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2017年3月

2017年3月25日 (土)

矢巾町、旧煙山村の明治・大正 (岩手県)

 野球WBC侍ジャパン楽しませてもらった。でも雨のドジャースタジアムで勝利叶わず残念、力が抜けた。友だちからも、脱力感ハンパナイメール、勝負の世界は厳しい。
 夫は甲子園出場経験ある高校の野球部だった。思い出話に「ケツバット」があってびっくり。それでも、厳しく辛い野球漬けを振り返るとき、いつも生き生きしていた。その表情を見ていると、汗と土まみれの日々こそ青春と思えた。春寒の今、甲子園では未来の侍ジャパン候補、高校球児がしのぎを削っている。どこの学校も体罰はないだろうが、練習の厳しさは昔も今も同じでしょう。みんなガンバレ!

 2017年センバツ第89回、岩手県から盛岡大附属不来方(こずかた)2校出場、盛岡大附属はすでに初戦突破。21世紀枠出場の不来方高校のメンバーは少ないが、女子マネージャーは「持ち前の元気と明るさで10人と思わせないくらいチームを盛り上げます・・・・・・真っ向勝負で戦います」と頼もしい。 第4日目、静岡高校と対戦するも惜しかった。静岡は春夏通算40回目出場校で相手にも恵まれなかった。
 とはいえ、三塁手の舟山選手“ピンチでライナー好捕”をはじめチーム全員、精いっぱい活躍。試合後の「最高の舞台を楽しめた。努力はうそをつかなかった」に大きな拍手。このままサヨナラは惜しいので学校所在地の岩手県矢巾町南矢幅(旧煙山村)昔を見てみる。

          矢巾町
 
 矢巾町は盛岡市南方の農業の町。東北本線矢幅駅
      近世に雫石川(しずくいしがわ)から引水した鹿妻(かずま)堰が米作を発展させた。水田が広く徳田米を産出。ところが、盛岡市の住宅地として変容、最新設備のガス処理によるリンゴ貯蔵施設アップルセンターを設立(1996平成8年『コンサイス日本地名事典』三省堂)。 震災被害など現状はどうなのだろう。

 1875明治8年、矢幅停車場のある村で柳田国男生まれる。漢学者・岡松操の6男。
       柳田国男: 明治・大正・昭和期の民俗学者。のち、『紫波郡昔話集』を編集発行し、*佐々木喜善に捧げる。
  *佐々木喜善: http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/06/post-1aab.html 

 1876明治9年8月、行政区改定。南矢幅は赤林村となる。

 1882明治15年2月2日、高橋白命煙山村上矢次の旧家に生まれる。
      高橋白命: 幼い時に家が倒産、そのうえ母を早く亡くす。19歳で岩手県師範学校に入学、貧しく苦心多いなか学業を続ける。早くから歌道に通じ、与謝野鉄幹の「新詩社」思想を愛好したが、地方郷土史の研究を志した。まず紫波郡の研究からはじめ、『志波城変遷史』著し、長詩『礒雞』に考古学上の述語を採りいれ評価される。1905明治38年3月、学半にして病で23歳で死去。死を惜しみ『白命遺稿』を出版頒布。
    栗の葉は松にきくより風軽し 舟のこぐ如ちるはかわゆし
                          (『紫波郡誌』1921岩手県教育会紫波郡部会)

 1887明治20年4月、従来の煙山・赤林・矢次の三小学校を合併して矢次尋常小学校を創設。
 1889明治22年、町村制実施により南矢幅は、赤林・矢次・広宮沢・矢幅など併せて煙山村となる。
    煙山: 語源はアイヌ語のケエムヤビ(舐め登る)より起こったもので、南昌山の全貌が表徴している。
 1900明治33年、矢次尋常小学校に、高等科を併置し、校舎を新築。 
 1907明治40年5月、煙山農業補習学校創立。生徒数70人。
 1908明治41年4月、村社の熊野神社(南矢幅花立)に上堰稲荷神社を合祀し、同時に東宮行啓紀念として社殿を再建。

         煙山村名所旧跡

   *南昌山: 第三紀の噴出に係わる凝灰岩および溶岩等より成る。山中に南昌山神社・*幣縣の滝・笊淵・大滝などの奇勝あり。古くは徳ヶ森変じて毒ヶ森と呼ぶようになったが、元禄期に南部藩主の儒臣が山号を選び南昌山と称し、南昌山と改称。
   煙山館: 城内山とも。頂上に階段の跡を残しわずかに館墟と知る。足利氏の一族、斯波氏の臣・煙山山城守の居館であったが、天正16年斯波氏の没落と共に亡ぶ。
   *幣縣の滝: 南昌山の東麓、岩崎川に上下2爆あり、上の滝は高さ12尺、下の滝は高さ20尺、巾は上下とも15尺あり。幣縣の由来は、南昌山に登る樵夫が、正月8日必ず山神に捧げようと瀑上の古木に幣を懸けたるにより名付けられた(『紫波郡案内』1917菅原七郎編)。

          煙山村・軍人戦死者   (『紫波郡誌』人物誌より)

  戦名     年月日        戦死地       階級・氏名
日清戦争  明治29年2月28日  山東省     煙山村二等卒 中野與五郎
雪中行軍  明治35年1月     八甲田山麓     小笠原寅松
日露戦争  明治38年3月11日 清国奉天付近 上等兵勲八等功七級・松本種松
        明治38年3月5日  揚子屯      一等卒勲八等功七級・小笠原福次郎
        明治38年3月2日  清国小季保子 上等兵勲八等功七級・朴田勝太郎
        明治39年1月21日 弘前病院    二等卒勲八等・藤井権助 
河内観遭難者 大正7年7月12日 山口県徳山湾 海軍三等水兵・松本徳治

    戦争の時代が遠ざかっているが、煙山村だけでも戦死者がいるのを知ると、野球のプレーや観戦を楽しめる平和に感謝したい。長くずっと続くように。  

         煙山村大字南矢幅の大正期

 盛岡市を距たる3里、東は鹿妻堰で徳田村と接す。西は*南昌山山脈により岩手郡御所村に接す。南は不動村に、北は飯岡村に連なり、東北の一隅は小丘をなして見前村界し西方岩手郡との境を画す。高地であるが鹿妻堰、岩崎川の流域は平坦で主要生産地域。
 大字は広宮沢・煙山・赤林・又兵衛新田・北矢幅・南矢幅・上矢次・下矢次。戸数466戸。人口2973人。学齢児童数551人、小学校は煙山尋常小学校1校。

 1912大正1年7月30日、皇太子嘉仁親王践祚、大正と改元
 1913大正2年3月30日、矢次尋常小学校火災で焼失。11月、新校舎を建設。

 1916大正5年、御即位記念「「紫波郡各村記念事業
     煙山村: 造林。旧稲荷街道並木敷地(約3町歩)に落葉松3000本を大正5年度において間植し、将来の収益は基本財産として蓄積するものとす。
     不動村: 耕地整理および貯水池築造。村内の住民共同して30町歩余の耕地整理をなし、尚10町歩内外の地目変換をなし、一大貯水池を築造し潅漑に便せんと目下計画中。
     徳田村: 小学校舎改築。児童控所(教室?)が30年以前の建築にかかり朽破甚だしくかつ危険の処あるを以て、御大礼記念事業として之を改築せんとす。
                        (『御即位記念事業』1916巌手県内務部庶務課編)

 1922大正11年4月、煙山村立図書館設置。図書数・125。佐藤亀治館長。
 1954昭和29年、<岩手縣盛岡市外煙山ガス田について>本島公司・産業技術総合研究所地質調査総合センター『地質調査所月報. 5 (5)』(国会図書館デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/)
 
 1955昭和30年3月、紫波郡徳田・不動・煙山3村合併して矢巾町となる。

                 ・・・・・・  ・・・・・・  ・・・・・・
2017.3.26毎日新聞「白球を追って」
   “盛岡大付 王者を封印” 盛岡大付5 : 1智弁学園
      「10番」強気で初完投
 盛岡大付・関口監督 (初の8強に) ずっとベスト16の壁を破れずにいたので、本当にうれしい。三浦瑞は期待以上の活躍をしてくれた。

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2017年3月18日 (土)

仙台縣・烏賊(イカ)大漁・演説会・民情 (宮城県)

 東北は、美味しいものがたくさんあって景色がいい所。それに加えて震災以来、福島・宮城・岩手を記事にしているうちに興味がましている。震災以来、応援の気持ちで書いてるつもりが今では励まされ、生意気にもお互い頑張りましょうと声をかけたい。
 ところで、3月は卒業・転勤など別れの季節。地元に止まる、県外へ出るなど、各々の道を行くでしょう。息子は10余年前、福島県に転勤。その折、大きな買い物は仙台でと話していた。「勝手知った東京の方がよくないの」というと「仙台の方がいい」。住んでみて地方の良さを実感したようだ。孫たちにも東北は幼い日の心のふるさと。
 明治のはじめ「仙台縣」だった宮城県、明治20年代前半まで「今は昔」をふりかえると、官報にイカの大漁がでていた。宮城は気仙沼のフカひれ、蒲鉾が有名だけど、イカも名物なのか。

 1871明治4年 <辛未: 仙臺縣自今各縣触頭タルヘキ事>
   7月、廃藩置県によって仙台藩の時代は終わり、仙台県が誕生した。登米県大参事だった塩谷良翰参事が県令(知事)心得となり、政府派遣の官僚による地方支配が確立。

 1872明治5年1月8日、仙台県を宮城県と改称
 1873明治6年8月、宮城師範学校を旧養賢堂構内に置く。
 1874明治7年9月30日、山林原野をのぞき宮城県の地租改正修了。
 1875明治8年1月、宮城など東北3県の士族を募り、北海道屯田兵とする。
 1876明治9年6月、明治天皇、宮城県巡幸。8月、現在の宮城県が成立。
 1877明治10年2月3日、宮城県会開催。

 1878明治11年7月、松平正直、県令として着任。明治24年熊本県に転出するまで長く職にあり、近代宮城への転換を一身に担った。同年、河野広中ら東北有志会を開く。

 1882明治15年9月7日、仙台城二ノ丸、雷火のため大手門を残しすべて焼失。
 1885明治18年3月、県下の政治結社解散。
 1886明治19年2月、宮城師範学校生徒の服装を洋服に改める。6月、押川方義ら仙台神学校(のち東北学院)創立。9月、押川ら宮城女学校(のち宮城学院)を仙台に創立。
 1887明治20年4月1日、第二高等中学校(のち第二高等学校)創立。
     12月20日、東北線 上野・仙台・塩釜間開通

     12月27日官報1350号  ○ 塩釜港溢潮の景況

  塩釜港は14日午後2時30頃より満潮となり、同3時頃に至り潮水ますます多く海岸の路上は深さ1尺余の海水横流し、同所水陸運輸会社において損害を被り・・・・・・同港本月初旬より潮水常に高かりしが殊に同日は非常の暴潮にして東方より直ぐに同所へ溢流せしものの如し。

 1888明治21年5月、*仙台鎮台、第2師団となる。
        *仙台鎮台: 軍団。廃藩置県と前後して計6鎮台を設置。 
            師団: 陸軍の平時の部隊編制における最大単位。        

     2月14日官報1384号  ○ 宮城縣烏賊(イカ)大漁

 宮城県陸前の国本吉郡沿海に於いて昨夏以来いうべからざる不漁にして、各浜の漁民は非常の落胆をきわめおりしが、幸いに同年9月下旬より図らずイカの群集あり、引き続き12月初旬まですこぶる漁獲おびただしく、漁夫は老幼の別なく、連夜漁獲に従事し、昼は乾燥をもっぱらに務め、余業をたすける遑あらず、二十有余年ぶりの豊漁なるべし。漁民は数旬の困弊もやや回復し愁眉を開くにいたれり。
 全部の捕収高6,871,650匹、価は20,614円95銭。乾燥高は3,614,080枚、売り上げは3,614円80銭。

 
 1889明治22年4月1日、市制・町村制により県内は1市19町179村に統合。仙台、市制を施行する。

       5月20日官報1764号     ○ 宮城県における演説会
 
     宮城県における本年1月以来の演説会を調査。4月に至りとみに開会の度 数を増し平常に比すれば殆ど3倍以上に及べり
                         1月     2月     3月     4月
 政談演説会認可     2          10        13          32
 演題認可        16      73     82     221(解散1)
 演説者          11          73     82     221
 政談にあらざる演説会 2       2      5       5
                                        
 1890明治23年7月1日、第1回総選挙。

       2月6日官報1979号  ○ 仙台市の民情
 

  宮城県において昨年中、仙台市内の景況を調査するに一般の民情は前年の上京に異ならざれども鉄道開通後、人員出入りの多きと物貨輻輳の激しきとによりその衝をうけ、やや活発の姿をあらわしたるものの如し。
 学術に至りては高等中学校設置以来、諸種の公私立学校ニも入学者を増し漸次振起する勢いあり。
 宗教は神仏信仰者に盛衰なきも、キリスト教信者に至りてはようようその数を増し、殊に新教の如きは英米諸国より,宣教師来住して布教に従事するため、これに帰依する者もっとも多くその信者は青年子弟にあるものの如し。

 市制実施に際して市民は一時党派を結び、おおいに議員選挙の競争を試みたれども、該選挙結了のあとは挙げて新制度の実施に尽力し、さらに確執の痕跡を止めざるものの如し。また年末に至りては衆議院議員の選挙につきややその準備をなすの景況あり。
 七八月の間、*条約改正に関し、市民中これを議論する者多く一時演説、建白などを為す者陸続生出したれども10月以降は漸くその跡を絶ちたるもののごとし。
 9月11日、非常の暴風雨ありし際、米価一時に暴騰し、従って諸物価も非常に騰貴したるをもって米商その他の商売中一時、奇利を博したる者あれども、市民一般に至りては,疲弊の状態なきにあらず、細民の如きは最も困難を極めたるものの如し。しかれども爾後、ようよう旧態に復し年末に至り、やや活発の景況を見るに至れり。

   *条約改正: 幕府が締結した不平等条約を、対等条約とするための明治政府の外交交渉。

   参考: 『宮城県の歴史』渡辺信夫ほか1999山川出版社 /  『宮城県の歴史』高橋富雄1979山川出版社 / 国会図書館デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

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2017年3月11日 (土)

長州人の懐に飛び込んだ会津人、日下義雄(福島県)

 2011年3月11日、東京電力第1原発の3号機が水素爆発を起こした東日本大震災から6年。6年の歳月は小学1年生が中学生、中学生は大学生・社会人と決して短くない。だが今もふるさとに帰れず、困難続きの被災者が多い。他郷で厳しい状況に耐えているのにイジメがある。あんまりだ。どうして、そんなひどいこができる。災難、明日は我が身なのに。 それでも被災にめげず復興に努める人々がいる。

  <被災地に笑顔呼ぶパン――南相馬5年11ヶ月、休まず営業>(毎日新聞)
   避難指示が大半で解除された福島県南相馬市。営業再開後、「地元の人に愛されるパンを作り続けることが復興につながる」と信じ5年11ヶ月間、一日も休まず店を開けている「原町製パン」店の話である。店主の社長と、この春入社する女子高生の明るい笑顔の写真、お店に来る人たちが元気づけられているのが目に見えるよう。

  <雑記帳 「ふるさとカルタ」>(毎日新聞)
   全町避難している福島県双葉町が「ふるさとカルタ」を製作し、初のカルタ大会。
  町の記憶を将来へ残そうと、町民に読み札を募集。寄せられた731件から、方言の「ぬぐい(暖かい)」や名所の「壁画古墳」など46の題材を選んだ。

 ところで、双葉町隣りの大熊町は役場ごと会津若松市に移転している。会津人の祖父母の世代は、戊辰戦争で賊軍となり明治を生き抜くだけでも大変だった。きっと避難さなかの大熊町民に親身でしょう。戦争と原発事故、事情が異なるが自分でどうすることもできない苦境は同じ。違うのはいつ全町民が帰還できるか判らない所。会津は悲惨な目にあったが故郷に住めた。家族を置いて広い世界に出た会津人もいる。会津生まれの日下義雄も中央で活躍したが、同郷人の評価は分かれる。

        日下 義雄  (くさか よしお)

 1851嘉永4年12月25日、岩代国北会津郡若松城下槻木町で生まれる。幼名・五助。父は医師・石田常雄(龍玄)、母は中村はちゑ。 1864元治元年、藩校日新館に入る。
 1868明治1年、鳥羽伏見の戦に参加し.負傷して江戸にかえる。のち大鳥圭介の隊に投じ、榎本艦隊に搭乗して箱館五稜郭に赴き戦いに加わる。
    8月23日、弟和助、白虎隊に加わり会津飯盛山山上で自刃、16歳。
 1869明治2年5月、五稜郭が陥落して江戸に送られ、芝増上寺の寮に収容、謹慎する。

 1870明治3年7月、縁あって造幣寮頭・井上馨の知遇を受け、書生となる。
             大阪英語学校(大阪開成所)に入る。
 1871明治4年2月、アメリカ留学。欧米に赴く岩倉具視特命全権大使一行と同船、清水谷公考・金子堅太郎・中江兆民・山川捨松ら女子留学生など42人と留学。
 1874明治7年2月、帰朝。紙幣寮七等出仕。このころ木戸孝允の知遇もうける。

    ――― ちょんまげから散切り、陣羽織から洋服と急激な変転を見、泰西の文明を吸収して帰朝した灰殻(ハイカラ)は、先ず役人から入って、立身の階段をよじ登ったのである。是れ敗残の会津人が、屈しつつも進むべき、糊口の捷径であったのだ (『時勢と人物』吉野鉄拳禅1915大日本雄辯会)。

 1876明治9年1月、正院7等出仕。5月、議官・井上馨の欧州差遣に随行イギリスへ。滞在中、高木兼寛・馬場辰猪・穂積陳重などの知友を得る。
 1880明治13年10月、帰朝。
 1881明治14~18年、太政官・内務省・農商務省などの書記官・登記法取調局長などを歴任。その間、旧藩主松平家の財政整理に尽力した。
 
 188619年2月、長崎県知事。36歳。4年の任期中、水道敷設、中国水兵暴動事件、火葬場の公定などにつとめ、長崎にコレラ流行などもあった。

 1892明治25年8月、福島県知事(~28年)。このとき内閣は、首相・伊藤博文、内務・井上馨、外務・陸奧宗光、司法・山県有朋らであった。

  ――― 福島県下には自由主義をとるものと、之に反対するものと二政派あり。然るに如何なる事情か両派とも好感情を抱かず、生地会津人においても反目するもの多し。久しく他郷にありて疎遠のなるためか。そもそも郷人の感情を害せるによるか・・・・・・頃日、福島県より上京せる人の話によるに、氏は県下の人望を収めんと欲し、自由党の河野広中氏に通ぜしに、大いに反対党および県民一般の激昂を招き、囂々非難せざるはなしといふ・・・・・・(『地方長官人物評』大岡力1892長島為一郎) 

 1895明治28年、無任所弁理公使となったが、海外派遣の機会がなかった。
 1896明治29年、第一銀行監査役のち取締役。30年、愛国生命監査役。

  ――― 第一銀行は渋澤系の吟行で、その附馬やら何やらが重役になっていて、政治的色彩がない筈だが、唯一人日下義雄といふ代議士が居るので、ちと妙だなといふ感じを与える・・・・・・ 日下は一銀の取締役で、東京貯蓄の専務だ。政治家が本業で、銀行家が兼業のやうに見えるが、目下の所は銀行家が本業だ。由来野心のある男ではあり、身を処するに変通自在の妙を有するから、将来或いは政治家となり、大臣の椅子を狙ふかも知れぬ。若松城下の逐鹿戦に、柴四朗を一蹴した位では、そもそも満足できなかろう(『時勢と人物』)。

 1898明治31年1月、岩越鉄道(磐越西線)取締役。3月、衆議院議員選挙で落選。
 1901明治34年、京釜鉄道専務取締役。京城・釜山を結ぶ鉄道の取締役。
 1902明治35年8月、衆議院議員選挙に当選。 年末帝国議会解散。 翌年選挙に落選。

 1910明治43年、60歳。欧米漫遊の旅に横浜を出航、サンフランシスコ着。諸処を見学、ニューヨークからヨーロッパに向かい、イギリス・ロンドンをへて翌年帰国。
 1912大正元年、衆議院議員選挙に当選。大正9年は落選。
 1917大正6年、会津若松市主宰の明治維新五十年祭に参列。
 1922大正11年11月、麹町区中央邸で稚松会(会長・柴五郎)後援のため、山川浩をはじめ同郷有力者20名が会合。稚松会は会津出身の陸海軍将校の親睦と志願者の奨励のための組織。 この日、会のため各自応分の寄付をし、日下は柴会長より感謝された。

 1923大正12年3月18日、東京本所区向島須崎の自邸にて逝去。73歳。

   参考:『日下義雄伝』中村孝也1928日下義雄伝記編纂所 / 国会図書館デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

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2017年3月 4日 (土)

明治・大正・昭和の小説家・随筆家、永井荷風

 テレビ番組「探検バクモン」を楽しんいるが、先日は<辞書>、広辞苑の編輯部を訪れていた。自分の『広辞苑』をみると、昭和三十八年第一版第十一冊とかなり古い。
 先日、その広辞苑が1600頁でぱっくり割れてしまった。引きづらいし、言葉は変化してるし、第六版に買い替えたらよさそうだが歴史好きの筆者には古い方がいい。
 それにしても、明治期刊行の辞典・事典類はイロハ順、引くのも漢文体を読むのも大変。明治は遠くなったが、その明治から大正・昭和まで活躍したのが永井荷風である。じつのところ荷風の作品はちょっとしか読んでいないが、生き方「エリートになれなかった、それともならなかった」かが興味深い。荷風の祖父は前に書いた鷲津毅堂である。
   “登米県権知事、漢学者・鷲津毅堂(宮城県・愛知県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/12/post-359d.html
 
      永井 荷風

 1879明治12年12月3日、東京小石川区金富町45番地で生まれる。父は愛知県士族・永井久一郎、母は鷲津毅堂の次女。長男、本名・壮吉、別号・断腸亭主人
  ?年  小石川黒田小学校・尋常師範学校附属小学校で学ぶ
  ?年  書画・漢詩・英語などそれぞれの塾に通って学ぶ。
 1897明治30年、高等師範附属中学を卒業。この年、父が文部省会計局長を辞し、日本郵船上海支店長として赴任。父に従い3ヶ月あまり中国で過ごして帰国。
  東京高等師範学校附属外国語学校に入り中国語を学び3年で退き、小説家・広津柳浪に師事する。翌年、習作「おぼろ夜」を発表。このころ、清元・手踊り・尺八の遊芸を師匠について習い、落語家として高座にあがろうとさえした。

 1900明治33年、福地桜痴の門下生として歌舞伎座の作者部屋に入り狂言作者を志した。一年して桜痴に従い、日出国新聞に入社。
 1901明治34年、退職して暁星中学夜学でフランス語を修得。  
 1902明治35年、フランスの作家ゾラに傾倒、「野心」「地獄の花」など発表。
 1903明治36年、25歳。アメリカに渡り、古谷商会などで働く。やがてカラマヅ(?)の大学に入り、半年して日本公使館官吏としてワシントンに赴き、さらに横浜正金銀行ニューヨーク支店員となる。
 1905明治39年、正金銀行リヨン出張所詰を命ぜられフランスへ渡る。このころ、アメリカ女性と恋愛していたらしい。半年後、銀行を辞めてパリに遊ぶ。
 1908明治41年、帰国。「あめりか物語」「ふらんす物語」「すみだ川」「冷笑」などの作品を発表し、耽美派を代表する流行作家となった。

 1910明治43年、慶應義塾文科教授になる。「三田文学」を主宰し、作品を発表。

  ――― 三田派の元祖は永井荷風である・・・・・・荷風によって三田派の存在が意義あるものとなった。従って渠の三田派における勢力は、島村抱月の早稲田派におけるよりも更に偉大である。渠は日本郵船会社横浜支店長永井某の長男・・・・・・荷風には重みもあれば、貫目もあり、昔は知らず、当今は満更馬鹿息子でもない、しかし乍ら昔気質の親爺の目で見れば、小説を読むこと既に仕様のないグータラ息子である。
 すなわちこの 小説を読む事を阻止せんがために、米国に追いやられた。ところが、これが却って仕合わせとなり、米国からフランスあたり遊び回り、思うままに各国の文学や美術や、演劇を研究した。その洋行土産の最初の作品が「アメリカ物語」「フランス物語」である。これによって一躍大家になってしまった。自然主義に行き詰まって何らかの新しい刺激に渇した文壇は、こぞってこの新帰朝者の土産物の周囲に集まり来たり、声をあげて歓喜した
      (『現代之人物観無遠慮に申上げ候』耽美主義の元祖・永井荷風より)

 
  同43年、大逆事件。明治天皇暗殺計画の容疑で逮捕された社会主義者・アナーキストらが大逆罪で起訴される。宮下太吉らの自白以外の証拠がないまま大審院判決で幸徳秋水ら12名が処刑された。<大逆事件>を契機に、荷風は自身の文明批評の無力さを自覚、次第に江戸の戯作者にならう態度をとるようになる。

  ――― 慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々四谷の通りで囚人馬車が5、6台も日比谷の裁判所の方へ走っていくのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない・・・・・・然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった・・・・・・以来、わたしは自分の芸術の品位を江戸作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した
                           (自伝的随筆『花火』より)

 1916大正5年、慶應義塾教授を辞し『三田文学』からも手をひく。
     同年、雑誌『文明』創刊。同誌に「腕くらべ」を連載。

 1917大正6年9月16日~昭和34年4月29日まで書き続けた日記「断腸亭日乗」は戦後公刊され注目を集める。簡潔な文語体で書かれ余情あふれる随筆文学の趣がある。

 1918大正7年、「おかめ笹」を執筆、そのほか多くの随筆を書いた。
 1931昭和6年、「つゆのあとさき」 1934昭和9年、「ひかげの花」
 1937昭和12年、長編小説「墨東綺譚」を発表、好評を博したが戦争の激化にともなって作品発表は困難となった。反俗精神を貫き戯作者的態度を持ち続けたその作品は、敗戦後に発表されて評判をよんだ。         
 1890昭和23年、『荷風句集』昭和丑のとし夏五月、荷風散人。荷風は晩年、風変わりな生活ぶりで話題をよんだが、この句集の「序」でもうかがわれる。

   ――― 過ぎにし年月、下町のかなたこなたに侘住ひして、朝夕の湯帰りに見てすぎし町のさま、又は女どもと打ちつどひて三味線引きならひたる夜々のたのしみも、亦おのづから思返されて、かへらぬわかき日のなつかしさに堪へもやらねば・・・・・・
      子をもたぬ身のつれづれや松の内 
      紅梅に雪のふる日や茶のけいこ

 1952昭和27年11月、文化勲章を受章。
    戦後の荷風の関心は、浅草を中心とする歓楽街に向けられ、死に至る直前までほとんど毎日同付近を散策していた。
 1959昭和34年4月30日、胃潰瘍のため吐血し急逝していたのを、その朝手伝いの婦に発見された。80歳。  

    参考:『現代之人物観無遠慮に申上げ候』河瀬蘇北1917二松堂書店 /『作家論』正宗白鳥1942創元社 / 『近代日本の作家と作品』片岡良一1939岩波書店/ 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院

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