« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年12月

2016年12月31日 (土)

リンゴ技術研究・安部勘六、萱場ナシ育ての親・安部紀右衛門 (福島県)

 2016平成28年は事件事故に加えて災害も多く、戦争にまきこまれやしないか不安がよぎりさえした。社会が便利になりスピードアップしたのはいいけど、ついて行けない者はどうしたら。自分もこっちは何とかついて行けても、そっちはダメとウロウロ。「ゆっくりでいいです」が通りにくいって、どうなんだろう。まあぼやいてばかりでも、明るいこと考えよう。例えば、おいしい果物。
 わが家のリンゴは夫の故郷の長野県産だが、ときに福島県産のリンゴも食べる。味は甲乙つけがたくどっちも美味しい。いつだったか、大熊町の果樹園でたわわに実った梨に見とれているとき、梨畑を吹きぬける微風が心地よかった。そう、福島県は果物が豊富。ここに至るまで気候風土と共に産地の努力、先人の努力があった。
 その甲斐あって今なお生産は盛んだが、東日本大震災原発事故で風評被害にあっている。せめて一つでも二つでも福島県産をと心がけているが、皆でそうですればもっとね。

                 ○○○  ○○○  ○○○  ○○○
 

      県りんご技術研究会、安部 勘六

 1872明治5年9月15日、「洋種の苹果を食ふ。大にして味極めて美味」(成島柳北・朝野新聞社長)。 「苹果(平果)は西洋名アップル、俗称オオリンゴニシテ、実大に且つ甜美なり(甘く美味しい)」(田中芳男・明治の植物学者、農政家)。
 同5年、開拓使官園で栽培する西洋果樹は、桜25種、林檎4種、梨53種、杏4種、李プラム14種、桃7種、葡萄30種、まるめろ1種etc

 1877明治10年【東洋新報】――― 明治六、七年ごろと覚ゆ。宇都宮市に植木屋幸吉という老人有り。毎年東北地方へ盆栽の行商を例とし・・・・・・ 福島県郡山にて山梨数俵を買い占め、内職にだして西洋林檎の台木を仕立てるため、果肉を剥ぎ種子をとらしめたという。東北地方の西洋リンゴ苗木は、この老人の供給多しと聞けり。

 1897明治30年、安部勘六生まれる。
   大正期の福島周辺および信達地方地方の農業経済は困窮の度を加え、遂に危機に瀕することを洞察した勘六は、この打開の方策は果樹、とくにリンゴ栽培によると確信。
 1921大正10年、早世種「祝」「旭」を8反歩栽植した。
 1922大正11年、2反歩を増植。私財を投じて中央から権威者をよび、新しい技術を導入し品種改良に努める。販売に関しては、熱意をもって体制の確立に奔走し、現在の「福島リンゴ」として先進地をしのぐ域に到達させた。
 1951昭和26年、瀬戸孝一とともに、県りんご技術研究会を作り会長になる。後輩の指導に当たると共に、自らは晴雨に拘わらずリンゴ園の手入れと研究に傾倒。農林大臣賞、知事賞など数多くの栄誉に浴した。
 1957昭和32年、リンゴ栽培者として福島県で初めて黄綬褒章を授与された。
 1966昭和41年死去。69歳。
       参考: 若月洋二郎『福島県民百科』1980福島民友社

                ○○○  ○○○  ○○○  ○○○
 

      萱場ナシ育ての親安部 紀右衛門

 1882明治15年、安部紀右衛門うまれる。
   安部紀の名で、近郷近在はもとより県外にも素封家として知られる。
  ?年  安積中学を卒業後、安田銀行宇都宮支店に勤務。
    信夫郡(福島市西部を占める旧郡)の笹木野原一帯の窮乏状態を座視し得ず、鴨原佐蔵らが栽培するナシに注目。京都大学、北海道大学などから、菊地、島教授らを招き、ナシ栽培に関する講習会・研修会をたいびたび開いた。自らも30種に及ぶ新種を開発した。また、千葉県からナシ栽培招いて指導にあたった。

     萱場ナシの始まり、鴫原作蔵

  <かやば梨(福島の梨)> http://senkaen.web.fc2.com/kayabanasi.html

 1886明治19年、鴫原作蔵さんが萱場地区(福島市笹木野原)に埼玉県の苗木商から「早生赤」苗木50本を取り寄せて栽培したのが萱場ナシの始まり。福島県の吾妻山麓に広がる屈指の梨の名産地「萱場」は排水の良い土壌と盆地特有な高温多湿な気候に加え、昼夜の温度差が非常に大きいなど梨の栽培に最適地で、全国まれにみる肉質がやわらかく繊細で、核の部分が小さい特徴を持つ萱場梨の伝統の味が自慢。梨畑は数百ヘクタール広大な面積で、一ヶ所でまとまった面積では日本一を誇る。

 1907明治40年代には、原野を困窮農家に提供してナシ栽培をすすめた。
 1910明治43年、笹木野原梨組合を結成。

    <笹木野梨園御使差遣>

 信夫郡野田村笹木野の梨園は反別130余町歩、樹数凡そ41,000本にしてその産額は206,000 貫、価額40,300余円の多きに達し、味また殊に美なるを以て奥羽にありては青森の苹園(りんご園)と並称さらるる旨、御聡聞に達しければ有馬侍従をお使いとして差遣はる・・・・・・侍従は鴨原佐蔵方及び信梨社にて、村長及び栽培者を集めいと年ごろに・・・・・・
             (『皇太子殿下行啓紀念帖』1910福島県内務部)

 1922大正11年、丸共梨園組合を合併
 1923大正12年、笹木野原梨園共同販売組合、笹木野原梨振興会へと発展。
 1929昭和4年、有限責任組合とする
 1935昭和10年、保証責任の法人組合となり、共同出荷、共選を行うようになった。
 1942昭和17年、戦時下のため解散。
 1957昭和33年5月、黄綬褒章を授与された。
  ?年  野田村村会議員
 1966昭和41年、死去。78歳
     自らナシを栽培し、技術の開発と経営合理化に尽くした功績は大きい。 
                参考: 竹花孝司『福島県民百科』1980福島民友  

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2016年12月24日 (土)

読んで楽しめる地名辞書、吉田東伍(新潟県)

 毎日新聞2016.12.23第一面、天皇陛下83歳誕生日の記事。退位の意向を「多くの人々が耳を傾け、各々の立場で親身に考えてくれていることに、深く感謝しています」。
 天皇誕生日祭日の同じ紙面
<新潟・糸魚川で大火災。市街地140棟延焼、363世帯に避難勧告>
 年の瀬に怖ろしい大火災に見舞われた糸魚川市、困難はいかばかりか。早く助けが届きますように。
 たまたま吉田東伍を題材にしようと新潟県地図を開いていたから、糸魚川市をみると、県西で富山県寄り。吉田の出身は北蒲原郡出身で山形と背中合わせの北寄り。同じ新潟県でも両地はかなり離れている。吉田東伍編纂『大日本地名辞書』によると、糸魚川には旧高田(越後家)の支城があったが壊された。その後、松平直之が陣屋を置き一万石の清岡藩として明治維新を迎えたとある。
 201612.24 糸魚川の大火30時間ぶり鎮火。一夜明けた現場の焼け跡写真に言葉がない。
        **********

       吉田東伍 (よしだ とうご)

 1864元治元年4月14日、新潟県北蒲原郡安田村保田(安田)、旗野木七の三男。
   父は号を古樹といい、書をよくし和歌に秀でていた。明治初年には戸長をつとめた。母園子の生家は中蒲原郡五泉町の和泉氏で代々の歌よみであった。
 1874明治7年5月、家を離れ新潟英語学校にはいる。
   英語学校は政府が全国七、八カ所に設けたいわば大学予備門で外国人教師もおり、地方の有識階級の子弟が入学した。
 1876明治10年、英語学校は政府の財政逼迫のため閉鎖、新潟県中学部と変わる。吉田は中学部にあがったが年末、退校して郷里に帰る。それより独学、家の古記録・古文書を読んだり、兄や叔父が出席する詩会に出席して作詩をするなどした。
 1881明治14年、「安田志料」を起稿し摘要を新潟県に進呈。
   以後、1887明治20年まで父兄が関係する戸長役場、郵便局の事務を手伝いながら自修し、大いに力をつけた。

 1883明治16年4月、第二種小学校教員免許に合格、大鹿村小学校教員となる。
 1884明治17年4月、教員をやめて新潟学校師範部に入り、中等部に転じるも間もなく退校。年末、大鹿吉田家の養嗣子となり、その長女かつみと結婚。

 1885明治18年5月、志願兵として仙台兵営(歩兵第4連隊第1大隊第2中隊)に入営。
   仙台は吉田の歴史地理への興味をそそり、師範学校附属の図書館では新古の本が閲覧できた。兵隊としての成績もよく9ヶ月で下士適任証を受け、翌年1月休暇を得た。
 1887明治20年4月、高等小学校教員の検定試験を受け、5月、北蒲原郡水原小学校の教員となる。在任中、読書研究をし、暇があれば生徒を連れて古墳貝塚を訪れたりした。
 小学校の教師をしながら雑誌に、史論を発表していたが、学歴が乏しいため将来の方針が定まらず1889明治22年7月、辞職。

 1890明治23年、北海道にわたる。衣食のためとある官署につとめ林野を巡視していた。学問と執筆は怠らなかったが、生活は意に満たなかったらしく翌年11月帰郷。
 1891明治24年7月、東京帝国大学史学界に入会。雑誌『史論』に寄稿した田口鼎軒批判が中央の学会で評判となり上京を決意。年末に上京して、姻戚のジャーナリスト市島春城(謙吉)宅に寄寓する。

 1892明治25年10月頃から読売新聞に記事をかくかたわら、早稲田専門学校の図書館に勤めたが間もなく辞める。
 1893明治26年12月、『日韓古史談』(冨山房)を上梓するが、アカデミズムから相手にされなかった。

 1894明治27年、日清戦争の従軍記者として広島に赴く。翌28年1月19日、艦隊従軍を許され、大連着。23日、栄城湾に至り軍艦橋立にのり威海衛攻撃軍に参加。3月中旬、南征軍に加わり澎湖島占領戦を見、読売新聞に従軍記事を送る。吉田の従軍の目的は、歴史地理を実地に研究するためであった。帰国後、地名辞書の大編纂を計画、大体の案ができたところで市島に相談。吉田は収入がなかったので、市島は資金を工面し写字する学生を集めてくれたが、これらは長くは続かなかった。
 テーマとしては申し分ないが、学歴も十分でないうえに、必要な文献の三分の一は地理局や内閣文庫、東京大学図書館などの所蔵で、在野の人間には容易に閲覧が許されそうになかった。そこで、東伍は冨山房に相談を持ちかけたところ、意外にも社長の*坂本嘉治馬が快諾してくれた。坂本は東伍の人物を見ぬいて社運を賭すことにしたのだ。
 *坂本嘉治馬: 『大言海』『大日本国語辞典』を出版した近代有数の出版人。

 1895明治28年、「大日本地名辞」起稿。原稿は思うようにすすまなかったが、もっとも困難なのは参考文献の閲覧で、蔵書家は警戒してなかなか見せてくれなかった。写字生が同行するのさえ嫌うので一人で出かけ、その場で諳記した。記憶力は抜群で、本の内容をすべて頭に入れ、一週間はなにも参照せずに執筆することができたという。
 執筆期間は前後13年にも及び、経済面の困窮も大きかった。身体はやせ、一時は結核の気味もあった。
 1899明治32年3月、地名辞書第一巻がでた。以来、毎年一冊づつ出版。
   我邦空前の大著『大日本地名辞書』は「第一冊の上」から始まって、「第五冊の下」まで「各節」10冊、これに「汎論・索引」を加えて、初版全11冊、総計5180頁。全国地名(郡・郷・神社・寺・川・山・城址・峠など)約4万1千に及び、字数にして約1200万、1907明治40年まで13年を費やして完成。
   『大日本地名辞書』は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。http://kindai.ndl.go.jp/  

 現在、資料探しの手立てはいろいろあり、学生でなくても多くの大学図書館を利用することができるし、インターネットもある。筆写した方が頭に入るが、簡単にコピーもできる。それにひきかえ、明治期の吉田東伍の史資料蒐集の困難と苦心は並大抵ではない。そんなにも厳しい環境で研究著述をしたことに驚き感心するばかり。吉田東伍の名は聞いていたが、あらためて凄い人だと感じ入った。

 1891明治34年5月、早稲田専門学校講師となる。雑誌などに論文を発表。
 1904明治37年11月、「利根本支変遷稿」を雑誌「歴史地理」に掲載、翌年9月完成。
 1907明治40年10月、『大日本地名辞書』最終の『汎論・索引』が完成。上野精養軒で完成披露の宴を開いた。
 1908明治41年、「倒叙日本史」の編纂にとりかかる。夏ごろ、高田早苗、市島春城とともに越後の各地で講演。また、東京帝大、地学協会などでも講演した。
 1909明治42年7月、46歳。『大日本地名辞書』編纂の功で文学博士の学位を授けられ、中学しか出ていない研究者としては異例として注目をあびた。
  歴史地理学の講演は人物の毀誉褒貶にもわたるから、その子孫の感情を畫愛することがあったが、吉田は大胆にも直言、学説を主張した。
 1913大正2年5月、『倒叙日本史』を出版。これは『大日本地名辞書』につぐ大著。
 1918大正7年1月、利根川の研究のため本銚子に赴き、急性尿毒症で倒れ、22日、死去。享年55歳。翌年7月本銚子の海静寺に終焉碑が建てられる。

    参考: 『故文学博士吉田東伍先生略伝』附・下利根及銚子付近の地理1918高橋源一郎/ 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『民間学事典・人名編』1997三省堂 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2016年12月17日 (土)

農芸化学・納豆菌・農業博士、沢村真(熊本県)

 週の半ばになると次は誰にしようか考える。たまたま読んでいた文学史に、明治という新しい時代を迎え洋語の発達、とくに英語の流行をもたらしたが、一方で伝統的漢詩の勢力は依然として盛んだったとでていた。さらに、当代の漢詩人をあげ、漢詩雑誌の発行は地方にも及びなどと具体例をあげるなかで、「つとに推奨せられたる熊本の三才子、井上毅(梧陰)・竹添進一郎(井々)・岡松辰(甕谷)」が目に入った。明治の熊本は漢学にもすぐれた人物を輩出していたのだ。さっそく、三才子にあたろう。
 まずは、竹添進一郎をみてみた。ドナルド・キーンさんが奨めていたような覚えがある『桟雲峡雨日記』を図書館で閲覧。ところが本を手に呆然、難しくて読めない。そのうえ竹添の経歴も簡単ではなく、筆者の手にあまる。こんなときは回れ右。
 近年、連続して日本人学者がノーベル賞を授賞している。理科方面で探そう、肥後熊本にもいるでしょう。竹添より24歳下の農学者、沢村真がいました。そして、この学者に出会ってよかった。おなじみの納豆がいっそうおいしい。

        沢村 真 (さわむら まこと)

 1865慶応元年6月10日、肥後国飽託(ほうたく)郡花園村(熊本市)に生まれる。
 1887明治20年7月、東京農林学校卒業
     東京農林学校: 1886明治19年7月、駒場農学校及び東京山林学校を廃し、東京農林学校を置く。農商務大臣の管理に属し、農業・獣医・および森林に関する学術を学ぶ。4年後、東京帝国大学の分科大学となる。
 1893明治26年、高知県農学校校長
 1897明治30年、石川県農学校校長
 1902明治35年3月、東京帝国大学農科大学助教授
    ☆ 家畜飼料とその消化を研究し、腸液の消化酵素に関する研究
 1903明治36年7月、農学博士号を授与される。ちなみに論文は英文。

 1906明治39年、大豆に繁殖して納豆にする「納豆菌」を抽出し純粋培養に成功。
Bacillus natto Sawamura】バチルス・ナットー・サワムラと名付けられる。

 ――― [納豆]大豆の製品に納豆あり。納豆に二種ありて一を糸引納豆といい、一を浜納豆といふ・・・・・・糸引納豆をつくるには大豆を蒸熟て未だ冷却せざる中に藁苞に入れて、火を入れて暖めたる窖に入れておけば十数時にして粘質の衣を豆の表面に生ずれば之を取りだして販売す。納豆の生ずるは、藁に付着したる一種の桿状菌が繁殖する為にして・・・・・・藁には種々の細菌存在すれども納豆菌すなわち著者(沢村)のバチルス・ナットーBacillus nattoと命名せし細菌がもっとも能く繁殖するを以て、此者他の細菌を圧倒して独り繁殖して納豆を作る(『食物化学』沢村真1917成美堂書店)。

 1910明治43年5月~44年6月、ヨーロッパに私費留学

 1911明治44年11月、教授となり、東京帝国大学農芸化学第三講座を担任
  ――― 東京朝日新聞記事「我が農学界の大恩人 キンチ教授逝く」(1920大正9年8月13日)。次は、明治政府に招かれて来日、日本の農芸化学に尽くしたキンチ教授を惜しむ沢村のコメント。

  ――― エドワード・キンチ教授は我が駒場農学部駒場農学校と呼んだ時代(1876年)に、農芸化学の教授として招聘され1881(明治14)年まで長い間、たくさんの人々を薫陶した。農芸化学科が独立したのも全く教授の主張によるもので・・・・・・私達はずっと後輩で・・・・・・我が国の博士号を授与し我が農学界に永久に記念せねばならぬ人である」。

 1913大正2年、☆ 健康体における消化酵素の効果を研究・『家畜飼養学』を著す。
 1915大正4年、☆ 健康動物の消化力に対するジアスターゼの働きを研究。
 1916大正5年、☆ 酒精(アルコール)の草食獣の消化に及ぼす影響・アミドの消化吸収に関する研究。
    『食物』(家事文庫・第一編)附録<石川県農学校寄宿舎献立表>を見ると、当時のメニューが知れる。
Photo
 1922大正11年、文部省主催実業補習教育講演を新潟県・秋田県などで行う。
 1926大正15年3月、定年退官。
 昭和6年1月4日、死去。67歳。
   沢村は多方面から解き明かし、時には、狂歌も引き合いにし、難しい事を判りやすく教えてくれている。生意気いうと、これってすごい事だと思う。

   三度たく米さえ こはし やはらかし 思ふままにはならぬ 世の中
                                                      (池鯉鮒)
日に三度炊(かし)ぐ米でも強(こわ)い飯も出来るし軟らかい飯も出来るし、なかなか世の中のこととは思うままにならない。昔は電気釜などないから、なるほど。ところで炊飯はおいて、世の中が思うようにならないのは昔も今も変わりない気がする。
 
   参考:『飲食物の話・科学世界』沢村真1920中文館書店/ 「駒場農学校英人化学教師エドワード・キンチ」熊沢恵里子2011東京大学 /『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2016年12月10日 (土)

幻の東京オリンピック・国際連盟事務局長、杉村陽太郎(岩手県)

 近ごろ、2020年東京オリンピック開催に向けての議論がかまびすしい。まだ4年あると思うのは筆者のような素人考え、実は期限が迫っているようだ。騒ぎを報道で見て、改めてオリンピックは困難な事業だと教えられた。
 かつて、1940年東京が開催都市に選ばれながら日中戦争により中止となったことがあった。どう受け止められたのだろう。開催にむけて力を尽くした人物の心中は、いかに。その人の名は杉村陽太郎、大正・昭和期の外交官である。父杉村濬(ふかし)もまた外交官であった。なお、祖父・秀三、父・濬ともに剣客として知られる。

        杉村 濬(ふかし)

 1848嘉永1年、南部藩士の家に生まれる。
     江戸の*島田重礼の門に入り塾頭となる。
        *島田重礼: 島田篁村。安積艮斎に学び、昌平黌助教となる。諸藩の招聘にも応じず、江戸で私塾を開き子弟を教育。維新後、高等師範、女子師範、学習院で教職についた。子の島田翰も漢学者。

 1874明治7年、征台の役に参加。
 1875明治8年、官を辞し、「横浜毎日新聞」の論説記者となる。
 1880明治13年、外務省御用掛。
 1882明治15年、外務省書記生として朝鮮ソウルに赴任。ソウルで壬午事変(兵士と貧民の暴動事件)が発生。危うく難を逃れる。
 1884明治17年9月28日、長男陽太郎生まれる。

 1895明治28年、閔妃殺害事件(乙未事変)に関連して逮捕され、翌年免訴。ついで台湾総督府事務官。
    濬は豪胆な性格で事件の際、混乱する朝鮮王宮に自ら出向き、衛兵が突きつける銃剣を払いのけ、三浦梧楼・駐韓公使に代わって一切の解決処理にあたった。 のち1932昭和7年、濬の『明治二十七八年在韓苦心録』を陽太郎発行。

 1900明治33年、外務省通商局長として、海外移民計画を立案。
 1904明治37年、南米移民事業のためすすんでブラジル公使となったが、惜しくも任地で病没。享年58。

        杉村 陽太郎

 1884明治17年9月28日、岩手県盛岡で出生。
 1901明治34年、高等師範学校附属中学卒業。
 1905明治38年、旧制一高(第一高等学校)時代。 毎日新聞社主催・大阪湾10マイル遠泳に参加、浜寺から神戸付近まで2時間48分で優勝、日本スポーツ紙を飾った。杉村は、学生時代からスポーツマンで、柔道高段者、水泳の達人、陸上競技と万能選手として知られる。身長185センチ、体重100キロをこす巨漢であった。

 1908明治41年、東京帝国大学政治学科を卒業。満鉄理事・木村鋭市らと同期。父と同じ外交官の道を歩み、外務省に入る。
 1910明治43年、フランス・リヨン大学で学び、日本人として3人目の博士号を取得。
    当時、英仏海峡を泳ぎ抜く者があるかどうかということが、欧州で騒がれた際、陽太郎は自信をもって日本男児の意気を示すはこのときとばかり、敢然申し込もうとしたが、加藤高明駐英大使や周辺から叱られ、断念した。

 1919大正8年、本省条約局第2課長。翌9年、財務参事官。
 1920大正9年、『国際連盟概説』(杉村陽太郎著・国際連盟協会)刊行。

 1921大正10年11月、ワシントン会議に出席。日米英など9カ国が参加し、海軍軍縮、中国・太平洋問題を協議(~1922年)。
   この会議では日本のそれまでの強硬姿勢を、各国との強調を保つ新しい外交政策に転じた。しかし、やがて破局の道をたどることに。
   この年、『軍縮縮少問題研究資料』を出版。内容は、ハーグ平和会議・軍国主義打破・海洋の自由・パリ平和会議。

 1923大正12年、駐フランス大使館一等書記官。ついで参事官に就任。国際法に通じ(宣戦布告に関する研究)法学博士の学位を授けられる。フランスでは柔道普及に協力した。

 1927昭和2年1月19日<官報・彙報>  ◎聘用 特命全権公使杉村陽太郎ハ許可ヲ得テ本月15日在官の儘 常設国際連盟事務局事務次長兼政務部長トシテ同局ニ聘用セラレタり。   (聘用:礼を尽くして人を取り立て用いる)

 以後、日本の国際連盟脱退まで事務局長兼政治部長を6年間つとめる。活動ぶりは、イギリス人事務総長ドラモンド伯の信任を厚くし各国人の部下もまた彼に心服した。
 「いろいろの国際的事件に、あのでかい図体をエッチラオッチラと運びながらも、キビキビとした斡旋奔走ぶりに、彼を徳とする連盟加盟国数は少なからぬものがある」
 欧米外交官連に「真にもののあわれを知る日本人」といわれ、少数民族問題を“四海同胞”の念で対処。また、満州事変後の対日不信感に対する了解工作、とくにイタリアの好意をとりつけた。
 第一次大戦後の欧州政局と縁遠い立場だったので、政務部長になったが、仕事はやりずらかったようだが、忍耐強く対処した。また、花子夫人も社交場に出入りし、苦境に立つ夫を助けた。

 1928昭和3年、軍縮準備委員会・安全保障委員会事務局総長に就任。第一次大戦後の国際協調外交の第一線で活躍。
 1930昭和5年、刊行『連盟十年・世界平和を築く人々』(杉村陽太郎・国際連盟協会)
 1931昭和6年9月18日夜、柳条湖事件おきる。
 1933昭和8年、柳条溝をめぐる連盟討議では、日本は当事国で公然たる活動ができなかった。舞台裏工作もしたが失敗、松岡洋右全権の連盟脱退宣言となる。
   任期満了で、スイス公使。国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、東京五輪招致に尽力。

 1934昭和9年、イタリア駐箚特命全権大使。
 1935昭和10年12月15日、スエーデンのオリンピック委員会に出席。 1940年に開催される第12回オリンピック大会を東京に持ってこようと、ありとあらゆる機会に奮闘。この大会が、東京になるか、フィンランド、またはフィンスキーとなるか。杉村は、この問題を決定すべく日本の運動界を代表して出席、一大論戦を展開し東京開催を好条件なものにした。
 1936昭和11年7月、IOC委員を辞任。

 1937昭和12年4月、フランス駐箚特命全権大使。夏、赴任する。
 1938昭和13年1月、胃癌となり帰国。
 1939昭和14年3月24日、正三位勲一等杉村陽太郎薨去(官報第3677号)。
    56歳、現職のまま死去。日本の外交に貢献したこと多大であるとして、外務省葬がとりおこなわれた。   墓所は東京千駄ヶ谷の菩提寺・瑞円寺、父と相並ぶ。それにしても、父子共に50歳代で没すとは。

 参考:  『非常時日本の外交陣』吉岡儀一郎1936東亜書房 / 『明日を待つ彼』国民新聞政治部1917千倉書房/ 『興亜の礎石1944大政翼賛会岩手県支部/ 『岩手の先人100人』杉村陽太郎(遠山崇)/ 杉村陽太郎wikipedia / 著述は国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/  で読める。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2016年12月 3日 (土)

母は新聞社主・娘は女優、小野あき・東花枝(宮城県)

 はやいものでもう師走。先だっての雪には驚かされたが、都内のあちこちではイチョウやケヤキの黄葉がみられる。東北のイチョウやケヤキはもうすっかり葉を落としてそう。所変われば品変わる、木々の状態も違いそう、まして人間は。時代によって女性の生き方も違う。30年前の『宮城縣史』の女性銘銘伝でよく判る。その女性銘銘伝1ページ目は次の3人。

  <相沢のゑ> 父亡き後12歳で小学校を中退、継父がきたが彼も亡くなり、弱った母を助け、4人の義理弟妹を育てるため行商をし30有余年、嫁がず一家の生計をたてた。人々はのゑの献身をほめたたえ官もこれを表彰した。
  <相原八重> 登米邑主の侍医の女八重は、生まれて間のなく母を亡くし、おまけに病で片目を失い、継母にひどい仕打ちを受ける。父はこれを無視。やっと結婚したが、実家にひどい仕打ちを受け、ついにわが子を殺し自分を刺して死んだ。31歳。
  <青木いち> 1636寛永13年、藩主政宗公が死するや、いちの夫仲五郎は目付使番を勤めており、小姓時代から寵を得ていたので当時の習わしとして、自邸で殉死。時に33歳。妻いちは夫への思慕に堪えず泣き暮らしていたが、死後七日、自らくびれて夫の後を追った。19歳。

 県史の銘々伝となれば活躍した女性ばかり。そう思い込んでいたから酷な生涯を送った女性ばかりに「なんとまあ」。編集者の考えは何、と思いつつページをくると、活力あふれる女史、女丈夫がつぎつぎ登場。五十音並びでたまたまの順番なのだ。
 思えば、華々しく活躍して世間にもてはやされる女性と同じ位、苦労を重ね報われない女性も少なくない。それに、誰しも程度の差こそあれ善し悪しがある。編集者はそこを呑み込んで広く採りあげたのでしょう。せっかくだから、順に紹介したい。でも、そうもできないから今回は、話題に事欠かない母と娘とその家族を抜き出してみた。

       小野平一郎 & 小野あき

 1852嘉永5年、徳川幕府、溜詰諸侯にアメリカ使節来日予定の報を伝達する。
   同年、仙台藩水沢邑主留守氏大番士、小野家に平一郎生まれる。養賢堂で学ぶ。
 1864元治1年、平一郎の妻、あき生まれる。
 1866慶応2年、坂本龍馬の斡旋により、薩長同盟成立する。
 1871明治4年、廃藩置県。

 1873明治6年、あき、宮城県師範学校女子部第一回卒業生として社会にで、仙台の幼稚園の先生となる。
 1880明治13年、平一郎は20歳頃から地方政治に奔走、仙台区会議員となる。
 1882明治15年、平一郎とあき結婚。娘、喜代子生まれる。
   あきの政治家の妻としての苦労は容易なものではなかったが、よくつとめた。それは内助の功ばかりではない。政談演説会に、女子は出入りすることが絶対に禁じられていたが、演説会の始まる前に傍聴席に入り、一席政談をやったこともあるという。
 1884明治17年、平一郎、宮城県会議員となる。
   ある年の県議会議員選挙で「小野平一郎の奥さん」と書かれた投票が二枚もあり、女として二票の得票を得たことは珍しい出来事として伝えられている。
 1895明治28年、平一郎、仙台市会議員
 1899明治32年、平一郎、再び県会議員。

  ?年、娘の喜代子は、仙台で「東北新聞」記者となり、ついで東京「中央新聞」の記者となり婦人記者の草分けとなった。
    〔明治の仙台、新聞のはじめと発行人(宮城県)〕
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/01/post-1f73.html

  1905明治38年、日露戦争の凱旋祝賀会が東京の芝公園紅葉館で開かれたとき、東郷大将が「君は新橋か烏森か」と酒の酌を命じたところ、喜代子は憤然として「無冠の宰相新聞記者である」と告げたので、将軍は無礼を謝したという。
    〔ルビ付記者の活躍、磯村春子(福島県相馬)〕
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/12/post-84b7.html

 1911明治44年、平一郎、県議会議長となり、以後長くつとめる。
     この年6月、東京の有楽座東京俳優学校の第一回卒業生らの公演が催された。そのメンバーは、岩田裕吉・諸口十九・田中栄三・東花枝らであった。東花枝は小野夫妻の娘の喜代子である。

     小野喜代子 東 花枝)

 喜代子は長谷柳絮学校から宮城女学校に学び、さらに東京の三輪田女学校を卒業。さらに日本女子大に入学したが、中退して、有楽座の女優養成所の募集に応じた。

 当時、演劇の革新運動が盛んで、帝劇の森律子村田嘉久子などの古典劇に対して、島村抱月、松井須磨子などの芸術座坪内逍遙の文芸協会、小山内薫の自由劇場と日本劇団の革新をはかる、いろいろの運動が行われていた。
 花枝は有楽座において、ハウプトマンの「僧坊夢」、イプセンの「幽霊」、ビヨルソンの「手袋」などを演じている。
 その後、沢田正二郎と共に興行し、「人形の家」や「女優ナナ」のノラに扮して、松井須磨子と競演している。
 しかし、東京における演劇活動に飽き足らなかった花枝は、弟子2、3人を伴ってハワイに行き、サンフランシスコに渡って1年ほど滞在したが、ここで第二の夫、名古屋氏(山梨県人)と結婚した。
 なお、引用の銘銘伝には最初の結婚の記述がなく、第二の結婚の詳細も分からない。また、当時の、花枝インタビュー記事がある。ところが読むと、記者の偏見なのか、目立つ女性への反感か判らないが、芳しくないので割愛。 どうも晩年はさびしい様子。そのせいかどうか、母は健在でなお活躍中にもかかわらず、喜代子の多彩な生涯は45歳で終わる。

 1915大正4年、夫平一郎は社長、妻あきは社主となって日刊紙『東華新聞』を創刊。あきは、太平洋戦争で廃刊するまで続けた。女で新聞社主となったのは、札幌新聞と東華新聞だけではないかという。
 また、あきは名目ばかりでなく、社内で一番熱心に働き、朝から夜まで社内を廻って編集・印刷・事務の仕事から配達と一切の仕事の中心であった。
 1921大正10年、小野平一郎死去。69歳。
   宮城士族興行会総理・仙台市農会長・仙台市養蚕組合長などにつき地方産業界に貢献した。

 1926大正15年12月13日、小野喜代子死去。45歳。
    あきは、5年前に夫を見送り、今また娘を見送ることになり何を思っただろう。でもまあ、それはそれとして、いつも活動的なあきは、新しい時代に遅れをとらぬ意気込みで働き続けた。

 1940昭和15年、「東華新聞」廃刊。あき77歳。この年、飛行機で満州旅行にでかけた。
 1958昭和33年、小野あき死去。95歳。
     あきが一世紀に及ぼうする生涯を終えたこの年11月27日、宮内庁長官より、皇室会議での皇太子昭仁親王と正田美智子の婚約決定の発表があった。

   参考: 『宮城縣史 29』人名編1986 宮城縣編著/ 『新版日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »