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2016年6月

2016年6月25日 (土)

福島城主~重原藩主~貴族院議員、板倉勝達 (福島県・愛知県)

 福島城。板倉重寛が信濃国坂木(長野県坂城町)から福島に転封され福島城主となる。譜代大名、石高3万石。板倉氏十二代は元禄期から明治元年まで167年間福島の地を治めていた。しかし、戊辰戦争、明治維新と激動の時代を迎え、武士や町人はもちろん殿様だって荒波をかぶる。困難を乗りこえ、生き方、進む道を考えなければならない。戊辰の戦で降伏した福島藩主11代・板倉勝尚に代わり第12代福島城主となった板倉勝達、その明治やいかん。

          板倉勝達 (いたくら かつみち/かつさと)

 1839天保10年5月1日、板倉勝俊の実弟・勝定の長男として生まれる。のち板倉家から降臣して年寄役・渋川教之助となる。
 1868慶応4年~明治1年、戊辰戦争。福島藩主・板倉勝尚奥羽越列藩同盟に組したが9月2日、二本松の新政府軍に降伏し福島城を開城。
  勝尚は新政府に反抗した罪に問われ、12月、3万石の所領の内2000石を削減、福島城付地没収の処分を受けた上、隠居を命じられた。代わって家督を継いだのが、教之助である。教之助は衆望により藩主家を継ぎ、最後の福島藩主・板倉勝達となり、内膳正を名乗る。
  まもなく、福島藩は廃藩となり、代わって飛び地である重原(しげはら)に領地が認められ重原藩(愛知県)を立藩する。福島城は、堀や土塁が壊され、二ノ丸跡を中心に福島県庁が建設される。

 1869明治2年、版籍奉還。板倉勝達は重原藩知事に任命され、板倉氏とその家臣は愛知県重原へと移りる。重原藩(しげはらはん)は、三河碧海郡に置かれた藩で石高2万8000石、藩庁は重原陣屋に置かれた。

 現在の愛知県知立市を中心に、刈谷市・安城市・豊田市のそれぞれ一部が藩領であった。刈谷市下重原町(浄福寺)に陣屋跡が残る。この地は元々は刈谷藩の領土だったが、1790寛政2年、寛政一揆が発生。第三代藩主・土井利制はこの責任を取らされ1万3000石を陸奥福島藩と領地替えの処罰を課せられた。
 1792寛政4年、三河国内にあった福島藩飛び地に移封、これに福島藩旧領と上総国内にあった所領を合わせ2万8000石の藩主として重原藩を立藩。また、旧天領地の三河県(府藩県三治制)の一部地域も重原藩に編入される。

 重原藩主となった勝達は、行政機構の改革をはじめ、藩校・教導館を養正館に改称して教育の普及に尽力した。このとき大参事として働いたのが福島藩家老の家に生まれた内藤魯一である。
“戊辰後は自由民権家そして衆院議員、内藤魯一(福島県/愛知県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/07/post-bd1c.html 

 1871明治4年7月、廃藩置県により重原藩は廃藩。工事中の重原陣屋の藩庁建設は中止され、陣屋門は半城土村に払い下げ1874明治7年に願行寺の山門として移築。なお、重原県は額田県を経て、愛知県に編入される。

 1873明治6年、群馬裁判所、同年12月、高崎裁判所に配属となる。
 1877明治10年7月15日~16日、華族総代・武者小路実世とともに西南戦争陣中見舞い、九州へ赴く。
   同年9月、華族会館華族部長局第一部長。12月、宮内省御用掛。
 1881明治14年6月、判事に就任。
 1882明治15年1月、農商務御用掛となる。
 1884明治17年7月、華族令により子爵となる。
   版籍奉還後、公家・諸侯を華族と称したが、華族令はそれまで呼称であった華族に、爵位を授け、特権を有する身分とし、明治憲法で貴族院の構成要素として地位を与えた。

 1886明治19年、農商務省御用掛を*非職となる。
   *非職: 廃官廃庁や疾病などにより、官吏の地位をそのままで職務のみ免じること。3年を1期とし現給3分の1を支給、満期免官。

 1890明治23年11月、第1回帝国議会開会。貴族院子爵議員に選出される。51歳。
   帝国憲法によって創設された議会は、皇族・華族及び勅任議員からなる「貴族院」と公選議員で組織される「衆議院」の二院制が採られた。なお、貴族院は解散がない。

 1894明治27年、宮内省による旧堂上華族に対する恵与金下付に対し、旧武家華族有志者総代として他の4名とともに土方宮内大臣に質問書(内容不詳)を提出した。
   貴族院議員として、初期は院内で藩閥政府に対抗的な「三曜会」に属し、議会活動をおこなった。のち、最大会派の「研究会」に所属。貴族院は開設当初から会派が結成されていた。特に子爵団体を母体とする「研究会」は、子爵議員の有志の集まりが始まりで、1892明治25年には会員数70人以上に上る大会派となった。
 1900明治33年以降、貴族院六派(研究会・茶話会・木曜会・旭倶楽部・庚午会・無所属)による「各派交渉会」が開かれ、慣例となった。諸般の事項についての協議機関として重要な役割を果たすこととなったのである。
 1901明治34年11月11日、呉造兵廠事業観覧。
 1908明治41年、「研究会」に対抗する「子爵談話会」、さらに「扶桑会」に入会。
 1910明治43年、社会主義を研究し、政党組織の必要を認める華族らによる「華族談話会」会員になる。
 1911明治44年7月、72歳。この時まで貴族院に在任。
 1913大正2年7月16日、死去。74歳。住所、牛込区相町(南町とも)8番地。

   参考:
http://www.city.fukushima.fukushima.jp/site/fureai/fureai03-13.html 福島市ふれあい歴史館 / 板倉勝達 wikipedia /『初期帝国議会』1891加藤孫二郎編・刊行 / 「帝国議会の貴族院――大日本帝国憲法下の二院制の構造と機能――議会政治調査室・田中嘉彦 国会図書館レファレンス2010年11月号 /『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館

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2016年6月18日 (土)

後進育てた無私の陸軍監督総監、野田豁通(熊本県) & 続・「遠野物語」出版の功労者、佐々木喜善

 岩手県水沢市出身の山崎爲徳(神学者)は後藤新平(政治家)や斉藤実(海軍大将)と縁続き。15歳で野田の学僕となり、野田が帰郷のさい伴われて熊本に行き熊本洋学校に入学。この話に『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』に描いた野田豁通を思い出した。

 ――― 1871明治四年、廃藩置県があり、政府は府知事、県知事(県令)を派遣。青森県に大参事として野田豁通がやってきた。13歳の柴五郎は青森県庁の給仕となり、野田の邸に引取られる。五郎は野田家の雑用をしながら県庁の給仕として働いた。雪道を早朝出勤して火をおこし雑用をこなし、宿所に戻っても雑用をしなければならなかったが、飢餓の日々をおもえば辛くない。野田は書生の面倒をよく見、後進の少年にたいし倒幕派、佐幕派といった差別をしないばかりか、厳しく叱りつけるより良いことがあれば温顔をほころばせて喜ぶという人間であった。野田の書生として後藤新平・斉藤実など知られる。五郎は野田の大らかさ、その情けにふれ、将来に希望をもつことができたといってもよい。

        野田 豁通 (のだ ひろみち/かつつう)

 1844弘化元年12月24日、春日村に住む熊本藩士石光家の三男。幼名を太造。
 1853嘉永6年、藩学時習館に入り、論語、孟子、左傳など素読、算書を学ぶ。
 1859安政6年、数え年の15歳で同藩士、野田淳平の養子となる。養父は奉行所の役人で武芸を好み、野田も文事を後にして武芸が先になった。
 1861文久3年、当時、尊皇攘夷の説が四方におこり熊本藩内も騒がしかった。野田は藩命により争乱の巷の京に上る。当時、熊本藩は寺町御門を守っていたので野田も草鞋履き、手にはケーベル小銃をもち、腰に重い銃丸を下げて従った。
 1866慶応2年、長州戦争。会計書記として出征。
 1868明治元年戊辰の6月、選抜され三名で京に上り横井小楠熊本藩士、思想家)に入門、また三岡八郎(由利公正)について会計を学ぶ。ときに戊辰戦争のさなか、維新政府側の秋田・津軽藩が奥羽で攻撃を受けると二藩をたすけるため政府は宇和島・福山・大野の三藩の兵をだして奥羽に向かわせた。
 野田は軍務官(参謀)試補としてこれに従い、玄界灘を出発した。出征したものの季節は冬で寒さもあり、奥羽の地理にはうとく苦戦。
 1869明治2年、戊辰最後の戦、箱館戦争榎本武揚ら脱走幕府軍と戦い九死に一生を得る。8月凱旋。そのさい仙台岩波の名取川畔の民家にさく白萩をみて養父を想い一首、
     古さとの垣根の萩の咲初めて 父のこころをなくさめやせん

 同年、胆沢県(岩手県水沢市)が創立され少参事となる。この時の学僕が山崎、後藤、斉藤。翌年、管内巡回中、栗原郡の有名な産馬地・鬼首村の荒雄川が氾濫したのを無理に渡ろうと泳ぎ溺れかける。助けられて「暴虎馮河」の無謀を反省。
 1871明治4年、廃藩置県。野田は弘前県大参事に任ぜられるが、弘前、松前、黒石、斗南(会津藩移封の地)、七戸、八戸の6県を合併して青森県となった。野田は青森県権参事、県令は菱田禧が任命され県政を担った。ところが、斗南藩士授産の事で菱田と意見が合わず、翌明治5年5月、野田は辞任して東京に出る。

 1873明治6年、再び陸軍省に出仕。このころ青森から東京で下僕をしていた柴五郎と会い陸軍幼年学校生徒の募集を教える。幼年学校を受験、合格した五郎に道が開け、やがて陸軍大将となる。この辺りの事情がいきいきと描かれているのが『ある明治人の記録』、著者・石光真人は野田の甥・石光真清の子である。 
 石光真清は軍人になり柴家に下宿したこともある柴五郎の生涯の友人である。石光真清には『城下の人』『曠野の花』など著書があり、知る人も多いだろう。

 1877明治10年、西南戦争。野田は警衛兵会計部長を命ぜられ、第一・第二旅団の会計部長として出征。見廻り中の尾月原摘塚砲台で敵弾にあたり負傷。第二旅団会計部長選任。
   4月、軍団被服陣営課専務担任、5月、課長。7月、軍団糧食課長兼勤を命ぜられ功があった。11月9日、戦死者の招魂祭が行われた。
 1879明治12年3月、陸軍会計副監督、第五局第八課長。10月、会計局計算課長。
 1880明治13年4月、輸入品購求手続取調委員。翌14年2月、陸軍会計一等副監督、8月、西部検閲監軍部長属員。
 1882明治15年一月、会計局次長、東部検閲監軍部長属員。17年1月、会計局次長。
 1886明治19年3月、会計局第一課長、陸軍二等監督。
   12月、ドイツ陸軍経理視察に2年間派遣となり、軍事視察に赴く川上操六陸軍中将・乃木希典陸軍中将とともに渡航する。ドイツで、グナイスト、スタインらに学び、またベルリンで陸軍各官庁、各隊の実況を調査。のち、『独逸陸軍経理大要』上下巻著す。

 1888明治21年7月、帰朝。陸軍予算調整法を改正。最も多額にして最も錯雑なる陸軍会計をよく整理の実をあげた。11月、会計局次長。
 1889明治22年、大日本帝国憲法発布式に参列。

 1890明治23年3月、陸海軍連合大演習監督部長を命ぜられる。
    帝国会議が開催されると、第15回議会まで終始、政府委員となり、陸軍会計事務の代表として議員の質問、攻撃に対した。
 1891明治24年、陸軍経理局長に補せられる。
 1893明治26年7月、臨時行政事務取調委員。第五・六師団の会計整理を審査。
 1894明治27年、日清戦争。大本営野戦監督長官として、大本営のある広島へ赴き、戦役間および戦時に属する会計経理をみる。その野田を評して「征清百傑伝」著者は、
 ――― 君、天資磊落、面してまた順良なり。故にある時は鬼神の如く、ある時は児童の如く、花の如く、中に侵すべからざる慮ありて、敬慕措く能わず、左の一首をみよ。いかに優しく、いかにゆかしきかを、
     もののふの猛きこころも 小金井の花には 駒にのりそかねつる

 1901明治34年6月、
 ――― 二十七八戦役における征清の役に際し、野戦監督長官として、会計整理の任を完うし、凱旋の後男爵華族となり、新制を開き、戦後会計の整理をなしたる陸軍会計監督総監正四位勲二等功三級野田豁通君は、俄然冠を懸けたりき・・・・・・今や功なり名遂げて求むる所なきに因るか

 1913大正2年1月5日、東京本郷区金助町の自宅で死去。
    資産は残っていなかった。晩年、さまざまな事業を行ったようだが、どれも失敗して私財を失ったようだ。熊本の養家の妻と、東京の家の妻との間にそれぞれ子があった。

  参考: 『死生の境.後編』田中万逸1912博文館 / 『征清百傑伝.上巻』天竜漁史1895奎光堂 / 『内外名誉録.第一編』栃内吉古編1902内外名誉録出版事務所 / 『ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書』石光真人1984中公新書

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   続・「遠野物語」出版の功労者、佐々木喜善(岩手県)

 先だっての“佐々木喜善と柳田国男”の二人に関するものが、毎日新聞夕刊2016.6.14<「論の周辺」在野の研究者・大井浩一>に載っていた。官職とか政治とかに縁がないせいか「在野」に目がいった。次はその一部、
 ――― 自ら「在野史家」と称する礫川氏は「在野研究者・本山桂川に学ぶ」・・・・・・
 本山は柳田国男と同時代の民族学研究者。礫川氏によると、「民族学の泰斗」である柳田氏に対し「本山ほど、『遠慮』なく、ものを言い続けた人」はいなかったらしい。柳田の有名な『遠野物語』は、岩手の佐々木喜善が提供した話を素材にしているが、その佐々木が「人生最大の窮地」に陥った時、「柳田に助けを求めて拒絶された」一件があったという。本山はこれに「義憤」を覚え、そう表明する一方、佐々木が亡くなると旧稿を集めた本を企画・編集するなど「思いやりの心があった」。

 記事の終わりは
  ――― 専門分化を極めた今の学問が健全さを失わないためにも、在野の志を持つ人々は必要な存在だと感じる。
 自分は学者でもなんでもないが、なにか励まされたような気になった。そして、この地味ブログを読んでくださる中にも同感の方がありそうな。

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2016年6月11日 (土)

「遠野物語」出版の功労者、佐々木喜善(岩手県)

 中井けやき、ペンネームの由来は、中里介山・中島敦・井上ひさしを合わせて「中井」、それに窓から見える欅、大好きなものを並べたもの。でも近ごろ、忙しいからと言い訳して遠ざかってて必要に迫られた本を読むばかり。友人に話したら、「忙しいを分解すると心がない」だと言う。そうか、それは寂しいと本棚から文庫本井上ひさし『新釈遠野物語』をとりだして読んだ。井上ひさし流「遠野物語」書き出だしは次である。

  柳田国男は『遠野物語』を次のように始めている。
此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨1909明治四十二年の二月頃より始めて夜分折折訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり・・・・・・思うに遠野郷には此類の物語猶数百件あるならん・・・・・・無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」
 柳田国男にならってぼくもこの『新釈遠野物語』を以下の如き書き出しで始めようと思う。
「これから何回かにわたって語られるおはなしはすべて、遠野近くの人、犬伏太吉老人から聞いたものである。1953昭和二十八年十月頃から、折々、犬伏老人の岩谷を訪ねて筆記したものである・・・・・・山神山人のこの手のはなしは、平地人の腹の皮を少しはよじらせる働きをするだろう」

 
 自分は怖がりだから“平地人を戦慄せしめよ”に読むのやめよう。でも、“腹の皮を少しはよじらせる働きをするだろう”それなら昼間読めば大丈夫とページを繰り、いつしかひきこまれた。
 遠野の人は、神秘に満ちた深い世界と隣あわせていたのだ。きっと今もだ。東日本大震災の被害にも負けず、岩手の人々に「遠野物語」が息づいてると思いたい。
 実は、『遠野物語』イコール柳田国男とばかり思い込んでいた。元はといえば、佐々木喜善こと鏡石がいて世に広まったのを知って、佐々木喜善はどういう人物か、人名事典をひいてみた。明治・大正期の作家・民族研究家。号を鏡石、筆名繁とあった。

      佐々木 喜善 (ささき きよし)

 1886明治19年、上閉伊郡土淵村山口(現、遠野市土淵町)に生まれる。
 岩手医学校
 哲学館(現、東洋大学)
 早稲田大学文科、病気のため中退して帰郷。
   郷里で村農会長、郡農会議員、県農会議員、村長などをつとめた。ある事件、失政のため村長を辞める。その後、民族研究にうちこみ、とくに昔話の採集に大きな業績をあげ、柳田らの昔話研究の路をひらいた。その間にも創作を志し、「芸苑」「アルス」などに短編小説などを発表。

 1908明治41年頃、創作「長靴」を発表。夢物語と現実の対比が効果をあげ、文壇の一部から注目をあびた。文学上の交際がひろがり、水野葉舟・三木露風・北原白秋・前田夕暮らと往来する。水野は新進作家で、佐々木と柳田との出会いは水野の紹介によるという。
 1910明治43年6月、『遠野物語』出版され、日本民俗学のバイブルとなる。
   佐々木はこの年、病にむしばまれて帰郷する。しかし、文学への意欲は旺盛で文芸誌に発表、在京の仲間たちとの文通も欠かさなかった。ところがせっかくの作品も中央での反応は乏しく、次第に民間伝承の収集に傾く。佐々木は友人に資料を照会したり、自身でも現地にでかけ、江刺・和賀・岩手・紫波・胆沢の各郡にある昔話を集録し発表していく。

 1920大正9年、『奥州のザシキワラシの話』(玄文社)を出す。
 1922大正11年、『江差郡昔話』。
 1926大正15年、『紫波郡昔話』(郷土研究社)
    『東奥異聞』(坂本書店)は、昔話の発生、原因、分類、考証からなる理論書。

 1927昭和2年9月、『老媼夜譚』(郷土研究社)昔話採取の模範とされる一部を抜粋。

  大正12年の冬(旧正月) ―――村の辷石谷江(はねいしたにえ)という婆様と親しい知り合いになったお陰で、かなり多くの昔話を聴くことができた・・・・・・私は婆様の家に、一月の下旬から三月の初めまで、ざっと五十余日の間ほとんど毎日のように通った。深雪も踏分け、吹雪の夜も往った。(中略) この婆様から聴いた話は、口碑伝説までを交えて、総てで百七十種ほどであった。そして其の話の大部分は、子供の時、其の祖母から聴いたもので、おらの祖母のお市という婆様はまだまだおらの三倍も四倍も話を知っていた。 
           (自序、昭和2年5月5日、仙台北三番町の旅舎にて)

 1928昭和3年から、生涯を終えるまで仙台市に住む。
 1931昭和6年、昔話の集大成『聴耳草紙』を出版、金田一京助に、日本のグリムとまで賞賛された。不如意の境遇で世を去った佐々木にとって、せめてもの幸いであった。
 1933昭和8年9月29日、心血をそそぎつくした民間伝承の採集資料と著書のある手狭な座敷で、突如として死をむかえた。佐々木喜善の生涯は、一貫して古き素朴な日本人の心の追求であった。

   参考: 『岩手の先人100人』長尾宇迦ほか1992岩手日報社 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 / 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

     ***** けやきのブログⅡ“遠野” *****

伊能嘉矩・『台湾文化志』 & 坪井正五郎・弥生土器 (岩手県 & 江戸)
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三閉伊一揆の指導者、三浦命助(岩手県閉伊医郡)
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釜石鉱山鉄道 と 岩手軽便鉄道
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明治・大正期の洋画家、萬鉄五郎(岩手県)
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2016年6月 4日 (土)

わらじ村長38年間無給、鎌田三之助(宮城県)

 駅のホームでスマホ片手に乳母車を押すママを見かけヒヤヒヤ。乗り物にベビーカーが解禁になって日がたつ。幼児連れで外出しやすいが歩きスマホは危ない。でも逆ギレされそうで注意できない。そのいっぽう中高年も余裕がないのか幼い児を煩がり、迷惑がる。
 世間一般寛容を忘れギスギスしている。テレビをつければ、がっかりなニュース。現実を見て見ぬ振りことばが上滑りの政治家、はたまた公私の別もない政治家が金銭に執着、恥ずるふうもない。本さえ読めればいい者には、力業で地位や金銭を掴み獲り恥も外聞もないのが解らない。欲に取り憑かれたら最後、終わりがない。それでも、世の中がっかりな奴よりまともが多い。そう思わないとやってられない。ぶつぶつ言いながら『宮城県の歴史散歩』を開いたら、どこかの知事に教えたい人物が載っていた。「財政難の村の村長を84歳で退職するまで10期38年間無給で村政を行った」宮城県志田郡鹿島台村長・鎌田三之助である。

Photo_2                

               鎌田 三之助                          

 1863文久三年、陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現・宮城県大崎市)に生まれる。鎌田三治の次男。鎌田家は仙台藩士の流れを汲む家で鳴瀬川に沿った大地主の家柄。祖父玄光、父三治とも地元の治水事業に生涯を傾けた。

 1878明治11年、政治家を志して上京、明治法律学校法学部(現・明治大学法学部)や漢学塾で学んだ。やがて、郷里に戻り農業に従事しながら木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教えた。
 1894明治27年、志田郡会議員を経て、32歳で宮城県会議員に当選。
 1902明治35年、第7回衆議院議員総選挙に立候補し当選。2期務める。
 1904明治37年、解散総選挙以降、3度立候補するも落選。
   潜穴(もぐりあな)3条を掘って、品井沼の水を松島湾に流し込み、明治潜穴工事の実現に向けて準備を整え、メキシコへ渡航。代議士の時から構想していた移民計画を実行するため1906年明治39年、メキシコに渡ったのである。

 ――― 鎌田三之助、先ごろ墨西哥(メキシコ)に遊んで其の風物に眷恋(けんれん)し、しばしば杖を曳いて山川水沢を跋渉す。一日沢畔(たくはん)を過ぎて大鰐長二間余なるが巨口(おおぐち)開て道に当れるを見る。三之助吃驚仰天食われては大変と一目散に逃げ戻り、これを通弁(通訳)に語れば、曰く「鰐は自分に害を加えぬ貴客(あなた)を食はうとするのではない。彼は歯の間へ虫が湧くといつでもああして口を開けるのです。すると鳥が来てその虫を拾つて食うのです」と、三之助呆れ返つて暫く語なし。
   (『名士奇聞録』橘溢生1911実業之日本社) 
 
    写真: 『北米墨西哥植民案内』鎌田三之助著1908成功雑誌社より

  品井沼は、北部の大松沢丘陵、南部の松島丘陵、西部の奥羽山地、そして東部を流れる鳴瀬川につづく大きな沼であった。江戸時代、仙台藩主の新田開発により品井沼沿岸地区の荒れ地が拓かれた。のち、品井沼の水を松島湾に流すため大工事が開始され、潜り穴大工事(元禄潜り穴)が完成。617町歩もの新田が得られた。
 元禄潜り穴は、堤防の補修や潜り穴の土砂の取り出し作業(ずり出し)など仙台藩直轄事業により6回も海舟工事が行われた。明治時代になると宮城県令松平正直が、干拓工事の必要性を内務省に説き、1882明治15年には、オランダ人御雇技師ファン・ドールンによる実測がなされた。しかし、沿岸の3郡5ヵ村は、品井沼沿村組合を結成、独自に事業計画を作成して、県と交渉を続けた。
 1899明治32年、県会議員の鎌田三之助らの尽力によって予算を獲得し、新排水路の実測調査が行われた。
 1907明治40年、品井沼排水工事をめぐり工事推進派と中止派に住民を二分する対立が起き、三之助は事態収拾のためメキシコからの帰郷を余儀なくされた。
 急ぎ帰国した三之助は、再び事業を軌道にのせるべく奔走し、同年、潜穴3条の排水路をもつ明治潜穴が着工された。
 1910明治43年、潜り穴の崩壊・落盤、設計変更による工費の増額などの困難をのりこえて完成を迎えた。
   国道346号線沿いの松島町幡谷には明治潜穴公園があり、そこから煉瓦造りの明治潜穴の穴頭を見ることができる。大正・昭和とその後も事業はつづき、品井沼は姿を消し広大な水田地帯となった。先人達が戦い続けた勝利の証しは実りの秋、見渡す限りの穂波。

 1909明治42年、三之助は財政難にあえいでいた鹿島台村の村長に推され、10期38年間、84歳で退職するまで無給で村政を担当。村長職にあって品井沼干拓事業にも尽力した。
   在任中は、「鹿島台村申合規則」をつくって村人に倹約を説き、みずからも実践した。村財政の建て直しに努力し、在任中、無報酬(旅費を含む)を一貫して通した。つねに小倉木綿の洋服、脚絆に草鞋履き、腰に握り飯という格好で通し、「わらじ村長」と呼ばれ親しまれた。

 1927昭和2年12月17日、藍綬褒章を下賜される。
   ――― 資性篤実つとに村長に挙げられ爾来、鋭意自治の発達に力を尽くす。殊に率先、品井沼排水開墾事業を主唱し、苦心経営遂に其の工を成し、田地8百町歩の水害を免れしめたる。しかのみならず新たに892余町歩の耕地を得、今や移住者の300戸の多きに達す。洵に公同の事務に勤勉し労効顕著なりとす。

 1945昭和20年8月15日、敗戦。
 1946昭和21年、戦後、公職追放となり村長を辞任。
 1950昭和25年5月3日、死去。87歳。
    鹿島台小学校の校門脇に三之助を称える銅像が立ち、大崎市鹿島台町に鎌田記念ホールが建設され記念展示室が設けらている。

   参考:『宮城県の歴史散歩』宮城県高等学校社会科・歴史部会2007山川出版社/ 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

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