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2016年11月

2016年11月26日 (土)

二本松の幕末明治 (福島県)

 2016勤労感謝祭日の翌24日、54年ぶり関東に雪。電車が遅れたり交通機関が乱れて通勤通学に差し支えた人が多い。都内の会社、学校に通っている娘一家はどうしたろう。東北や北海道の人からみれば、積雪5センチでオロオロバタバタの関東は情けないかも。

 少し前に、毎日新聞「郷土の活気を再び“農家の夢ワイン”」という二本松市の醸造所[ふくしま農家の夢ワイン]の記事を読んだ。農家の男性8人が設立したワイナリーの話。
 東日本大震災直後の春から、自分の畑や耕作放棄地を利用したブドウ栽培からはじめたという。同地は阿武隈山系に囲まれ、かつて養蚕で栄えていたが、時代の波で桑畑が荒れた土地になり、震災前年の暮れに、活気を取り戻そうとワイン作りの話が持ち上がった。ところが、年が明けて3月、震災と原発事故がおき郷土が暗くなった。しかし、夢ワインの面々は事故に負けず、ワイン作りに励み、基礎から学んで2度目の収穫祭を迎えるまでになったという。なんとも前向きな話で、こちらが励まされた。その人達が暮らす二本松、昔はどんな地域だったのかなと気になった。
 みれば、明治期は製糸や絹織物(羽二重)の生産が盛んで、広い桑畑が想像できた。しかし、産業や暮らしが変わり、桑畑が荒れたのだ。夢ワインのメンバーは、それを豊かな農村の風景にして、次の世代に残そうとしている。きっと、夢ワインがその思いをつなぐと思う。それでは二本松の昔、まずは芭蕉が記した二本松から。

       二本松より右にきれて (「おくのほそ道」より)

 二本松より右にきれて黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。 あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、しのぶの里に行く。 はるか山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。 里の童べの来りてへける、昔は此の山の上に侍りしを、往来の人の麦草をあらして此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落とせば、石の面下さまにふしたりといふ。 さもあるべき事にや。
     早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
                           (『おくのほそ道』大藪虎亮1926研精堂)

         二本松少年隊  
   
   会津攻めよか 仙台とろか ここが思案の二本松
 戊辰の戦い、勝ち誇った官軍は、こうした唄に打ち興じて軍を進めたが、二本松総攻撃は一思案を要するほどの難戦であった・・・・・・官軍は白河口を陥れて北進した。板垣退助率いる枝隊は間道、棚倉三春を略して早くも本道本宮を占領し、二本松隊の帰路を遮断した。城中に残るものは老幼婦女子と君側に持する老臣のみである。
 ・・・・・・城南大壇口に集合した少年隊25名は、江川坦庵門下の俊秀、二少年を助手に4斤半の砲を乱射して官兵を悩ました。翌る日、砲声が止んだと思うころ、敵の一弾が頭上に炸裂した。天地はたちまち阿鼻叫喚、修羅の巷と化し、胸壁にした畳は四散し、狂奔する大接戦となった。涙なくして綴れぬ血みどろの絵巻、三百年来の城下は焼かれ、恩顧の士卒400余人が節に準じた奥州二本松の落城史・・・・・・
                    (『福島県郷土読本』第1輯1936社会教育会)

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   二本松停車場

 福島県岩代国安達郡嶽下村字椚場にあり、二本松は旧丹羽氏の城邑にして国道の衝にあたり、戸数二千、人口凡一万、その繁盛なること福島に次ぐ。
 市の中央に小阪あり観音山と称す。城址はその山嘴(やまはな)にあり、霞ヶ城(かすみしろ)と呼ぶ。
 昔畠山氏数代奥州の*探題に補せられ、此の地に居る。
 畠山善継が伊達輝宗を討つと、子の伊達政宗が二本松を滅ぼす。蒲生氏郷が会津に封ぜられると二本松は蒲生氏に帰す。徳川氏に至り、遂に丹羽氏の封地となり、維新に至れり。目下はその跡に製糸工場を設立し工女数百名を使役し頗る盛大なり。
(『日本鉄道線路案内記』桜井純一編1902博文館)
   *探題: 鎌倉・室町幕府の職名。沿革の要地の政治・軍事・裁判などの備えのために設置された。

        機械製糸と羽二重

 双松館: 1886明治19年創立。霞ヶ城跡にある機械製糸工場で経営者は山田修。この会社は二本松製糸会社を継承、工女200人、製糸を海外に直輸出していた。

     〔二本松製糸場・金山(佐野)製糸場、佐野理八〕
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/06/post-ae37.html
 
  安達製糸合資会社: 1893明治26年創設。字捫橋にあり、工女170余名。社長は寺島利助。

  二本松輸出羽二重株式会社: 字南新町にあり、資本金15万円、生産高7千匹。

  移川輸出羽二重機械工場: 機台数28。資金1万1千円。

      山田 修

 1841天保12年、二本松藩で生まれる。
 1873明治6年、小野組・佐野理八らが二本松製糸会社を創立するとこれに尽力、支配人となる。製糸の改良と事業の拡張により、宮城ほか他県から製糸女工の伝習にくるほど盛んになったが、小野組が倒産したため東奔西走して官の補助を得ることができ、自ら事業を継続、名を双松館と改める。
 1877明治10年、アメリカに渡り、各地の状況を調査しニューヨークに直売店を開き、日本二本松製糸の名で輸出販売することにした。製糸改良を怠らず盛況で、1894明治27年、緑綬褒章を授けられた。
                     (『安達郡誌』1911福島県安達郡)。

         安部井磐根

 1832天保3年、生まれる。二本松藩士で、奥羽越列藩同盟に反対し、仙台に退けられた。二本松落城後、藩主の旧領回復に奔走して成功し、維新後参事になる。
 1877明治10年、福島県会議員。翌年、安達郡長となるも、三島通庸県令の施政に不満をもち辞任。
 1890明治23年、第一回衆議院議員選挙に当選。大成会、有楽組、大日本協会・進歩党に属す。伊藤博文内閣のとき、衆議院議長・星亨除名後、副議長に選ばれた。

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2016年11月19日 (土)

咸臨丸と清水次郎長、最後の箱館奉行・杉浦梅潭

 1857安政4年、オランダで建造されたヤッパン号が日本にきた。これが咸臨丸である。
 1858安政5年に江戸幕府がハリスと結んだ「日米修好通商条約」は自由貿易の規定をふくむ最初の条約。条約勅許問題が発生、関税自主権がないなど不平等な条項があったが、批准書交換のため1860万延元年正月、アメリカへ使節が派遣された。
 外国奉行・新見正興、村垣範正、目付・小栗忠順3人の使節はアメリカ鑑ポーハタン号に座乗して品川湾を発し、幕府軍艦・咸臨丸も使節一行の護衛として共に発航した。
 咸臨丸には軍艦奉行・木村介舟、艦長は勝麟太郎(海舟)、使節の随員、それに木村の従僕として福澤諭吉も乗船していた。初めて自力で太平洋を横断、アメリカ滞在一ヶ月、咸臨丸はさまざまなエピソードを乗せて浦賀に凱旋は、よく知られるところ。
 この華やかさにひきかえ、下田とともに開港された箱館奉行・杉浦梅潭(誠)が、日記に残した咸臨丸の最後はさびしい。船も人と同様、行く末があり終わりがある。

      箱館奉行・杉浦兵庫守(本名誠・号は梅潭)

 維新前後の混乱期、開港したばかりの箱館は問題山積。最後の箱館奉行となった杉浦はロシアの南下、外国船入港によっておこる様々な難題に対処していたが、明治維新となり、五稜郭内の奉行所を新政府の箱館府に引き渡して江戸に引きあげた。
 そして、江戸から移された徳川家駿府藩の公議人(藩を代表して対外折衝をする役)となり、明治元年12月、駿河(静岡)へ赴いた。ところが年明、正月すぐに「駿州赤心隊事件」の跡始末に東京に向かう。

 先走るが杉浦のその後を記すと、1869明治2年、外務省出仕さらに北海道開拓使の役人となり再び箱館に赴任。なお、箱館はこの年から函館。維新政府がその能力を認めた杉浦は、1877明治10年に退官するまでおおよそ9年間、箱館市政の責任者をつとめた。引退後は漢詩の会を創り指導もしている。実務だけでなく文の道も優れている。漢詩文集『梅潭詩鈔』が国会図書館のデジタルライブラリーにある。漢詩人の沈山や勝海舟、福島中佐、田辺太一ほか同時代人の名もあり読めば面白そう。でも素養がなく読めない。

      清水次郎長と咸臨丸事件

 1868明治元年8月、旧幕府の海軍総督・榎本武揚率いる箱館へ行く八隻の艦隊があった。そのなかに運送船咸臨丸もいたが、太平洋を渡ったあと、幕府の御用船として小笠原などに派遣されて、機関も使えなくなって取り外されたり大砲も取り外され、咸臨丸は裸の帆前船になっていた。
 榎本艦隊は品川沖を出発したが、犬吠埼付近で大暴風に遭遇して散々の有様、軍艦開陽は舵を失い、回天は帆柱を折られ、三ヶ保は沈み、咸臨は多大の損害を受けながら、辛うじてただ一隻清水港へ入った。咸臨丸は同地が幕府の領分だったのを幸い、安心して船の修理をやっていた。

 ところが、一ヶ月後の9月18日、突然、新政府軍の軍艦3隻が沖合いに現れ、横須賀方面から近付いてきて三保の岬に停泊していた咸臨丸目がけて大砲を撃ち出した。このとき、乗組みの大半が上陸していて、艦内には留守のみが残り、その上、兵器は徳川家の倉庫のなかに入れてしまったので、艦には武器も弾薬もなかった。しかも無抵抗主義を執ったので、はじめから戦争にはならないのに、政府軍は三方から一艘を取り囲んで撃ちまくった。
 咸臨丸の残兵は激怒して応戦したが、衆寡敵せず生き残った者は海に飛び込んだが、それを政府軍が小銃で狙い撃ちした。三保へ上がった敗残兵は繁みに逃げ込んだり、百姓家に潜伏したが、それを三保神社の神主が「旧幕府方の兵を神主が保護したと思われては困る」という懸念から、自ら農兵を率いて追払いに出た。
 惨殺された死体が港にプカプカ浮いていたが、誰一人手を付けようとする者がいない。賊名を負った幕府方の死体を拾い上げたとあっては、どんなお咎めを受けるか知れない。
 これを清水次郎長が、「よし、後でどんな事が起ころうと構うことはない、次郎長が拾い上げて葬ってやる」。舟をだしてためらう子分たちを励ましてある夜、自ら先に立って、七つの死体を拾いあげて、河口の葦の茂った向島という所に手厚く葬った。咸臨丸事件である。今も残る「壮士の墓」がそれで、墓標は次郎長の懇望により、山岡鉄舟がしたためた。

   清水次郎長: 1820文政3~1893明治26。駿河国有渡郡清水港(静岡県)。本名山本長五郎。父は廻船問屋、母の弟米問屋山本家の養子になる。侠客兼博奕打の親分。黒駒勝蔵との抗争は有名。

      神主暗殺事件または駿州赤心隊事件

 咸臨丸事件のとき前出のような事情で、駿州赤心隊員の神主・三保神社の神官と草薙神社の神主の二人が、徳川の浪士に恨み買い暗殺事件がおきた。1868明治元年12月18日夜、三保神社神主の太田健太郎は何者ともしれぬ暴漢に襲われ命を落とした。
 この事件に、駿府藩は下手をすれば藩が取りつぶされるかも知れないと杉浦に折衝を命じたのである。杉浦は上京して各方面に働きかけ、藩は事なきを得た。

  赤心隊。有栖川総督が錦の御旗を奉じて東征するとき、遠州の神官たちは報国隊を作り、駿河の神職たちは赤心隊を組織した。そんな関係で三保神社の太田家も勤王家として知られ、俗に「三保の殿様」と敬われていた。所で、咸臨丸事件の際、敗残兵を追い払ったので、一部の村民や士族たちから深い恨みを買い、夜討ちにあった。

     咸臨丸の最後

 さて、榎本艦隊の一隻として官軍に拿捕された咸臨丸は、北海道開拓使の御用船となる。この頃にはおんぼろの老朽船になりその後、民間に払い下げられ、北海道開拓移民の輸送船となっていた。
 杉浦の日記によれば、1871明治4年8月14日、咸臨丸、函館に入港。

 9月20日の朝、咸臨丸は函館を出航して小樽に向かう。この航海には、仙台の片倉藩の藩士や家族など北海道へ行く開拓民400人乗っていた。咸臨丸同型の艦で300トン、それほど大きくない船に400人もという大変なすし詰めだった。
 咸臨丸は函館を出航してからわずか10数㎞の木古内の沖で座礁してしまう。杉浦はすぐに部下を派遣したが、乗っていた400人が全員無事だったという。これが咸臨丸の最後の航海となり、咸臨丸はわずか14年間という一生であった。

 後年、海に沈んだ咸臨丸を探したりしたらしいが、沈んでいるかどうか判らないらしい。その方がいいような、でも、知りたいような・・・・・・それにしても14年間は短い。

           **********

 400人全員無事と書いた所で、ふと、お隣の国のセオル号事件を思いだした。乗った船によって人生が大きく異なってしまう。でも、誰もが、いつも乗る船を選べる訳じゃない。そして、その船に乗るか乗らぬか分かれ目ってなんだろう。考えさせられる。しかし、宗教とか哲学に無縁、何時ものことながら、日常の茶飯事に紛れ、何事も忘れてしまうのがオチ。

   参考: 『詩人杉浦梅潭とその時代』国文学研究資料館1998臨川書店 /『大豪清水次郎長』小笠原長生1936実業之日本社 

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2016年11月12日 (土)

幕末志士・民権家・弁護士・96年の生涯、松山守善(熊本)

 先日、とっても久し振りに国会図書館へ行ったら、すっかりデジタル化されいてオロオロ。同様の人がいるらしく、レファレンス窓口は親切だった。それでも時間がかかり、やっと1890明治23年のマイクロフィルム資料に辿りつき、請求、待つこと30分。この待ち時間だけは昔と変わらない。その帰り、通りの向こう国会議事堂前のデモが見えた。近くに止まる黒い大型車輌、道の端に並ぶ多勢の人に視界がさえぎられ、何のデモか判らなかった。いずれにしてもデモる人達が、世のため人のため行動していると思いたい。
 今は「いちおう平和」な世だが、幕末・明治期にあっては日本そのものが激動し揺れていた。志を主張し広めるのも命がけ。それでも行動を起こす志士たちが江戸東京、京・大阪はむろん、遠く九州熊本の志士も奔走した。命を落とす志士もあったが、生きのび1945昭和20年、終戦直前まで生きた人物がいる。熊本の松山守善その人である。

      松山 守善 (まつやま もりよし、俗にしゅぜん)

 1849嘉永2年10月15日、肥後熊本城東厩橋街熊本藩士、脇坂覚太郞と母時子の三男に生まれる。
 1858安政5年、内山為彦に入門、習字読書を学ぶ。
 1859安政6年、父や兄に吉田松陰賴三樹三郎橋本左内ら勤王志士の刑死を聞く。
 1863文久3年、松山家を再興し、御昇組に入り、7石3人扶持を受ける。11月、同藩の勤王の志士、*山田十郎の拷問に立会う。釣り拷問にかけられて苦悶しつつも節を曲げない姿に勤王倒幕の念を発す。
   *山田十郎: のち信道。後年、大阪・京都府知事、農商務大臣をつとめる。
 1868慶応2年、御穿鑿所雇物書(せんさくじょ・刑事裁判所の下役)となる。6月、長州征伐に参戦。
 1868慶応4年・明治元年、鳥羽伏見の戦争があったが、松山はいつも通りの役所勤め。この頃より水戸学にふれ会沢正志斎(伯民)、藤田東湖らの著書を愛読。
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 1869明治2年、国学者・斉藤求三郎に入門、尊皇攘夷の敬神党に加わる。翌年、辞職して同志の糾合に尽力、党勢の拡張につとめる。
 1873明治6年、敬神党を喜ばない両親に旅費をもらい、同志・清島竜九郎とともに上京。山田十郎の薦めで*芳野金陵に入門。
   *芳野金陵: 幕末・維新期の儒学者。

 1874明治7年、鹿児島私学校に入学する予定で帰郷したが、
*宮崎八郎らに*植木学校設立の協力を依頼され尽力する。
   *宮崎八郎: 八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵(滔天)の兄弟ともに、明治時代の社会運動家。
   *植木学校: 熊本県最初の中学校、植木中学校(通称、植木学校)。ルソー『民約論』、ギゾー『文明史』などを教育する学校であるとともに、県内外に演説に出向いたりする拠点、結社であった。公選民会設立運動もここをベースに展開した。
   
 1875明治8年4月、植木学校開校後、教師兼会計方を担当。この頃から、自由民権運動に参加する。
 1876明治9年3月、熊本裁判所十五等出仕となる。官吏の地位が低くまた民権家だからと同志に辞職するよう説得された。しかし、安岡県令の妥協工作とを受け入れ、また親孝行と結婚のためとして同志を捨てる。この年、蝶子と結婚。
  同年10月、*神風連(敬神党)の乱。有司専制によって欧化政策が進められていることに不満をつのらせ、廃刀令の公布を機に、神の信託を得たとして蜂起、熊本鎮台などを奇襲、放火。鎮圧後、松山は、かつての同志らの死体検視を行った。
 1877明治10年、大分県日田の裁判所に転勤、妻を伴い赴任。
   西南戦争。裁判所下級官吏としてはげしく去就に迷う。西郷支援隊参加を思い立つが西郷軍の敗戦を知り途中で引き返す。八郎は西郷に味方して戦死。松山の弟は政府軍の中尉として戦死する。

 1878明治11年3月熊本に帰ってみれば、兵火のため見渡す限りの荒野原で旧同志は戦死したり獄屋につながれている。感ずる所があり裁判所を辞任、代言人(弁護士)の試験を受けて合格、免許を得てその後の生業とする。
   西南戦争後、自由民権運動はあらたな展開を示し、愛国社が再興され、各地に民権結社がつくられた。熊本でも植木学校の生き残り池松豊記らと民権党の生き残りを集めて相愛社を結成。松本は副社長となって『東肥新報』創刊、急進民主主義を唱えて中央の自由党と呼応した。守善らは、相愛社憲法草案を起草、さらに九州改進党結成に協力して天下に名声をはせる。

 1881明治14年、佐々友房ら反民権政党の紫溟会実学党とともに相愛社も誘われる。紫溟会の佐々は、各派の政論を調和し一致して天下にたとうと勧誘してきたのである。これに対し、実学党はいったん入るが、相愛社・松山守善は拒否する。

 ――― 松山守善はいう。「凡そ天地の間には自由より貴重なるものなく、己の身より大切なるものはなし。故に己の自由民権を妨害する者は皆仇なり」と。紫溟会の木村はそれに対し「然らば今ここに己の父が無理なることをいうて、己を殴打せんとするときは如何」と問う。
 松山は、「逃れて避けんのみ」と即座に答える。
 木村は、「逃るべき途(みち)なく、逃れざれば一命を失うの時に至らば如何」とたたみかける。
 松山は、「一命には代え難し、父を殺しても一命を全くせん」と苦しい返答。
 木村だけでなく居合わせた紫溟会のものがこぞって、「然らば君に対しては如何」といって、固唾を呑んで返答を待つが、松山は、「父且然り、況んや、君をや」と、あっさり答える。
 この「自由」をめぐる論争、両者の天皇観の相違をきわめてはっきりと示し・・・・・・続いて「国体」と「政体」をめぐる論争を経て、両者の国家構想の相違が浮き彫りになった(『日本人の自伝』)。

 1883明治16年、長崎に数ヶ月滞在中、二人の娘と情を通じ妊娠させた。松山は自伝の一節“弱き者よ汝の名は男”と題して隠さず書いている。いわゆる剛毅で堅固な明治人像と一味違うよう。
 1884明治17年6月、妻蝶子死去。12月、堀亀子と結婚。

 1887明治20年、政況視察のため数人で上京。徳富猪一郎(蘇峰)の紹介で、勝海舟・大隈重信・後藤象二郎ほかと面会、「益する所」あったと自伝に記す。
 1889明治22年5月、熊本市参事会員当選。松山は幾度も選挙にでたが多くは失敗。
 1890明治23年7月、第一回衆議院議員選挙。天草郡の中西新作にかわり出馬し反対党候補に11~12票差で当選。しかし、不正投票があったとして告訴され、予審中、応援してくれた村長らが収監され、また敗訴となり8月、失格。

 1908明治41年8月、千反町パプテスト教会にてキリスト教の洗礼を受ける。
 1913大正2年、妻亀子死去。亀子の姪、広田薩子と結婚。
 1917大正6年、政界に復帰、熊本市会議員に当選。
 1920大正9年、弁護士を廃業。
 1931昭和6年、生活のため弁護士業を再開するも顧客は少なかった。
 1933昭和8年、『松山守善伝』(私家版)刊行。「日本人の自伝」に収められており参照した。
 1945昭和20年終戦目前の7月22日、96歳で死去。
   

 ――― 「政友会熊本支部相談役・前代議士」 高潔清廉の語は、君の資性風格を彷彿せしむるに足る感じがする。実をいえば、あまりに清廉なる人格美の輝きは、恰も、煌々たる天心の玉兎を仰ぐが如く、ために群衆の窺知を許さぬ高く清き境涯の人物に見え、とかく水清うして人棲まず、予言者郷党に容れられざる憾みを結果した例に乏しくないようである。・・・・・・ 君は今、新堀町の閑居に、キリストの教えを奉じて、感謝の生活を送る傍ら、読書三昧の境に耽り、悠々自適し、おもむろに晩年の身世を楽しんでいるものの如くである。しかし、その志は、常に国家社会の上に存して居る(『人物熊本』)。 

   参考: 『日本人の自伝 2』1982平凡社 /『熊本県の歴史』松本寿三郎ほか1999山川出版社/ 『人物熊本』真栄里正助1923新九州社

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2016年11月 5日 (土)

旧国技館・東京駅設計の辰野葛西事務所、葛西万司(岩手県)

 けやきのブログ2009年にはじめ記事数400余り。東日本大震災からこっちは、福島・宮城・岩手に熊本の明治前後の先人をとりあげている。せめて応援の気持ちでと書いていたが、気がつけば登場する人物に自分が励まされ、学ぶ事も多い。情けは人の為ならず、いろいろな人物に出会える愉しみを得た。
 こんな人がいたのか!驚かされることがよくある。実績がありながら知られざる人物は多い。有名無名、境は何なんだろう。建築家・葛西万司ももっと知られていいのではと思う。

        葛西 万司  (かさい まんし)Photo_4

 1863文久3年7月23日、岩手県西磐井郡平泉村(現平泉町)の盛岡藩家老の鴨沢舎の二男に生まれる。
 1889明治22年、のぞまれて*葛西重雄の養子となる。
    *葛西重雄:万司を養子にした頃は古河鉱業勤務、のち鉱業所長をへて大正期、原敬の斡旋により旧岩手銀行頭取となる。

 1890明治23年、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業。日本の建築学の始祖といわれる辰野金吾の教えを受けた。同期に建築家・横河民輔がいる。
  恩師・辰野の勧めで留学、欧米各地のおもむいて建築講学を研究。鉄骨コンクリート造りという成果を得て帰国。
            写真は、“岩手の生活文化”より http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/jyutaku/data/meikou2.html

 1903明治36年、日本銀行大阪支店、辰野金吾・葛西万司・長野宇平治により設計。
        
同年8月恩師辰野と建築事務所・辰野葛西事務所を開設。
 1906明治39年、辰野葛西事務所で東京駅の設計にとりかかる。巷間では辰野金吾の設計といわれている。東京駅は岩手県人と縁があり、東京駅の設置場所を決定したのは岩手県出身の鉄道院総裁・後藤新平。のち、東京駅頭で暗殺された平民宰相・原敬も岩手県出身。

    “東京駅丸の内駅舎”
 着工:1908明治41年、竣工:1914大正3年
 設計者:辰野金吾・葛西万司
  大正3年に開業した東京駅は、鉄骨レンガ造3階建。1923関東大震災ではほとんど被害を受けなかったが、1945昭和20年の空襲で左右のドームや屋根などは跡形もなく焼け落ちた。戦後の復興工事では3階を2階建に変更したが、2007平成19年から創建当時の姿に復元工事が進められ、しばらく前に完成(国立国会図書館月報2010年4月)。

 1907明治40年8月、辰野葛西事務所の設計監督で、旧国技館(のち日大講堂)起工。建て面積3,300㎡ 当時としては東洋第一の有蓋(大鉄傘)大観覧場であった。完成は2年後の42年6月2日。
   *国技館: 相撲常設館を国技館と名づけたのは、新聞記者・小説家の江見水蔭

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 1908明治41年、『家屋建築実例.一巻』出版(写真)。本書には、辰野葛西事務所で用いられた契約書式・規定・心得などともに、東京火災保険株式会社・第一銀行京都支店・帝国生命保険大阪支店など4件の建築の仕様書や予算書、図面などが掲載されている。その方面に興味のある人は、国会図書館“本の万華鏡”「日本近代建築の夜明け」を。http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/16/1.html 
 
 同年5月、辰野葛西事務所の設計で、盛岡銀行本店(現岩手銀行中ノ橋支店)着工。盛岡銀行としては、盛岡につながる縁で設計依頼したと思われ、辰野より葛西が実地に当たったもののようだ。国の重要文化財となっている。

 1913大正2年(4年とも)、工学博士の学位を得る。
 1916大正5年、岩手県*農工銀行本店(第一勧業銀行盛岡支店)完成。建物は昭和51年取り壊された。
   *農工銀行: 不動産を抵当に中小農民などへ資金援助を行うため1896明治29年制定の農工法に基づき各地に設立され、漸次、日本勧業銀行に合併されていった。第一勧業銀行の前身は日本勧業銀行、現在はみずほ銀行と、金融機関はいまなお変遷。

 1918大正7年、女子学習院を辰野葛西事務所で設計監督、翌3年から着工。関東大震災で屋根瓦が一枚も落ちなかったほど堅牢であったという。
 1919大正8年、辰野金吾没。単独で建築設計事務所「葛西建築事務所」を経営
 1925大正14年、養父が死去、旧岩手銀行取締役・盛岡信託銀行取締役に就任したが、1929昭和4年にいずれも辞任。

 1927昭和2年、盛岡*貯蓄銀行(現・盛岡信用金庫本店)設計。田中実と共同経営となり、葛西田中建築事務所と改称する。
   *貯蓄銀行: 零細貯蓄を扱う銀行。1880明治13年、東京貯蓄銀行が最初の専業貯蓄銀行として設立、以後、各地で開業された。
 1930昭和5年12月、盛岡信託株式会社(もと岩手労働金庫)完成。ほかに榊呉服店。
 1937昭和12年、 単独経営となり、葛西建築事務所と改称する
 1942昭和17年、死去。79歳。
   葛西は師の辰野に協力、ときには共に設計監督にあたったが、辰野の名があまりに大きく、しかも著名なので・・・・・・辰野金吾の名前の後に添うようにしか中央では知られていないという気の毒な点があることは否めない(『岩手の先人100人』山田勲)。

   参考:『岩手の先人100人』1992岩手日報社/ 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社/ウイキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/ /

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