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2016年9月

2016年9月24日 (土)

水産学校も時代と共に、宮水(宮城県)

 東京ドームの巨人×中日戦、久し振りの快勝を目の当たりにし、助っ人外国人のお立ち台も楽しんだ。その日、ラッキーカード裏に翌日の 〔三陸・大船渡 東京タワー さんま祭り〕 の広告。その当日はけっこうな雨。でも、芝公園・東京タワーの下では、雨にも負けず、目黒のサンマならぬ「三陸サンマ」を味わう人が大勢テレビに映っていた。今秋はサンマが値上がりしているが、今夜はサンマを食べよう。
 そのサンマ、岩手県大船渡市はもちろん宮城県気仙沼市も全国有数の水揚量を誇る。でも、東日本大震災で被災し水揚げ量は減っている。筆者は漁師さん・水産業など縁がなく、海や魚のことは分からない。逆に、判らないから調べて書こうと思ったが、あまりに知らなすぎ。ふと、知識を得るには学校、海には水産学校があると気付いた。学校なら資料がありそう。
 さっそく、明治期の資料をみると、配属将校徴兵令文官任用令など今では見ない事柄が出てきた。学校といえども、いや、学校だから移り変わる時世と無縁でいられない。そして、海と交わりつつ生徒を育てる水産学校は全国に多々ある。その中で、通称・宮水(みやすい)、宮城県水産学校を見てみた。

      宮城県水産学校

 1895明治28年、日清戦争の結果、調印した下関条約に、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉、日本に圧力をかけ、臥薪嘗胆という言葉が流行った。
 1896明治29年10月、牡鹿郡簡易水産学校、石巻町湊五松山下の御蔵場跡に創設。

 1897明治30年2月20日、牡鹿郡簡易水産学校として、修身・読書・算術・図画・水産学大意(漁撈・製造)養殖・物理・科学の七科目を置き、二学級に編制し、修業年限を三カ年とし、生徒62名を収容して始める。
   敷地1997坪、校舎は元大蔵相の米粟棟、官舎一棟の払い下げを受け、教場、寄宿舎、宿直室、事務室、小使い部屋、十州城実習場などに宛てた。
 ――― 校長兼教諭(実業に経歴ある者)・助教諭2(東京水産伝習所卒業)・嘱託教員計4人。  授業の状況: 適当ノ教科書得ザルニヨリ専ラ口教授記セシム。
  実習ハ鰹鮪節・缶詰・ソノ他塩製等。網具、釣具製作ノ如ハ校内ニ於テ教授。鮑缶詰、及ビ灰鮑製造ハ、ソノ漁獲地ニ生徒ヲ引率シ実習ヲナサシム。

 1899明治32年、宮城県牡鹿郡水産学校と改称。修業年限3年。土地の状況により2年~5年以内にて伸縮することを得。授業は実習をのぞき毎週27時間以内。
 1901明治34年、宮城県群立牡鹿水産学校として改称(修業年限3ヵ年)
  1904明治37年2月、日露戦争開戦。翌38年、アメリカの斡旋で講話が成立。
 1906明治39年、県会、県立水産学校設立を可決。
 1907明治40年6月、牡鹿郡渡波町に新校舎起工、41年4月、仮校舎竣工。
 1908明治41年、宮城県立水産学校、徴兵令・文官任用令の認定を得る。合格者106名を5学級に編制、授業開始。10月、4学級に改め修業年限を4年とする。

 1911明治44年、宮城県立水産学校及び水産試験場

  ――― 字新田町にあり、水産に関する学理及び技術を授くる所にして、漁撈・製造・養殖の3科に分かつ。標本の饒多なること稀に見る所にして、養魚地・製造場も備われり。校庭に陸上マストあり、高さ66尺中空に聳ゆ。水産試験場も校内に併置せられ、海苔・牡蠣などの養殖盛んなり。今春、新式模範漁船東華丸(補助機関石油発動機40馬力)の建造なり、実地につき斯業の範を垂れつつあり。生徒定員300名、学級数6、修業年限4年、入学資格高等小学卒業以上。現在生徒120名、授業料一ヶ月50銭。

 1919大正8年、宮城県立の「立」の字を削除し、宮城県水産学校と改称。 
 1922大正11年、職員 :校長・教諭・舎監計11名。教諭の月給は78~113円。 
    生徒数: 1年42・2年37・3年33・4年20計132名。
  ちなみに、校長兼教諭は石川伸治で、十級(五等待遇)従六位、俸給は年1290円。
 1926大正15年、入学資格・尋常小学校卒業程度、定員200名、修業年限5年。
    職員: 学校長・教諭8人・書記1・嘱託教員3・武術教師2・学校医・配属将校・陸軍歩兵大尉
 1941昭和16年、日本軍、真珠湾を奇襲攻撃、対米英宣戦布告する。
 1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾回答する。9月2日、降伏文書調印する。

 1948昭和23年、宮城県水産高等学校と改称。
    漁業科、水産製造科、水産増殖科、修業年限3ヵ年。定員360名。 
 1953昭和28年9月1日、練習船「宮城丸」221.5屯進水。以後、 昭和41年396.65屯 / 昭和51年 水産実習船「宮城丸」496.09屯/ 平成元年497屯 /平成15年、海洋総合実習船「宮城丸」650屯。 
 1977昭和52年、 水産製造科・栽培漁業科・無線通信科の三学科に女子生徒入学許可
 1989平成元年1月7日、平成と改元する。
  

 2011平成23年3月11日東日本大震災

  以下、報告と報道から引用。
 東日本大震災を受け、沿岸部に立つ水産・海洋系の高校が苦しんでいる。実習設備が壊れた上に地盤沈下で校舎が冠水するため、要の実習がままならない。地元の水産業は壊滅的な状況で、就職に対する生徒の不安が高まっている。115年の伝統を持ち、全国有数の実習設備を誇る同校だが、所有する船は全4隻とも壊れた。近くの造船所が被災し、修理もできない。5、6000匹の魚が死滅した大型水槽はポンプが壊れて使えない。深刻なのは地盤が70~80センチ沈下したこと。毎日のように満潮時に校舎が冠水し、ひざの深さに達する。

  宮城県水産高等学校は東日本大震災により、直前に卒業した生徒と在校生が津波の犠牲となったほか、校舎1階が水没し、そのほとんどが使用不能となった・・・・・・ 石巻北高校へ学習拠点を移すことになり、5月1日から、同校のグランドの仮設校舎を利用して学習。当初から実習設備がないため、水産本来の実習は元の校舎へ移動せざるを得ない状況であった。このため、クラス毎に曜日を決めて実習を割り振って実施。更に今年度は施設等が復旧できず実施できなかった様々な実習を、市内の工業高校や他県の水産高校へ出向き体験的な実習時間を確保することにしている。

 2012平成24年、石巻北高等学校仮設校舎より帰校。翌年、 本校舎で開講式。
 2013平成25~26年、経済同友会より食品製造棟食洗機・給湯器・付帯設備・ 調理室・真空包装機・燻製機 ・潜水用具・420級ヨット・和船操舵システムほか寄贈。
 2014平成26年、情報科学科募集停止、海洋総合科(定員160名)1科に学科改変。
   この先は、下記webで。

   参考: http://miyagisuisan.myswan.ne.jp/gaiyo/enkaku.html 宮城県水産学校(宮城水産.web) 海洋総合科、情報科学科  〒986-2113 宮城県石巻市宇田川町1番24号
 『宮城県学事統計』M32 宮城県内務部/ 『宮城県学事関係職員録』1922宮城県教育会/ 『日本教育史年表』1994三省堂/ 『石巻案内』高橋長三郎(北江漁史)1911高橋書店/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社 

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2016年9月17日 (土)

三春藩もつらいよ、秋田静臥(福島県)

 東日本大震災から5年半になるが、福島県は震災と原発事故の爪痕が深く、今も9万人近くが避難しているという。福島県の地図を開くと、まず猪苗代湖が目に入る。猪苗代湖畔を新潟県・新津へ向かう鉄道が磐越西線、反対に、郡山から太平洋岸にレールが延びているのが磐越東線。
 江戸期、現在の磐越西線が走る側に会津藩、磐越東線が走る側に三春藩があった。両藩とも幕末の激動期、たいへん困難で酷な状況に陥った。
 戊辰戦争がはじまると三春藩はいったん奥羽越列藩同盟に加わるが、同盟軍の敗色が濃くなるなか、長州・土佐陣に帰順し降伏。その後、会津攻撃の先導もつとめる。このとき、藩政を執ったのが家老の秋田静臥、50歳のときである。

       秋田 静臥 (あきたせいが)

 秋田家は古代以来の系譜を誇る一族。伝承では、古代陸奥国俘囚の長であった安倍貞任を先祖とする。中世には、今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏とし、津軽十三湊(青森県北津軽郡市浦町付近)を本拠とする活発な交易活動で知られていた。その後一族は出羽国北部(現在の秋田市周辺)に本拠地を移す。戦国時代、秋田氏は織田信長と音信あり、豊臣秀吉の全国統一時に支配下に入った。1600慶長5年の関ヶ原合戦では徳川方についた。2年後、常陸国宍戸に国替となり、さらに1645正保2年に陸奥国三春に移り、明治維新まで藩主として君臨した。
                (「東北大学付属図書館報・木這子」vol28・2003.11.1)

 1818文政元年10月11日、秋田静臥は三春藩主・秋田孝季の次男に生まれる。諱は季春(すえはる)、静臥は号。十代藩主兄の肥季(ともすえ)は、以前から続く慢性的な赤字財政の立て直し、徐々に高まる幕末動乱への対処にあたった。
 1864元治元年、肥季は水戸天狗党の乱で水戸藩尊攘激派・天狗党が目指した日光山の警備を命じられ、藩兵をひきいて日光に滞在、この時の疲労が原因で、まだ幼い8歳の映季(あきすえ)を残して病死してしまった。
 1865慶応元年、藩主が幼年のため叔父・秋田静臥が後見となり藩の政務を執る。

 1868明治元年、戊辰戦争がはじまり三春藩は奥羽越列藩同盟に加わり、旧幕府軍に援軍を求めるなど戦意高揚を装って仙台藩、二本松藩からの信用を得た。一方で、板垣退助に恭順の使者を送っていた。
  7月、藩主映季自らが城外に出迎えて新政府軍に降伏。その後、藩は会津攻撃の先導もつとめた。この帰順は旧幕府軍にとってみれば手のひら返し、「三春狐にだまされた」と変節を詰る歌が残るほど禍根をのこした。
  維新後、賊軍と貶められず、飢えと闘うこともなかった。困難な激動の時代にあって仕方がなかったかも知れないが、会津贔屓からすると複雑。後見の秋田静臥は変節の汚名を引き受けてまでも藩と幼主を守ったのだろう。そうして得た本領安堵。

 1869明治2年10月、秋田静臥は三春藩*大参事(知事に次ぐ要職)をつとめる。
    また、版籍奉還後、公卿・諸侯の称を廃して華族としたので、秋田映季も華族になる。
 1871明治4年、廃藩置県。映季の治世は廃藩置県までのわずか6年であった。静臥は仕官せず、東京に移住し宗家を庇護した。

  三春藩出身人物、自由民権運動の河野広中がよく知られる。河野は、高知に赴き板垣退助と話し合いをしたこともある。「西の高知、東の三春」と並び称され、三春は全国に先駆け国会開設、憲法制定など活発な運動を展開した自由民権運動発祥の地ともいわれた。このように、藩とういう国に変わり、日本という国になっても時勢は動いていたが、静臥は仕官せず、甥の旧三春藩主を静かに見守った。
 1900明治33年3月14日、秋田静臥、83歳で死去。

 三春町は五万五千石の城下町自然豊かな町、国指定天然記念物「三春滝桜」に代表される桜の里として知られる。また、阿武隈川の支川大滝根川に30年の歳月をかけ完成した多目的ダムがある。「さくら湖」と名付けられた貯水池は丘陵地にあるため、入り江や岬の出入りが多く、紅葉の葉のような形をした周長約44㎞。歴史と文化をかもし出す景観に配慮、特に堤体の下流面には城壁タイプの石垣模様を取り入れているという。
 植栽された16種類、約3000本の桜がある「さくらの公園」。今は秋。花はなくとも、木の下で過ぎた昔をふり返れば、桜の紅葉に味わいが。歴史は、ダム湖畔の樹齢1000年といわれる天然記念物「滝桜」に趣きを添える。

   参考:【ダム水源地ネット ダム水源地環境整備センター2005・2008】/『日本史辞典』1981角川書店/ 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館/ 三春町歴史民俗資料館(福島県田村郡三春町字桜谷5)

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2016年9月10日 (土)

明治の営業写真家・印刷業者、小川一眞

 台風がらみの雨の日、上野駅から東京国立博物館 MUSEUM資料館に行った。正面入口で西門から入れば無料といわれ、蒸し暑いなか長~い塀に沿って歩いた。守衛所で住所氏名、時間も記帳して入館証を受けとり資料館に入るとまたチェック。面倒な手順に以前、防衛省・戦史図書館で陸軍柴五郎の諜報記録を閲覧したのを思い出した。あの時、真冬で暖房がなくオーバーを着込んで史料探しをしたが、今度は暑いのに冷房がない。吹き出すに冷房ないんですか?すると、設定温度28度という。
 博物館入口はJR上野駅から近いけど資料館入口の西門は次の鶯谷駅が近い。博物館が二駅に跨がるほど広いとは思わなかった。まあ、なんのかんの愚痴っても行けば、余録もある。この日は名だけは知る人物の研究論文を見つけた【小川一眞の北京城撮影と帝室技芸員任命について】(関紀子MUSEUM626号)。 千円札の夏目漱石を撮影したことでも知られる写真家・小川一眞、論文を参照させてもらいつつ生涯をみてみる。
 Photo_2
写真は「デジタルアーカイブ推進協議会広報誌(JDAA)2004/No.25」表紙「中島川の橋」(撮影・小川一眞)。
なお、名は「かずまさ」で「いっしん」は通称。

      小川 一眞 (おがわ かずまさ)

 1860万延元年、武蔵国忍(埼玉県行田市)生まれ。
   忍藩の藩校培根堂で漢学と英学を学ぶ。
 1873明治6~1876明治9年、東京・有馬学校で英学修業。
 1880明治13年~1881明治14年、東京・築地居留地*バラの英学校で英学修業。
   *バラ:アメリカ人宣教師。明治初期は公式に布教ができないので英語塾を開いて好学の若者をひきつけていた。バラの英学校には諸藩の若者が集まってい、なかにはキリスト教の話にも耳を傾け、祈祷会に参加する者もあった。明治学院で、数学・天文学・簿記学を教えた。

 1882明治15年、渡米して写真を学びたいと考えたが資金がない。そこで、郷里には長崎に行くといって、横浜に停泊していた米国東洋艦隊スワタラ号・クーパー艦長を訪問、雇ってくれるよう頼み込んだが許されない。そこで携えていた英書をみせると精密な訳が記入してあり、それを見た艦長は感心して小川を水兵に雇った。こうして単身渡米。
 ボストンの写真館で、カーボン印画法・コロタイプ印刷法などの最新技術を身につけるため、修業に励んだ。
 1883明治16年、ボストン在住中に知り合った榊原鉄硯のもとにサンフランシスコから友人・柴四朗(東海散士)が訪れて、小川も知り合いになった。
 小川の実兄は書肆博文堂の主人原田庄左衛門で、のち四朗の著作も多くここから出版される。ボストンでの交友記念写真に写る、柴四朗榊原鉄硯小川一真野辺地久記(のち岩倉鉄道学校校長)・鈴木守蔵(関西の実業に功績)、5人とも実学を学んでい、日本に有為の人材となった。

 そして何より、小川にとって岸和田藩出身・榊原の旧藩主・岡部長職(おかべながもと子爵、東京府知事、枢密顧問官)と出会えたことが後年の助けになった。それは、孤軍奮闘して苦境にあった小川を助けようと、榊原がイギリスにいる旧藩主の岡部長職に手紙を出したことによる。
 岡部は資金と励ましの手紙を小川に送り、帰国の途中、ボストンに立ち寄り小川と会う。小川見込んだらしく岡部は、もっと学びたいことがあるかと小川に聞いて、技術習得の助けになるよう石版刷銅版刷の店に連れて行った

 1885明治18年10月、帰国。陸軍参謀本部陸地測量部写真班製図写真術の教授嘱託となる。
    東京府麹町区飯田橋に写真業「玉潤館」を開業、このときも岡部は援助を惜しまなかった。高度な肖像写真の技術と、カーボン印画法による「不褪色写真」で人気写真師となる。

  ――― 長尾流の体術と木立の名人・福島靖堂に、小川は「一体武道の形というものは、何を目標に練習するのか」。これに靖堂は、「武道の形は終始身に寸分の隙を生ぜざるよう練習するもの」。これに小川は「それで分かった。自分が演芸者の写真を撮る場合、名人名優といはるる人は、何時如何なる処を撮っても、少しも弛みがなく自然に備わっているが、未熟未成の人を写すときは、撮影者がよほど頭を使って、良き機会を捉えねば、写真にならぬもので、骨が折れる」
                     (『日本刀と無敵魂』武富邦茂1943彰文館)。

 1887明治20年、日本で皆既日食が観測され、アメリカ・アマースト大学の学術調査隊が来日した。小川は、菊池大麓(のち文部大臣)ら東大の調査隊に同行して撮影に成功。
   同年、東京府工芸品共進会写真部審査委員をつとめる。

 1888明治21年、コロタイプの製版印刷工場を京橋区日吉町に開設、経営し、乾板製造も試みるなど、実業家としても仕事の場を拡げる。
   宮内省宝物取調局の全国古社寺宝物調査にも加わり撮影する。
   『写真新報』を編集発行。
 1889明治22年、日本の古今の書画を内外に紹介するべく、月刊美術雑誌『国華』を発刊。原色・多色の図版入りで写真版雑誌の初めで、撮影はすべて小川が行った。

 小川は営業写真師として箱根や日光、日本の庭園などの風景、着物や美人芸者の肖像等の写真を撮影し、英文の説明文を入れた外国人向けのアルバムや写真帖を多く企画し出版した出版人でもあった・・・・・とりわけ、コロタイプ印刷に手色彩を施したちりめん和紙の写真帖など、凝ったつくりのものも含まれる小川の一連の出版物は、外国への土産物として珍重されて、日本の風俗を世界に紹介する役割を果たした。
                         (長崎大学付属図書館)

 1890明治23年、内国勧業博覧会審査官をつとめ、また自らも「白金印画写真および写真版」を出品、受賞。
 1893明治26年、『光線並写真科学』ヘルマン・フォゲル著を、和訳自費刊行して篤学者に頒けた。こうした書籍がなかったからである。
 内容は、写真術の由来や進歩、人物・景色撮影術、写真測量法、学術上の効用など多岐にわたる。29年再版、印刷が良くなり見やすくなっている。

 1894明治27年日清戦争。1904明治37年日露戦争。  軍の依頼によって数多くの戦役写真帖を制作。これらは、近代デジタルライブラリーで閲覧できる。 http://kindai.ndl.go.jp/

 1895明治28年、小川が日食撮影に協力した東大の招聘教授バルトンの推薦により、イギリス王立写真協会の正会員に登録される。

 1900明治33年、義和団事変(北清事変)が終結して占領体制が布かれる中、翌34年、東京帝国大学が北京城の実地調査を行った。この調査に小川は助手を連れて同行して、紫禁城万寿山離宮の写真撮影を行った。撮影した写真は435枚にのぼる。
   小川が北京出張したのは岡部の力による。岡部長職は義和団事変に際し、華族を代表して清国駐屯本邦軍隊慰問として北京に派遣された。岡部は紫禁城を見学して、宮殿の規模が壮大で、荘厳な建物の内部構造は中国建築の模範であると感銘を受け、これを撮影して建築・美術の参考にしようと考えた。そして、これだけの撮影大事業を手がけられるのは小川をおいて他にないと考え、小川に北京に来るよう勧める手紙をだしたこにはじまる。
 1906明治39年、『清国北京皇城写真帖』を小川一眞写真部から刊行。

 1909明治42年、イタリア政府から勲4等、その他の国からも勲章や銀牌を受ている。
 1910明治43年、東京写真師組合初代会長に就任。このころ、外出には黒塗りの馬車を常用していたらしい。
   同年、帝室技芸員に選ばれる。
       帝室技芸員は栄誉職で勅任待遇、終身制。皇室の用命に任じ、博物館総長の諮問に応ずる。最初に橋本雅邦・高村光雲ら10人が任命された。
   同年7月、『清国北京皇城写真帖』の贈呈により、フランス共和国から「オフシエー・ド・ランストリュクシヨン・ビュブリック」記章を受ける。
   『日本風景風俗写真帖』刊行。内容は当時の面影が今も残る上野公園が写っていたり、テレビドラマに見る明治期の街頭風景はこの写真帖を参考にしたのではと思えるようなのもあり、興味深い。
 1929昭和4年9月6日、死去。69歳。

   参考: 「在米時代の東海散士」(『日本近代文学』32集・大沼敏男1985日本近代文学会/『民間学事典』飯沢恒太郞1997三省堂/ 『成功百話』大月隆編1910文学同志会/ 『国会図書館所蔵ちりめん本目録』2001-03-29小島庸亨 

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2016年9月 3日 (土)

ボルドー葡萄酒に負けない酒っこを、国分謙吉 (岩手県)

 リオ五輪。さまざまな競技が注目を集めたが、卓球の試合に見入った人も多そう。あわせて熱闘の舞台、卓球台も人目をひいた。台上の青色がきれい、木製 字型カーブを描く脚部がカッコよかった。卓球台は日本製、木材は東日本大震災で被災した岩手県宮古市産のブナ材。製作したメーカーは、「日本らしさを探求した結果、木の脚に行き着いた。被災地の役に立ちたい思いもあった」(2016.8.30毎日・永田晶子)。
 その東日本に大台風10号が襲来。なかでも北海道と岩手県の被害が最もひどく、行方不明者や死者もでている。どれほど科学が発達しても自然の脅威に人間は無力、恨むしかないのかと虚しくなる。しかし、被災したらそんな事言う隙もなく避難しなければ危ない。被害の後片付けも大変、酷な仕事がある。どうか、一日でも早い復旧を、願うばかりです。
 およそ70年前、カスリン(キャスリーン)台風が岩手県を襲った。惨状を視察した岩手県知事、家や田畑を流されなすすべもなく茫然とする農民を前に、「ボルドーのぶどう酒に負けない酒っこ」を作ろうと励ました。農政指導者、国分謙吉である。

         国分 謙吉
Photo
 1878明治11年2月3日、岩手県二戸郡福岡村下川又(二戸市)で生まれる。父は旧盛岡藩士・国分喜惣治、母・ミセの三男。幼名は小八郎。
   学問好きな父の方針により、学齢に達する前に福岡尋常小学校入学するも教室を抜出し遊び疲れることもあり1年で落第。
 1888明治21年、福岡尋常小学校に4年間通学。卒業後、父の方針により泉山銀行へ丁稚奉公。昼の給仕として雑役をこなし、夜は呉服店の仕事を手伝い、人が寝静まると蠟燭の灯りをたよりに農業書などを読んだ。
   座右銘はワシントンの
    「農業ハ 民業中最ク 有益ナル ナリ

 1893明治26年、九戸城跡地に「私立国分農事試験場」を創立。小作人への経営指導や優良種苗の無料配布などを行った。

  1917大正6年、蚕種・種苗の生産販売、農薬・農機具の販売を営業とする「岩手蚕種(現、岩手農蚕)株式会社」を岩手県の支援を受けて設立し、社長に就任。
 1925大正14年、岩手郡滝沢村(滝沢市)に「国分農場」設立。
 1932昭和8年、「岩手農政社」を組織し農畜一体をとなえ運動を展開していく。
   ?年、   岩手県会議員。

 1947昭和22年4月5日、第一回統一地方選挙岩手県知事に当選。それまで都道府県知事は国から派遣された内務官僚が務めていた。国分は選挙で選ばれた初の知事。就任の挨拶で「岩手は独立する。もう中央の言うことは聞かない。」と宣言、喝采を浴びた。
 初当選した9月、カスリーン台風が襲来、川が氾濫、大迫の農地は濁流に流された。麦や大豆などを栽培するだけだった貧しい農村。視察で訪れた国分は、周囲の傾斜地や石灰質の土壌を見て、渡仏経験もないのに「さながらボルドーの地に似たり」と、葡萄栽培を導入したのだ。

 1950昭和25年、大迫葡萄試験地が整備された。ところが、資材がなく稲わらをひも代わりにし、リンゴ用の噴霧器で農薬をかけた。長野などの先進地で学んだ県職員が指導した。最初の3年ほどは粒も小さく甘みも少ない出来損ないばかり。出荷するのに沿岸の魚市場から譲り受けた木箱を使い、「大迫のブドウは魚臭い」とばかにされたこともあったが、「夢があったから頑張れた」。栽培から約10年、軌道に乗り、現在では1房5千円もする生食用高級ブドウ、ワイン専用種も栽培し、国内外のコンクールで数々の賞を授賞するまでに成長した。
  (伝える生きる・立ち向かう人々【岩手日報WebNews】2015.4.25)
  (まちの話題NEWS39国分謙吉翁の業績に感謝して「広報はなまき.(47)」花巻市総務企画部広聴広報課2008.1.15)

 1948昭和23年、前年に続きアイオン台風が上陸。沿岸部に深刻な被害が出たため復旧に努めた。戦時中、木の伐採が過ぎ、県内各地では水害が多発、その復旧にも取り組んだ。
 1951昭和26年4月30日、第二回地方統一選挙にも当選。昭和30年まで岩手県知事を2期つとめる。

 1952昭和27年9月、二戸郡青年農会を創立。郡内を遊説して会員を募集、幹事になって郡内の農事統計調査を事業をしたり、会員を集めて勉強させた。
 1954昭和29年、第一回農産品評会を開く。農閑期を利用して農業幻灯会を催すなど、さまざまな手段で農業の啓発指導につとめた。
     国分は方言のズーズー弁を隠さずに執務に臨み、農民知事と親しまれた。

 1916大正5年、岩手県農会特別議員。農会は農事改良をめざす自治団体。
     二戸郡農会長・国分謙吉、副会長・下斗米常直。国分は農業補習教育の必要を唱えるばかりでなく、当局にしばしば建言。施設、学校園が設置されると、各小学校に種苗を配布、また麦作りを奨励した。

   ところで、これまでは米・麦・豆など雑多な農作物を植えていたので、国分は、福岡町字城ノ内の所有畑一反歩を利用して、穀菽(穀物と大豆の総称)蔬菜(野菜・青物)を試作、次第に規模を拡張しやがて郡の事業となった。 本場を城ヵ内、支場を石切村字栃の水と川原、そのほか山林を開墾して果樹園とした。試作物は連年の成績により良い物は、郡内に無料で配布をして、良種の選択耕種の改良につくした。その中でも、麦や大豆の品位が向上した。
   また、小作人にも良い種を分け与え改善普及に努めたばかりか、県内外に赴かせ見学をさせた。更に農業図書・農機具を購入して、小作人の子弟や一般の求めにも応じて観覧させ、知識の増進を図った。読書家として知られ蔵書は約2万冊に及んだ。

 1958昭和33年11月24日、80歳で死去。
    その生涯は、地方農業改良のため日数と費用を惜しまず、私財をなげうって率先誘導の任に当たり躬行実践一意努力し、農業の発達に益するところ大であった。なお、高村光太郎の詩「岩手の人」のモデルといわれている。
 遺髪を納めた追悼碑が、市内八幡下の祖霊社に田中舘愛橘の墓と並んでっている(岩手県二戸市 二戸の先人)。

   参考: 『全国篤農家列伝』1910愛知県農会 / 『巌手名鑑・大典記念』1916巌手県実業青年倶楽部 / ウイキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/

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