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2016年8月

2016年8月27日 (土)

恋路の坂をゆく激情の歌人、原阿佐緒(宮城県)

 2016夏、リオデジャネイロ・オリンピックで日本人選手が大活躍、朝に晩にテレビ観戦。心は熱くとも、一とき暑さを忘れ気がつけば夏も終盤。サンマの記事に秋近し。
 「岩手県大船渡市や宮城県気仙沼市で24日、本州で初めてのサンマが水揚げされた。でも東日本大震災で被災、昨年の全国水揚げ量は前年から半減して過去最低。水産関係者は大量を祈願して、道半ばの復興を後押(毎日新聞・雑記帳、野崎勲)」
 サンマと言えば塩焼きで充分おいしいが、文学好きは青い蜜柑の酸味がほしいかも。
   あはれ 秋風よ 情けあらば 伝へてよ  ――男ありて 今日の夕餉にひとり さんまを食ひて 思ひにふける と。(文末に「秋刀魚の歌」)
 庶民のおかずサンマ、文学者の食卓にのぼれば陰影濃い詩になる。詩歌の作者、心は微妙で大胆、まして多感な若い女性は。その一人原阿佐緒は、抑えようもなく溢れる激情を歌いあげた。生身の感情と日常の現実、その間をどのように行き来していたのか。

      原 阿佐緒 (あさお)

 1888明治21年6月1日、宮城県黒川郡床村45番地で生まれる。本名、あさを。
   父・原幸松、母・しげの一人娘。
  ?年 宮城県立高等女学校を病気のため中退。
 1904明治37年、上京。圭文女子美術学校日本画科に入学。
   *下中弥三郎から和歌を、小原要逸から英語と美術史を学ぶ。まもなく、妻子ある小原との恋愛に悩み、妊娠中の身で自殺未遂。
      *下中弥三郎: 明治~昭和期の教育運動家、出版事業家。平凡社を創設、大百科事典ほか膨大な事典を出版、民衆教育の貢献につとめた。

 1907明治40年、長男・千秋を出産した後に小原と別れる。この頃より作歌に熱中。
 1908明治41年、作歌を『女子文壇』に投稿。
 1909明治42年、与謝野晶子に認められて、「新詩社」に入る。
     『スバル』『女子文壇』『我等』『青鞜』などに発表。三ヶ島葭子ら歌人との交流深まる。
 1913大正2年、処女歌集『涙痕』(るいこん)刊行。与謝野晶子の序、吉井勇の序歌がある。419首は、恋愛を中心とした多感な若い女性の涙のあとをとどめる。

   捨つといふ すさまじきことするまえに 毒を盛れかし 君思ふ子に
 抑えようもなく溢れる激情を歌い上げる。思いもよらなかった捨てられるということ、それは残酷無比な凄まじいこと。捨てる前に、いっそ毒をもってほしいというのである。
 1914大正3年、庄子勇と結婚し、次男・保美を出産。

 1916大正5年11月、歌集『白木槿』(しろむくげ)刊行。
   この年、「アララギ」に入会。斎藤茂吉、ついで島木赤彦の指導をうけた。愛をめぐる情感あふれる作風に特色があり、今井邦子・杉浦翠子らとともに、アララギ女流として注目された。
   『白木槿』現実のくのうをに裏付けられた抒情歌風は、実感として読者に感銘を与える。

 1917大正6年、石原純(いしはらあつし)と知りあう。石原純は、東北帝国大学の理論物理学者で「相対性原理」の最初の紹介者として著名。また、歌歴においても『馬酔木』以来の根岸派歌人として知られる。
Photo_2
  写真: 「みやぎ県政だより 2012.4.1」 <宿場町の面影を残す街並みをぶらり散策>。 
なお、地図③<恋路の坂>の並びにある「内ヶ崎作三郎生誕地」関連記事“大正5年の東北学事視察、内ヶ崎作三郎・高杉瀧蔵”  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/07/post-94e8.html

 1919大正8年、離婚。幼子を連れて帰郷、しばらく生家で過ごす。

   呼小鳥 今日もかも鳴く みちのくの狭霧の山の その木ふかみに
  阿佐緒の夫は紅灯の巷に耽溺して帰らない日が続いた。恨みはしなかったが、老いた母とわが子二人、4人で東北の厳しい冬を過ごさなければならなかった。

 1921大正10年、新聞に恋愛問題が発表され世間に知れる。石原は退職、二人で千葉県保田で同居生活を送る。この年10月、現実感を加えた『死をみつめて』刊行。石原との問題でアララギを去らざるを得なくなる。

   やうやくに 桑やり終えて 襷ながらすわる 夜ふけを こほろぎ鳴くも
 養蚕の激しい労働を夜ふけに終わり、たすき掛けのまま、ほっとして疲れた体を休めている。ふといままで気付かなかったコオロギを聞きとめているという歌。

   きはまりし いのちの果てを 相遠く 守りあひつつ 生くべきものか
 互いに二人の思う心の極まった果て、互いにそれ以上は近寄らずに遠くから、見守りながら生きねばならないものなのか。苦悩と悲嘆の交錯があり、当時、評判になった石原との恋愛の苦しみの作。

 1922大正11年、石原純、唯一の歌集『靉日』(あいじつ)刊行。

   停車場に汽車着きにければ 半鐘の合図がさみしく 曠野になるも
 物理学研究のため明治末期ドイツ・オーストリアに留学、シベリア経由の往路で詠んだ。

 1922年11月、アインシュタイン来日。日本への船中でノーベル賞受賞の知らせを受ける。12月2日には仙台を訪れ、翌日、超満員の聴衆を前にして相対性理論の一般向け講演を行いました。アインシュタインの日本への招待は、当時の京都帝国大学教授・西田幾太郎と東北帝国大学教授・石原純の発案によるといいます。石原純は原阿佐緒との不倫がマスコミを賑わせアインシュタイン来日の前年に大学を去っています。通訳は東北帝国大学教授愛知敬一でした。仙台以外では石原純が通訳しましたから、辞職のわだかまりがあったのかもしれません。
  (「アインシュタイン、物理学、図書館」東北大学付属図書館・北青葉山分館長・倉本義夫)

 1924大正13年、阿佐緒は創刊された『日光』の同人として加わり、石原も「短歌の形式を論ず」を掲載、新短歌(口語自由律)への転換を宣言。

 1928昭和3年、40歳。このころ石原純と別れ、酒場を開いたりして転落の道をたどる。この年10月、『うす雲』を刊行したが、それ以後、作家活動を停止して歌壇にあらわれることはなかった。

 1969昭和44年2月21日、死去。 81歳。
   阿佐緒の昭和、40年余もの長い間、どのように暮らしていたのだろう。平凡な主婦を不満とも思わず呑気に過ごしてきた筆者には、波乱の人生の歩き方、終え方、どちらの心情も見当がつかない。阿佐緒の場合、良くも悪くも華やかな前半生で燃え尽き、ひっそり閑としていたのだろうか。

   参考: 『現代女性文学事典』村松定孝・渡辺澄子1990東京堂出版/ 『現代短歌鑑賞辞典』窪田章一郎1978東京堂出版/ 『日本文学鑑賞辞典・近代編』吉田精一1989東京堂出版/ 『現代日本文学大事典』1965明治書院

                       **********

     秋刀魚の歌      佐藤春夫

  あはれ
  秋風よ情けあらば伝へてよ
  ―――男ありて
  今日の夕餉に ひとり
  さんまを食(くら)ひて
  思ひにふける と。

  さんま、さんま
  そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
  さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
  そのならひをあやしみなつかしみて 女は
  いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
  あはれ、人に捨てられんとする人妻と
  妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
  愛うすき父を持ちし女の児は
  小さき箸をあやつりなやみつつ
  父ならぬ男にさんまの腹をくれむと言ふにあらずや。

  あはれ
  秋風よ
  汝こそ見つらめ
  世のつねならぬかの団欒(まどい)を。
  いかに
  秋風よ
  いとせめて
  證(あかし)せよ、かの一ときの団欒ゆめに非ず と。

  あはれ
  秋風よ
  情けあらば伝へてよ、
  夫に去られざりし妻と
  父を失はざりし幼児とに
  伝へてよ
  ―――男ありて
  今日の夕餉に ひとり
  さんまを食ひて
  涙ながす、と。

  さんま、さんま、
  さんま苦いか塩つぱいか。
  そが上に熱き涙をしたたらせて
  さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
  あわれ
  げにそは問はまほしくをかし。
                     佐藤春夫詩集「我が一九二二年」より

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2016年8月20日 (土)

道の駅みさわ・斗南藩観光村、広沢安任 (青森県・福島県)

 2016.8.15終戦の日。 阪神甲子園球場で埼玉県の花咲徳栄(はなさきとくはる)高校球児が「野球できる平和に感謝」しつつ黙祷。同日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、天皇陛下のおことばがあった。おそれながら、心のこもったおことばで空襲の東京を逃げ回った亡き両親が思い出された。筆者は孫が中学・高校生という年配だが戦争の記憶はない。しかし大変だった事を聞いて育ち、「戦争ダメ」は根付いている。ただ、子や孫にその思いがきちんと伝わっているかどうか。この先、どんなふうでも戦災を知る世代がいなくなったら世の中どうなる。
 ところで、先の戦争というと、たいてい第二次世界大戦/太平洋戦争を思うが、会津では戊辰戦争をさす人もいるそう。戊辰の敗戦後、賊軍といわれ艱難辛苦が続いた歴史を思えば無理もない。しかしそうした中で、逆境を乗りこえ偉業をなし遂げた人も少なくない。新聞記事を読み、その一人、広沢安任を思った。  Photo



 ――― 青森県三沢市「道の駅みさわ 斗南藩記念観光村」が、乗馬や餌やりで馬と触れ合える「三沢ホースパーク」がオープンし、家族連れやカップルでにぎわっている。
 明治初期に日本初の民間洋式牧場が開かれた地でもある三沢。パークでは、いずれは高い技術を要する流鏑馬(やぶさめ)の訓練を行う構想もあるといい、「馬文化」再出発の始発駅にしたい考えだ(「雑記帳」毎日新聞・宮城裕也)。

 筆者は2004平成16年8月16日、下北半島を訪れ斗南藩の史蹟を巡り歩き、「斗南藩記念観光村」にも行った。八戸駅からバスに乗車したが間もなく乗客は私たち夫婦のみになり、一時間もかかってやっとついた。ところが、お盆休みらしく人気がなく閑散、先人記念館も休館。しかし、帰ろうにもバスは一時間に一本。夏の陽差しのなか、夫と顔見合わせ為す事もなく待ったのが思い出される。記事によると、今は賑わってそうでよかった。

        広沢 安任 (ひろさわ やすとう)

Photo_2 1830天保元年に生まれる。
 1858安政5年、29歳。藩の推薦により江戸・昌平黌に学び、やがて舎長を勤める。
 1862文久2年、幕府とロシアの国際談判に糟屋筑後守の随員として箱館に同行。往復の間、斗南領の地勢、風俗を観察する。これが、のちの斗南北遷説主張の基となる。
 1865慶応元年、京都に赴く、このとき甥の広沢安宅、随行。
 1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争
 1869明治2年、会津藩松平家の家名再興認められ、陸奥国斗南藩3万石。斗南藩権大参事・山川浩、少参事は広沢安任ほか3名。翌年から藩士の移住始まる。

 1871明治4年、旧藩士の救済と原野の開拓のため、広沢ら、ルセー、マキノンの二人を雇い入れ、谷地頭に洋式牧場を開設を願いでて許可される。
 1891明治24年、広沢安任、61歳で没。
   牧場は養子の広沢弁二が継いで経営、奥羽六県産馬会を創立。

   参考: 『北辺に生きる会津藩』2008 会津武家屋敷文化財管理室

      **********

     北辺の洋式牧場

 会津の移封地を決めるとき、猪苗代か陸奥か意向を聞かれ、旧会津藩は陸奥(斗南)を選んだ。猪苗代は旧領地で狭く藩士を養えないと考え、また会津落城後、人心荒廃、大規模な世直し一揆もあり、藩は権威を失って治める自信もなかった。
 斗南を選んだ首脳の一人広沢安任は、幕末の京で活躍し交際が広く政府内にも知己があり、進取の気性に富んだ人物であった。戊辰戦争に敗れ藩主以下江戸を去り会津に帰ったが、広沢は江戸に残り単身で西軍総督府に乗り込んで、
「諸外国が虎視眈々と日本の隙をねらっている。なのに兄弟垣にせめぐ戦いをしている場合ではない」と兵をおさめるように訴えて、捕らえられ斬罪がきまった。しかし命拾いをした。イギリス公使パークスの下で働いていたアーネスト・サトウが木戸孝允に口添えをしてくれ斬罪を免れ監禁となった。広沢は外国人とも交際があり、早くから開港説をとっていた。
 かつて広沢は幕府とロシアの国際談判に随行し、往復の間に
「陸奥の国は広大にして開発の望みあり」と考えた。山川大蔵もこれに賛成し、二人の強引な推進もあって会津藩は斗南に移ったのである。しかし移住後の生活はあまりにも困難であった。やがて廃藩置県となると藩主、重役ら多くが、また山川までもがこの地を去ったが、広沢は残留した。
 広沢は斗南人の生計の道を開こうと、現在の三沢市小河原沼の東、谷地頭に酪農主義農場の開拓をはじめた。一八七二(明治五)年五月、広沢牧場を開業し五ヵ年計画で事業を推進することになった。広沢は京を東奔西走していたこともあり新政府に知人が多く、開墾資金を借入れるのに役立った。のちに官有地の払下げや資金の貸与を願い出、これに成功している。四朗は広沢の小伝で広沢がつねに
「松方伯・谷将軍・福沢先生・富田・渋沢の諸名士と議論をしていた」と紹介している。

 広沢の牧場はイギリス人技師ルセーとマキノンの二人を雇い、彼らの指導のもと農具などをイギリスから輸入することになった。その技師二人を通訳兼案内人として連れてきたのが柴四朗である。この三人に旧会津藩士の佐久起四郎がつきそい陸路を二十日余りで青森三沢の牧場に着いた。
 開墾村、広沢牧場は現在、道の駅みさわ「斗南藩観光村」として再現されている。JR三沢駅からバスに乗り、三沢空港の前を過ぎてなおも一時間近く走り続けてやっと着いたが、記念館は休館だった。しかし、戸外に復元された当時イギリス人が住んだ家や村人の小屋は見学できた。
 技師の一人マキノンはスコットランド出身、農学校で畜産学を修めた勤勉な農夫であったというが、御雇い外国人の二人がこんな小さな家で、下北の冬に耐えて働いたのかと感心した。また粗末な小屋をみて開墾の厳しさ、困難が思われた。
 それにしても、バスが町中を抜けると道は何処までもまっすぐで人家は見あたらず、まるで原野を行くようだった。視界が開けていいが冬は吹きさらしで寒さは厳しいだろう。夏のやませといい、農耕に厳しい環境のようだ。明治初年は未だまだ交通が不便でもっと大変だったろう。ここまで徒歩で来るのは容易でなく、ましてこの地に骨を埋めるにはよほどの覚悟がいったはずである。
    (中略)
 牧場を開設して四年、明治天皇の地方巡幸、視察があり広沢が説明にあたった。このとき大久保利通が広沢に新政府への出仕を誘ったが広沢は
「会津藩は亡国である。義に殉じていったんは死んだものである。野にあって国家につくす」といった。その言葉どおり新政府に仕えず牧老人として生涯を閉じる。
 なお、天皇巡幸は当時の政府の威信をかけた大事業であり、地方にとってもたとえば青森県にとっては巡幸を転機に「北奥の開化」に弾みをつけようという意図もあった。広沢牧場を視察した一八七六(明治九)年の随行員は岩倉具視以下二三〇余人であった。二回目が明治十四年でこのとき政変があった。
        (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)

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2016年8月13日 (土)

幕末維新期、殉難の志士・魚住 勤(源次兵衛) (熊本)

 リオデジャネイロ・オリンピックと巨人戦中継をみるので忙しい。高校野球もある。甲子園に熊本からは秀岳館が出場、地方大会打率4割を超える打線は評判どおり初戦を打ち勝った。球児に限らず熊本の若者は健児という言葉が似合いそう。熊本健児はお城を見上げて心奮い立たせるだろうに、今のお城はいたましい姿。でも、いつか復興する。再興の参考となりそうな写真が熊本を訪れた時の2007平成19年“築城400年パンフレット”に載っていた。
Photo
【1875明治8年頃、焼失前の熊本城。大天守右下に鎮台の門】。それにちょうどいい説明が次の日本の名勝【熊本城(肥後)】
 ――― 慶長年中、有名なる加藤清正の築きしものにて、現今第六師団(熊本鎮台)の所在地たり。西南の役に、当時の楼櫓多く焼失せりと雖も、城濠其の他の規模は、依然として当年の雄大を想はしむ。特に城の中央に聳えゆる天守閣は、巍然として天を摩し、鬼将軍の稜々たる気節を表するものの如し(『日本の名勝』瀬川光行編1900史伝史伝編纂所)。

      魚住 勤 (源次兵衛)

 1817文化14年生まれ。名ははじめ良之のち真卿、さらに勤と改める。熊本藩士。
   幼くして学問を好み、成長して勤王党の林有通に入門。漢籍を学び、皇典(国体の意義・古典・礼節)を研究し復古の志があった。
 ときに幕末の肥後藩内は、およそ三党鼎立の形になっていた。一は藩校時習館を中心に士流の半ばを擁する学校党の一団。二は実学党で文字章句にこだわる学風にあきたらず別に一派を形成する横井小楠らの一派。三は勤王党、林有通門下の勤王志士の一団。
   なお、藩主細川氏は丹後15万石から豊前35万石次いで肥後54万石の大諸侯に封ぜられ、藩祖以来、徳川氏に恩義があった。そのため幕末変乱の際、優柔不断で目覚ましい行動を起こせないのも止むを得ない所があった。
 
 1853嘉永6年6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍監4隻を率いて浦賀に来航。魚住はたまたま江戸に来ていたので、藩命により警備についた。同年7月にはロシアのプチャーチンが長崎に来航するなど当時は外国船がしきりにやってきた。
 魚住はひそかに同志と攘夷の計画をたて、それには先ず、兵器や戦について研究しなければならないと考えた。操船術を池辺常春に学び、砲術を高島秋帆について研修、大いに得るところがあった。
 1860万延元年、幕府が日米修好通商条約批准のため、遣米使節を咸臨丸(艦長・勝海舟)で派遣することになった。それを知った魚住は一行中の同志に随行してアメリカの事情を探ろうとして願い出たが、許されなかった。しかし、魚住はあきらめず藩内を説くいてまわり理解する藩士もでてきた。

 1862文久2年、坂下門外の変。老中安藤信正が水戸浪士に襲われ負傷。薩摩の島津久光、藩兵1000人を率いて入京、朝廷に建議など勤王論がさかんになって魚住は行動をおこす。
 宮部・増実・松村・大成らと同志を糾合、八代に赴いて国老・松井に勤王の志を説いた。そして熊本に帰るや直ちに米田・小笠原の国老に説いてついに藩主に面謁、親しく意見を述べた。また、同志と上書して大義を述べるなど奔走尽力して藩論を勤王にまとめ、熊本藩主の弟、細川護美が京に上ることになり随従することになった。魚住は護美に従い上洛すると、公家や有志の間を奔走、王事に努めた。

 1864元治元年、禁門の変。長州藩兵が京都で幕府軍と交戦、長州戦争がおこった。魚住は長州を助けようとしたが、藩論は幕府の命に従うため兵を京にすすめた。そのため魚住は俗論派に忌まれ、父と共に自宅に禁錮となり幽閉された。

 1867慶応3年12月、藩主細川護美の世子護久は京に上り禁闕守衛の任にあたることになり、魚住はこれに従った。しかし、鶴崎というところにさしかかり熊本から急使が追いついてきて言うに
「藩議まさに幕府をたすくるに決す。世子すみやかに帰熊すべし」という。魚住はこれに
「今や国艱難に逢い・・・・・・堂堂たる雄藩の世子、まさに兵を擁していったん国を出て、途中遅疑して大儀に遅れ給はば、臣子の道すでに失す。何の顔して天下に対せむや」。
 世子はその言葉に決然として京に上ったが、京都在住の藩士も佐幕説を唱えるものがあったため、すぐには参内することができなかった。
 1868慶応4年、魚住は藩論を排して護久をうながし、ついに参内に成功した。
   「維新の初めにあたり、我が藩の大義を誤らざりしもの、実に魚住勤の功多きに居ると謂う可し」。『殉難十六志士略伝』著者の言である。
 
 1868明治元年、明治維新後、祠官(神主)となる。
 1872明治5年、教導職となる。
     教導職: 国民教化ににあたらせることを目的に教部省におかれた役職。神官・僧侶・国学者・儒者を任命し敬神愛国、天理人道、皇上奉戴の三条の教憲を報じて布教にあたらせた。1884明治17年廃止。
 1877明治10年、西南戦争。魚住知己・縁者、西郷軍と政府軍、どちらに組したろうか。
   熊本城(鎮台)内では、佐賀の乱を鎮圧した司令長官谷干城少将が籠城準備を急ぎ、ほぼ完了の矢先、天守閣と書院を結ぶ渡り廊下から出火。城内の火事は食料を焼いたものの弾薬と酒は無事だったが城外の住民は焼け出された。それというのも政府軍は籠城準備として市民に通達したものの、熊本城付近の家々を焼払ったからである。
 西南の戦いはこの熊本城からはじまるが、これより早く熊本県士族の池辺吉十郎(子は明治のジャーナリスト池辺三山)は、佐々友房(のち政治家)と、肥後の子弟を率いて薩摩に入った。池辺は村田新八と話合い、西郷の決起が伝わると西郷軍に呼応する。西郷軍はこのような士族たちを取込みながら鹿児島を飛出し、一目散に熊本へ押寄せたのである。

 1880明治13年9月16日、没す。63歳。

         遺詠
  大君の御楯になれとわが身をは 皇産霊の神のつくりおきけむ
  沓冠さかしまにおく世の中に いつまてかくてものおもふらむ

 魚住勤のように確乎たる意志・志の主はともかく、勤王・佐幕に揺れる藩論の間で悩み揺れ、結果、藩が勤王側についたとしても明治を前に斃れた士も少なくない。佐幕派に肩入れする筆者であるがそうした士には同情を惜しまない。魚住は明治の世を13年余り生きたが、従四位を贈られたのは死後。日露戦争を前に日英同盟が結ばれた1902明治35年である。

   参考: 『殉難十六志士略伝』河島豊太郎1918 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 / 『日本史年表』1990岩波書店 

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2016年8月 6日 (土)

倒幕に奔走のち会輔社を再興、小保内定身(岩手県二戸市)

 何気なくテレビをみていたら、モトクロス競技大会。バイクが凸凹道を疾走、空高くジャンプ!見るだけでもヒヤヒアなのに、ヘルメットを脱ぐと明るく可愛いい笑顔、何と女子高校生。彼女は子どもの頃からバイクに親しんでいたが、小学6年生で東日本大震災に遭い乗るのをやめたそう。家族の応援でまた乗るようになり競技会に参加したのだ。それにしても、大震災時、小学生の子が高校生とは・・・・・・歳月の速さ、被災地の頑張り、そして復興の遅さを感じた。競技会場の山陸沿岸の大槌町から、広~い岩手県をずうっと北へ上がると二戸郡がある。そこの福岡町(金田一村と合併して二戸市)の神職の家に生まれた小保内定身の波瀾の一生を紹介したい。

        小保内 定身 (おぼない さだみ)
 
 1834天保5年2月、二戸郡福岡(二戸市)の代々の神職、小保内安定の長男に生まれる。幼名を定三、通称を宮司(みやじ)。
 父の安定(通称、孫陸・常陸)は“鎮守の森”呑香稲荷神社の神職。国学の造詣が深い。
 1856安政3年、江戸へ出て、南部藩儒者・*那珂通高(江幡五郎)の塾、さらに儒学者・芳野金陵に漢学を学んだ。また、国学者・平田銕胤(かねたね、平田篤胤の女婿)に学んだ。
   *東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県) http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-fbfd.html

 これより3年前、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航、国内騒然としていた。尊王論がみなぎり革新の気に燃えた小保内は、攘夷運動に走り長州藩士久坂玄瑞らと親交を結んだ。王政維新の風雲に際し倒幕へと傾いた小保内は那珂に相談。すると、「青年の空論」と自重をうながされた。そこで小保内は、南部藩執政・東次郎中務を動かそうと帰郷した。

 1858安政5年、小保内の郷里では、吉田松陰の後継者と目されていた英傑、長州萩藩の小倉謙作(鯤堂)が暗殺の風評に逃れ小保内定身を頼り、定身の父・安定の元に身を寄せていた。
 小倉は、小保内の父らと共に士族の青年をあつめ結社、吉田松陰の松下村塾にならって「会輔社」を組織、青年らに四書五経を講じた。会輔社の由来は、論語の「友を会ゆるに仁を以てし、友を輔けるに仁を以てす」である。
 1859安政6年、安政の大獄があり、吉田松陰刑死。報せを聞いた小倉は嘆きつつ北海道・松前に赴く。小保内定身は思うところを実行しようとして帰郷する。

 1860万延元年春、小保内はともあれ会輔社を引き継いた。そこへ、水戸学の大家・吉田房五郎が訪れたので講師に迎えた。このころ、水戸や相馬などに赴き志士と交わっていた田中舘礼之助(*田中舘愛橘の父)が帰郷、吉田房五郎らとともに会輔社の青年を教え激励した。吉田は経史や兵法を教えていたが三年目の春、江戸に帰っていった。
 小保内は、松下村塾・水戸学・*相馬大作らの精神を融合、独特の国粋思想としたのである。
  *田中舘愛橘: http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-f325.html
文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中舘愛橘(岩手県)
  *相馬大作: 文末に転載、二戸市HP参照。

 1863文久3年、新たに会輔社員子弟のための“少年社”を設け、「修身治国平天下」を根本方針に訓育。
    また、好学の徒のために“稲荷文庫”を併設した。図書購入の費用を賄うため「稲荷無尽講」を考えだし、江戸の友人を通じ本を買い入れた。時には馬で運んだ大部の書籍は、「大日本史」「古事記伝」「折りたく柴の記」ほか、水戸講道館や藤田東湖の書、松下村塾の教書など和漢数千巻を備え、藩内随一の公開図書館となった。
  幕末の激動は江戸から遠く離れた東北の地も激動に巻き込まずにはいない。ところが、そういう時こそ世のためにも学問をと、書籍を大量に購入した人物がいて費用を負担した人々がいた。学者も馬で乗り付け、借りた書を教材にもしたという。図書館にかけた二戸の人々の熱意はきっと今も受け継がれている。

 ところで小保内の帰郷の目的、南部藩執政・東次郎中務担ぎ出しは、東の性急な藩政改革論が疑念をもたせ、不敬のかどで家格引き下げ・謹慎閉居を命ぜられ失敗に終わった。小保内の身も危ういところだった。
 1868明治元年、戊辰戦争では薩長側に加わろうとしたが小身数十人だけで失敗。また、奥羽列藩同盟に反対したが藩主父子の帰順で失敗した。同年10月、東次郎に従い宮古より函館に航し、11月には正義勤皇の士の一人として、藩主らの東京護送に随従を許され、大納言・岩倉具視に藩主父子の無実を直訴しようとしたが果たさなかった。

 1870明治3年2月、廃藩置県後、小保内は盛岡県権大属となったが4月20日免官。翌日、少属に、7月には史生となって高い地位から低くなり間もなく免官となる。9月、再び出仕して東京在勤となり少属を以て遇せられ、大阪に出張して東大参事の意を受け奔走したが、翌4年、退官。こののち再び仕官しなかった。
   小保内は辞職後、廃藩で禄を離れた士族の授産に会輔社員を動かし桑や養蚕、陸稲・こうぞ(和紙の原料)・綿羊など農畜産振興に努める。

 1874明治7年、琉球島民の殺害を理由に台湾出兵となるや、東次郎は都督・西郷従道と連絡、小保内もまた郷里に於いて会輔社生を糾合し、社員15人と従軍を志願したが、問題が解決したので、実行に至らなかった。
 1877明治10年、西南戦争。小保内は那珂通高から西郷征伐の書を受けたが、「西郷と他の異見が原因で勤王と無関係」だとして動かなかった。
 1878明治11年、福岡に私学校を設立し子弟を教育した。
 1882明治15年、会輔社は、教育・政治・勧業の三部門に分かれる 。小保内の甥・蛇沼政恒が社員の拠出金で中国産綿羊25頭を買い、牧羊教師を伴い帰郷、社員交互に飼養した。さらに官営勧業寮から30頭を貸与され、試験牧羊場にあてた。この間に明治天皇の東北巡遊があり、蛇沼と小保内は綿羊と小保内の母が織った毛布を御覧に供した。しかし、牧羊事業は失敗した。

 1880明治13年、国会期成同盟が大阪で開催、小保内は会輔社員を出席させ。翌14年、同盟会が自由党に改組され、その主義綱領に皇室に関する事項がないとして脱党。
 1882明治15年2月、会輔社をあらため政社とする。
 1883明治16年、母が病死。小保内は格好の天然石を探して邸に運ばせ、筆をとって墓碑銘を書き、石工から道具を借り自ら碑銘を刻んだ。そして刻み終わった7月13日、他界。享年49歳。

   参考: 『興亜の礎石:近世尊皇興亜先覚者列伝』1925大政翼賛会岩手県支部/ 『岩手の先人100人』1992岩手日報社出版部/ 『九戸戦史』岩館武敏1907九皐堂

   参照: 二戸市商工会  http://www.shokokai.com/ninohe/kankou/kunohejyou/rekisi.html 

 呑香稲荷神社境内に萱ぶきの小さな茶室、槻陰舎がひっそりと建っています。この社屋が現在も残る槻陰舎なのです。
 当時の地方には奇跡とも思える2千余冊の蔵書を備えた稲荷文庫と相まって、青森、秋田方面からも多くの志ある若者が集い、東北の鹿児島と称されるようになり、やがてその土壌が世界的な物理学者田中舘愛橘博士や初の民選知事國分謙吉翁など多くの偉人の輩出の礎となったのです。
 また、これより先、江戸の平山行蔵の四天王と呼ばれた相馬大作は北辺のロシアに対する防備の重要性を説き、演武場を開き門弟200余人に文武を教授しています。
 津軽候の驕慢に義憤を覚え、矢立峠に要撃事件を起こし、後に江戸で捕らえられ処刑されましたが、その気概は今も脈々として二戸の人たちに受け継がれています。

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