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2016年6月25日 (土)

福島城主~重原藩主~貴族院議員、板倉勝達 (福島県・愛知県)

 福島城。板倉重寛が信濃国坂木(長野県坂城町)から福島に転封され福島城主となる。譜代大名、石高3万石。板倉氏十二代は元禄期から明治元年まで167年間福島の地を治めていた。しかし、戊辰戦争、明治維新と激動の時代を迎え、武士や町人はもちろん殿様だって荒波をかぶる。困難を乗りこえ、生き方、進む道を考えなければならない。戊辰の戦で降伏した福島藩主11代・板倉勝尚に代わり第12代福島城主となった板倉勝達、その明治やいかん。

          板倉勝達 (いたくら かつみち/かつさと)

 1839天保10年5月1日、板倉勝俊の実弟・勝定の長男として生まれる。のち板倉家から降臣して年寄役・渋川教之助となる。
 1868慶応4年~明治1年、戊辰戦争。福島藩主・板倉勝尚奥羽越列藩同盟に組したが9月2日、二本松の新政府軍に降伏し福島城を開城。
  勝尚は新政府に反抗した罪に問われ、12月、3万石の所領の内2000石を削減、福島城付地没収の処分を受けた上、隠居を命じられた。代わって家督を継いだのが、教之助である。教之助は衆望により藩主家を継ぎ、最後の福島藩主・板倉勝達となり、内膳正を名乗る。
  まもなく、福島藩は廃藩となり、代わって飛び地である重原(しげはら)に領地が認められ重原藩(愛知県)を立藩する。福島城は、堀や土塁が壊され、二ノ丸跡を中心に福島県庁が建設される。

 1869明治2年、版籍奉還。板倉勝達は重原藩知事に任命され、板倉氏とその家臣は愛知県重原へと移りる。重原藩(しげはらはん)は、三河碧海郡に置かれた藩で石高2万8000石、藩庁は重原陣屋に置かれた。

 現在の愛知県知立市を中心に、刈谷市・安城市・豊田市のそれぞれ一部が藩領であった。刈谷市下重原町(浄福寺)に陣屋跡が残る。この地は元々は刈谷藩の領土だったが、1790寛政2年、寛政一揆が発生。第三代藩主・土井利制はこの責任を取らされ1万3000石を陸奥福島藩と領地替えの処罰を課せられた。
 1792寛政4年、三河国内にあった福島藩飛び地に移封、これに福島藩旧領と上総国内にあった所領を合わせ2万8000石の藩主として重原藩を立藩。また、旧天領地の三河県(府藩県三治制)の一部地域も重原藩に編入される。

 重原藩主となった勝達は、行政機構の改革をはじめ、藩校・教導館を養正館に改称して教育の普及に尽力した。このとき大参事として働いたのが福島藩家老の家に生まれた内藤魯一である。
“戊辰後は自由民権家そして衆院議員、内藤魯一(福島県/愛知県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/07/post-bd1c.html 

 1871明治4年7月、廃藩置県により重原藩は廃藩。工事中の重原陣屋の藩庁建設は中止され、陣屋門は半城土村に払い下げ1874明治7年に願行寺の山門として移築。なお、重原県は額田県を経て、愛知県に編入される。

 1873明治6年、群馬裁判所、同年12月、高崎裁判所に配属となる。
 1877明治10年7月15日~16日、華族総代・武者小路実世とともに西南戦争陣中見舞い、九州へ赴く。
   同年9月、華族会館華族部長局第一部長。12月、宮内省御用掛。
 1881明治14年6月、判事に就任。
 1882明治15年1月、農商務御用掛となる。
 1884明治17年7月、華族令により子爵となる。
   版籍奉還後、公家・諸侯を華族と称したが、華族令はそれまで呼称であった華族に、爵位を授け、特権を有する身分とし、明治憲法で貴族院の構成要素として地位を与えた。

 1886明治19年、農商務省御用掛を*非職となる。
   *非職: 廃官廃庁や疾病などにより、官吏の地位をそのままで職務のみ免じること。3年を1期とし現給3分の1を支給、満期免官。

 1890明治23年11月、第1回帝国議会開会。貴族院子爵議員に選出される。51歳。
   帝国憲法によって創設された議会は、皇族・華族及び勅任議員からなる「貴族院」と公選議員で組織される「衆議院」の二院制が採られた。なお、貴族院は解散がない。

 1894明治27年、宮内省による旧堂上華族に対する恵与金下付に対し、旧武家華族有志者総代として他の4名とともに土方宮内大臣に質問書(内容不詳)を提出した。
   貴族院議員として、初期は院内で藩閥政府に対抗的な「三曜会」に属し、議会活動をおこなった。のち、最大会派の「研究会」に所属。貴族院は開設当初から会派が結成されていた。特に子爵団体を母体とする「研究会」は、子爵議員の有志の集まりが始まりで、1892明治25年には会員数70人以上に上る大会派となった。
 1900明治33年以降、貴族院六派(研究会・茶話会・木曜会・旭倶楽部・庚午会・無所属)による「各派交渉会」が開かれ、慣例となった。諸般の事項についての協議機関として重要な役割を果たすこととなったのである。
 1901明治34年11月11日、呉造兵廠事業観覧。
 1908明治41年、「研究会」に対抗する「子爵談話会」、さらに「扶桑会」に入会。
 1910明治43年、社会主義を研究し、政党組織の必要を認める華族らによる「華族談話会」会員になる。
 1911明治44年7月、72歳。この時まで貴族院に在任。
 1913大正2年7月16日、死去。74歳。住所、牛込区相町(南町とも)8番地。

   参考:
http://www.city.fukushima.fukushima.jp/site/fureai/fureai03-13.html 福島市ふれあい歴史館 / 板倉勝達 wikipedia /『初期帝国議会』1891加藤孫二郎編・刊行 / 「帝国議会の貴族院――大日本帝国憲法下の二院制の構造と機能――議会政治調査室・田中嘉彦 国会図書館レファレンス2010年11月号 /『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館

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