このとき、出漁中の水上兄弟はこの三陸海嘯に遭遇。一度は北海道日高沖まで漂流して、ようやく命だけは助かった。県知事は特に命令して、海獣猟の率先功労者二人が一度に漁猟に出るのを差しとめた。

 1897明治30年、全額借金によって「千歳丸」74トンを建造する。北海道の医師で唐丹村(釜石)出身の鈴木多仲越喜来村(三陸町)の漁業家の刈屋譲右エ門の義侠的な出資もあった。
 翌31年、助三郎はすべてをかけて千島方面に出漁し、ついに成功をおさめた。以来、禁漁となるまで、自ら漁猟長として千島北海道付近の海洋にでた。
 1900明治33年、 樺太(カラフト)に人を派遣して漁場を入札、サケ・マスの漁業に従事、同島で灌水器を使用してナマコ・ホタテ貝の採取をなし加工を手がけた。
 1901明治34年、オットセイ猟船「第二千歳丸」84トンを建造して地歩を固めた。

 1902明治35年、千島列島占守島で*郡司成忠とサケ・マス漁をした。
   *郡司成忠: “千島占守島/夏草の間に戦車”  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/08/post-0824.html

 1903明治36年、カムサッカ方面でも漁場を払い下げ、サケ・マスなどの漁業に従事。同年、ベーリング海でのオットセイ猟は2隻で4200頭という空前の記録となり一躍「オットセイ王」の名を得た。
 1904明治37年2月、日露戦争開戦。翌年、アメリカで講和、ポーツマス条約に調印。
 1906明治39年、シイタケの人口栽培を普及。翌40年、千歳に缶詰工場を建設。

 1908明治41年、東宮(大正天皇)東北行啓のさい、拝謁し、令旨ならびに御下賜品を賜った。同年、松島湾杉之浦でウナギの養殖をはじめた。
 岩手県は著名な鮑(アワビ)の産地であったが、なかでも助三郎の郷里、吉浜村および馬頭は盛んであった。しかし、当時は年が経つほどにアワビが小型になって年々産額が減少していた。
   助三郎は当業者・平田と率先して、漁業組合の規約で、三寸(約10cm)以下のアワビの捕獲を厳禁した。自ら監視の役目をつとめ、漁獲日数も減らしたが、却って産額が増加した。しかし、当時は一ヶ月2000余円の産額しかなかった。未だ改良の余地ありとみた助三郎は、平田某と共同で1908明治41年から向こう10年間、一年3千円で吉浜・馬頭の両村を借り受け、新繁殖方法の実行に着手した。
 考案した繁殖法は、捕獲するアワビの最少限度を大きくして、小型の物は捕獲しないと決めたのである。そして3年目、三寸五分以上の物のみを採取して年額6000円、4年目には8400円、5年目12000円、6年目16000という巨額の収入を得た。アワビの形を大きくし品質も改良、「吉浜(きっぴん)アワビ」の名をあげた。「きっぴん」は吉浜の別称。
 また、松島湾の入浦に国有林120ヘクタールを払い下げ、村民にも分収林として魚貝養殖の目的で払い下げた。

 1912明治45年、オットセイ猟が廃止になると、メキシコ沿岸でのアワビ漁に注目。メキシコの富豪の特許海面のうちカリフォルニアおよび太平洋一千哩の海面共同経営を契約。漁夫を送って実行したが、5年ほどで廃業した。
 1917大正6年からは、小壁、大建などの建網漁場を経営、ワカメ加工にも着手して三陸漁業の振興に大きな足跡を残した。吉浜湾南岸の小壁漁場はブリの定置網で知られるが、近年は、サケの水揚げが多い。

 組合の積立金に自ら9200円を支出して、道路の改築、学校の増築にあてた。小学校の敷地を寄付、米崎村の道路改修費の寄付、戦時*恤兵費、東北地方凶作のさいの救恤寄付・義援金など8千円に達している。いっぽう、函館や塩釜でなどで豪遊した話も。
   *恤兵(じゅっぺい): 金銭や物品を贈って戦地の兵士をなぐさめること。

 大正11年7月30日、東北大学付属病院で死去。58歳。
   死の直前に緑綬褒章を贈られる。助三郎の前半生は失敗の連続だったが、義侠的な出資を得ておこなった北洋出漁が実を結び成功をもたらした。「耕海富国」という言葉を好み、三陸一円や、広くは国家の発展という立場から漁業を考えたところに助三郎の大きさがあった(大友幸男)。
 「カキの味ひ」というパンフレットを大量に印刷して宮城県下などにばらまいたが、その内容は今日でもそのまま役立ちそうだという。水上助三郎という人物はエピソード豊富で、行動力と行動範囲は半端ではなく、なんともダイナミック。助三郎のいうように“漁でもうけたら木を植えろ。不漁の年は山が助けてくれる”を実行しようとする地域があるのをニュースで見た。助三郎の故郷、岩手県気仙郡三陸町はきっと今もそうしている。東日本大震災から丸5年過ぎた、どこまで復興したでしょう。

   参考: 『模範農村と人物』香坂昌孝1917求光閣書店 / 『岩手の先人100人』大友幸男ほか1992岩手日報社 /『日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店

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コメント

平田某は越喜来村の村長をした平田倉之助ではないでしょうか。平田は当時、豪家が湾を独占していたことに対し山を売った私財で裁判(?)を起こし海を共有できるようにしたと聞いています。「三寸(約10cm)以下のアワビの捕獲を厳禁した・・」とも聞いたことがあります。また平田は30歳を過ぎてから末息子をつれ現在の慶應義塾大学に特待性?として勉強に出かけ「気が変になったのでは」と噂されたのだとも聞きました。慶應義塾の季刊誌?三色?に奥州からきた平田が載ったのだとも。国会図書館「水産界」に「鮑の自然増殖を計れ・平田倉之助」の文章は保存されているようです。残念なことに平田の末息子は慶應中学?に入学後病死したそうです。当時のひとは漁協に銅像があってもいいくらいなどど話したとか話さないとか。

投稿: | 2016年6月30日 (木) 01時56分

岩手の三陸町出身の者です。私の実家村上家は津波に流されてしまいましたが、助三郎氏の母上が村上家から出たサン様という方だったと思います。そのようなこともあり助三郎氏を身近に感じ尊敬しているので、このようにブログで取り上げていただけるととても嬉しく感じます!
**************
けやきより
 こちらこそ温かいコメントありがとうございます。助三郎のような人物が埋もれているのが不思議です。喜んで頂けて嬉しいです。大震災から被災地の事柄を取り上げるようになりましたが、こちらが教えられることが多いです。東北の復興を願っています。

投稿: murakami | 2016年6月21日 (火) 23時44分

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