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2017年2月

2017年2月25日 (土)

世のため人のため、横井小楠・時雄父子(熊本)

 わが子が小学生だったころテレビを見ていたら、大活躍したお子さんを喜ぶ誇らしげなお母さんが映っていた。そこで「あなたたちが活躍したら私が母ですって名乗りでる」と言って笑われた。会社人間の父とノーテンキな母のせいか、子離れする前に親離れされた。その子らも今や受験生の母となり父となり気を揉んでいる。実は私も気が気じゃない。でもまあ、こうした心配ができるって平凡だけど幸せかもしれないとも思う。
 ところで、偉大な父や立派な両親がいる家庭の場合、その子は親をどう受け止めて育つのだろう。良かれ悪しかれ親の影響は大きそう。幕末期に生きた親、明治・大正期を生きる子、生まれ故郷が同じであっても道は重ならない。横井小楠横井時雄、名前だけは知っていたが違う分野で、同じ横井だが親子と知らなかった。
 家柄とかもあるだろうが、それにもまして生をうけた時代によっても異なりそうだ。父小楠が生まれてから息子時雄の死まで約120年、さながら日本近代史をひもとくよう。

      横井小楠

 1809文化6年8月、熊本藩士横井大平時直の次男。肥後国熊本内坪井街で生まれる。
   通称・平四郎、字・子操、別号・沼山。藩校時習館で学ぶ。小楠は身長5尺にたらぬ小男であったが、眉太く目はいかにも光っていた。音吐朗々として初対面の者は度肝を抜かれたという。
 1839天保10年3月、31歳。江戸遊学。藤田東湖川路聖謨らと交わる。
 1840天保11年4月、熊本に帰る。熊本藩実学党を結成。その綱領「時務策」を記し藩政改革に乗り出すも失敗。
   <学政一般> <経世安民>の学問としての実学を唱え、諸国を遊歴。越前や尾張に遊び、吉田松陰橋本左内らと交わる。
 1846弘化3年、兄に従い、相撲街に移り、翌年家塾を新築、門人20人余寄宿がする。
 1851嘉永4年、中国、畿内を経て、北陸諸方を漫遊。越前では特に優待される。
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦を率い浦賀に来航。
 1854安政元年2月、同藩の小川吉十郎の娘ひさを娶る。兄が三人の子を遺して死去、遺児の長男がまだ幼く、小楠が番役という役柄と家録百五十石を継いだ。
 1855安政2年、沼山津村に居を移す。肥後藩内で実学党上司層の長岡監物らと分裂、下士・豪農層の代表者として活躍。
 1856安政3年、旧門下生で惣庄屋の矢島源助の妹つせ子を後妻として迎える。
 1857安政4年、長男・時雄生まれる。
    
 1858安政5年、越前藩主・松平春嶽に招かれ政治顧問となる小楠は水戸の藤田東湖、松代の佐久間象山三儒傑と称され、各藩から兵制や財政に意見を求められた。
 1860万延元年、「国是三論」を著し、対外危機に対処するため開国通商・殖産興業による富国強兵を主張。福井藩・橋本左内なきあとの藩政改革を指導した。
 1862文久2年6月、慶永(春嶽)が幕府の政事総裁職につくと、幕政改革・公武合体運動の推進者として重きをなし、改革派による雄藩連合構想を指導した。

 この年12月19日、越前から江戸に出る。神田お玉ヶ池の吉田平之助の妾宅で開国論を唱えていた小楠は三人の刺客に襲われた。熊本藩士・都築四郎が暗殺され、小楠は身をもって逃れた。そのとき、刀を抜かなかったのが卑怯である、敵をみて逃げたのは熊本藩の恥辱であるとして、世録を没収されてしまった。士道忘却事件である。
 1863文久3年8月、越前藩の政変で失脚して熊本に帰る。前年の士道忘却事件により沼山津に隠棲し四時軒と称する山荘で、天下の形勢を観望。その閑居の身となった小楠のもとを坂本龍馬や志士が多く訪れた。

 1868明治元年、王政復古の世となり、小楠は新政府に迎えられ3月、京都に赴く。
    4月23日、参与ついで制度局の判事を兼ね出仕。従四位下。
 1869明治2年1月5日、暗殺される。60歳。
    小楠が乗った籠脇を供が警護しつつ寺町御門をでて寺町を南下。下御霊神社の前にさしかかったとき、壮漢6人が白刃をそろえて斬りかかってきた。キリスト教徒・共和的思想の持ち主として保守派に暗殺されたのである。小楠は牧師でもなく日本の国教にしようという考えはなかったが、開国的政策を喜ばない守旧派からみれば異端邪法であった。
 遺骸は西京南禅寺の境内、天授庵中の墓地に葬られた。

      横井時雄

 1857安政4年、横井小楠の長男として熊本で生まれる。妹の名はみや、のち海老名弾正に嫁す。
 1869明治2年、父の小楠暗殺される。翌年、時雄は長崎に出て英学を学ぶ。
 1871明治4年、*熊本洋学校に入る。生徒は14~18歳までいたが、時雄は最も若い14歳、おとなしくいじめられた。漢学の教師は小楠の弟子・竹崎茶道であった。漢学を頑張り良くできるようになると数学や他の教科もよくなり、身体も性格も成長した。とくに英学を教えていた校長ジェーンズのもとに海老名弾正金森通倫らと通い感化を受ける。
   “存立期間は短くも人材輩出、熊本洋学校(熊本県)” http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/10/post-3598.html

 1876明治9年、花岡山で<法教趣書>に署名し海老名弾正・徳富蘇峰(猪一郎)ら35名キリスト教に入信、熊本バンドを結成したが迫害される。多くは京都の同志社にいったが、時雄は東京の開成学校に入る。開成学校の同級生には井上哲次郎三宅雄二郎和田垣謙造らがいた。なお中村敬宇の同人社で宣教師カックランから受洗する。
   ?年 同志社に転学。卒業後牧師として愛媛県今治で伝道活動に従事し成績をあげた。
 1886明治19年夏、牧師を辞職して同志社神学部の教授、従弟の徳冨蘆花も複校する。

 1887明治20年、妻お峰が産後の経過が悪く死去し、時雄は一人東京に移りついで海外留学する。
 1890明治23年、帰朝。東京の本郷竹町に教会をおこし牧師となる。
 1893明治26年、再び外遊。アメリカにいって寄付金を募集。その後、「六合雑誌」「基督教新聞」の編集と経営にあたる。
 1895明治28年、朝河貫一は、時雄の紹介でアメリカ・ダートマス大学に留学。
    “『日本之禍機』 エール大学教授・朝河貫一(福島県)”  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/06/post-10ee.html

 1896明治29年、母つせ、神戸で死去。つせの妹は矢島楫子(女子教育家)。
 1897明治30年、同志社の社長(校長)に栄転。32年、校長を辞し信仰から遠ざかる。
 1901明治34年5月31日、逓信省官房長の職につく。正5位に叙せられる。
 1902明治35年8月、総選挙。岡山県郡部選出の代議士となる。
 1904明治37年7月、雑誌を発刊する計画があり東京へ出る。

 1907明治40年、衆議院議員選挙、再選される。
 1909明治42年5月6日、官報[正5位勲4等横井時雄ノ辞職を許可セリ]
    *日糖事件に関係して政界を引退。8月10日、判決があり下獄。
    *日東疑獄: 糖業保護をめぐる汚職事件。大日本精糖株式会社重役・磯村音介らが栗原亮一ら代議士を買収し、輸入原料砂糖戻税法の期限延長などを図った。
 予審判事のことば 「実に横井という人は珍しい人物だ。何もかも一つも隠さず事を有体に陳述して了ふた。さすがに宗教家である」。
 政友会の代議士の一人 「どうも困った事だ。横井君は政治家でない。あれが政治界に入ったのは、大変間違っている。何もかも言って了ふたから、多くの人が、罪に陥いらぬまでも検挙を受けるような禍を引き起こす結果になった」。
 小崎弘道 「こういう事件があってのち横井君は信仰に立ち返って伝道界に入ると期待していたが、私共の希望を満たすことができなかったのであります」

 1911明治44年、刑期満ちて出獄。
 1916大正5年、 ロンドンへ渡る。 同8年、世界大戦の平和会議に出席。
 1922大正11年、帰朝。この頃、熊本県八代の球磨川で鮎漁を観覧中に脳溢血で倒れる。その後、須磨やその他の地で静養
 1928昭和3年9月13日、死去。大分県別府の大塚惟明の別荘でこれまでの事績からすると、さびしく世を去った。

   参考: 『少年伝記叢書. 號外 横井小楠文』1896民友社/ 『故横井時雄君追悼演説集』徳富蘇峰ほか1928アルパ社 / 『蘆花の芸術』前田河広一郎1943興風館 /『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂 / 『近現代史用語事典』1992新人物往来社

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2017年2月18日 (土)

漢詩人・ジャーナリスト、上村才六(売剣)その他 (岩手県)

 毎週半ばに採りあげる人を捜すが、すぐ決まるときもあれば迷うときもある。せっかく選んでも資料が見つからず、あっても著作が漢詩漢文でお手上げのことがある。明治人は江戸の教養というか漢詩・漢文がふつうで筆者には困る。多少の読み書き好きでは間に合わない。今回、売剣・詩命楼主人という号からして面白そうだけれど、著作が読めないから止そう。と思ったが関わる人物が多彩で止めるには惜しい。そこで周辺にも触れれば時代が見えるような気がするが、どうかな。

      上村才六 (売剣)

 1866慶応2年11月19日、陸奥国盛岡(岩手県)下閉伊郡津軽石村で生まれる。
 1879明治12年? *山崎鯢山(げいざん)の集義塾で学ぶ。

    *山崎鯢山: 漢学者、名は吉謙。梁川星巌門下の詩人として盛名がある。鷲津毅堂(宣光・漢学者)らと交わり勤王論を唱えた。藩校作人館の助教となったが、奥羽越列藩同盟、戊辰戦争で作人館はいったん閉鎖となる。明治になり岩手県庁に出仕、岩手県地誌の編纂に従う。その後辞職して盛岡に集義塾をひらき経史を教えた。著書は『鯢山詩稿』『英吉利新誌』など。

 1893明治26年4月、「尋常小学校教授細目」岩手教育会編・発行・上村才六。
 1896明治29年、「盛岡公報」 「岩手日報」 創刊。

 1900明治33年6月、東京に移る。東京市麹町区三番町25番地
    同年、上京して「少国民」を編集、鳴皐書院(三番町53番地)から発行。
 1902明治35年、「少年言文一致会」を創立。
    会長に言文一致小説の大家・尾崎紅葉を迎え会員を募集。
 1903明治36年、誌名を『言文一致』と改める。
    大いに少青年層の言文一致普及に尽くし、言文一致運動史上に特異の足跡を残す。
   4月12日、上村の発起で、言文一致誌友会が東京大森の八景園で催された。
   8月1日、村上は退陣、経営上の不如意もあるらしい。その後も続けて発行されたが、充分な成功を収めることができず、日露戦争にであって廃刊のやむなきにいたる。

(参照 <「少年言文一致会」の活動>山本正秀、1968茨城大学人文学部紀要・文学科論集(1):55-76) 

 1903明治36年、上村の鳴皐書院から 野口寧斎主宰 『百花欄』 創刊。
      毎号七十頁余り、瀟洒たる体裁の漢詩文の雑誌で、百花欄同志の数は四百二十五家を数えた。寧斎死後も『百花欄』そのものは息長く続いた。 野口寧斎の父、野口松陽も名のある漢詩人であるが、『百花欄』は難しいことを言わない。
 「圏点を施さず評語を加えず愚意独り諛と濫とを避けんとするに止まらず、抑も我好む所を以て人に強ひざるなり」として、作者の自由を認め選者の考えを押しつけない。

   同36年9月、『売剣詩草』 編集発行。和本33頁、国会図書館デジタルライブラリーで閲覧できる。
      内容は、「津市遠帆楼題壁」「奈良」「和歌浦」「前橋」「青森柳原雑詩」「札幌客楼」など七言絶句の数々と、「東洋波瀾題詞」「耶馬溪」と題された長めの文章もある。
      題材は全国に渡るが、和歌山が幾度も出ているのは、弟子の高橋藍川(宗雄)が、和歌山県臨済宗成道寺に生まれということがあるかもしれない。
     高橋藍川は少壮にして上村売剣に師事。昭和15年『黒潮吟社』を創立。月刊詩誌『黒潮集』を発刊。「藍川詩集」「漢詩講座」「藍川百絶」「藍川百律」など著書多数。

  同36年、『鉄櫺詩存』 *大江卓著、上村売剣編集発行。
      *大江卓: 明治・大正期の政治家・実業家。
 大江が有名になったのは、1781明治4年、神奈川権県令(知事がいなかったので事実上の神奈川県知事)時代に、穢多非人廃止とマリアルーズ号事件を解決したことである。
      大江は土佐の出身であるが、1877明治10年の西南戦争に際し政府転覆蜂起をはかり禁錮10年となり盛岡の監獄に入れられる。岩手県は大江の経歴を配慮して軟禁状態においた。読書、散歩、釣り、来訪者との対談も許したという。上村が大江と親しくなったのは、この時期なのだろうか。それとも大江が明治23年、第一回総選挙に岩手5区から出馬したときなのだろうか。よくわからないが、ともかく上村は大江の著述を何冊も編集発行している。

 1906明治39年8月、『清韓游踪』東京堂から出版。

   内容は3ヶ月余の中国旅行。当時の北京ほか各地の光景、清朝の親王、同地滞在中の日本人との出会い、時に漢詩を作り日本にいる野口寧斎森槐南ら当代のそうそうたる漢詩人のの評を掲載。
 いよいよ帰国となり、仁川から平壌丸に乗船すると、*京釜鉄道の開通式を終えて帰る前島がいた。翌日、木浦に停泊、薩摩の井上良雄、会津の西郷四郎が同船しており初対面ながら日本人同士懐かしく親しんだ。
  釜山に停泊中、二人に誘われるまま上陸して*鈴木天眼が社長の「東洋日出新聞社」に行った。翌日ふたたび乗船して長崎に到着。

   *京釜鉄道: 京城・釜山間を結ぶ鉄道で明治38年5月開通。朝鮮半島を縦断する鉄道は対ロシア戦略上重要ので明治37年一部開通、全通は日露戦争後る

   *鈴木天眼(力): 明治・大正期のジャーナリスト。雑誌『活世界』創刊。日本精神と大陸経綸の振作につとめた。日清関係が緊張すると朝鮮にわたり天佑侠を組織した。

   同年5月、大江卓の『揚鶴詩稿』『東亜平和策』を出版。東京市本所区小梅町142番地。

 1915大正4年、漢詩塾「声教社」をおこす。弟子が多く集まったといわれる。相州逗子池田419番地。

 1917大正6年「文字禅」(のち「漢詩春秋」)創刊。昭和の初期の頃迄出していた。
  1920大正11年、『周易之研究』第1~5冊。長井金風著、声教社刊。

 1927昭和2年、『両韻便覧』 大窪詩仏編集・上村才六補訳、出版・声教社

 1930昭和5年、官報に「声教社」広告掲載 
         <「漢詩講座」田辺松坡、上村売剣監修・会費一ヶ月50銭。一号(再版)特価・30銭>
 1933昭和8年、『杜樊川絶句詳解』 声教社同人編。五言・七言絶句156首を講釈。
 1934昭和9年、『薩鴈門絶句詳解』 声教社同人編、名漢詩講座・臨時増刊。
 1937昭和12年12月15日『漢詩春秋臨時増刊』「忠勇義烈日本魂」(声教社)発売。

   上村は交流の深い渋江保(父は渋江抽斎)のため設立した三才社や神誠館から、易学関係の雑誌「天地人」を発行。渋江の晩年は羽化仙史など筆名を使い分け怪奇小説、冒険小説を書き、宇宙霊気、動物磁気、心霊学、催眠術など疑似科学的な著作もした。

 1946昭和21年5月7日、死去、81歳。神奈川県逗子町桜山2106番地。

    石川忠久
 
「明治時代の少壮漢詩人といわれた人の多くは、第二次大戦までに亡くなっています。たとえば国分青厓、この人は昭和18年か19年に亡くなっています。これが一つの象徴的な事件ですね。国分青厓は森槐南と競った、明治時代のすぐれた青年漢詩人だったわけです。森槐南はずっと早く亡くなっています。それからもう一人、在野の人で盛岡の有力な雑誌を出していた上村売剣。この人も終戦の頃に、たしか伊豆で死んでいます。こうして、明治時代に少壮漢詩人として活躍した人はみんな終戦前後に亡くなっています」。

   参考:「明治時代の著述者・渋江保の著述活動」佛教大学大学院紀要43号2015年山本勉 / 『興亜の礎石』 近世尊皇興亜先覚者列伝1944大政翼賛会岩手県支部 / 国会図書館デジタルライブラリー /   『岩手県の不思議事典』太田愛人2003新人物往来社 / 『岩手県大鑑』1940新岩手日報

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2017年2月11日 (土)

「河北新報」主筆・仙台メソジスト教会、鈴木愿太(宮城県)

 今、デジタルの世になり情報が満載しており便利になっているが、自分は新聞をゆっくり読むくらいでいい。それでアナログでいいですと言っても用が足りない時がある。情報がネットに溢れているが正しいか、間違いか判らない。かといって、山のような情報を一々調べてはいられない。便利は不便と背中合わせ。
 昔は遠くの情報や詳しい事はなかなか伝わってこない。知りたければそこに行かないと解らないことが多かった。それは反感を抱く事柄に対しても同じ、攻撃してやろうと近付いて攻め口を探っている間にいつしか取りこまれてしまうこともある。良し悪しは別として、とくに経験の浅い若者は突進しやすく、はまりやすい。外国人宣教師から英語など語学習得だけのつもりが、キリスト教を信じるようになった明治の青年もいる。詩人サトウハチロウの従兄、鈴木愿太の場合はどうか。

      鈴木愿太 (すずき げんた)

 1865慶応元年9月9日、仙台で生まれる。父・鈴木春山、母・登和。

   兄妹は兄・惇と妹二人。
   妹もと子は*一力健治郞に嫁し、もう一人の妹春子は*佐藤紅緑と結婚。
  *一力健治郞:<明治・大正、屈指の地方紙を築き上げた一力健治郞>
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/06/post-844d.html
 *佐藤紅緑: 明治~昭和期の小説家。詩人・サトウハチロウ(八郎)と作家・佐藤愛子の父。正岡子規に師事、俳人としての才能も示した。昭和初期、雑誌『少年倶楽部』に「ああ玉杯に花うけて」を発表し広く名を知られた。

   愿太は幼い頃、父春山から漢学を学んだが、父の勧めで英語を学ぶ。春山は、明治と時代が変わってもはや漢学は世に適しなくなったと達観したのである。
  ?年、中学卒業。東京に出て東京英和学校(のちの青山学院)で2年間学ぶ。

  1885明治18年4月、天津条約。朝鮮問題に関する日清(中国)間の条約。伊藤博文・李鴻章が全権として調印。4ヶ月以内の両軍の朝鮮撤退、軍事教官派遣停止、出兵の際は互いに事前通告することを決めた。日本は一応朝鮮において清と対等の立場を確保したが、清の朝鮮にたいする宗主権は黙認した。やがて日清戦争へ。
 1886明治19年、「日清の風雲急を告ぐるや、氏(鈴木)等学生間には軽挙にも清国国情の偵察を想ひ渡清の熱熾なり。氏もまた学を捨てて上海に赴きたり」(『日本基督教徒名鑑』)
   このとき鈴木はまだキリスト教徒ではなかったが、渡航するにあたり、教師のミス・ヴェール嬢は鈴木の前途を危ぶみ、当時上海の約1年間、南メソジスト教会宣教師ウォルター・R・ランバースへの紹介状を与えた。
    同年7月、鈴木は上海へ渡り、中国語の研究をしていたが、よくよく考えて自分の暴挙を悟り、再び英語の勉強を思い立ち、紹介状をもってランバースを訪ねた。そして、ランバースのもとにいるうち、キリスト教を説かれ、キリスト教を奉ずるようになった。
 おりからランバースには日本で伝道を開拓しようという計画があり、ランバースは鈴木に一緒に日本へ同道するようしきりに勧めた。鈴木はランバース夫妻の親切に感じ入り日本に帰ることにした。

 1888明治21年7月2日、鈴木は神戸でランバースの日本人最初の受洗者となり広島へ向かった。以来、ランバースを助けて通訳者としてランバース一家の瀬戸内伝道を支え、約1年間山陽・四国をともに歩んだ。

 1889明治22年、アメリカ・ミズリー州セントラル大学(現:セントラル・メソジスト大学)に入学する。
 1894明治27年、セントラル大学卒業。
 1895明治28年、アメリカから帰国。関西学院(現・関西学院大学)教授となる。
   関西学院の創立: 1889明治22年9月、アメリカ南メソヂスト監督教会派遣の宣教師ウォルター・R・ランバスによって「原田の森」(神戸市灘区王子町・原田通)に創立された。当初は、神学部及び普通学部の二学部から始まった。

 1895明治28年3月29日、大河平隆の長女、菊井子と結婚。
    長男一郎、長女道子をはじめ9人の子どもに恵まれる。
    仙台市北三番町31番地

 1899明治32年、河北新報に招かれ、主筆兼編集長となる。以来、20年キリスト教的精神をもって文筆に携わり、社会教科のためにつくした。鈴木は翻訳小説などを紹介していたもよう。執筆、編集の間に講演をしたり、機会ある毎に教会のために助力。また、日本メソジスト教会幹事・仙台基督教青年会副理事長をつとめた。
   河北新報:仙台市東三番町。1897明治30年1月17日、一力健治郞が創刊。翌年3月より年中無休刊制を断行し、輪転機の購入、写真製整備の設置、活字鋳造の開始などすべて地方新聞のトップをきってもっとも早く行われた。1942昭和17年まで個人経営。
 1918大正7年1月、河北新報を辞す。
 1945昭和20年、死去。

   参考: 「時計台 : 関西学院大学図書館報」2005 / 日本人物情報大系97(『日本基督教徒名鑑』谷竜平1914中外興信所) /『日本史辞典』1981角川書店

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2017年2月 4日 (土)

会津藩と北海道、棒タラ・身欠きニシン (福島県)

 2017年、はやいものでもう2月。ということはすぐに<3・11>
――― 今、福島県は地震と大津波に加えて原子力発電所事故、さらに、風評被害によって諸産業が影響を受けています。特に農業、漁業、観光業などが大きな痛手を被っています。一方ではこの事態を乗り越えて、もとの福島県に戻そうとの努力も行われています (『福島県謎解き散歩』はしがき)。
 書き出しの「今」は、2011平成23年の地震から3ヶ月後。それから6年、復興は・・・・・

 福島県は太平洋沿岸の浜通り・内陸の中通り・新潟県に近い会津の三地方に分かれる。冬でも暖かい浜通り大熊町から多くの住民が、寒さ厳しい山間部の会津に移住して数年、雪にも寒さに慣れたかもしれない。慣れたとすると、それは長く帰郷できないためだから、慣れて良かったと一概に言い難い。せめて、応援の気持ちを忘れぬよう土地の歴史や物をみてみよう。

   “こらんしょ、福島ワールドへ!”に誘われ『福島県謎解き散歩』を開くと、産業編に
【「なぜ棒タラと身欠きニシンが会津の名物になったの?】
 言われてみれば、昔は物資を大量に運べるトラックなどなかった。どうやって、海から遠い内陸の会津に海の魚が運ばれたか、不思議。謎解きを読んでナルホド納得、その謎解きにエピソードを足して記述してみたが、どうか。

 1807文化4年4月、ロシア船、カラフト・エトロフ島に来航して会所を襲う。
     同年5月、ロシア船利尻島に侵入し幕府の船を焼く。幕府、奥羽諸藩にエゾ地出兵を命ずる。幕府、蝦夷(エゾ)地を直轄化。
 1808文化5年、幕府、仙台・会津両藩に東西エゾ地の警備を命じる。
 1810文化7年、幕府、会津・白河両藩に相模浦賀・上総安房の警備を命じる。
 1847弘化4年、会津藩、江戸湾警備を命ぜられる。
 1853安政2年、会津藩、品川台場の警備を命ぜられる。
 1859安政6年9月、幕府、エゾ地直轄地を縮小して会津・仙台・秋田・庄内・盛岡・弘前の6藩に分与し、警衛・開拓させる。東エゾ地のシベツ・シャリ・モンベツ・会津藩領となる。

 1862文久2年、会津藩主松平容保、京都守護職となる。
    同年、会津藩士・*南摩綱紀が藩兵をひきいて幕府領カラフトの警備にあたる。           
    以後、1867慶応三年まで蝦夷地の会津藩領の代官として蝦夷東岸の斜里に在勤、領内を巡視し、漁業を奨励した。
 * http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-4b87.html
   
 1863文久3年、八月十八日の政変。会津・薩摩両藩を中心とした公武合体派が長州藩を主とした尊攘派を京都から一掃したクーデター。
 1864元治元年、禁門の変(蛤御門の変)。長州藩の兵乱。長州征伐の原因となる。
 1865慶応元年、*秋月悌次郎(韋軒)、蝦夷地代官として派遣される。秋月は根室西別・シャリ(斜里)などを巡視して漁場を設け、荒れ地を開拓した。
 * http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/06/post-4de8.html

  北方警備にエゾ地に派遣された会津藩士は、沿岸にやってくる黒い群れ、鰊(ニシン)や鱈(タラ)を目にしたのである。
 ――― 棒タラ(マダラ)と身欠きニシンは、海の魚を干物にしたものである。オホーツク海岸の警備にあたっていて、春になると、海岸にニシンの大群が押しよせ、藩士は非常に驚いた。地元沿岸ではとれすぎて肥料にもしていたが、タラもニシンもおいしく、会津の妻子のも食べさせたいと思い、運搬と保存に便利なように塩干物にして、北前船で越後へ。新潟県の津川から船で阿賀野川をさかのぼって塩川に到着、海産物問屋が会津一帯を取りしきった。
   塩川は会津盆地の中央部にあり可航限界地点で河岸には倉があった。なお、1869明治2年、エゾ地は北海道、箱館は函館と改称される。
                                                                        
 1867慶応3年、当時、南摩綱紀と秋月悌次郎の姿は会津藩が守護する京都にあった。
   6月、坂本龍馬「船中八策」。10月、大政奉還、徳川慶喜による政権返上。
   そのころ会津藩は、蛤御門を警護していたが、門の内に公家の清水谷邸があり、会津藩士が出入りしていた。その清水谷邸にはカラフト探検をした岡本監輔がいて、清水谷公考の家庭教師をしていた。その岡本はカラフト探検の途次、エゾ地で南摩綱紀と秋月悌次郎らと出会い顔見知りであった。
   11月16日夜、岡本が南摩のもとを訪ねると秋月も呼ばれ、三人で酒を酌みかわした。北方の話題が弾むなか秋月が、ふと「昨夜、浪士が坂本龍馬を暗殺」とつぶやいた。岡本が驚いて犯人は?と問うと苦い顔をされた。その表情で「会津藩にとり龍馬は仇敵」と気付き、岡本はそうそうに辞し清水谷邸に戻った。

 1868明治元年、鳥羽伏見の戦い。エゾ地の警備に派遣されていた藩士もこぞって戊辰戦争に投じた。
   しかし、戦い空しく明治維新を迎え、会津の人々は困難に陥った。その後の苛酷な境遇はよく知られる通りで失ったものや事が多い。そうしたなかで、昔と変わらず引き継がれたものもある。会津名物、棒タラと身欠きニシンはその一つである。

 ――― 棒タラは長く固い干物のままでは食べられないから、3~5センチに切り、米のとぎ汁に1~2日浸し、弱火でゆっくり煮る。軟らかくなったら醤油・砂糖・酒を入れ弱火で煮あげる。これを2~3回繰り返す。正月やお祝い、村の祭りには欠かせない料理である。

 ――― ニシンの山椒漬(さんしょうづけ)
   干物を工夫し海の幸を生かした独特の郷土料理。ぬかを加えた水に身欠きニシンを一晩浸し、油を抜く。戻したニシンをよく洗い、えらなどを取って斜めに三〜四切れにする。漬鉢に山椒の葉とニシンを交互に重ねて入れる。醤油、酒、酢、砂糖を煮立てて漬け汁を作り、冷ましてから漬鉢に注ぐ。押し蓋・重しをして四〜五日漬け、発酵させる。調理に防腐効果のある山椒を加えたのは先人の知恵。

   参考: 『福島県謎解き散歩』小桧山六郎2011新人物往来社 / 『福島県の歴史散歩』2007福島県高等学校地理歴史・公民科(社会科)研究会 / 『岡本監輔自伝』1964徳島県教育委員会 / 『新版日本歴史年表』歴史学研究会1990岩波書店 

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