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2016年9月10日 (土)

明治の営業写真家・印刷業者、小川一眞

 台風がらみの雨の日、上野駅から東京国立博物館 MUSEUM資料館に行った。正面入口で西門から入れば無料といわれ、蒸し暑いなか長~い塀に沿って歩いた。守衛所で住所氏名、時間も記帳して入館証を受けとり資料館に入るとまたチェック。面倒な手順に以前、防衛省・戦史図書館で陸軍柴五郎の諜報記録を閲覧したのを思い出した。あの時、真冬で暖房がなくオーバーを着込んで史料探しをしたが、今度は暑いのに冷房がない。吹き出すに冷房ないんですか?すると、設定温度28度という。
 博物館入口はJR上野駅から近いけど資料館入口の西門は次の鶯谷駅が近い。博物館が二駅に跨がるほど広いとは思わなかった。まあ、なんのかんの愚痴っても行けば、余録もある。この日は名だけは知る人物の研究論文を見つけた【小川一眞の北京城撮影と帝室技芸員任命について】(関紀子MUSEUM626号)。 千円札の夏目漱石を撮影したことでも知られる写真家・小川一眞、論文を参照させてもらいつつ生涯をみてみる。
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写真は「デジタルアーカイブ推進協議会広報誌(JDAA)2004/No.25」表紙「中島川の橋」(撮影・小川一眞)。
なお、名は「かずまさ」で「いっしん」は通称。

      小川 一眞 (おがわ かずまさ)

 1860万延元年、武蔵国忍(埼玉県行田市)生まれ。
   忍藩の藩校培根堂で漢学と英学を学ぶ。
 1873明治6~1876明治9年、東京・有馬学校で英学修業。
 1880明治13年~1881明治14年、東京・築地居留地*バラの英学校で英学修業。
   *バラ:アメリカ人宣教師。明治初期は公式に布教ができないので英語塾を開いて好学の若者をひきつけていた。バラの英学校には諸藩の若者が集まってい、なかにはキリスト教の話にも耳を傾け、祈祷会に参加する者もあった。明治学院で、数学・天文学・簿記学を教えた。

 1882明治15年、渡米して写真を学びたいと考えたが資金がない。そこで、郷里には長崎に行くといって、横浜に停泊していた米国東洋艦隊スワタラ号・クーパー艦長を訪問、雇ってくれるよう頼み込んだが許されない。そこで携えていた英書をみせると精密な訳が記入してあり、それを見た艦長は感心して小川を水兵に雇った。こうして単身渡米。
 ボストンの写真館で、カーボン印画法・コロタイプ印刷法などの最新技術を身につけるため、修業に励んだ。
 1883明治16年、ボストン在住中に知り合った榊原鉄硯のもとにサンフランシスコから友人・柴四朗(東海散士)が訪れて、小川も知り合いになった。
 小川の実兄は書肆博文堂の主人原田庄左衛門で、のち四朗の著作も多くここから出版される。ボストンでの交友記念写真に写る、柴四朗榊原鉄硯小川一真野辺地久記(のち岩倉鉄道学校校長)・鈴木守蔵(関西の実業に功績)、5人とも実学を学んでい、日本に有為の人材となった。

 そして何より、小川にとって岸和田藩出身・榊原の旧藩主・岡部長職(おかべながもと子爵、東京府知事、枢密顧問官)と出会えたことが後年の助けになった。それは、孤軍奮闘して苦境にあった小川を助けようと、榊原がイギリスにいる旧藩主の岡部長職に手紙を出したことによる。
 岡部は資金と励ましの手紙を小川に送り、帰国の途中、ボストンに立ち寄り小川と会う。小川を見込んだらしく岡部は、もっと学びたいことがあるかと小川に聞いて、技術習得の助けになるよう石版刷銅版刷の店に連れて行った

 1885明治18年10月、帰国。陸軍参謀本部陸地測量部写真班製図写真術の教授嘱託となる。
    東京府麹町区飯田橋に写真業「玉潤館」を開業、このときも岡部は援助を惜しまなかった。高度な肖像写真の技術と、カーボン印画法による「不褪色写真」で人気写真師となる。

  ――― 長尾流の体術と木立の名人・福島靖堂に、小川は「一体武道の形というものは、何を目標に練習するのか」。これに靖堂は、「武道の形は終始身に寸分の隙を生ぜざるよう練習するもの」。これに小川は「それで分かった。自分が演芸者の写真を撮る場合、名人名優といはるる人は、何時如何なる処を撮っても、少しも弛みがなく自然に備わっているが、未熟未成の人を写すときは、撮影者がよほど頭を使って、良き機会を捉えねば、写真にならぬもので、骨が折れる」
                     (『日本刀と無敵魂』武富邦茂1943彰文館)。

 1887明治20年、日本で皆既日食が観測され、アメリカ・アマースト大学の学術調査隊が来日した。小川は、菊池大麓(のち文部大臣)ら東大の調査隊に同行して撮影に成功。
   同年、東京府工芸品共進会写真部審査委員をつとめる。

 1888明治21年、コロタイプの製版印刷工場を京橋区日吉町に開設、経営し、乾板製造も試みるなど、実業家としても仕事の場を拡げる。
   宮内省宝物取調局の全国古社寺宝物調査にも加わり撮影する。
   『写真新報』を編集発行。
 1889明治22年、日本の古今の書画を内外に紹介するべく、月刊美術雑誌『国華』を発刊。原色・多色の図版入りで写真版雑誌の初めで、撮影はすべて小川が行った。

 小川は営業写真師として箱根や日光、日本の庭園などの風景、着物や美人芸者の肖像等の写真を撮影し、英文の説明文を入れた外国人向けのアルバムや写真帖を多く企画し出版した出版人でもあった・・・・・とりわけ、コロタイプ印刷に手色彩を施したちりめん和紙の写真帖など、凝ったつくりのものも含まれる小川の一連の出版物は、外国への土産物として珍重されて、日本の風俗を世界に紹介する役割を果たした。
                         (長崎大学付属図書館)

 1890明治23年、内国勧業博覧会審査官をつとめ、また自らも「白金印画写真および写真版」を出品、受賞。
 1893明治26年、『光線並写真科学』ヘルマン・フォゲル著を、和訳自費刊行して篤学者に頒けた。こうした書籍がなかったからである。
 内容は、写真術の由来や進歩、人物・景色撮影術、写真測量法、学術上の効用など多岐にわたる。29年再版、印刷が良くなり見やすくなっている。

 1894明治27年日清戦争。1904明治37年日露戦争。  軍の依頼によって数多くの戦役写真帖を制作。これらは、近代デジタルライブラリーで閲覧できる。 http://kindai.ndl.go.jp/

 1895明治28年、小川が日食撮影に協力した東大の招聘教授バルトンの推薦により、イギリス王立写真協会の正会員に登録される。

 1900明治33年、義和団事変(北清事変)が終結して占領体制が布かれる中、翌34年、東京帝国大学が北京城の実地調査を行った。この調査に小川は助手を連れて同行して、紫禁城万寿山離宮の写真撮影を行った。撮影した写真は435枚にのぼる。
   小川が北京出張したのは岡部の力による。岡部長職は義和団事変に際し、華族を代表して清国駐屯本邦軍隊慰問として北京に派遣された。岡部は紫禁城を見学して、宮殿の規模が壮大で、荘厳な建物の内部構造は中国建築の模範であると感銘を受け、これを撮影して建築・美術の参考にしようと考えた。そして、これだけの撮影大事業を手がけられるのは小川をおいて他にないと考え、小川に北京に来るよう勧める手紙をだしたこにはじまる。
 1906明治39年、『清国北京皇城写真帖』を小川一眞写真部から刊行。

 1909明治42年、イタリア政府から勲4等、その他の国からも勲章や銀牌を受ている。
 1910明治43年、東京写真師組合初代会長に就任。このころ、外出には黒塗りの馬車を常用していたらしい。
   同年、帝室技芸員に選ばれる。
       帝室技芸員は栄誉職で勅任待遇、終身制。皇室の用命に任じ、博物館総長の諮問に応ずる。最初に橋本雅邦・高村光雲ら10人が任命された。
   同年7月、『清国北京皇城写真帖』の贈呈により、フランス共和国から「オフシエー・ド・ランストリュクシヨン・ビュブリック」記章を受ける。
   『日本風景風俗写真帖』刊行。内容は当時の面影が今も残る上野公園が写っていたり、テレビドラマに見る明治期の街頭風景はこの写真帖を参考にしたのではと思えるようなのもあり、興味深い。
 1929昭和4年9月6日、死去。69歳。

   参考: 「在米時代の東海散士」(『日本近代文学』32集・大沼敏男1985日本近代文学会/『民間学事典』飯沢恒太郞1997三省堂/ 『成功百話』大月隆編1910文学同志会/ 『国会図書館所蔵ちりめん本目録』2001-03-29小島庸亨 

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