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2016年10月

2016年10月29日 (土)

仙山線、愛子駅(宮城県)

 JR旅雑誌の「鉄道の記憶」が目をひいた。高~い鉄橋(第二広瀬川橋梁)をわたる列車の写真がのっていた。すごく高い鉄橋からの眺めやいかに。
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 ――― 仙山線は仙台駅と山形駅を結ぶ路線だ。線名は両地点から一文字ずつ取って命名されたという。 仙台駅を出てしばらく市街地が続くが、実は仙台平野を囲む丘陵地帯。行路は驚くほど険しい。盆地を抜け、愛子駅を過ぎた辺りから田園も広がり、郊外へと進んできたことを実感させる。       (写真・文/松本典久) 
 

 えッ、愛子駅! 愛子って「あいこ」、愛しい子・愛児・女の子じゃないの? 記事をよく読むと、「あやし」のふりがな。愛子駅は「あやしえき」。これも何かのご縁、愛子駅がらみを調べてみよう。まずは、『コンサイス日本地名事典』を、
 ――― 仙台市青葉区。上愛子・下愛子からなる。旧宮城町の中心集落。交通、仙山線愛子駅または陸前白沢(りくぜんしらさわ)駅。:広瀬川南岸河岸段丘に位置し、水田を経営。近年、仙台市の都市化の影響を受け、中小工場・住宅が進出。

 ところで、開いた地名事典は1996年刊で古く、それから20年、愛子地域はかなり変化してるだろう。
 仙台は1920年代(大正9年~昭和初期)までには市民生活の都市化も進み、陸羽東線・石巻線・仙山線などの地方幹線が整備され、秋保(あきう)電鉄・宮城電鉄の私鉄沿線は宅地開発が進み、遊園地などの都市型レジャー施設が整備された。

 1929昭和4年9月29日、愛子駅開業。仙台市青葉区愛子中央一丁目。なお、愛子駅の副名は「秋保温泉入口」。仙台方面からの列車は大部分がここで折返しとなる。
   仙山東線の終点駅として開業した。関山街道の愛子宿の近くにできた駅で、当時の広瀬村の中心駅であり、合併して宮城村(のちに宮城町)ができるとその中心駅となった。西に路線が延長されるまでは、機関車の転車台を備えていた。

 1937昭和12年11月02日:官報.鉄道省/仙山線作並山寺間鉄道運輸営業開始
   停車場名、作並・奥新川(おくにっかわ)・山寺。

 1945昭和20年7月10日未明、仙台空襲。
   仙台の町は焼け野原、国宝の仙台城大手門や伊達政宗の廟所瑞鳳殿などが焼失。

 ――― 当時私達の家は仙台市堤通8番地の借家でした。県庁の北側200mほど行ったところだったと思います。そのころ父は片平丁の理学部数学教室の和算書庫を研究室として使い、自分の蔵書もそこに置いてありました。父は自宅の方が安全と考え(東北帝國大學理學部數學教室)と書かれた大きな麻袋に本を詰め自宅に持ってきておりました・・・・・・当時、国民みんなが住所氏名血液型を書いた名札を着衣の胸に縫い付けておくことになっていましたが、父は付けていない。仙山線で銃撃を受けたら「數學教室」と書いてある袋を背負っているので身許が分かるだろう、母が言っておりました。
 未明の仙台空襲,私達兄妹は親にたたき起こされ綿の沢山入った防空頭巾をかぶせられ、防空壕へ急ぎました。そのとき既に家の北側の曇りガラスを見たら美しいピンクに染まっていました。おそらく裏の家は焼夷弾の直撃を受け燃えていたのでしょう。私達兄妹7歳5歳のときでした(『木這子:東北大学付属図書館報33』“平山文庫”)。

 1950昭和25年6月28日。官報:7月1日から仙山線山寺楯山間に次の停車場を設置し、旅客・手荷物及び小荷物の取扱を開始する。但し、配達の取次はしない。
   停車場名:高瀬・山形県東村山郡高瀬村大字東山

 1971昭和46年4月1日、 貨物営業を廃止。
 1978昭和53年10月2日、 急行「仙山」が停車する。
 1984昭和59年2月1日 、仙台・ 愛子間の列車を増発。鉄道小荷物の取扱いを廃止。
 1985昭和60年3月14日、駅業務は出改札のみとする。
 1987昭和62年4月1日 、 国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる。
    愛子(あやし)駅の周りは、東西に長い市街地で、北は約600から800m先を流れる広瀬川まで住宅地である。1987昭和62年合併までは宮城町の中心駅であり、仙台市青葉区宮城総合支所はも旧宮城町役場である。

 2001平成13年、皇太子徳仁親王夫妻の長女である敬宮愛子内親王の誕生によって全国的に有名な駅になった。入場券は1日1枚くらいだったのが、名前が発表された12月7日、行列ができ夕方までに1000枚以上売れた。JR東日本によると、11日まで5日間で約3,3200枚売れた。

 2011平成23年3月11日東日本大震災
     震災直後不通区間:JR仙山線、全線。 
     現在不通区間復旧状況:4月4日、仙台~愛子(4月7日余震で不通→4月23 日まで順次復旧)。
      4月23日、愛子~山寺

 愛子駅から徒歩7分の同支所の敷地内には図書館などが入る広瀬文化センター、市の複合施設(仙台市青葉区下愛子字観音堂5)がある。南は水田で、さらに南に錦が丘の住宅地があり、山林・丘陵地につながる。
 駅前広場からは、県道・愛子停車場線が南に伸び、国道との交点で秋保温泉愛子線に通じる。
2002平成14年、 東北の駅百選に選定される。
2003平成15年6月、 自動改札機を設置。10月、Suicaの供用を開始。
2010平成22年2月、 バリアフリー化工事完成。

   参考: wikipediaウィキペディア / 『宮城県の歴史散歩』2007宮城県高等学校社会科歴史部会 /大人の休日倶楽部「鉄道の記憶」鉄旅しよう(宮城県)

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2016年10月22日 (土)

かつて栄えた常磐炭田、片寄平蔵(福島県いわき)

 孫たちが幼いころは電車大好き。一人は新幹線を見ると「○○系!」と叫んではうれしそう。もう一人は乗るのが大好き。福島県に住んでいたときパパの車に乗らず、ママと「スーパーひたち」に乗ってやってきた。一口に乗り物好きといっても、汽車・電車そのものが好き、乗ること交通好きとiいろいろ。ちなみに、もう一人の孫は交通博物館にいっても淡々としていた。今、中・高生になって三者三様、どんな大人になるやら。
 それにしても世の中、自分が中・高生だったころと大違い。物があふれ便利になり、情報量たるや物凄いことになってる。恩恵に浴す一方、なにか大事な事を忘れてそう。じゃあ、昔がいいのかと言われても困るけど。
 ところで、スーパーひたちの常磐線が走る地域に、かつて常磐炭田があった。開発したのが片寄平蔵である。磐城に誇りをもつ著者・大和田与平『磐城之富源』(1915飯田一二)と【グラフうつくしま⑨】を参考にみてみる。

      片寄 平蔵      (かたよせ へいぞう)   

 1813文化10年2月10日、石城郡大浦村大字大森(たたもり)に生まれる。
   長ずるにおよんで頭脳明晰、進歩的考えの持主で、材木商を営んでいた。
 1849嘉永2年8月、秋田へ木材買い出しに出かけ、雄勝郡河井村の菅運吉によって発見された、きわめて立派な桐の木――― 周囲2丈8尺4寸、枝下10間余、その葉当百銭大を幕府に献上したところ、稀世の美材とあって賞美され、苗字帯刀と乗馬を許された。

 1855安政2年6月、平町の南新川で数個の黒い石を拾い上げ、好奇心から火中に投じたところ、黒い石が燃えた。平蔵は以前、江戸の石炭商・明石屋治右衛門から石炭について聞いた事があり、大いに興味をもった。
   平蔵部下の白水の住人、高崎今蔵が坑夫を連れて探礦隊で出て、三函嶽の麓、弥勒沢で石炭を見つけた。ただし、平蔵は笠間藩領の人間で、湯長谷支配地の白水で採掘することができなかった。藩主内藤侯の許可を得るため、白水の里正(庄屋)に相談して手続きをした。

    “燃える石に情熱を注いだ 石炭業開発の租 片寄せ平蔵”

 いわき市内郷白水町にある「弥勒沢」は、常磐炭田発祥の地です。明治時代から昭和40年代にかけて、いわき地方は炭坑と漁業を中心に栄えてきましたが、その石炭を弥勒沢で発見し、石炭業発展の基礎を築いたのが片寄平蔵です。
 ――― いわきで材木商を営んでいた平蔵は・・・・・・ 「石炭の火力はまきの比ではなく、もし石炭が産出する所を見つけたら国の富源ともなり、計り知れない利益を生むだろう」と聞いて、いわき地方に伝わる風習「くんのうこう」と呼ばれ、猪を追う野火にもちいる“燃える石”を思いだし、夏井川の川岸を探索し、黒い小石を拾い、川をさかのぼって炭塊(良質の石炭)をみ見つけました。さらに山まで行けば必ず石炭があると信じた平蔵は、1855安政2年、弥勒沢で石炭を発見したのです。1856安政3年、明石屋の資金提供を受けて発掘をはじめました。
      *<グラフうつくしま⑨2002〔歴史探訪〕>

       *福島県は県情報誌「グラフうつくしま」をリニューアルし、「ふくしまグラフ」を創刊した。 「ふくしまグラフ」は、福島県の自然、文化、歴史、産業、くらし、まち、人、食、話題など、「ふくしまの魅力」を写真を中心に掲載、県内外に発信するために発行したもの。            

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 一俵につき銀一匁を上納して、小名浜より海上石炭を江戸に送って販路を開いた。また、石炭油(コールタール)の製造にも成功し、内藤侯に献上している。
 1858安政5年10月、幕府は品川に軍監繰練所をつくり、軍艦に必要な石炭を平蔵に注文した。御用石炭買い上げの命により、平蔵は選炭3000俵を上納し石炭御用達となった。この莫大な注文は、いわき地方の石炭業を活発にする大きなきっかけとなった。

 1859安政6年、ペリー来航。横浜開港が決まり、平蔵は外国奉行所に願い出て同地に、石炭販売所を設けた。そして、石炭はもちろんのこと、いわき地方の特産物である和紙(上遠野和紙)や、干しシイタケも輸出する事にした。江戸や横浜に搬送する雑貨類の輸送費は石炭と一緒にすれば安く、利益が大きかったと思われる。

 片寄平蔵は、開国と攘夷にゆれる幕末の時期に、外国貿易に身を挺してとりくみ、横浜の町作りにも尽力。横浜の町人たちは「開港の恩人」として、平蔵を神として祭っている(みろく沢炭鉱資料館)。
 1860万延元年8.3 死去。47歳。
    平蔵は、たいへんな活躍をし、実績もあるのに資料がみつからなかった。大学図書館などで人名辞典を漁ったが出ていない。おそらくあと8~10年、明治初年まで生きていれば全国に知られていたに違いない。

       常磐炭田、余話
 1877明治10年、西南戦争。東京及び近県で使用する石炭燃料はもっぱら九州地方に仰いでいたが、戦がおこると封鎖同様の九州から石炭が来なくなった。このとき、平蔵によって知られる磐城炭礦開鑿が進められたのである。
 その後、渋沢栄一・浅野総一郎ら東京の実業家が進出、常磐線が開通して各地への運搬が便利となり、莫大な産額を有する炭坑となった。

 2001平成13年5月、白水阿弥陀堂とみろく沢炭鉱資料館を結ぶ遊歩道「みろく沢石炭の道」が完成・・・・・・ いわきの近代を顧みるとき、石炭を抜きにしては社会も文化もかたれません・・・・・・片寄平蔵の頌徳碑は、弥勒沢入口に建っています(グラフうつくしま、写真も)。

     **********

 ※ 今日2016.10.21、鳥取で震度6という大きな地震が起きた。熊本地震から半年、被災地はまだ大変なのに、また地震だ。原発の被害はないらしいが、福島の原発事故があってから、何かあるたび原発は大丈夫か心配になる。いわき市には、福島の原発事故からの避難者が多く生活しているという。どうかこれ以上、どの地にも大地震が起きませんように。

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2016年10月15日 (土)

女子に道を開いた女性医師、吉岡彌生(静岡県)

 2016年10月半ば、上野公園へ行くと相変わらず人出が多い。世界遺産になった国立西洋美術館の前はさらに賑やか、外国人の団体もいた。彼らの笑顔を見るとなんだか誇らしい。東京国立博物館の前をすぎると、いつも締切の池田屋敷の立派な門が開いてる。もしかして公開日?門前の黒いスーツに白手袋の人に尋ねると「関係者だけです」。池田家はどこの大名か聞いたことあるけど忘れたなんて考えながら、その先にある東京藝術大学の〔驚きの明治工藝展〕を観に行った。
 江戸期からある自在置物という精巧な美術品の展示でほんとに驚きの工芸品だった。芸大のネットに紹介あり。

 別の秋日和、竹橋の国立公文書館に行った。車の通りは多いし、皇居ランナー、通行人もけっこういるが混雑してないし空気もいいような。でも、橋の上からお堀を覗き込むと、水草がいっぱいでがっかり。さて、こちらは〔時代を超えて輝く女性たち展〕。
 かつてとりあげた黒田チカや二階堂トクヨの展示があって、知り人に会ったような気がした。
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/10/post-15f1.html
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/07/post-3f6e.html
 明治から昭和まで活躍した女性たちの足跡をみて、先輩女性が道を開いて今があると感じた。その一人、吉岡彌生
 ――― 大勢の男学生に交じって、迫害をしりぞけ、志業を達成することは尋常一様の努力ではできない。而もかの女は難きに耐え、苦しみを忍んで、我邦の女医の草分けとなった。江戸から明治になっても女に学問はいらないという社会が続いていた。

                   吉野 彌生

 1871明治4年4月、静岡県小笠郡土方(ひじかた)の代々の医家に生まれる。父・鷲山養斎は村唯一の医者で、春の弥生の花盛りに生まれた子に彌生と名づけた。
 1877明治10年、村の小学校に入学。
 1886明治18年、優等で卒業。兄二人が医学修業に東京に出ていたので、女子でも医者になれないかと考えたが、父親に猛反対され、2年間、家事を手伝い、機を織るなどしていた。しかし、初志忘れず、家にある医書を貪り読み睡眠時間を削って勉強。その様子に父が折れ、帰郷中の兄とともに上京する事が許される。
 1889明治22年、18歳の彌生は兄と草鞋履きで土方村から静岡まで14里の道を歩き、静岡から汽車で上京した。東京本郷元富士町の兄の下宿に落ち着くと、すぐ湯島の済生学舎に入る。済生学舎は男女合わせて600人余、そのうち女子は40人余で教室に婦人席があった。彌生はドイツ語、物理化学など基礎となる普通学の素養がなく、また、質問すると男子学生に囃し立てたられるなど苦労した。体格がよかったので男子にからかわれるなどいじめられたが耐えた。

 1890明治23年5月、内務省医術開業試験の前期試験に一度で及第。故郷の両親、親戚一同は驚き、喜んだ。女子が見下されていた時代、くじけるどころか智慧と勇気をもってやり過ごし勉学に励み、成果をあげ男子学生の上に立った。
 1893明治26年、後期試験のための臨床、実地練習や眼底検査などの練習に苦労したが、これも合格。22歳で女医の免状をとった。順天堂病院に入り、実地研究とドイツ語の勉強に力を入れていた。しかし、父が迎えにきてやむなく帰郷、横須賀にある自家の分院を受け持ち、内科・外科・産婦人科から歯科まで診察していた。
 そのうち兄が医師の免状をとり帰郷したので、彌生はふたたび上京して、神田三崎町の国語伝習所、ドイツ語の学校、さらに跡見女学校に入学した。
 跡見では落合直文の国文学の講義に心をひかれた。また、茶の湯、生け花も習った。かたわら開業準備をし、廃業する同郷の医師から病院をひきうけ、借金をして医療機械を譲り受けた。女医の看板を麹町区飯田町にかかげた。
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 1895明治28年、本郷で東京至誠学院を開き、ドイツ語を教えていた吉岡荒太と結婚。
   父は支度金として80円ほど送ってくれた。夫・吉岡の収入は少ないうえに弟二人の面度をみていたから貧しかった。新婚家庭は食べるにも事欠く貧乏暮らしだった。
 1896明治29年春、飯田町へ引っ越して、至誠学院はドイツ語のほかに英語・漢学・数学を加え、予備校にしたところ生徒がふえた。生徒を思い寄宿舎をたてが、やりくりは大変で苦労が多かった。
 1898明治31年、至誠学院の真向かいに医者の家があいたので、彌生はその家を借りて開業した。しかし、東京至誠病院の患者は少なく収入はわずかで家賃の払いもままならなかった。夫の学院も妻の病院もこの有様で、吉岡は健康を害し、死去するまで健康を取り戻すことができなかった。

 1900明治33年12月、彌生が学んだ済生学舎が風紀上の問題から女子の入学を認めなくなり、在学中の70名の女生徒に退学を強要、医学志望の女子は修行機関を失った。これに同情した彌生は、女医学校設立を思い立つ。
 飯田町4丁目9番地の自宅八畳間を教場に、寺子屋式の東京女医学校を創立。最初は志願者4名という困難な道のりであったが、次第に生徒がふえ、彌生は校長となり夫の吉岡が校務一切を処理した。

 1902明治35年、市ヶ谷河田町(旧陸軍獣医学校跡)へ移転して女医学校を拡張した。現在の東京女子医科大学である。写真は診察室の吉岡院長。
 1904明治37年、日露戦争。戦争前後には戦争未亡人や職業婦人が多くなり、生徒がさらに増えた。彌生は病院長としての合間に、設備・機械・蔵書の充実・講師の選定から卒業生の就職などを計画実行し、名声あがり学校も発展した。また、研究会・談話会・演説を頼まれるなど多忙の17年間に、200余名の女医を世に出した。

 *明治47年以後は従来の医術開業試験を廃し、医学専門学校卒業者のみ免状を許可する」省令がでたため、彌生は数年間、専門学校の認可を受けるため奔走する。
 1912明治45年3月3日、専門学校に昇格、東京子医学専門学校と改称。
 1920大正9年3月12日、指定校の認可を得、卒業生は全部、無試験で女医の免状を得られるようになった。当時、生徒数800余名、病院4を有した。
 1922大正11年6月、夫吉岡荒太が病で死去。55歳。
   荒太の弟の正明が留学から帰り、女子医科大学の専任教授となった。
   次はその3年後、大正14年インタビュー記事一部

 ――― 私の医育に関する信念は、女子なるが故を以て小児科、ないしは眼科の如く比較的観血的の手術を要しない専門だけを選ばせようはしません。女子の特性たる緻密な注意力は外科、産婦人科などにみる大手術に甚だ必要なものであることは言を俟ちますまい。女子は総ての点に於いて医師たるに適するものとは、私の生涯を通じての信念です。否おそらくは何人と雖も異議を挿むことの出来ない事実でしょう。
                    (『医海きのふけふ』塩沢香1925南江堂書店)

 1930昭和5年1月、附属の産婆看護婦養成所、所長を兼務。
 1931昭和6年1月、女医学会会長。1936昭和11年7月、結核予防東京市婦人委員会会長などを歴任。
 1942昭和17年1月、大日本婦人会顧問。婦人の自由は経済的実力を得ることが先決として、職業および家庭の真の調和を説いて、各種の婦人団体にも参加したのである。
 1945昭和20年8月15日、終戦。
 1947昭和22年11月、公職追放の指定を受け、1951昭和26年、解除される。
 1952昭和27年1月、東京女子医科大学学頭。財団法人婦人厚生会会長ほか就任。
 1955昭和30年、勲4等宝冠昭を授与される。
 1959昭和34年5月22日、88歳で死去。

   参考: 『趣味の立志伝』野沢嘉哉1939有艸堂/ 『コンサイス日本人名辞典』・コンサイス学習人名辞典、三省堂/『貧乏を征服した人々』帆刈芳之助1939泰文館

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2016年10月 8日 (土)

存立期間は短くも人材輩出、熊本洋学校(熊本県)

 ――― 物心ついてから15歳になるまでずっと、米国のテレビではベトナム戦争のニュースが流れていました。今日の戦闘の結果はどうだったかとか、今日は何人戦死したとか、そんな話ばかりです。だんだんなんで戦争なんかするんだろうと思うようになり、ふと、日本のことを考えました・・・・・・ 歴史や伝統を知るにつれ憧れが強くなり、結局、この国に根付いてしまいました。
    (タレント、ダニエル・カールさん「毎日新聞」“2020語り継ぐ私だけの東京”)

 山形弁のカールさん、明るく愉快なキャラクターで親しみを感じる。カールさんの“私だけの東京”は、便利なだけでなく歴史と伝統、東京の奥深さも再認識させてくれた。それにしても、話にでてきたベトナム戦争のこと考えさせられた。現代の日本、戦争と無縁ではないような気配があるから。戦争は若者を戦場にかりだす。孫たちが「なんで戦争なんかするんだろう」と悩む時代がきませんように。切に願う。

 ベトナム戦争と比べようもないが、日本は鎖国を解いてから、しばらく内戦が続いた。明治維新、無血革命ともいわれるが、実は佐賀の乱に始まる士族反乱が続発、西南戦争が終わるまで戦いがあった。
 1876明治9年、熊本では下級士族集団の神風連(敬神党)が決起、県令・鎮台司令官を斃し、鎮台(のち師団)兵営を襲撃したが、一夜の戦闘で反乱は壊滅した。この同じ年、熊本洋学校が閉校した。この洋学校は1870明治4年開校で5年足らず、わずかな期間だったが有為の人材を多く輩出した。

                熊本洋学校


 ――― 封建的なものが崩れて近代的なものが伸びてゆく、しかし熊本においては伸ばす力よりも阻む力の方が大きい。そこにたどたどしさがある。川上彦斎の攘夷計画・上村孫三騒擾未遂事件・血税騒動・神風党の乱などは、いかにも熊本色濃厚といった感じである(『明治の熊本』急進と反動)。

 1870明治3年、藩知事・細川護久は藩政改革と一して、西欧の技術・東洋の精神に基づく洋学校設立を計画。明治維新当時、中央政界に遅れをとった熊本藩は、かねて人物養成機関の必要を感じていた。そして進歩的な実学派横井小楠の甥・横井太平の意見を容れ、熊本藩はアメリカ人士官、エル・ジェーンズを招いた。
 ジェーンズは、ウエストポイント陸軍兵学校出身の砲兵大尉。南北戦争に北軍将校として参加し、少し前までカリフォルニアの要塞の守備隊長であった。夫人は牧師の娘。ジェーンズを紹介したのは、明治学院創立、聖書和訳で知られるオランダ人宣教師フルベッキである。
  藩内で学校設立に異論はなかったが、外国人を雇うについては躊躇があった。熊本の士族は明治になっても廃刀令が出るまで、すべて帯刀していた。攘夷家がまだいるのに外国人が熊本に居住したら如何なる珍事を引き起こすかもしれない。それでも、外国人を招かないと完全な教育ができないとして洋学校設立が決まった。それに軍人を雇えば学校教育の傍ら、兵式改革の顧問にすれば一挙両得と考えた。しかし、兵学校設立には至らなかった。

 洋学校は熊本古城の地、旧藩士の邸宅があった一万坪を敷地にし、教場は在来の家屋を用い、教師館は新たに西洋風の建物を長崎から大工を呼びつくらせた。
 生徒は長崎留学していた十余名を帰国させ官費寄宿生とし、通学生とあわせて50余名。ところが始のうち、洋学校なのに漢学ばかりであった。
 1871明治4年8月、ジェーンズが着任。最初は通訳者がいたがそれでは授業にならないとことわり、ウエブスター、スペリング、リーダーなどが生徒に貸与された。ジェーンズは英語で諸学科を教え、生徒が100名をこえても、一人で担当した。

 1872明治5年、学制発布。全国の学校総て廃止となり、新たに立て直すことになったが、熊本洋学校は、生徒の学習がまだ充分ではないとして存続した。
 ――― 明治天皇西国巡幸のさい、洋学校も巡覧があった。 洋学校では教師ゼェンスが平常服のまま全校の生徒を率いて奉迎し、二名の生徒の英文暗誦があって、ゼェンスは手ずから栽培した西洋草花を献上したりしました(徳冨蘆花)。

 ところで、ジェーンズは学校では英語を教えたが、私宅においてキリスト教の精神を説いた。生徒の中には、宗教に興味を持たない者もあったが、ジェーンズの熱心な説教に染まり信者になる生徒があった。金森通倫伊勢時雄(のち横井)海老名弾正小崎弘道などである。宗教に反対なのは横井時敬・山田謙次・高田唯八らで、二派に分かれ争った。
 1876明治9年、ジェーンズの薫陶によりキリスト教に入信したのは35名

   ――― 一群の青年は、23歳を頭に、まだ13、4の少年をも入れて、山上に祈祷を捧げ「・・・・・・この時に当たり、苟も報国の志を抱く者は、宜しく感発興起し、生命を塵芥に比し、以て西教の公明正大なるを解明すべし・・・・・・」以下の結誓文を朗読し、賛美歌を唱って散会した・・・・・・
 宗教に反対の側から迫害がはじまる。青年男女は各自の家に閉じ込められて、固く禁足された。ひどい家になると座敷牢へ押し込められた。厳重に検束された聖書・賛美歌・冊子の類はいずれも焚書された(蘆花)。

 洋学校の設立者は、生徒の徳性を、東洋の倫理により陶冶し、洋学はただ西洋科学技術の進歩を図るために用いただけだなので、キリスト教信者は予期に反したものであった。花岡山に会した一同に保守派の迫害が烈しくなった。
  同年、洋学校は閉校となるため、第三期生を変則で4年かかるところを3カ年で卒業させた。キリスト教信者は同志社に托された。この熊本洋学校から、海老名弾正・浮田和民・徳富蘇峰ら多くの明治の思想家が輩出した。
  同年9月、ジェーンズ帰国。その翌月、神風連の乱が起きた。ジェーンズがいたなら襲撃されただろう、間一髪であった。その後、ジェーンズは同志社の教師として再び対日する予定であったが、家族に不幸があり果たさなかった。後年、京都の第三高等学校の教師を3年間つとめて帰国。1909明治42年、73歳、カリフォルニア州で死去。

      参考: 熊本県史料集成『明治の熊本』熊本女子大学郷土文化研究所1985国書刊行会/ 『明治文化発祥記念誌』1924大日本文明協会/ 『日本史辞典』1981角川書店

            ************

 熊本洋学校を書き、十年前、城壁に圧倒されながら見上げた立派な熊本城を思い起こしていた。そのお城の佇まいを想うと、洋学校はたくさん著名人物を輩出しているが、学校だけでなく、お城の存在も頑張る力になったと思われる。その熊本城が大地震で傷つき惨状を呈している。いつになったら復興できるのかとため息・・・・・・それなのに、今度は阿蘇山が噴火! 警戒レベル3。影響が及んでいる地域の方々、どうかご無事で。

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2016年10月 1日 (土)

柔道も人生も名人、柔道家・三船久蔵(岩手県)

 リオデジャネイロ・オリンピック、日本選手が活躍して盛りあがった。卓球やバトミントンなど地味めの競技も結果を出した。オリンピックは様々な競技を知る良い機会、誰にも共通の明るい話題だ。メダリストのテレビ出演がふえ、見る方も余韻を楽しんでいる。もちろん軒並み好成績の柔道選手も、笑顔でメダルをかざし誇らしげだ。
 ところで、竹刀を握った事もなく、柔道着を着た事もない筆者の勝手な推測だが、「技と心の武道」を剣道は維持、柔道はスポーツに傾いてそう。講道館柔道を完成した嘉納治五郎は日本初のIOC(国際オリンピック委員会)委員で柔道を世界に示した。広く世界で闘うとなれば、武道家より勝負優先の選手というなりゆきは当然か。それでも平成の柔道選手は、先輩武道家の精神を受け継いでいる。おそらく、三船久蔵はその大先輩の一人。

      三船 久蔵

 1883明治16年、久慈町巽山(岩手県久慈市巽町)三船久之丞の三男として生まれる。男3、女4人の兄姉。生家は久慈の素封家で、代々、米穀と木炭問屋を営んできた。
 1897明治30年、仙台第二中学校入学。円太郎馬車に乗って陸奥国八戸に出て汽車で仙台へ行った。4年まで野球をやっていたが、5年の二学期から柔道部へ入った。
 1902明治34年秋、三船の強さは仙台中の評判となり、仙台二高と練習試合をすることになった。互いに15人ずつ出場、二中の14人は二高の4人目ではやくも総崩れ、残るは大将三船ただ一人。一同、固唾をのむ中、なんと三船は残る二高生11人を倒したのである。

 1903明治36年、二中を卒業。仙台で稽古してもらっていた起倒流道場大和田師範に帰郷の挨拶に行き、盛岡奥田松五郎に技を見せてもらうよう勧められた。奥田道場を訪ねた三船は、奥田の「殺気の技」に4度も投げ飛ばされ、達人になれると励まされた。

Photo小兵よく大豪を倒す 空気投げ>は、ひたすら稽古を重ね、奥田松五郎から得た「殺気の技」から、技みがきの重大性を教えられ、研究と修錬を積んだ成果である。

  空気投げの原理は、「太陽はまるい、球の地球も回っている。人間もまるければ無事だ。要はバランスがとれておれば自然の法則に合う。押さば回れ、相手が飛べば押せ、引かば斜めに押して出よ、斜めは円の最初の動きだ、斜めに出れば相手も斜めになり重心がずれる。その一瞬をとらえて押す」というもの。
 時に無表情、それほどスピードのない動きのなかで千変万化の技を放つ、起倒流柔術と三船自身の柔道が<美しさ>を目的とした点に共通性があるようだ(『岩手の先人100人』遠山崇、写真も)。

 “美しさ” リオ・オリンピック体操金メダルに輝いた内村航平選手の「美しい体操」が思いこされる。名人・達人の行き着く先は“美しさ”か。

 同36年、三船は上京して慶應義塾に入学、実業を目指したが中退。柔道を講道館で学ぶ。
    嘉納治五郎の直弟子となり、鬼横山と恐れられていた六段・横山作次郎に見込まれ、手取り足取りみっちり仕込まれ、めきめき上達した。翌年には初段になった。

 1905明治38年ごろ。当時、講道館の柔道は全国の柔術界から理解されていなかった。
    それまで柔術は、武士が戦場に臨み、生死の間に活用するところの技であったが、時代の進歩と生活の様が変わったため、嘉納は学問と共に柔術家や名人・達人らと研究、修業を重ね、「柔術の底に流れる日本精神と、徳育・智育・体育の三つが修業によって達し得る」と考えた。
 体育は必ずしも柔術の修業のみで達せられるものではないが、最善と考え、危険な技は禁じて、誰にも合理的で有効な技と形を撰び、これに日本講道館柔道と命名したのである。
 その講道館柔道はどの位の技量があるのかと、全国から柔術家が他流試合をしにやってきた。横山らが相手をして投げとばしていたが、三船も二段のとき道場破りを投げとばした事があった。
 三船は猫のような投げ技ももっていた。練習中、脇から倒れこんできた者によって脚を挫いて徴兵検査を不合格になったが、練習は休まなかった。その間、直立できないのを利用して寝技を研究、完成させた。練習と研究を怠らない三船ならではの成果である。

 1906明治39年、3段。大日本武徳会から精錬證を受ける。
 1907明治40年、4段。43年、5段。三船は身長160㎝、体重40㎏の短軀ながら投げの妙技を発揮、大車、隅落とし(空気投げ)などの技を得意とした。

 ――― 相対すると、噂に聞いたとおりの小兵であったが、目玉が異ふ。鼻柱に力がある。顔の筋肉がきりっと緊って活きている。目玉はただ大きくぎょろりとしているばかりではない。熊鷹の目のように、精悍を表徴している。その眼を中心として、三船久蔵の性格が躍動している。だが、どことなく温かみを感ずる人柄だ。持って生まれた高朗の性にもよるであろうが、多年錬磨した肝が何ごとかを物語っている。初対面でありながら、快活に話すのである(佐藤垢石)。

 1913大正2年、小柄で力持ちであった父が80歳で死去。父の遺言状に資産を三等分とあったが三船は「今では自分も、柔道で食えるだけの位置になった。子宝に恵まれない次兄の養子となり親として仕えていく。遺産全部は長兄に差し上げよう」と提案、そのようにした。
 1917大正6年、六段となり、宮中済寧館で、十人掛け試合に出場。
 1918大正7年、七段に昇段。1923大正12年、40歳にして講道館指南役を務める。
   講道館の指南役のかたわら、東京帝国大学早稲田高等学院明治大学東京高等商船学校海軍経理学校・などの嘱託教授、師範を兼ね、柔道の普及に努めた。
 
 1930昭和5年11月、明治神宮外苑で行われた第一回 全日本柔道選手権大会で、特別試合に佐村嘉一郎七段と対戦、自ら編み出した「隅落とし」(空気投げ)で勝利。

 1934昭和9年、天覧試合。皇太子誕生の奉祝武道大会で柔道審判員。

 1945昭和20年1月、戦争のため長野県に疎開、「樹徳館」を開いて青少年を指導。5月、最高位の十段に列す。
    8月15日、天皇「終戦」の詔勅放送。

 1953昭和28年、『柔道回顧録』。1955昭和30年、『柔道一路』
 1956昭和31年、久慈市巽山公園に三船久蔵記念館ができ、柔道場も併設された。柔道は久慈市のシンボルスポーツとなり柔道場には愛好者が集い今も選手を輩出している。
        ☆ 昭和33年というご指摘をいただきました。コメントをごらんください。 

 1961昭和36年、岩手県初の文化功労者となる。
 1964昭和39年、東京オリンピック柔道競技員を務める。
 1965昭和40年1月27日、死去。82歳。久慈市名誉市民。

    参考: 『岩手県の歴史散歩』岩手県高等学校教育研究会地歴ほか2006山川出版社 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 / 『人生の名人』佐藤垢石1941墨水書房 / 『岩手の先人100人』1992岩手日報社出版部

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