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2016年7月

2016年7月30日 (土)

女子体育の母、二階堂トクヨ (宮城県)

 いよいよリオ・オリンピックが間近になった。現地では準備不足らしいし、ジカ熱の問題もある。「選手の皆さま気をつけてご活躍を」そしてご無事の帰国を願っています。身近な所でも、トレーナーや練習相手?などリオに出発した人達がいるが各々スポーツ人でカッコいい。そういう人はたいてい教室や講座を開いてい、下手な者でもお世話になれる。
 先日、オリンピック選手の卓球教室に参加。お手本の素晴らしさに目をみはり、自分の出来なさを痛感、でも、教わるって楽しい。今は誰でも運動やスポーツ競技を楽しめる時代になった。多少費用はかかるが一流の指導も受けられる。そして身体を動かす楽しみに男女の別はない。ところが昔は「女だてらに」という言葉があり、女子はおしとやか優先。その時代に留学して体操を学び、教えたのが女子教育者・二階堂トクヨである。

      二階堂 トクヨ

Photo 1880明治13年12月5日、父・保治、母・キンの長女として宮城県志田郡三本木町桑折18番地で生まれる。
 1887明治20年4月、志田郡松山町立尋常高等小学校に入学。同年、三本木村立尋常小学校に転校。28年3月卒業。
 1895明治28年11月、検定試験により、尋常小学校本科准教員免許を得る。

 1896明治29年3月、隣県の福島女子師範学校入学のため、福島県安達郡の士族・小笠原貞信養女となり小笠原姓を名乗る。
 同年4月、福島女子師範学校入学。国語の教師になろうと勉学一筋に歩む。
 1899明治32年、福島女子師範学校卒業。高等小学校本科正教員の免許を得る。

 1899明治32年4月、福島県安達郡油井村立尋常小学校訓導となり、傍ら師範学校入学のため猛勉強する。
 1900明治33年4月、東京女子師範学校に入学。尾上八郎(柴舟)について和歌に凝った。次は本人お気に入りの自作和歌

   大磯の浦風なぎし小夜なかに ちいさく見ゆる箱根路の野火

 1904明治37年、卒業。教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を得る。漢文は早くから「日本外史」を読破していた。

 1904明治37年4月、石川県立高等女学校(金沢高女)に赴任。国語を教えたかったが、体操を指導することになった。当時、体操は下に見られていたし、二階堂自身も学生時代、
 「これほど下らないものは天下にあるまい」と、体操の授業を毛嫌いしていた。しかし、彼女を襲った二度にわたる大病と家族を襲う不幸のために、また自身の命もあと僅かだしと投げやりな態度だった。ところが、体操の授業を行うことによって、健康を増していった。成果をあげて評判となり、ここから試行錯誤の体操にかける人生がはじまる。
   同年8月、文部省体操遊戯講習証書を得る。

 1907明治40年7月、高知県師範学校教諭兼舎監に任命される。受持時数19時間の中、歴史が1時間で、高知では自他共に許す体操教師となっていた。
 1909明治42年7月31日、小笠原家より二階堂家へ復籍。
 1911明治44年3月、東京女子高等師範学校助教授。

 1912大正元年10月、体操研究のため、満二カ年間英国留学を命ぜられる。
<官報.1912年11月22日 学事 文部省外国留学 東京女子高等師範学校助教授 二階堂トクヨハ一昨二十日出発セリ(文部省)>
    イギリス・キングスフィールド、サウスウエスタンポリテニック、バーミンガム、ベッドフォード、スコットランドのダムファーリンなどの各体操専門学校において修業、スウェーデン体操の理論と実際などを学ぶ。 

 1915大正4年4月、帰朝。往きと同じ、インド洋を廻り神戸着。
<官報.1915年05月08日 ○学事: 留学生帰朝  文部省外国留学生東京女子高等師範学校助教授 二階堂トクヨハ去月二十七日帰朝セリ(文部省)>
   同年5月、第六臨時教員養成所教授兼東京女子高等師範学校教授 年報金六百円下賜(5月4日文部省)

 1917大正6年9月、『足掛四年・英国の女学界』(東京宝文館)、翌年8月、『体操通俗講話』(東京宝文館)を出版する。http://kindai.ndl.go.jp/ 国会図書館デジタルライブラリーで読むことができる。
 1921大正10年、文部省視学委員を命ぜられる。

 1922大正11年、(大正7年より)東京女子大学体操科授業を嘱託される。
   二階堂は生徒に、体操は「精神に気持ちよく、身体にこころよからしむ」と教え、ダンス、体操、遊戯、スポーツの各分野を広く研究した。
 しかし、こうした考え方は、同じスウェーデン体操ながらも鍛錬的体育との折衷的な「学校体操要目」をまとめた上司の*永井道明の考え方と対立、東京女子高等師範学校を辞職する。

   *永井道明(ながいどうめい): 茨城県出身。明治・大正期の学校体育指導者。姫路中学校長のとき、スポーツ奨励に熱心な武田兵庫県知事と出会い、その推薦で文部省から海外体育事業調査に出張。日本最初の「学校体操教授要目」の作成に着手。日本におけるスウェーデン体操の権威で、学校体操の父といわれた。 

 1922大正11年4月15日、東京代々木山谷に私学、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を創設し、女子の体育指導者を養成した。情熱あふれる先生、そして教育愛にもえた二階堂先生は授業中厳しかったが、一方で生徒の面倒をよく見たので慕われた。
 ある時は、豊かな黒髪をきりりと二百三高知まげに結い前髪をふくらませて、声量豊かな声で号令をかけたいた。なお、塾の経営は楽ではなかったようだ。

 1923大正12年9月1日、関東大震災。塾舎が半壊したので松原に移転、翌年竣工。
 1926大正15年3月24日、財団法人日本女子体育専門学校に昇格。卒業生は中等教員有資格となる。
 1941昭和16年7月17日、東京慶応病院において永眠。享年61歳。

   参考: 『二階堂トクヨ伝』戸倉ハル・二階堂清寿・二階堂真寿1967不味堂 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂

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2016年7月23日 (土)

裏磐梯に植林、緑と観光に尽くした遠藤十次郎(現夢) (福島県)

 NHK番組<ブラタモリ>よく視るが、先日のテーマは[会津へ 磐梯山は宝の山]。今回もご当地専門家に加えタモリの博識に感心しつつ磐梯山は宝の山と納得。番組終盤、裏磐梯を宝の山にするために尽くした人物・遠藤現夢を紹していた。もっと知りたいと手元の人名辞典をひいたがなかったのでネットで検索、参照させてもらったホームページは参考欄に。

     遠藤十次郎(現夢)

 1864文久4年1月10日(ちなみに2月20日から元治1年、明治維新まで後4年)、
   会津若松新横町の商家、滝口太右衛門の12男に生まれる。
   幼少期から剣術を習い、一刀流を極め、人にも教えた。
   ?年、 大町の米穀商の大和屋遠藤家の婿養子となる。その後、 旧日新館跡に分家し、味噌・醤油の醸造業を開く。

Photo 1888 明治21年7月15日、磐梯山爆発
   午前7時半頃、大音響とともに火柱を噴き上げた。鳴動と地震は二時間にわたり山頂は吹き飛んだ(図の点線は小磐梯)。天から石と灰が降りそそぎ、泥流は北側山麓を時速77kmのスピードで襲い集落を呑み込んだ。秋元、細野、雄子沢の3集落を壊滅させ、犠牲者は死者463(or444)人という多大な損害を与えた。

 東京日日新聞は「大噴火、岩瀬村全村埋没」・「檜原村は池沼に」、官報は「二里四方の草木枯死」と報告。

Photo_4

図の点線は、崩れ落ちた小磐梯。

 噴火翌年、災害の跡も生々しい当地を、柴四郎(東海散士)、*谷干城、*佐々友房、柴五三郎一行4人が東北への遊説途中訪れた。猪苗代湖東岸の山潟亭に泊り、磐梯山に上って大噴火跡を見物。
 谷は戊辰戦争の時、政府軍の将として会津を攻め、檜原村長坂村はそのとき村民を喪っている。それなのに長坂村は今また噴火のため百人以上が圧死。そのうえ岩瀬川が決壊、洪水で家や田畑が流されるという惨状。「天なんぞこの村民に無情なるや」 災害の大きさにの一同言葉がなかった。

   *谷干城: 土佐。軍人・政治家。西南戦争で熊本城を西郷軍から死守した陸軍将軍。
   *佐々友房: 肥後熊本。政治家。西南戦争で西郷軍について敗れ懲役刑となり、のち特赦放免となる。
 
 1901明治34年、若松・田島間の新道開発に伴い、遠藤は運送業をはじめた。また、城の近くに住んでいたので、松平家から若松城(鶴ヶ城)の公園管理を任せられていた。ほかに、お城の堀に川から水を引き、コイの養殖も手がけた。

 1908明治41年、歩兵第65連隊が設置されると、それを記念して友人とともに千本のソメイヨシノを若松城と連隊営門前に植樹し、一帯はのち桜の名所となった。そして、公園管理の功績により松平家から手水鉢一対を贈られ、その一基は本丸内に置かれている。

 ところで、噴火後の裏磐梯は一年どころか十数年も火山灰や泥流で埋めつくされ、荒野のままであった。そこで、遠藤は荒れ地を緑化し森に変えたいと願っていた。
 1907明治40~43年ごろ水力発電の開発を企画し裏磐梯の探査があり、遠藤は国が民間人に植林させた後、その土地を低価で払い下げようとしているのを知る。

 1910大正8年、遠藤は植林の権利を手に入れ、植林を開始。
   荒廃した土地478町歩余りを払い下げてもらい、私費を投じ、約2年をかけ気の遠くなるような1340haに及ぶ広い土地に植林を行った。
 技術の指導を林学博士の中村弥六に、また財政支援を宮森太左衛門らから受けた。一方、現場で監督した斉藤丹之丞は20年も番小屋に住み着き、中心となって苗木の生長を見守った。

 中村弥六は信州の人、衆議院議員。ドイツに留学し森林専門学校を経てミュンヘンの大学を卒業。農商務省山林局に出仕、大小林区の監督に従事、「日本林業の祖」とも伝えられる。中村は、荒地に赤松が適していることを遠藤にすすめ、五色沼湖畔に建てた小屋で遠藤と起居をともにしながらアカマツを植林した。アカマツは根付かせるのが難しかったが遠藤らは、失敗にもめげず2年がかりでに成功させた。
 アカマツ5万本、ほかにスギ3万本、ウルシ2万本の苗木を東京ドーム285個分の広い荒野に植林したのである。
 苗木10万本は新潟方面から岩越線(磐越西線)で運び、さらに猪苗代からは馬車で裏磐梯方面に運んだ。当たり前ながら、かつての道路は埋没したままで至るところ大きな岩がごろごろ、または泥濘なので新たに道路を造りながら前進しなければならず困難をきわめた。
 そして、「植林成功届」「官有地払下願」提出の日がきた。しかし、政府は当初の約束と違い国有林のままだという。そこで中村弥六が原敬首相に直談判、478町歩余りを払い下げてもらうことができた。
 遠藤らは中村に感謝し土地の一部を贈ろうとしたが、中村が断ったので記念にその土地の沼を「弥六沼」と名付けた。

 1930昭和5年、遠藤は裏磐梯の観光開発のため磐梯施行森林組合を設立。
    植林した赤松を使って噴火口から引湯する温泉開発を計画したが湯量が少く計画はつまずいた。ほかにも檜原湖南岸の道路や五色沼の道路の改修にも多額の出費が重なったため、家産が尽きた(宮崎十三八『会津地名・人名散歩』)。
 遠藤十次郎は裏磐梯山に豊かな緑を残したが、家業は傾き財産が尽き、苦悶の末に倒れこの世を去った。その日が資料でことなる。
 1934昭和9年12月6日、71歳/1934昭和11年、73歳。

   現夢が生前に立てた墓碑と、磐梯山噴火で亡くなった犠牲者の慰霊碑が五色沼(柳沼)のほとりに。磐梯山噴火で落下した巨石の下に妻イクと共に葬られ、墓碑には辞世の句
   “なかきよに みしかきいのち五十年 ふんかおもへば夢の世の中”

    参考: 『福島県耶麻郡磐梯山噴火詳誌』佐藤誠之助1888 / 『磐梯山噴火の図』錦絵帖(国会図書館古典籍資料・錦絵 http://kindai.ndl.go.jp/ ) / 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき
http://www.kikori.org/nippon/fukushima/province-02.htm“きこりのHP”
https://machitabist.theblog.me/posts/38876  “マチタビスト”
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin35.htm “会津人物伝”
https://ja.wikipedia.org/wiki/ ウィキペディア “遠藤現夢”

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2016年7月16日 (土)

西南戦争、久木野村で兵乱を生き抜いて看護婦に、富永はる(熊本県)

 熊本地震から3ヶ月の被災地、復興未だしなのに無常の大雨、猛暑も重なり困苦が思いやられる。熊本城は西南戦争にも耐えたのに、屋根瓦も石垣も無惨に崩れ落ちた。天災は苛酷、雄々しく立派な名城にも容赦なし。まして住民の被害は甚大、復興への道は険しい。思い起こせば、熊本は明治の昔も大変な目に遭った。西南戦争で熊本市内は焼き払われたのだ。
 1877明治10年2月、西郷軍が熊本に襲来、四方より熊本城を攻めた。守る政府軍は籠城を決定、ついては、城下の家々が邪魔。発令して市民を立ち退かせると市内を焼き払った。戦いの攻防は一進一退、壮烈な銃砲戦と肉弾戦のすえ、ついに4月、政府軍の応援が入城。旅団から、勝利と併せて戦禍も報告された。
――― 兵馬の難にかかりたる人民の困苦はいつも多いといえど、今回の熊本のように烈しいのは未だかつて無い。郡村所々は天守台から四望すると焦土と焼けた木がまばらにあるのが見えるだけ。どの倉庫も無残でその状況は見るに忍びない。今日は各地へ流離したる人民何れも菜色にして帰来り、焼跡で流涕する者が続々。見渡す限りの惨状に何も言えず泣声を聞くのも忍びない。
 各地で戦いが続き、徴兵の農民や町民は鍛えられ「勇敢な鎮台兵」になった。追いつめられた西郷隆盛
「我あやまてり、思はざりき鎮台兵のかくまでに強勇にして我を困ずるにたらんとは、これ日本全国をあげて兵となすに足る」と喜んだ。個人的野心はもたず望まないのに担ぎだされ、死地に追詰められてなお日本の行く末を思う西郷。佐賀の乱など反乱続き、政府は士族を押さえるために「徴兵」で勝つ必要があったのである。
 西南戦争は西郷が鹿児島で自刃する9月まで長く続いて、広い地域が兵乱に巻き込まれた。阿蘇郡久木野村(くきのむら)も砲声に脅かされ、19歳の富永はるも家族や村人と逃げまどった。
 
      富永 はる
 
 1859安政6年3月1日、熊本県飽託郡健軍村(ほうたくぐん けんぐんむら/くまもと空港)で、父・富永英作、母・乙味の長女として生まれる。
 1877明治10年、当時、富永家は久木野村に居住。阿蘇カルデラ内の火口原南部から外輪山にかけての地域である。
   西南戦争がおきると村は兵乱の巷となり、若くて働きざかりの者は招集され、婦女老幼病者が残された。ハルたちは砲声におびえつつ避難、その混乱は筆舌に尽くしがたい。渡瀬川の一谿谷の山腹に大洞窟があるのを聞き知った母の乙味はハルと幼い妹を連れ、ほかの十数人とともに大岩窟で数十日も難を避け、生き延びることができた。ハルの弟、岩生はこの岩窟で生まれた。
 ハルはこの洞窟に深く感謝し、このような自然の避難所を創りしは何人ならんとの感情が心をよぎり、これがキリスト教への階梯となった。その後、キリスト教の巡査に導かれて教会に出席、信仰の道に入った。
 1886明治19年9月15日、熊本県下水俣の講義所において、宣教師オー・H・ギューリックに洗礼を受けた。

      この年、新島襄が中心となり、京都看病婦(かんびょうふ)学校創立、11月、開校式が行われた。教授のベリーJohn・C・Berryは、アメリカのボード-ミッション宣教医師。1872年来日、神戸・岡山・京都で活動し、病院・看護婦養成所などを創立するかたわら、社会事業・医療・伝道に従事した。
 1888明治21年、京都に赴き、京都看病婦学校に入学。
    ベリーの厳しい指導に耐えてよく学んだ。
 1890明治23年6月、卒業後、母校の生徒取締りとなる。
 1891明治24年、京都、新場町仁王門通りに無料診療が開始されると、ベリーと川本恂蔵が診療に従事し、ハルはこの病院で働いた。
    同年10月28日、濃尾大地震発生。死者は7000人を超えた。
 1893明治26年、無料診療所を辞職して京都看護婦会を組織。
    同年、京都同志社病院付属看護婦学校できる。
 1897明治30年、京都看護婦会を脱退、宅原・馬場というの2女史と協力し共愛看護会を設立。多くの看護婦を養成し、病人の看護に当たると共に、精神的慰安者ともなり、関西における看護界の大きな団体となる。
 1910明治43年、京都市立高等女学校(明治41年4月開校)のマッサージ教授となる。

 1912大正元年頃 
   ―――68歳の今日まで誰の世話にもならずに、独立自治の生活を辿っておりますのも、全くベリー先生の賜であると深く深く感謝しております(『日本に於けるベリー翁』より)。
 1913大正2年、御影町に共愛看護会の支部を設け、看護婦は60名。
 1917大正6年11月14日、皇后陛下の御前で、マッサージの実地教授を行った。
 1918大正7年2月、『日本に於けるベリー翁』大久保利武(父は大久保利通)編・東京保護会発行。
    同書に、富永ハルほか教え子がにベリー師との思い出を寄稿。また同書は、ベリーのことはもちろん原胤昭・留岡幸助らキリスト教社会事業家、文部大臣・牧野伸顕の寄稿・記述あり。
  没年不詳。  富永ハルは、終生嫁がず、神とキリストのため、国家と同胞のため身をもって愛を実行することを決心した。多忙の身ながら教会のことにも力をつくし、苦学生を世話するのを楽しみとしていたから、ハルの援助によって看護を学び、技術を習得した者が多かった。

   参考: 『日本人物情報大系 97』芳賀登ほか編集2002晧星社 / 国会図書館近代デジタルライブラリー

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2016年7月 9日 (土)

インド仏教哲学、木村泰賢(岩手県)

 とある人物の伝記執筆をしているがなかなか進まない。それに加えてブログ更新もあるのに弱い巨人のテレビ中継、つい見てしまう。また、講座や大学図書館、下手の横好き卓球もあり忙しくボケてる暇がない。そんなこんなでよく出歩くが、電車内で乳母車や抱っこの赤ちゃんをみるとホッ。ニッコリされたら今日はよい日だとうれしくなる。でも、笑わない赤ちゃんもいる。
  子育ての環境は昭和と違って便利になったのに、若いママは何かと多忙、赤ちゃんが笑わなくても気にしない。その赤ちゃんが大人になった時、社会はどんな様相か。その時を想像すると心配になる。
 今でさえ、物は豊になったのに心が追いついていないようで、世間一般尖っている。こうした情況はおそらく、人の情が薄れている証拠。大きくいえば、哲学が顧みられないせか、社会に包容力がなくとげとげしい。と、エラソウに言っても、哲学は難しく手に負えない。でも、難解だからと避けてるのは私ばかりでないよう、哲学はあんまりはやらない。せめて哲学者の一人をと尋ねて、インド仏教哲学者・木村泰賢を知り、可能なら聴講をしたいと思った。
 
        木村 泰賢  (きむらたいけん)
 
 1881明治14年、岩手県岩手郡田頭村(たがしらむら、西根町田頭)、木村亀治の次男として生れ、幼名は二蔵。父が早く死んで母は五人の子どもを抱え困窮、二蔵は大更の工藤寛得の酒屋に小僧奉公に出る。
 1892明治25年4月。郷里の太田小学校を卒業。
 1893明治26年、12歳。みこまれて田頭の曹洞宗・東慈寺住職、村山実定の弟子として養育されることになった。曹洞宗の中学校、さらに進んで東京麻布笄町の高等学院に入学した。ところが、当時の学院長・快天は洋服着用主義者で、泰賢は院長の主義に共鳴し過激な態度をとったので追放された。しかし泰賢は少しもめげず、青山学院の中等部に編入して卒業した。

 1899明治32年6月、住職の実定が遷化(せんげ高僧が死ぬこと)、泰賢は19歳で実定の跡をつぎ東慈寺二十世となり、翌33年、曹洞宗大学(現駒澤大学)に入学。
 1903明治36年7月、東京帝国大学文科に選科生として入学。

 1904明治37年2月、日露戦争開戦。陸軍二等看護卒として招集され*第八師団に配属、砲煙弾雨のなか戦地の野戦病院で傷病兵の看護にあたった。
      *第八師団:管轄は岩手・青森・山形・秋田の4県と宮城県の一部、のち3県。
  泰賢は出征のとき、文庫本の元祖ドイツ出版社のレクラム版『シェークスピア』とドイツ語の本と辞書を携行。従軍中にドイツ書を読みこなすことができるようになった。

 1909明治42年、東京帝国大学文科を卒業。優秀な成績で銀時計を得、特選給費生として大学院に入り、高楠順次郎(たかくすじゅんじろう)教授のもとでインド哲学を専攻。
 1912大正元年9月、帝国文科大学インド哲学の講師に任命される。
 1914大正3年10月、恩師の高楠教授と共著『印度哲学宗教史』を刊行。未開拓のインド上古思想史の分野を解明。この書で学会における泰賢の地位を確立。
    翌年5月、『印度六派哲学』を刊行、認められて帝国学士院恩賜賞。
 1917大正6年11月、助教授。

 1919大正8年7月~11年5月、インド哲学研究のためヨーロッパに留学。これまでの日本や中国が*小乗だとして軽視していた「阿含教」を研究し、先入観をはなれて新しく整理再組織し、*大乗への発展の跡をたどり、『原始仏教思想論』を著し、研究方法論と成果は名著と評判になった。
   *小乗: 自己の人格の完成のみを目的とした仏教の教え。
   *大乗: 自分一人だけ悟るのではなく、万人を慈悲心をもって救うことを主張し、人間社会の理想的なあり方を教える仏教上の立場。
 1922大正11年、帰朝し、インド哲学第二講座の担任を命ぜられる。
    まもなく、『阿毘達磨論成立の経過に関する研究』を発表。古来難解とされていた小乗阿毘達磨研究に新しい路を開拓しこの学位論文で、文学博士の学位を得た。これは先人未踏の研究であって、本人ももっとも得意とする所であった。42歳。
 1923大正12年3月、教授に昇進。東京帝国大学仏教青年会の創立に尽力。また、反宗教運動に対し反駁につとめた。

 1924大正13年、『解脱への道』一種の仏教修道論を刊行。三篇からなるこの書は、人生は如何に生くべきか、その真相は如何なるものであろうか、を仏教的な見地から平明に、かつ的確に説いたものである。『解脱への道』は、仏教倫理に近代的意義をあたえた研究というより、大衆によびかけたもので、よく大衆の心をとらえた。
 1926大正15年、仏教女子青年会パンフレツト『仏陀の女性観』(仏教女子青年会)。
    月刊誌・実業之日本社『東京』3月号特別記事<至宝と仰がるる人々>で業績を紹介された。他に8名、大矢透・本多光太郎・鈴木梅太郎・石原純・西村真次・野口英世・左右田喜一郎である。泰賢は社会一般からも学識を認められていたのである。

 あるとき、泰賢の自宅にニセの托鉢僧があらわれ、その不徳を戒めながらも喜捨してやり笑いながら見送った。こうした闊達さもあり、門下には雑多な人物が集まってきたが、学問や思想上の議論はしても、個人攻撃は禁じた。
 1929昭和4年、『真空より妙有へ』を出版。『解脱への道』よりもさらに、積極的に現代思潮に呼応して、仏教の真意を説き明かした書。

 1930昭和5年5月16日、突如、狭心症で死去。まだ50歳と若い。
   葬儀は鶴見の総持寺において盛大に営まれ、学界はもちろん一般社会も心から哀惜をそそいだ。東京帝国大学総長の弔辞が姉崎正治博士により代読され、高島米峰はつぎのようにその死を悼んだ。
 ――― がっしりした健康そうな体躯、太くて力強い音声、開けっぴろげで屈託なさそうな態度、快活に笑ってのける無邪気さ・・・・・・ 木村君の後任として誰があるか、あれほどの大才が、そんなに容易に出てくる物ではない。
  業績は『木村泰賢全集』に収められ、明治後半以来の仏教雑誌は研究価値が高く、また泰賢の著書は広く読まれたらしく、東京から近い千葉県成田に「木村泰賢文庫」があり研究に寄与、今なお学界に貢献しているという。著書のいくつかは国会図書館・近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読むことができる。

   参考: 『岩手の先人100人』/ 『日本英雄伝・第3巻』菊池寛監修1936非凡閣 / 『国語科教授の実際 : 帝国実業読本提要. 巻8』1925冨山房  

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2016年7月 2日 (土)

明治の漢詩人・文章家、館森袖海 (宮城県)

 このところ漢字の表題ばかりで知恵がないが、またも漢字の塊の漢詩漢文で名声をえた人を紹介する。漢字の手書きはままならないが、パソコンだと難しい字がさっと出てくる。言い換えるより漢字が手っ取り早くついつい頼ってしまうが、筆者は漢詩の雰囲気は好きでも自力で読めない。ところが、明治人は漢詩文も得意で英語など外国語もできる人物が多い。森鷗外はドイツ、夏目漱石はイギリスに留学して語学が堪能なうえに、漢詩もすぐれているのは有名。
 明治期は西洋文明の取りこみに忙しい一方で、漢詩は空前のブームといっていいほど盛んになり空前の発達を遂げた。幕末以来、士人は己の思想感情を詩にしてきたが、旧大名や政府高官らが漢詩をつくり、それが一般にもひろまり盛んになった。また、印刷術の発達で雑誌・新聞に発表でき、詩集の発行もこれまでより容易になった。
 江戸から東京になって人材が四方から集まり、学者の私塾や詩社がつぎつぎと起こった。安井息軒の三計塾、大沼沈山の大沼学者、岡千仭(鹿門)の綏猷堂(すいゆうどう)、また森春濤の茉莉吟社、成島柳北の白鴎吟社などなど。そして地方でも詩社が作られ雑誌が発行された。
 漢詩文は学者が室に籠もって作るものより、官吏などの職務を果たすなかで生まれ、または、一人で或いは友との旅をし、詩や紀行文にしたものが多い。そうした一人に館森袖海がいる。彼は日清戦争後の台湾総督府に就職し、仕事の間に中国本土を旅している。幕末に生まれ昭和まで生きたその生涯をみてみよう。

             館森袖海たてもり しゅうかい)

 1863文久3年12月3日、陸奥国本吉郡赤岩村(宮城県気仙沼市)に郷儒・館森古道(臥雲)の子としてうまれる。名は万平。字は。号は袖海・拙存園
 1884明治17年、上京後8年余りの間に、堤静斎ついで岡鹿門、重野成斎に漢学を学ぶ。岡千仞の綏猷堂は旧仙台藩の藩邸にあったが、そこに岡と同じ宮城県出身の館森鴻(袖海)が入門したのである。それに加えて、英語・数学も修めた。
 1893明治26年、帰郷して、気仙沼で知新学舎を開く。
 1893明治27年、日清戦争。戦後、台湾は日本領土となる。
 1895明治28年、台湾総督府文書課に奉職。
    台湾では、内藤湖南・籾山衣洲、亡命中の章炳麟らと交わる。
 1896明治29年4月、『土佐日記釈義』(台湾総督府文書課員)著す。
 1901明治34年1月、漢文「姑蘇記游」をあらわす。台湾から蘇州など中国の南の方の名勝地を日本人や中国人の友人らとの紀行である。行く先々で昔を偲んでいる。漢学の素養があるから、中国の歴史に通じているから景色にみいるだけでなく行く先々の歴史をも楽しんでいる。師の岡鹿門なども中国に渡って有名な文人と交流している。館森は、 国分青厓、田辺碧堂とのつながりで晩年の仁一郎と交友があり、青涯、碧堂と共に『五峰遺稿』の編集校閲を行った。
    館森の “姑蘇記游”の序文を原文でなく読みで少し、それと後半の部分で分かりやすい部分を引用する

  ――― 一月十七日、台北を発す。二十三日、上海にいたり文監師路の逆旅に寓す。連日雪降ること繽粉たり。二月一日に至り始めて晴る。山根立庵(長州の人)、予に蘇州に遊ぶことを勧む。遂に次日を撰びて発程し、蘇州より常熟に入り、また霊嵒(れいがん)を観る。十一日上海に帰る。三月三日台湾に旋る。聊か姑蘇の游蹤を記すと云う。

  ――― 大湖は蒼煙渺靄として天にわたり俯瞰するを得ず・・・・・・山僧茶菓を具え、嚢を開きて詩を示し、我の作る所なりと謂う。予二三首を見るに、皆他人の詩なり。而るに以て自らに與するは、何の心ぞ哉。

 1903明治37年2月、日露戦争開戦。
   ?年~大正5年、 台湾に戻り国語学校で教鞭をとる。

 1917大正6年、帰国。大東文化学院の教授。聖心女学院、日本大学文学科、高等師範学校などの教授を歴任。
   『日本及日本人』の詩欄選者を担当、かたわら,『斯文』『大正詩文』などに稿を寄せた。雅文会の編集、芸文社顧問。漢詩人・文章家としての名声から選者や編集を頼まれたようだ。
 1941昭和16年12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾攻撃、対米英宣戦布告する。
 1942昭和17年12月24日、死去。80歳。

     館森袖海・著書
 『先正伝』、『拙存園叢稿』、尾崎秀真と共編『鳥松閣唱和集』など近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読めるものもある。
 詩集は未刊。おそらく死去したのが太平洋戦争さなかであり、戦争が終わっても敗戦で、子孫に漢詩集を出す資金も心の余裕もなかったからと察せられる。

   参考: 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『日本漢詩鑑賞辞典』猪口篤志1980角川書店/ 『明治漢詩文集 62』1983筑摩書房 

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