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2016年7月16日 (土)

西南戦争、久木野村で兵乱を生き抜いて看護婦に、富永はる(熊本県)

 熊本地震から3ヶ月の被災地、復興未だしなのに無常の大雨、猛暑も重なり困苦が思いやられる。熊本城は西南戦争にも耐えたのに、屋根瓦も石垣も無惨に崩れ落ちた。天災は苛酷、雄々しく立派な名城にも容赦なし。まして住民の被害は甚大、復興への道は険しい。思い起こせば、熊本は明治の昔も大変な目に遭った。西南戦争で熊本市内は焼き払われたのだ。
 1877明治10年2月、西郷軍が熊本に襲来、四方より熊本城を攻めた。守る政府軍は籠城を決定、ついては、城下の家々が邪魔。発令して市民を立ち退かせると市内を焼き払った。戦いの攻防は一進一退、壮烈な銃砲戦と肉弾戦のすえ、ついに4月、政府軍の応援が入城。旅団から、勝利と併せて戦禍も報告された。
――― 兵馬の難にかかりたる人民の困苦はいつも多いといえど、今回の熊本のように烈しいのは未だかつて無い。郡村所々は天守台から四望すると焦土と焼けた木がまばらにあるのが見えるだけ。どの倉庫も無残でその状況は見るに忍びない。今日は各地へ流離したる人民何れも菜色にして帰来り、焼跡で流涕する者が続々。見渡す限りの惨状に何も言えず泣声を聞くのも忍びない。
 各地で戦いが続き、徴兵の農民や町民は鍛えられ「勇敢な鎮台兵」になった。追いつめられた西郷隆盛
「我あやまてり、思はざりき鎮台兵のかくまでに強勇にして我を困ずるにたらんとは、これ日本全国をあげて兵となすに足る」と喜んだ。個人的野心はもたず望まないのに担ぎだされ、死地に追詰められてなお日本の行く末を思う西郷。佐賀の乱など反乱続き、政府は士族を押さえるために「徴兵」で勝つ必要があったのである。
 西南戦争は西郷が鹿児島で自刃する9月まで長く続いて、広い地域が兵乱に巻き込まれた。阿蘇郡久木野村(くきのむら)も砲声に脅かされ、19歳の富永はるも家族や村人と逃げまどった。
 
      富永 はる
 
 1859安政6年3月1日、熊本県飽託郡健軍村(ほうたくぐん けんぐんむら/くまもと空港)で、父・富永英作、母・乙味の長女として生まれる。
 1877明治10年、当時、富永家は久木野村に居住。阿蘇カルデラ内の火口原南部から外輪山にかけての地域である。
   西南戦争がおきると村は兵乱の巷となり、若くて働きざかりの者は招集され、婦女老幼病者が残された。ハルたちは砲声におびえつつ避難、その混乱は筆舌に尽くしがたい。渡瀬川の一谿谷の山腹に大洞窟があるのを聞き知った母の乙味はハルと幼い妹を連れ、ほかの十数人とともに大岩窟で数十日も難を避け、生き延びることができた。ハルの弟、岩生はこの岩窟で生まれた。
 ハルはこの洞窟に深く感謝し、このような自然の避難所を創りしは何人ならんとの感情が心をよぎり、これがキリスト教への階梯となった。その後、キリスト教の巡査に導かれて教会に出席、信仰の道に入った。
 1886明治19年9月15日、熊本県下水俣の講義所において、宣教師オー・H・ギューリックに洗礼を受けた。

      この年、新島襄が中心となり、京都看病婦(かんびょうふ)学校創立、11月、開校式が行われた。教授のベリーJohn・C・Berryは、アメリカのボード-ミッション宣教医師。1872年来日、神戸・岡山・京都で活動し、病院・看護婦養成所などを創立するかたわら、社会事業・医療・伝道に従事した。
 1888明治21年、京都に赴き、京都看病婦学校に入学。
    ベリーの厳しい指導に耐えてよく学んだ。
 1890明治23年6月、卒業後、母校の生徒取締りとなる。
 1891明治24年、京都、新場町仁王門通りに無料診療が開始されると、ベリーと川本恂蔵が診療に従事し、ハルはこの病院で働いた。
    同年10月28日、濃尾大地震発生。死者は7000人を超えた。
 1893明治26年、無料診療所を辞職して京都看護婦会を組織。
    同年、京都同志社病院付属看護婦学校できる。
 1897明治30年、京都看護婦会を脱退、宅原・馬場というの2女史と協力し共愛看護会を設立。多くの看護婦を養成し、病人の看護に当たると共に、精神的慰安者ともなり、関西における看護界の大きな団体となる。
 1910明治43年、京都市立高等女学校(明治41年4月開校)のマッサージ教授となる。

 1912大正元年頃 
   ―――68歳の今日まで誰の世話にもならずに、独立自治の生活を辿っておりますのも、全くベリー先生の賜であると深く深く感謝しております(『日本に於けるベリー翁』より)。
 1913大正2年、御影町に共愛看護会の支部を設け、看護婦は60名。
 1917大正6年11月14日、皇后陛下の御前で、マッサージの実地教授を行った。
 1918大正7年2月、『日本に於けるベリー翁』大久保利武(父は大久保利通)編・東京保護会発行。
    同書に、富永ハルほか教え子がにベリー師との思い出を寄稿。また同書は、ベリーのことはもちろん原胤昭・留岡幸助らキリスト教社会事業家、文部大臣・牧野伸顕の寄稿・記述あり。
  没年不詳。  富永ハルは、終生嫁がず、神とキリストのため、国家と同胞のため身をもって愛を実行することを決心した。多忙の身ながら教会のことにも力をつくし、苦学生を世話するのを楽しみとしていたから、ハルの援助によって看護を学び、技術を習得した者が多かった。

   参考: 『日本人物情報大系 97』芳賀登ほか編集2002晧星社 / 国会図書館近代デジタルライブラリー

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