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2017年1月

2017年1月28日 (土)

中島敦の祖父、中島撫山 (江戸から埼玉久喜へ)

 子どもの頃から本好き。本に夢中になって手伝いをしない、授業中読んでて叱られた。歩き読書で側溝に落ちた失敗は自慢にならない。歩きスマホも危ないと思う。
 高校生のときは教科書にあった『李陵』が気に入って、著者の中島敦全集を古本屋で買って読み通した。題材を多く中国の古典から取り入れた数々の名作中、『山月記』の朗読を耳にして愛読してる人もありそう。そうした題材のヒントを得るなどには淵源の存在が欠かせないように思う。中島家にはすぐれた漢学者がいた。敦の祖父、中島撫山とその息子、敦には伯父にあたる父の兄弟である。なお、敦の父は撫山の6男・田人。

      中島 撫山 (なかじま ぶざん)Photo

 1826文政12年4月、撫山は大祖父の隠居所、亀戸で生まれる。2月に江戸の大火があり、一家は江戸日本橋新乗物町(東京中央区堀留町)からここに移っていた。
 家は幕府草創以来、大名に籠を納めるのを業とする豪商で中島屋清右衛門と名乗っていた。

   11歳のとき母死去。
   14歳のとき、出井貞順に漢学の手ほどきを受け、江戸の大儒として知られた亀田鵬斎の子の綾瀬(りょうらい)に入門。撫山は学問がますます好きになったが、中島家は大名を相手とする職業であったから、つねに幕府や大名家の役人たちを饗応し、取り入らなければならなかった。町人は武士の下手に出て商売のためには幇間のようなこともさせられ、篤実で潔癖な撫山は商売を好まなかった。

   19歳、父死去。撫山は自分を抑えて父亡きあと一家の主として家業に従った。
 1857安政4年、祖父死去。撫山は家を捨てる覚悟で、この年秋、友人を伴い日光へ旅に出た。このときの紀行文「楽托日記」が写本として伝わる。
 撫山は旅行から帰ると、家産をすべて一族の一人に譲り、年末、妻子、弟妹たちをつれて、両国矢ノ倉の新居に移った。
   妻は、須坂の士族の出で、賢夫人の誉れ高く撫山の私塾繁栄の陰の力となった。
 1858安政5年正月、30歳。漢学塾「演孔堂」を開き、学究として踏みだした。

 1859安政6年、神田お玉ヶ池で塾を開いていた先輩が病没。その門人たちに懇願され、撫山は合併することにして、北進一刀流の千葉周作の道場に近いお玉ヶ池に居を移した。

 1868慶応4年、江戸開城。無血開城であったが江戸は物情騒然。撫山は騒乱を避け、大場村(春日部市)に疎開した。維新後、明治となっても江戸は落ち着いて学問を講ずるような状況ではなかった。

 1873明治6年、神道教導少講義に補せられる。江戸から十二里の久喜に移り住み、久喜本町の自宅に私塾「幸魂教舎」をおいた。幸魂とは埼玉の語源である「さきたま」にちなむ。
   幸魂教舎の入門者は、北埼玉郡・南埼玉郡・北葛飾郡や県外の栃木・関宿から来る者もあった。教科は、漢学だけでなく、和学(日本古典・万葉・古事記・詩文など)も取り入れられていた。
 1876明治9年、塾生がふえて一室増築した。地方の有力者も物心両面で応援。撫山は塾生の訓育には熱心で全力を傾けた。名や利益を求めず、塾生と学問を論じて、妻子が飢えるのを気にかけないふうであった。

 1899明治32年、61歳。松島・平泉へ旅。撫山は旅を好みそれまでも、門人を連れて栃木・赤城・筑波などへ旅をしている。
 1903明治36年、『性説疏義』著す。亀田鵬斎の「性説」を疏義(注釈)したもので、のちに長男・靖の子によって刊行される。
   このころ、3男竦之助が中国に渡り10年ほどいて帰国し、善隣書院で20数年間中国語を教える。敦が「お髭の伯父さん」とよび、落ち着いた学究的な人物という。
 1906明治39年8月、日露戦争後、「紀功之碑」が白岡の住吉神社境内に建てられる。撰文・亀田鵬斎、書・中島撫山、篆額・大山巌元帥。

 1909明治42年、新町に転居。幸魂教舎の建物はローラーで道路を移動し運んだ。
   学校教育の普及によって私塾の基盤が失われつつあった。また、西洋の学問が行われ、漢学は時代に取り残される趨勢にあって、撫山が40年近くも幸魂教舎を守り続けたのである。また、地域の人々もこれを助けた。
   この年5月、中島敦、東京四谷箪笥町で生まれる。
   父・田人35歳、母・千代子の長男としてうまれる。母が離縁となり、銚子中学の教員であった父が奈良の郡山中学に転任となり、敦は撫山に引き取られ6歳まで、久喜在住の祖父母のもとで育てられる。
 1910明治43年、82歳。伊勢参宮、ついで近畿各地を遊覧、紀州の広村まで行った。この、8月、利根川が決壊して洪水が押し寄せ、7日目にようやく水位がさがった。

  伊勢神宮を参拝した折、和歌山県有田郡あたりをよんだのが 「紀州道中」という漢詩。

  和暄風土好生涯 南紀看来殊富奢 嶂畔僻村皆瓦屋 四山都是蜜柑山

  和暄の風土、好生涯/南紀は看来れば、殊に富奢なり/嶂畔の僻村も皆な瓦屋/四山すべてこれ蜜柑の山。
 詩は南紀はあたたかで住みよいところ、人々の暮らしも楽なようだ。山辺の僻村でも家々は瓦屋根、あたりの山々には豊に蜜柑が実っている。和歌山県有田郡広村の光景を描いている。この広町からでて、千葉県銚子でヤマサ醤油の基を築いたた浜口家は、撫山の師の亀田家と関わり深く、撫山が広村を訪ねたのもこうした縁からのようだ。詩の読みと意味は、『中島撫山小伝』から引用。 

 1911明治44年6月、病にかかり十数日間、床について世を去った。享年88歳。
   葬儀は神式で行われた。
   没後、撫山の詩文集『演孔堂詩文』を三男・竦之助によって刊行される。撫山の学風は、「皇道をもって主となし、六経仁義の教えをもってこれを助ける」ということ。皇漢学とよばれるものだという。
   1941昭和16年、有志の手で撫山旧宅の一角に「撫山中島先生終焉之地が建てられた。墓碑銘は敦の父・中島田人が漢文でつづる。

 

     中島敦と父・田人

  撫山の子息は長男から7男まで順に、靖次郎・端蔵・竦之助・翊(若之助)・開蔵・田人(敦の父)・比多吉で、他に女子3人の子福者である。
  3男竦之助(しょうのすけ)は、一族中心となっていたようで撫山の遺著や斗南の遺稿を刊行している。4男翊は、プロテスタント派の聖公会司祭となり、5男開蔵は、海軍造船中将となる。6男田人は漢文教師、7男は大陸に渡り当時の満州国要人となった。それぞれに家学である漢学の素養を活かし社会的責任を果たしている。 

 1915大正4年、敦は小学校に入るため、二番目の母がいる奈良の郡山に行く。
 1920大正9年、田人が朝鮮竜山中学に転勤、敦も竜山の小学校に転校する。
 1924大正13年、父が再再婚、三番目の母がくる。敦はこの母とも気が合わなかった。
 1925大正14年、父が大連第二中学校に転勤となったが、敦は京城中学の生徒だったのでとどまる。成績優秀で4年修了で旧制一高の入試に合格し、東京に行き寄宿舎に入る。
 1930昭和5年、敦21歳で一高を卒業、東大文学部国文科に入る。
      6月、撫山の次男・端、「斗南先生」のモデルとなった伯父が亡くなる。なお、東大在学中、結婚。

 1933昭和8年、父の縁故で横浜高等女学校に就職。小説を書きはじめた。
 1941昭和16年、喘息の発作が激しく休職、父の田人が代わりに教壇に立った。
     この年、日本の信託統治領であったパラオ諸島のコロール島にあった南洋庁に勤め、日本語のテキストを作る仕事などに従事した。気候は喘息にあわず、官吏生活も楽しいとはいえず、内地勤務を願う。

 1942昭和17年2月、『文学界』2月号で「山月記」発表。
          3月、帰国。寒さのため肺炎を起こし、世田谷の父の家で病床につく。8月、南洋庁に辞表。11月、喘息の発作をくりかえし世田谷の岡田病院に入院するも、衰弱がひどくなるばかり。
   12月4日、死去。享年33歳であった。多磨墓地に葬られる。老いた父・田人は息子に先だたれ慟哭、哀しみの歌をよむ、
     吾子逝きぬ ああ吾子逝きぬ 夢抱き光望みて ああ吾子逝きぬ

 1943昭和18年、『文学界』の7月号に「李陵」登場。

   参考:  『中島撫山小伝』鷲宮町教育委員会1983村山吉廣編集/ 『中島撫山と白岡』2013白岡教育委員会/『中島撫山没後一〇〇年展』2011久喜市郷土資料館/ 『中島撫山の生涯』1998久喜市公文書館/ 『中島撫山関係調査報告書(1)』2000久喜市教育委員会/ 埼玉県立久喜図書館

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2017年1月21日 (土)

宮崎4兄弟、八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵 (熊本県)

 1870明治3年、熊本から上京した宮崎八郎(宮崎滔天の兄)が、故郷の父へあてた便り、
「早稲田は東京の真ん中より北に当り 日本橋よりも一里ばかり、しごく田舎らしき処にて 甚だ閑静につき、学業には宜しく。(北門社)塾へは西洋人雇い入れ、書生三十人余あり。 塾室も至ってきれいにて 少々の野原も御座候。かつ四方の岡には 樹木、森には生い茂り 父様のお好き遊ばされる様なる処にて御座候・・・・・・ 同塾にお国生三人居申候。かつ隣には当今東京第一と唱え候 お医者松本良順と申す者、自ら西洋館造りの病院を立て、書生など相集し 療治仕り候。万一病気の時は 甚だ好都合」

 北門社新塾は、山東直砥が主宰し漢学と英語などを教え、学資のない者も学べ人気があった。そこに熊本人三人が学んでおり八郎は訪ねていき、その様子を手紙で知らせたようだ。それにしても、早稲界隈は今の賑わいからは考えられないほど田舎だったのだ。ミョウガ畑が広がっていたと聞いたことがあるが、なるほどそうらしい。
 東京郊外も開けていない時代、まして線路網が未だ発達してない時代でも、若者は遠路はるばる勉学に上京。なかには揃って活躍した兄弟もいるが、4人揃って名をなした例は少ないかしれない。冒頭の宮崎八郎は11人兄弟、末弟の宮崎滔天(寅蔵)を含めた弟3人と「宮崎4兄弟」として地元の誇り、生家は県史蹟となっている。

      宮崎八郎   明治前期の自由民権運動家

 1851嘉永4年、八郎は宮崎政賢の長男。宮崎家は江戸時代初期、肥前国(佐賀・長崎)から移り住んだ郷士。
   ?年、  熊本藩校時習館で学ぶ。
 1864元治元年、長州征伐に父とともに従軍。
 1870明治3年、藩命で東京に遊学。国学塾、尺振八の共立学舎で英学、西周の育英社で万国公法を学ぶ。冒頭の手紙はこのころ。
 1873明治6年、征韓論にさいし左院に建議する。
 1874明治7年2月、佐賀の乱江藤新平を応援するため帰国 (4月、江藤新平処刑)。
   4月、台湾出兵にさいし50名の義勇兵を組織し従軍。帰国後、熊本に植木学校を創設するも、わずか半年で安岡県令に閉校を命じられる。
 1875明治8年、上京して海老原穆と交わり、政治評論雑誌の評論新聞社に入社。
   反政府の論調を張って、新聞紙条例にふれ入獄。
 
1877明治10年4月6日、西南戦争で戦死。
   平川惟一ら同士と熊本協同体を組織、西郷軍にくみして参戦。八代・萩原堤で政府軍に鉄砲で撃たれ戦死したが、懐にはルソーの民約論があった。時にわずか27歳。
   八郎の死を多くの人が悼み、宮崎兄弟の精神的原点となる。

      宮崎民蔵   明治・大正期の社会運動家

 1865慶応元年5月20日、宮崎政賢の6男。
    銀水義塾で学ぶ。兄八郎が西南戦争で戦死したため宮崎家当主となる。号は巡耕。
   ?年、 自由民権運動をの影響を受けて上京、中江兆民の仏学塾に入ったが、病のため帰郷。
 1888明治21年ごろから、「土地も天が作ったものである以上、全ての人間が均分して受ける権利がある」そう考えるようになった。
 1897明治30年、欧米遊学、4年後帰国。
 1901明治34年、一時、荒尾村村長をつとめる。

 1902明治35年、東京で「土地復権同志会」を創立、「平均地権」を唱える。
   困窮する農民の救済を目指した民蔵の活動は頭山満や幸徳秋水など左右を問わず支持を得るが、私有財産制の否定につながるとして政府から警戒され、運動は困難をきわる。
 1910明治43年、大逆事件がおこり、国内での運動は中絶。

 1912明治45年、孫文の新生中国に夢を託し中国に渡り、弟の弥蔵、滔天とともに孫文の革命運動を支援した。孫文の死の床を見舞った数少ない日本人の一人である。
   また、妻のミイは留守がちな民蔵に代わって宮崎家を切り盛りし、滔天の妻槌とともに民蔵らの活動を支えた。
 1928昭和3年7月15日、死去。64歳。

      宮崎弥蔵

 1867慶応3年4月8日、宮崎家3男。
 1885明治18年、大阪・東京に遊学。
 1888明治21年、熊本市藪の内に住み、病気療養の傍ら、民蔵・滔天・友人らとさまざまな問題を論じ合った。
 1895明治28年、中国革命に尽力し理想の国を築くことを願い、自ら中国人になりきり、横浜の中国商館で頭髪を剃り、中国の言語・習俗の研究に励んだ。しかし、病弱であったため志なかばで病に倒れる。
 1896明治29年7月4日、横浜で病没。まだ30歳。

      宮崎滔天 (寅蔵/虎蔵)  明治・大正期の志士、中国革命の援助者

 1870明治3年12月3日、宮崎家の4男。本名寅蔵、戸籍上は虎蔵。
   ?年、 徳富蘇峰が主宰していた私塾・大江義塾で学ぶ。
 1886明治19年、上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入るも中退。
   教会に通い、牧師の妻から英語を習った。自由民権運動やキリスト教に影響され、兄の感化もあって社会主義やアジア問題に深い関心を抱く。
 1889明治22年、長崎のミッションスクール・カプリ英和学校に入る。
   在学中、スェーデン人と知り合う。その縁から前田下学の妹・槌を知り、婚約。
 1891明治24年、大陸雄飛の志を抱き、シャム(タイ)に渡るなどののち、犬養毅を知ると、外相大隈重信の好意で外務省嘱託となって中国革命調査のため中国に渡る。
 1892明治25年、長男、龍介生まれる。

 1897明治30年、帰国後、中国革命を目指して日本に亡命中であった孫文と横浜で会見、革命成功を誓い合った。
   11月、孫文は滔天の招きに応じ兄弟の生家で亡命生活を過ごす。
   金玉均の朝鮮独立運動、アギナルドのフィリピン独立運動を助け、孫文の恵州挙兵(明治33年)などに参加したが、いずれも失敗。
   桃中軒雲右衛門の弟子、桃中軒牛右衛門と名乗って浪曲を学び、共に旅をし、自作の「落花の歌」をうなったりした。
 1902明治35年、著作:自伝『狂人譚、』、『三十三年之夢』出版。

 1905明治38年、当時、東京に来ていた中国革命の両雄、孫文と黄興とを握手させ、中国革命同盟会を成立させた。孫文の委嘱で中国革命同盟会の日本全権委員になる。
 1911明治44年、孫文は辛亥革命に成功したあと、滔天の尽力に感謝し再び、熊本を訪れる。滔天は中国大陸に渡り、晩年まで孫文の事業を助けた。

 1918大正7年、長男・宮崎龍介が、炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で歌人の柳原白蓮と恋愛事件をおこす。東大在学中から父滔天の影響を受け、大陸へ渡り中国の事情を探るなどし、民族主義運動に専念。敗戦後は弁護士となる。

 1922大正11年12月6日、腎臓病による合併症で病没。ときに51歳。
   夢に生き、志に生き、一点の野望もない。夢と情の人。
   決起と失望の振り幅が大きく、その点がかえって人間くさく、時をこえ、左右の思想の立場をこえ多くの人を惹きつけている。

    参考: 『熊本県の歴史散歩』2010熊本県高等学校地歴・公民科研究会日本支部会編/ 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂/ 『民間学事典』1997三省堂 /ウイキペディア

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2017年1月14日 (土)

鉄道敷設の技師長は工学博士、野辺地久記(京都・岩手)

 昔、卒論を書くのに都立中央図書館に通った。そのとき図書館が建つ、広くて起伏にとむ眺めのいい有栖川宮記念公園を通り抜けるのが楽しみだった。風情のある池ノ端を歩くと、金髪の幼児を連れたお散歩中の外国人と幾度となく行きあった。公園前にあるオープンカフェ、客は殆どが外国人、いかにも港区麻布という土地柄らしい。前は知らなかったが有栖川宮威仁親王邸跡の2万坪を超える敷地は、もともとは陸奧盛岡藩南部家の下屋敷だったそう。どうりで、今も大名庭園の風情をのこし素敵です。公園の情景を思い出しついでに盛岡藩ゆかりの人物、野辺地久記をとりあげてみました。

       野辺地久記   (のべち ひさき) 

 1863文久3年4月、京都市三条室町西入る、和田宗兵衛、母梅子の3男に生まれ、旧南部藩士、岩手県士族、野辺地尚義の養子となる。
 尚義は蘭学者で、伊藤博文、岩倉具視の師である。官途につくのを好まず、晩年、東京芝の*紅葉館を経営。
Photo_2    紅葉館: 明治14年2月開館。岩崎・熊谷・小野・子安らの経営。芝山内の金地院の山続きの景勝地に造られた豪華宴会場、社交ホール。

 ?年  工部大学校土木工学科入学。
 1882明治15年5月11日、工部大学校土木工学科首席卒業。第4期。直ちに工部大学助教授に任ぜられる。写真出典「土木人物事典」。

 1884明治17年1月、アメリカ留学を命ぜられる。フィラデルフィア・ペンシルバニア大学土木工学科卒業。

   在学中、勉学のかたわら、元お雇い鉄道技師のクロフォードJ.U.Crawfordの下で実業に従事し、フィラデルフィア鉄道局に勤務して、鉄道技術の習得につとめた。

Photo_3
   滞米中、同じくペンシルバニア大学在学中の柴四朗(東海散士)・*小川一真・榊原鉄硯(浩逸)・鈴木守蔵(関西の紡績業に功績)らと交際。

 左の写真出典: 大沼敏男「佳人之奇遇」注釈(『新日本古典文学大系 明治編)。
   *明治の営業写真家・印刷業者、小川一眞
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/09/post-e862.html

 1888明治21年6月、帰朝。
        同年8月、創立期の九州鉄道株式会社・技師長に招かれ、九州鉄道が私設鉄道会社として独自の力で路線を建設できたのは、野辺地の力によるところ大であった。

 1890明治23年、豊前地方の有志が設立した豊州鉄道株式会社(現・平成筑豊鉄道)に移り、同社の技師長として、路線の建設計画から工事にいたるまで全般を統括。

   行事から宇佐郡四日市(宇佐市)までの幹線鉄道敷設と、行事から分岐して今川沿いを走り石坂峠を越えて田川郡へ至る支線の敷設事業の認可願いを政府に提出。資金の問題から起工が遅れる。

 1891明治24年9月、辞職。
    同年、シャム国(タイ国の旧称)に招聘され鉄道技師として赴任、任期満了により帰国。

 1894明治27年6月、わずか7ヶ月で全線の測量と設計を終え、翌年5月に入札、6月起工式が行われた。行事-伊田線の敷設には野辺地久記が技師長となり、陣頭指揮にあたった。一年余りの工期で開通に至ったのは、技師・野辺地久記の能力に追うところが大きかった。
   茶屋町(川)橋梁は、福岡県北九州市八幡東区茶屋町にある旧・鉄道院大蔵線の鉄道橋、現在は廃橋。設計はドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテル・野辺地久記。
   同27年、退職。

 1895明治28年7月、帝国大学工科大学の教授に任じられ、土木工学第一講座担任
 1896明治29年11月、震災予防調査委員会(内閣) 同年12月、土木委員会(内閣)、大阪築港設計委員(内務大臣)仰せつけらる。

 1897明治30年、工部大学校同期生の笠原愛次郎が主唱した鉄道学校(のち岩倉鉄道学校・岩倉高等学校)が創設されると、初代校長に就任。
 【官報】1898明治31年7月11日、東京帝国大学工科大学教授・野辺地久記、学術指導のため京都・大阪二府および兵庫・三重・愛知・滋賀・岐阜五県へ出張。

 1899明治32年1月27日、36歳で病没。青山墓地に葬られる。寺は芝公園金地院。
   【官報】1月31日、工学博士の学位授与せらる。従六位。

   著書『アプト式鉄道建築法』。趣味史稿、生花、茶の湯。   
   相続人:野辺地三郎、久記・長女と結婚。盛岡農学校教諭。住所、盛岡市加賀野新小路14番地。

   参考: 『大日本博士録.VOLUM V』1921-1930発展社/ 『土木人物事典』藤井肇男2004アテネ書房 / 『政治小説集 二』(佳人之奇遇・大沼敏男)2006明治書院 / 『みやこ町歴史民俗博物館・博物館だよりno.8』2006福岡県京都郡みやこ町豊津/ 『工学会誌 206巻』1899

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2017年1月 7日 (土)

奮闘努力して架けた内海橋、内海五郎兵衛(宮城県)

 宮城県人を採りあげたいと『牡鹿郡誌』をみると、北上川に橋を架けた内海五郎兵衛という人物がでていた。橋名は「内海橋」、橋に名がつくほど大変な事業だったよう。今も人々が内海橋を渡っているに違いない。内海橋を検索すると、【東日本大震災 職員の証言(想い)「そのとき、それから、これから あの日をわすれない】に、大震災当日、内海橋にいた人の文章があった。

    「震災を振り返って・・・・・・」      
 2011平成23年3月11日、地震発生30分前まで(国)398号内海橋の橋梁点検を行っていた。その日は雪が降ってきたこともあり、予定作業内容を切り上げて事務所に戻り点検業者と打合せしていた時、激しく揺れ、テーブルが左右へ滑るように動いた・・・・・・断続的に余震が続き建物や電柱が大きく揺れ、地鳴りが響き恐怖を感じた・・・・・・道路は大渋滞となっていた。黒い水がもの凄い勢いで流れてきた。事務所は海岸より3キロほどの距離  ・・・・・・周辺の水位が上昇し夜には1メートル程の高さになった。事務所発電機も水没し電気が無くなった。事務所の窓から火災により赤く明るい景色が見えた。近くの住民も避難してきた。冷たい水に浸かりながらやっとの思いで事務所に来ても暖房や食料がなく、同じ被災者でありながら申し訳ない気持ちになった。また、事務所周辺には平屋建物内や車の屋根にいる人達もいた。自分達では助けることも出来ず、声かけだけしか出来ない状況に苛立ちを感じた・・・・・・
 日常より緊急時の通信及び情報収集手段を準備すること。緊急車両の他事務所との使用を調整するなどの対策が必要である。これから復興に向けて自分ができる精一杯の努力をするつもりである
        (宮城縣土木部事業管理課2012-03  東部土木事務所・向陽町分庁舎 B)

 大震災で内海橋は流されなかったというが、惨状が思いやられる。手記は震災一年後に書かれたもので、内海五郎兵衛が架橋を完成してから丁度130年目にあたる。北上川に架かる内海橋、そのゆくたてをみてみよう。

           内海 五郎兵衛

   明治初年の石巻は、石巻門脇の三か村に分かれ、帆柱林立、車馬絡駅(連なり)して繁盛。惜しむべし、北上川には橋梁なく、わずかに二カ所の渡船場によりて両岸の交通をべんじたりき。
 1841天保12年、牡鹿郡水沼村(*石巻市)の農業、片岡の長男として生まれる。のち渡波町の内海家を*烏帽子親としたので姓を内海に改めた。
   *烏帽子親: 元服親。中世武家社会の習慣が民間にも及び、風習が残る地方もあった。

 1877~明治十余年、 五郎兵衛は農業のかたわら酒造業を営んでいたが、父が急病になり医師を迎えるため馬で石巻に赴いた。
 ところが、「前日来の豪雨で北上の濁流滔々渡るべからず、空しく岸頭にたちて夜を徹せしに、風雨止まず、船止めに遭い、父は帰らぬ人となってしまった。五郎兵衛、悲嘆やるかたなく、つくづく思う様、自分と境遇を同じくする者が将来少なくないだろう。今、橋梁を架橋せずんば何れの時を待つべき」、五郎兵衛は憤然として自ら北上川架橋を決意した。さっそく、親戚、知友を訪ね歩いてて決心を語ったが、架橋は空前の工事にして危険なため誰一人賛同するものがなかった。

 ときに、石巻消防組頭と本町区長で任侠で知られた石巻本町の田辺吉助が、大西久右衛門・村角知政ら同士を集めて、架橋の認可を得ていた。しかし、資力が乏しく着手できないでいた。五郎兵衛はこれを聞くと、人を介して既得権の譲渡を依頼、交渉を重ね、ようやく保証金500円で架橋権を譲り受けた。

 しかし、石巻村・港村の渡船業者をはじめとしてその親戚縁故関係者が反対の気勢を高め、また内務省土木局・県当局の認可も得られなかった。それでも五郎兵衛は屈しない。
 1880明治13年2月、第一回の願書を提出。種々の事項について調書を求められた。
 1881明治14年1月13日、再び願書を提出。2月14日、追願書を提出。これに対し県は、土地官民地区一筆限と請負年限中可遵守の提出を命じた。3月、書類を提出。
  五郎兵衛はようやく着手に近付いたものの、反対の村長・村会がいるなか関係村長・戸長の承認の書類を提出しなければならなかった。このとき、事業に同情を寄せる水沼村戸長・勝又治左衛門、高屋敷公事師の尽力で承認を得られた。これに1年かかった。
   *公事師: 江戸時代の訴訟代理人。明治維新の際廃止されたが、のち、弁護士の前身となる。

 1882明治15年2月7日、ようやく正式に認可を得ることができた。
   架橋工事は川幅のもっとも狭い仲瀬の東西を選んでただちにはじめられた。五郎兵衛は直ちに準備しておいた木材で、橋柱打ち込み方に着手した。ところが暴風雨・大雨が何度かあって工事が妨害され遅れた。橋材が流失して海上に漂流、それをみた人々は両岸に集まって侮った。そのため、投資をしようとする人が事業を危ぶみ資金に苦しんだ。
 妻の伊勢子は夫を助け、仲瀬にいて炊事と会計を受け持った。かたわら縄も買えなかったから、伊勢子自身が縄をない、一把に纏まるとすぐ人夫が持って行って使った。五郎兵衛は架橋に2万5千円の資を投じ、凍えるような厳しい冬の寒さでも、蚊帳にくるまって寝なければならないほど困窮した。
 そうした五郎兵衛の奮闘はついに人に勝ち、当時の幼稚な技術、資材、資金など数々の困難を克服して、わずか5ヶ月で竣工した。

  同年7月15日開通式を挙行。
  落成式の属僚をひきつれ列席した松平正直県令(初代宮城県知事)は、熱誠あふれる祝詞をもって五郎兵衛を讃えた。またその功績を永久に伝えるよう「内海橋」と命名したのである。
 1895明治28年、五郎兵衛は内海橋を県に寄付。
   理財にも長けた五郎兵衛は、橋銭収得の権利期間を出願。賃橋の収益を堅実にあげて、県に寄付した明治28年までに数万金の財をなしたといわれる。『牡鹿郡誌』著者はいう。
「五郎兵衛はただ不撓不屈の人たるのみならず、見識あり、これに加うるに奉公の誠を抱きたりこと明らかなり」 
 1908明治41年1月18日、死去。行年68。

   参考:『牡鹿郡誌』1923牡鹿郡編/『石巻市郷土読本・上学年用』1934石巻市住吉尋常小学校後援会編/ 『宮城縣史・人名編』1986宮城縣

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