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2016年12月24日 (土)

読んで楽しめる地名辞書、吉田東伍(新潟県)

 毎日新聞2016.12.23第一面、天皇陛下83歳誕生日の記事。退位の意向を「多くの人々が耳を傾け、各々の立場で親身に考えてくれていることに、深く感謝しています」。
 天皇誕生日祭日の同じ紙面
<新潟・糸魚川で大火災。市街地140棟延焼、363世帯に避難勧告>
 年の瀬に怖ろしい大火災に見舞われた糸魚川市、困難はいかばかりか。早く助けが届きますように。
 たまたま吉田東伍を題材にしようと新潟県地図を開いていたから、糸魚川市をみると、県西で富山県寄り。吉田の出身は北蒲原郡出身で山形と背中合わせの北寄り。同じ新潟県でも両地はかなり離れている。吉田東伍編纂『大日本地名辞書』によると、糸魚川には旧高田(越後家)の支城があったが壊された。その後、松平直之が陣屋を置き一万石の清岡藩として明治維新を迎えたとある。
 201612.24 糸魚川の大火30時間ぶり鎮火。一夜明けた現場の焼け跡写真に言葉がない。
        **********

       吉田東伍 (よしだ とうご)

 1864元治元年4月14日、新潟県北蒲原郡安田村保田(安田)、旗野木七の三男。
   父は号を古樹といい、書をよくし和歌に秀でていた。明治初年には戸長をつとめた。母園子の生家は中蒲原郡五泉町の和泉氏で代々の歌よみであった。
 1874明治7年5月、家を離れ新潟英語学校にはいる。
   英語学校は政府が全国七、八カ所に設けたいわば大学予備門で外国人教師もおり、地方の有識階級の子弟が入学した。
 1876明治10年、英語学校は政府の財政逼迫のため閉鎖、新潟県中学部と変わる。吉田は中学部にあがったが年末、退校して郷里に帰る。それより独学、家の古記録・古文書を読んだり、兄や叔父が出席する詩会に出席して作詩をするなどした。
 1881明治14年、「安田志料」を起稿し摘要を新潟県に進呈。
   以後、1887明治20年まで父兄が関係する戸長役場、郵便局の事務を手伝いながら自修し、大いに力をつけた。

 1883明治16年4月、第二種小学校教員免許に合格、大鹿村小学校教員となる。
 1884明治17年4月、教員をやめて新潟学校師範部に入り、中等部に転じるも間もなく退校。年末、大鹿吉田家の養嗣子となり、その長女かつみと結婚。

 1885明治18年5月、志願兵として仙台兵営(歩兵第4連隊第1大隊第2中隊)に入営。
   仙台は吉田の歴史地理への興味をそそり、師範学校附属の図書館では新古の本が閲覧できた。兵隊としての成績もよく9ヶ月で下士適任証を受け、翌年1月休暇を得た。
 1887明治20年4月、高等小学校教員の検定試験を受け、5月、北蒲原郡水原小学校の教員となる。在任中、読書研究をし、暇があれば生徒を連れて古墳貝塚を訪れたりした。
 小学校の教師をしながら雑誌に、史論を発表していたが、学歴が乏しいため将来の方針が定まらず1889明治22年7月、辞職。

 1890明治23年、北海道にわたる。衣食のためとある官署につとめ林野を巡視していた。学問と執筆は怠らなかったが、生活は意に満たなかったらしく翌年11月帰郷。
 1891明治24年7月、東京帝国大学史学界に入会。雑誌『史論』に寄稿した田口鼎軒批判が中央の学会で評判となり上京を決意。年末に上京して、姻戚のジャーナリスト市島春城(謙吉)宅に寄寓する。

 1892明治25年10月頃から読売新聞に記事をかくかたわら、早稲田専門学校の図書館に勤めたが間もなく辞める。
 1893明治26年12月、『日韓古史談』(冨山房)を上梓するが、アカデミズムから相手にされなかった。

 1894明治27年、日清戦争の従軍記者として広島に赴く。翌28年1月19日、艦隊従軍を許され、大連着。23日、栄城湾に至り軍艦橋立にのり威海衛攻撃軍に参加。3月中旬、南征軍に加わり澎湖島占領戦を見、読売新聞に従軍記事を送る。吉田の従軍の目的は、歴史地理を実地に研究するためであった。帰国後、地名辞書の大編纂を計画、大体の案ができたところで市島に相談。吉田は収入がなかったので、市島は資金を工面し写字する学生を集めてくれたが、これらは長くは続かなかった。
 テーマとしては申し分ないが、学歴も十分でないうえに、必要な文献の三分の一は地理局や内閣文庫、東京大学図書館などの所蔵で、在野の人間には容易に閲覧が許されそうになかった。そこで、東伍は冨山房に相談を持ちかけたところ、意外にも社長の*坂本嘉治馬が快諾してくれた。坂本は東伍の人物を見ぬいて社運を賭すことにしたのだ。
 *坂本嘉治馬: 『大言海』『大日本国語辞典』を出版した近代有数の出版人。

 1895明治28年、「大日本地名辞」起稿。原稿は思うようにすすまなかったが、もっとも困難なのは参考文献の閲覧で、蔵書家は警戒してなかなか見せてくれなかった。写字生が同行するのさえ嫌うので一人で出かけ、その場で諳記した。記憶力は抜群で、本の内容をすべて頭に入れ、一週間はなにも参照せずに執筆することができたという。
 執筆期間は前後13年にも及び、経済面の困窮も大きかった。身体はやせ、一時は結核の気味もあった。
 1899明治32年3月、地名辞書第一巻がでた。以来、毎年一冊づつ出版。
   我邦空前の大著『大日本地名辞書』は「第一冊の上」から始まって、「第五冊の下」まで「各節」10冊、これに「汎論・索引」を加えて、初版全11冊、総計5180頁。全国地名(郡・郷・神社・寺・川・山・城址・峠など)約4万1千に及び、字数にして約1200万、1907明治40年まで13年を費やして完成。
   『大日本地名辞書』は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。http://kindai.ndl.go.jp/  

 現在、資料探しの手立てはいろいろあり、学生でなくても多くの大学図書館を利用することができるし、インターネットもある。筆写した方が頭に入るが、簡単にコピーもできる。それにひきかえ、明治期の吉田東伍の史資料蒐集の困難と苦心は並大抵ではない。そんなにも厳しい環境で研究著述をしたことに驚き感心するばかり。吉田東伍の名は聞いていたが、あらためて凄い人だと感じ入った。

 1891明治34年5月、早稲田専門学校講師となる。雑誌などに論文を発表。
 1904明治37年11月、「利根本支変遷稿」を雑誌「歴史地理」に掲載、翌年9月完成。
 1907明治40年10月、『大日本地名辞書』最終の『汎論・索引』が完成。上野精養軒で完成披露の宴を開いた。
 1908明治41年、「倒叙日本史」の編纂にとりかかる。夏ごろ、高田早苗、市島春城とともに越後の各地で講演。また、東京帝大、地学協会などでも講演した。
 1909明治42年7月、46歳。『大日本地名辞書』編纂の功で文学博士の学位を授けられ、中学しか出ていない研究者としては異例として注目をあびた。
  歴史地理学の講演は人物の毀誉褒貶にもわたるから、その子孫の感情を畫愛することがあったが、吉田は大胆にも直言、学説を主張した。
 1913大正2年5月、『倒叙日本史』を出版。これは『大日本地名辞書』につぐ大著。
 1918大正7年1月、利根川の研究のため本銚子に赴き、急性尿毒症で倒れ、22日、死去。享年55歳。翌年7月本銚子の海静寺に終焉碑が建てられる。

    参考: 『故文学博士吉田東伍先生略伝』附・下利根及銚子付近の地理1918高橋源一郎/ 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『民間学事典・人名編』1997三省堂 

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