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2016年10月 8日 (土)

存立期間は短くも人材輩出、熊本洋学校(熊本県)

 ――― 物心ついてから15歳になるまでずっと、米国のテレビではベトナム戦争のニュースが流れていました。今日の戦闘の結果はどうだったかとか、今日は何人戦死したとか、そんな話ばかりです。だんだんなんで戦争なんかするんだろうと思うようになり、ふと、日本のことを考えました・・・・・・ 歴史や伝統を知るにつれ憧れが強くなり、結局、この国に根付いてしまいました。
    (タレント、ダニエル・カールさん「毎日新聞」“2020語り継ぐ私だけの東京”)

 山形弁のカールさん、明るく愉快なキャラクターで親しみを感じる。カールさんの“私だけの東京”は、便利なだけでなく歴史と伝統、東京の奥深さも再認識させてくれた。それにしても、話にでてきたベトナム戦争のこと考えさせられた。現代の日本、戦争と無縁ではないような気配があるから。戦争は若者を戦場にかりだす。孫たちが「なんで戦争なんかするんだろう」と悩む時代がきませんように。切に願う。

 ベトナム戦争と比べようもないが、日本は鎖国を解いてから、しばらく内戦が続いた。明治維新、無血革命ともいわれるが、実は佐賀の乱に始まる士族反乱が続発、西南戦争が終わるまで戦いがあった。
 1876明治9年、熊本では下級士族集団の神風連(敬神党)が決起、県令・鎮台司令官を斃し、鎮台(のち師団)兵営を襲撃したが、一夜の戦闘で反乱は壊滅した。この同じ年、熊本洋学校が閉校した。この洋学校は1870明治4年開校で5年足らず、わずかな期間だったが有為の人材を多く輩出した。

                熊本洋学校


 ――― 封建的なものが崩れて近代的なものが伸びてゆく、しかし熊本においては伸ばす力よりも阻む力の方が大きい。そこにたどたどしさがある。川上彦斎の攘夷計画・上村孫三騒擾未遂事件・血税騒動・神風党の乱などは、いかにも熊本色濃厚といった感じである(『明治の熊本』急進と反動)。

 1870明治3年、藩知事・細川護久は藩政改革と一して、西欧の技術・東洋の精神に基づく洋学校設立を計画。明治維新当時、中央政界に遅れをとった熊本藩は、かねて人物養成機関の必要を感じていた。そして進歩的な実学派横井小楠の甥・横井太平の意見を容れ、熊本藩はアメリカ人士官、エル・ジェーンズを招いた。
 ジェーンズは、ウエストポイント陸軍兵学校出身の砲兵大尉。南北戦争に北軍将校として参加し、少し前までカリフォルニアの要塞の守備隊長であった。夫人は牧師の娘。ジェーンズを紹介したのは、明治学院創立、聖書和訳で知られるオランダ人宣教師フルベッキである。
  藩内で学校設立に異論はなかったが、外国人を雇うについては躊躇があった。熊本の士族は明治になっても廃刀令が出るまで、すべて帯刀していた。攘夷家がまだいるのに外国人が熊本に居住したら如何なる珍事を引き起こすかもしれない。それでも、外国人を招かないと完全な教育ができないとして洋学校設立が決まった。それに軍人を雇えば学校教育の傍ら、兵式改革の顧問にすれば一挙両得と考えた。しかし、兵学校設立には至らなかった。

 洋学校は熊本古城の地、旧藩士の邸宅があった一万坪を敷地にし、教場は在来の家屋を用い、教師館は新たに西洋風の建物を長崎から大工を呼びつくらせた。
 生徒は長崎留学していた十余名を帰国させ官費寄宿生とし、通学生とあわせて50余名。ところが始のうち、洋学校なのに漢学ばかりであった。
 1871明治4年8月、ジェーンズが着任。最初は通訳者がいたがそれでは授業にならないとことわり、ウエブスター、スペリング、リーダーなどが生徒に貸与された。ジェーンズは英語で諸学科を教え、生徒が100名をこえても、一人で担当した。

 1872明治5年、学制発布。全国の学校総て廃止となり、新たに立て直すことになったが、熊本洋学校は、生徒の学習がまだ充分ではないとして存続した。
 ――― 明治天皇西国巡幸のさい、洋学校も巡覧があった。 洋学校では教師ゼェンスが平常服のまま全校の生徒を率いて奉迎し、二名の生徒の英文暗誦があって、ゼェンスは手ずから栽培した西洋草花を献上したりしました(徳冨蘆花)。

 ところで、ジェーンズは学校では英語を教えたが、私宅においてキリスト教の精神を説いた。生徒の中には、宗教に興味を持たない者もあったが、ジェーンズの熱心な説教に染まり信者になる生徒があった。金森通倫伊勢時雄(のち横井)海老名弾正小崎弘道などである。宗教に反対なのは横井時敬・山田謙次・高田唯八らで、二派に分かれ争った。
 1876明治9年、ジェーンズの薫陶によりキリスト教に入信したのは35名

   ――― 一群の青年は、23歳を頭に、まだ13、4の少年をも入れて、山上に祈祷を捧げ「・・・・・・この時に当たり、苟も報国の志を抱く者は、宜しく感発興起し、生命を塵芥に比し、以て西教の公明正大なるを解明すべし・・・・・・」以下の結誓文を朗読し、賛美歌を唱って散会した・・・・・・
 宗教に反対の側から迫害がはじまる。青年男女は各自の家に閉じ込められて、固く禁足された。ひどい家になると座敷牢へ押し込められた。厳重に検束された聖書・賛美歌・冊子の類はいずれも焚書された(蘆花)。

 洋学校の設立者は、生徒の徳性を、東洋の倫理により陶冶し、洋学はただ西洋科学技術の進歩を図るために用いただけだなので、キリスト教信者は予期に反したものであった。花岡山に会した一同に保守派の迫害が烈しくなった。
  同年、洋学校は閉校となるため、第三期生を変則で4年かかるところを3カ年で卒業させた。キリスト教信者は同志社に托された。この熊本洋学校から、海老名弾正・浮田和民・徳富蘇峰ら多くの明治の思想家が輩出した。
  同年9月、ジェーンズ帰国。その翌月、神風連の乱が起きた。ジェーンズがいたなら襲撃されただろう、間一髪であった。その後、ジェーンズは同志社の教師として再び対日する予定であったが、家族に不幸があり果たさなかった。後年、京都の第三高等学校の教師を3年間つとめて帰国。1909明治42年、73歳、カリフォルニア州で死去。

      参考: 熊本県史料集成『明治の熊本』熊本女子大学郷土文化研究所1985国書刊行会/ 『明治文化発祥記念誌』1924大日本文明協会/ 『日本史辞典』1981角川書店

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 熊本洋学校を書き、十年前、城壁に圧倒されながら見上げた立派な熊本城を思い起こしていた。そのお城の佇まいを想うと、洋学校はたくさん著名人物を輩出しているが、学校だけでなく、お城の存在も頑張る力になったと思われる。その熊本城が大地震で傷つき惨状を呈している。いつになったら復興できるのかとため息・・・・・・それなのに、今度は阿蘇山が噴火! 警戒レベル3。影響が及んでいる地域の方々、どうかご無事で。

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