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2017年4月

2017年4月29日 (土)

明治時代初期の宗教家、神学者、山崎為徳(岩手県水沢)

 東日本大震災から丸6年。未だに胸が痛くなる被災地のニュースが少なくない。いっぽう、被災者のがんばりに教えられること、視点を変えることで気付かされたことがある。ふるさとの大切さを教えられた気がする。自分は東京生まれだが近県の小学校に転校、いらい何度か引越し。結婚して今の所に40年住むが、ふるさが感ない。かといって、なにかと都内に行くが生まれた家はなし、ふるさと感はない。人間至るところ青山ありで不足はないが、被災地で復興に励む人々のがんばりに、「ふるさと」って良いものなんだと思う。ふるさとを持っているっていい。やむを得ず故郷を後にしたとしても、ふるさとを思えば辛さや困難をのりきれるのだ。現にネットでは「東北でよかった」と東北愛の投稿が続々となされているようす。
 ところで、東北は歴史的にも戊辰戦争で賊軍とされるなど苦労してきた。でも、挫けることなく、よく学んで活躍した先人は少なくない。その一人山崎為德は、学問や信条に秀で、見込まれ故郷を遠く離れた九州熊本で勉学に励んだ。山崎のふるさと水沢は何人もの優れた人材を生み出している。水沢の人は故郷の先人たちを自慢しつつ励みにしていそう。

         山崎為德  やまざき ためのり

 1857安政4年3月3日、陸奥国胆沢郡水沢(現・岩手県奥州市)、水沢留守藩の家臣・山崎為美の長男に生まれる。幼名、周作。
      *後藤新平斎藤実と縁続きで幼いころから遊び仲間であった。
   ?年   藩校・立生館(りゅうせいかん)で学び、後藤・斉藤とともに水沢の三秀才といわれた。なかでも山崎は秀才中の秀才といわれる。

    *後藤新平: 明治・大正期の政治家。医学をおさめ、衛生行政・植民地台湾統治・都市計画に先見と手腕を示した。1925大正14年、日ソ復交に尽力。満鉄・鉄道院・帝都復興院総裁、逓相・外相・内相・東京市長など歴任。

    <2.26事件、斎藤実(岩手県水沢)>
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/02/226-a686.html

 1868明治1年、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争はじまる。
 1869明治2年6月、版籍奉還。藩主を各藩知事に任命(274人)
       8月12日、胆沢県庁が開設され、旧熊本細川藩士の野田豁通が少参事として赴任してきた。山崎は斉藤とともに野田の学僕(給仕)に雇われた。

 1872明治5年、野田が帰郷のさい、山崎は野田に見込まれて熊本に行く、ときに15歳。
       熊本洋学校に入学、寄宿舎に入る。最初の3年間はキリスト教にふれず、最後の1年を毎週一夜だけ、有志が*ジェーンズ校長宅で聖書を学んだ。
     *ジェーンズ: クリスチャンで南北戦争生き残りの砲兵大尉。母校ウエストポイント陸軍士官学校の厳しい訓育と英国ラグビー中学の人格教育を範に立身出世主義よりも実学を教え、市民社会的倫理を重視した。

 1876明治9年、1月末に有志35人が熊本城西南にある花岡山に集まり、新日本の先駆者たらんと、誓約書に署名(花岡の誓い)。熊本バンドの一員。

    <後進育てた無私の陸軍監督総監、野田豁通(熊本県)>
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/06/post-a86f.html
 
   <存立期間は短くも人材輩出、熊本洋学校(熊本県)>
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/10/post-3598.html

 1875明治8年、開成学校(東京大学の前身)に入学。
 1877明治10年、西南戦争。
     新島襄が京都に設立した同志社大学の前身、同志社英学校の方針に賛同し転校。第1回卒業生。  
  同志社では新島襄の信頼をうけ、在学中から後進の教育にたずさわった。最初の日本人教師・幹事の一人として草創期の同志社に貢献する。

 1879明治12年、郷里水沢の青年たちの招聘をうけ、夏季休暇中に帰郷。プロテスタントの教えを説いた。その時、小学校教員をしていた友人の片桐清治が影響を受ける。片桐は、山崎の招きを受け1880年に同志社に入学する。

 1880明治13年、主著『天地大原因論』を発表。
       著書は、その英才をしのばせるもので、J.D.Davis教授が英文の序を寄せている。そのほか同志社英学校の校務や講演会など精力的に活躍するが、肺結核にかかってしまう。

 1881明治14年11月19日、京都市の新島邸宅内で死去。樋口一葉と同じ24歳の死、あまりに早すぎる。
          京都市左京区の哲学の道南端から登る若王子同志社墓地に墓所があり、郷里水沢大林寺の山崎家墓地には遺髪がおさめられている。同志社にある碑文は、M.L.Gordon教授の撰文。

    参考: “You Tube”「同志社英学教員・新島襄の片腕」(東北文化映像研究所ライブラリー映像館) / 『岩手の先人100人』1992岩手日報社出版部) / 同志社大学HP / ウイキペディア山崎為德

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2017年4月22日 (土)

五色筆(仙台御筆)ほか仙台名物 (宮城県) 

   栗原市と登米市を結んだ鉄道―――2007年の廃止まで「くりでん」の愛称で親しまれた旧くりはら田園鉄道の約90年の歴史を伝える「くりでんミュージアム」
 このミュージアムは、「地域の宝」と保存を訴えた研究者ら2人は岩手・宮城内陸地震(2008年)の犠牲になり、東日本大震災(2011)では客車庫などが損傷。苦難を乗り越え、栗原市が建設した。                     (毎日新聞2017.4.2雑記帳)

 2017平成29年の今年は、伊達政宗公の生誕から450年の記念の年にあたるとか。宮城県内をはじめとした各地で生誕450年にちなんだイベント等が開催されている。もうすぐ5月の連休、おそらく仙台も観光客や親子連れで賑わうでしょう。

 宮城県中央部の仙台、この東北一の大都市の起原は1602慶長7年、伊達政宗が県北西部玉造郡の岩出山から城を移し、無人の荒野に62万石の城下町を建設したのにはじまる。仙台城青葉城と呼ばれ、青葉山丘陵の先端、広瀬川に望んで、要害の地にあった。政宗を祭る青葉神社の祭礼には、古式にのっとった武者行列がでる(平凡社『世界大百科事典』田辺健一)

     『五色筆』 (岡本綺堂1917商人社)
 宮城県は美味しいものがたくさんあって景色がよいイメージ、それに加えて江戸の昔からの手仕事が暮らしを豊にしている。岡本綺堂の「仙台五色筆」で仙台御筆を知り仙台名物に興味をもったが、綺堂は御筆には触れず、人や物を五色(五つ)に書き分けている。
 ..三人の墓(伊達政宗・林子平・支倉六右衛門)、 2.三人の女(将門の娘・紅蓮尼・仙台萩の政岡)、 3.塩釜神社の神楽、 4.孔雀丸の船歌(「鎧口説き」)、 5.金華山の一夜

 ♪鎧口説き―――やら目出たやな、初春の好きひおどし(緋縅)の着長は、えい、小桜をどしとなりにける・・・・・・ 政宗公が愛した唱の続きを知りたい人は、岡本綺堂の『五色筆』をどうぞ。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956425/9?viewMode=

     仙台御筆 http://tetotetote-sendai.jp/sendaiofude/index.html
仙台御筆は、伊達政宗公が京都から筆師を呼んで下級藩士に筆づくりを習わせたのが始まり。慶長のころ小村又兵衛が御用筆師として召し抱えられたと伝わる。その後、三百人町や連坊小路(仙台市若林区)を中心に筆づくりが盛んになり、評判は江戸や大阪・京都へと広がった。宮城野萩を軸とする“萩筆”をはじめ、明治以降にはハギ・マツ・ススキ・ヨシ・タデを軸とした5本1組の“五色筆”なども人気を博した。
 工程は、ひとりの職人が一貫してすべての作業を担う。良質の原毛を使い弾力があって墨持ちがよく、丈夫で長年にわたって愛用できるのが特徴。昭和初期には100軒ほどの工房があったが、現在では「大友毛筆店」を残すのみとなった。創業時と同じ三百人町で、ただ一人となった筆師が伝統の技を守り、筆づくりを続けている。

 以下、仙台○○を紹介 (宮城県 https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/shinsan/15hude.html )

          仙台箪笥
 江戸末期から製造されはじめ,明治大正にかけて現在の仙台箪笥が定着したといわれる。4尺箪笥が原型で木地は欅を主体とし木地呂塗りで仕上げ、牡丹や唐獅子などの文様の手打ち金具で装飾。堅牢で重厚な箪笥で「指物・漆塗り・金具」の熟練した職人技によって生み出される。

 <石澤塗工店:仙台箪笥作りは一時休業状態>
        (東日本大震災における仙台市の商店・事務所の支援活動事例集2014.3.31仙台市市民局市民協働推進課)
  私は父(實)と二人で家業である仙台箪笥づくりの作業の最中に被災しました。電気、ガスは止まりましたが、水道が断水することはありませんでした。自宅建物と家族の安全を確認すると、若林消防団連坊分団員である私は、詰所のある連坊コミュニティセンターに駆け
付けました。震度5弱以上の場合は、自動的に出動命令が下される規定でしたので、迷うことなく行動に移ることができました。他の24名の消防団員も次々に駆けつけ、分担して管内の見回りとお年寄りの避難誘導を始め、避難所にも水を配るなどしました。

      仙台釣竿
 仙台釣竿は藩祖・伊達政宗公も鮎釣に愛用したと伝えられる。宮城県内産の真竹・高野竹などを材料とし、細身の竿は古竹、太い竿は若竹を用い、200もある工程と2~3ヵ月を要して作られる継ぎ竿の名品。一本の竹のように平均して力がかかるように工夫され強さと美しさを兼ね備えた逸品。

     仙台堆朱(*ついしゅ)
 明治時代末期に宮城刑務所に招かれた新潟県村上堆朱の工人・川崎栄之丞によって技術が普及さ、耐熱・耐水性に優れた現在の仙台堆朱の基礎が確立された。木地の彫刻を能率化するために開発された、型押による工法が仙台堆朱の特徴。
       堆朱(*ついしゅ): 漆器の一種。朱うるしを厚く塗り重ねて山水・花鳥・人物などを浮き彫りにしたもの。盆・香盒(こうごう)・印籠などの工芸品に用いる。

      仙台平
 江戸の貞享・元禄の頃に藩が御用織物師を召し抱え、袴・法被・能装束などを織らせたのが始まり。仙台平は著名な高級絹織物で、縦に柔らかく横に張りがあり耐久性に富み、晴れの舞台や芸道に精通する方面で高い評価を得ている。

     仙台張子
 仙台張子は天保年間ころ、仙台藩士・松川豊之進によって創始されたと伝わる。主流である松川だるまは、着色と表情が統一された絢爛たる工芸品で縁起物として親しまれている。ほかに黒面や張子玩具などがある。

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2017年4月15日 (土)

幕末・明治の農政家、斉藤高行 (福島県相馬)

   昨今は結婚式も様変わり、仲人無しはよくあるが頼まれを仲人数回。うち一組は「お金なし親は知らん顔」で式をあげないという。それじゃ淋しいと世話をやいて地元神社で挙式、イマドキ花嫁花婿も感じるものがあったようす。披露宴らしきことを我が家で、20人が鮨詰め状態で私の手料理を食べ、ラジカセで長渕剛「乾杯」をかけ盛りあがった。♪乾杯のテープ、新夫婦へ記念にあげたけど、彼らは間もなく会社を辞めちゃった。風の便りでは元気らしい。
 毎日2017.4.12「雑記帳」 <長渕さんは生徒と一緒に代表曲「乾杯」を歌い励ました>で、あの日の感動と、後日のあっけらかんを思いだした。

◇ 歌手の長渕剛さんが11日、福島県立小高産業技術高(南相馬市小高区)の開校式に登場し、同市在住の芥川賞作家・柳美里さんが作詞、自らが作曲した校歌をギターの弾き語りで初披露した。 ◇ 福島第1原発事故による避難指示が解除された同区にある県立2校が統合し誕生・・・・・・
◇ 長渕さんは生徒と一緒に代表曲「乾杯」を歌い、励ました。「たくさん泣いて、怒って、汗を流してほしい。それが力になる

 ところで学校といえば、たいてい二宮金次郎の像があり、見れば懐かしい。そんなとりとめもないことを思いながら、人名辞典をぱらぱらめくっていたら、「中村藩士・斉藤高行が二宮尊徳に入門」が目に入った。
 薪を背負った少年のイメージしかない金次郎に、武士が弟子入りというのが意外だった。それでみてみたら二人とも思いやりのある立派な人物でした。師も見事なら弟子も同じ、師弟ともに現代にあっても現実をみきわめ、改革を断行できそうに思える。
 なお、斉藤高行の出身地、相馬中村野馬追が昔から盛んで、原発事故で避難中の住民も帰郷して壮観な野馬追に参加、また見物して励まし合っている。それにしても、原発事故から丸6年過ぎたのに元の生活に戻れないなんて、早く何とかならないのでしょうか。

         斉藤 高行  (さいとう たかゆき)

 1819文政2年10月22日、陸奥国相馬中村藩士・斉藤完高の長男として生まれる。通称は粂之助。幼い時から文才に長け、坂谷暘谷に書法を学ぶ。
 1840天保11年、江戸藩邸に勤務し留守書役となるり、従兄*富田高慶(とみたこうけい)を通じて二宮尊徳を知る。
   *富田高慶: 農政家。相馬藩士・斉藤三太夫嘉隆の次男。家録150石。昌平黌儒官・依田源太左衛門の塾生となるも、経国済民の学としての具体策がないので煩悶していたが、二宮尊徳を知り入門。相馬仕法発足につとめた。その後しばしば尊徳の代行をつとめる。

 1842天保13年、中村藩は多年、財政をあやまって30万両の借財を抱え、一カ年の租税でその利子を払うのすら覚束なくなっていた。そこで、斉藤は尊徳に願って報徳仕法を求めた。
 尊徳は中村藩の過去180年間の歳出入を調べて、将来60年間の長計を定めた「為政鑑立基簿」三巻を編んで相馬侯に差し出した。中村藩はこの報徳仕法の実行により藩債の整理ができた(『自力更生二宮尊徳先生行状画譚』石田伝吉1933地方改良協会)。

     <御仕法>
二宮尊徳が考えた「興国安民法」により農村を立て直す方法を二宮仕法(報徳仕法)といいますが、相馬中村藩では、「御仕法」と呼びました。藩政時代は興国(富国)に重きが置かれ、農民の生活は疎かにされがちでした。しかし尊徳は、農民が元気な生活を送ることが国を盛んにすることだと考え、農民に希望を持った積極的な生き方を教えました。
 (相馬: https://www.city.soma.fukushima.jp/rekisi/kouza/2008/200801.html )

 1845弘化2年9月、二宮尊徳に入門し、報徳仕法書の浄書や仕法実践の助手をつとめる。相馬藩においては難村旧復のため同年より、仕法地方改良)が実施される。
   ――― 斉藤高行は中村藩相馬侯の臣下で、学問に秀でて文章に巧でありました。二宮先生の門に入って、深く報徳教を究めて、普及につとめられた人であります。二宮先生の語録報徳外記等の書はこの人の著されたもので、富田高慶の報徳記、福住正兄(まさえ)の二宮翁夜話と共に、教えを知るには極めて大切な書物であります(前出「尊徳先生行状画譚」)。
 
  1851嘉永4年、後仕法掛代官席に就任、富田高慶の指導のもとに仕法実践に従事した。
 1853嘉永6年、真岡・棹ヶ島・花田・日光仕法に尽力した。
 1856安政3年、この頃より富田高慶に代わり、相馬仕法を中心となって推進。
   この年、二宮尊徳が70歳で今市で死去。中村藩では遺髪を葬り、翌安政4年7月墓碑を建立した。墓碑銘は幕臣の筒井肥前守憲政が書した。

 1868明治1年、維新後、相馬復興局総裁・少参事に推されたが応じなかった。そして、ただ実務に尽力した。斉藤は俸禄を受けず質素専一に暮らしたのである。
 1871明治4年、1845弘化2年から続けられていた御仕法、廃藩置県となり廃止。これまで27年間、藩領内226ヶ村のうち101ヶ村について開墾、助貸などの事業が行われた。うち55ヶ村は完了、46ヶ村は施行途中で打ち切られた。
  (相馬よろず街道絵図帖: https://www.soma-kaido.jp/about/nomaoi.html)

 1873明治6年、この頃から、報徳教義の体系化や、民間産業結社の興復社相馬報徳社の設立につとめる。
  晩年: 一時期、大原村(原町市)に隠遁し大原山人と号し居村に助貸法と称する報徳仕法の一法実施して晩年を過ごした。
 1894明治27年6月、76歳で死去。相馬市中野の旧蒼龍寺墓地に葬られる。

   参考: 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂

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2017年4月 8日 (土)

ローマ字日本式(訓令式)・ヘボン式・ 『和英語林集成』

 とある人物の伝記を執筆中、数年がかりでどうにか終章にこぎつけた所。主人公は幕末明治の激動を東奔西走よく働いたが、纏まった伝記がない。遺品や大量の史料が失われるという残念なことがあったにしても、無いとは・・・・・・ 歴史は「あったこと生きたことの記録がなければ、なかったことと同じ」。事績があるのに埋もれている人物、わが主人公以外にもいそう。そのわが主人公が出会った人物のなかにアメリカ人宣教師ヘボンがいる。
 ヘボンといえば「ヘボン式ローマ字」が思い出され懐かしい。周りも同じかと、ヘボン式ローマ字を持ち出したら、「知らない」「初めて聞いた」が居て意外な感じがした。そんな折しも、次の記事(2017.3.21毎日新聞)をみつけた。

        <ローマ字表記混乱 「ti」 「chi」 どっち?>

   2020年度から実施される学習指導要領改定案に基づき、小学校のローマ字教育が従来の国語だけでなく、新たに教科化される英語でも始まる・・・・・・ 学校では現在、ローマ字を原則的に訓令式で教えている。しかし、名前や地名など実際の表記は圧倒的にヘボン式が多く、国際的な身分証明書となるパスポートもヘボン式だ。使い分けに困惑する児童も・・・・・・ 「一本化を」
    ローマ字: ラテン語で表記された日本語。16世紀にはポルトガル語、18世紀にはオランダ式のローマ字がつくられたが普及せず・・・・・・ヘボンが考案した英語風のヘボン式が一般に知られる・・・・・・ 1954昭和29年の内閣告示で訓令式のつづりを正しいローマ字と定める一方、ヘボン式の使用も認めた。

Photo_2
     『ローマ字独げいこ』 (*田中舘愛橘ほか1929日本のローマ字社)
 
 「ヘボン式の綴り方」で、日本式とちがう点。日本式では字を19使いますが、ヘボン式では22使います。その多い分の3文字は、Cc Ff Jj

  独りげいこの内容: 漢字の欠点・国字問題・国字としての仮名・国字としてのローマ字・ローマ字を広める必要・漢字撲滅ではない・今日の実際問題としてのローマ字・早読み練習・読み方問題・ローマ字文のひながた(兎と亀、君が代、日記の雛形(筆記体))など。

    * “文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中舘愛橘”              http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-f325.html

 

     ヘボン(ヘップバーン) Hepburn Jams Curtis  漢字名、平文

 1815文化12年3月13日、ペンシルバニア州ミルトンで生まれる。
 1835天保6年、プリンストン大学卒業。
 1836天保7年、22歳でペンシルバニア大学卒業、医学博士となる。
 1840文化12年から5年間、宣教師として東南アジアに赴き伝道。
 1846弘化3年から13年間、ニューヨークで医術開業

  1859安政6年、来日。
   “日本鎖国の門戸を開いたものは米国水師提督ペルリで、日本人の心の戸を開いた人は医学博士ヘボンである”―――日本通のアメリカ人グレソイスの言葉(『明治文化発祥記念誌』1924大日本文明協会)。
   神奈川の成仏寺内に仮住まいし日本語を研究するかたわら、宗興寺に施療院をつくる。のち、横浜居留地39番に住んでからも診療を続ける。 まもなく、夫人がヘボン塾を開く。のち明治学院となる。

 1867慶応3年、『和英語林集成』第一版、日本では活版印刷が出来なかったので。協力者の*岸田吟香を連れて上海に赴いて印刷、出版。ヘボン式ローマ字綴りを使用。
 1872明治5年、『和英語林集成』第二版を横浜で出版。第一版の綴りを訂正してある。
     * “明治のジャーナリスト・事業家、岸田吟香
       http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/03/post-5df9.html

 1885明治18年、ローマ字会式の綴りが定められた時、従来の綴りが少なからず改良されて、それが我が国を始として西洋諸国にも広まった。第三版には綴りがローマ字会式に改められた。『和英語林集成』が日本語および英語の研究者に与えた利益は多大である(『国語百談』日下部重太郎1915丁未出版社)。

 1887明治20年、明治学院創立。総理ヘボン。
 1892明治25年、帰国してイーストオレンジで静養。
 1905明治38年3月13日、90歳を迎え、明治天皇から勲三等に叙せられる。
 1911明治44年9月21日朝、イーストオレンジで死去。
      博士の訃音伝わるや我が国の新聞雑誌は競って逸事伝記をかかげて偉業と高徳を賞賛して追悼せざるものはなかった (『ゼー・シー・ヘボン博士:新日本の開拓者』山本秀煌1926聚芳閣)。  

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2017年4月 1日 (土)

熊本県、野球の明治・大正・昭和 (熊本県)

 熱戦続く平成29年春の甲子園大会。 猛攻で健大高崎をくだし準決勝に進出した秀岳館高校に、4強の壁が三たび立ちふさがった。 鍛冶舎監督「大阪桐蔭相手に2失点は想定内。やはり打たないと。3季連続4強について)壁なんかないですよ。夏につなげたい」(毎日新聞2017.3.31)。 なお、秀岳館の初めは1923大正12年 八代町立代陽実業補習学校開校、2001平成13年秀岳館高等学校と校名変更。
 甲子園大会決勝は大阪同士の対決だが雨で一日順延。試合は延びたが、惜敗した秀岳館をはじめ全国の高校では夏に向けて猛練習の最中でしょう。プロ野球も開幕したことでもあり明治・大正・昭和の野球、なかでも熊本をみてみる。

 ――― 熊本県では明治初年に*熊本洋学校の英語教師リロイ・ジェーンズが野球を伝えたといわれるほど歴史が古い・・・・・・明治27~28年頃には熊本師範で本格的に行われており、30年には熊本商業にアメリカ人教師マーフィーが赴任して野球を教えた。
 正式の創部は熊本商業が明治31年で最も早く、以後33年に中学済々黌(済々黌高校)と八代中学(八代高校)で創部し、同年中学済々黌と熊本商業が対戦している。
        (『高校野球100年史』盛岡浩2015東京堂出版)
   *熊本洋学校: http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/10/post-3598.html

    ♪ 野球
           作歌・高 孝一/ 作曲・入江好次郎(熊本県師範学校教諭)
       開技
一 守るも攻むるも球(たま)一つ 投げつとらへつ はた打ちつ
  源平二手に分かれたる 運動姿の勇ましさ
  味方は投ぐるストライク 敵は走(は)せいるホームイン。

      投手と打手
二 姿勢正しく投げいだす 球はひらめく電光か
  打ち手気をつけストライク 打てや み空に大フライ
  投げ手気をつけ投球(なげたま)に アウトはスリーストライク。

      捕手と塁手
三 飛ぶ電光の其の球を 掴むや球は右手(めて)の中
  投げ手気をつけ走者(ランナー)は 早二塁へと攻めかかる
  斜めに投ぐる其の球を 受けて花咲く第二塁。

      球拾氏
四 フヘヤヒット(フェヤ)の宣告は フライかゴロかダイレクト
  すは油断すなフイルダーよ ショルト(ショート) ベースマン諸共に
  ショルトのがすな其の球を あわてず取れよ よく投げよ。

五 打ち手いらだつストライク 力をこめてよく打てば
  空に消えゆく大フライ 走せよるフィルダーまち顔に
  片頬に笑みを浮かべつつ ミットの音となしはてぬ。

六 走者(ランナー)得意の滑り込み 首尾よく奪ふ第三塁
  いざ是よりはホームイン しかはさせじと挟みうち
  来たりたすけよフィルダーよ ショルトその外 隙あらば。

      見物
七 勇む撰手の腕前を 眺めんとてかすみ渡る
  天(あま)つ み空に鳴く雲雀(ひばり) こゑもさやかに聞こゆなり
  見る人々の其のさまは 手に汗にぎり肩ゆるぐ。

      終結
八 ゲームセットの宣告に 敵と味方の撰手等が
  先の気合いもいづこにか 手握り合ふて打ち語る
  あな面白の遊技やな あな勇ましの遊びやな。
                 (『小学唱歌教材』1903高浜孝一編・三省堂) 

       <作家・上林暁の日記>1922大正11年7月

   ○ 五校(熊本) 対 七校(鹿児島)対戦記
 弁当持ちで応援に出かけた。正門の前には見物のための群衆が門の開くのを待っていた。白草原に整列して応援団が粛々として武夫原に繰り出した時は、広い武夫原も人に埋まって、熊本、鹿児島両市民が分かれて座を占めていた。
 五高軍方の練習も終わる時分、七高軍が繰り出して来た。試合開始。両軍の応援団は熱狂したが両軍とも無為。第七回、それは我等を泣かしむるものとなったのである。筒井が四球二つだし、敵の石関のために強打され、中堅の大島が受け損じて、一挙、二点を入れしめた。あと最大の努力も功なく、薩軍の健児をして名を成さしめたのである。埃の中にうつ伏する選手。無念の涙にしのぶ五軍。凄惨を極めた空気が武夫原をこめていた。戦って破れた。そこには最早動かすことの出来ない被征服者の弱みがあった。

 翌年7月11日熊本駅集合、七高遠征の途に就く。総勢三百に近い。車中新応援歌を習う。太鼓鳴り、歌声響き、酔声窓外雨。錦江湾と桜島の雄姿を見て心躍る。
 四時鹿児島駅着・・・・・・必勝を誓う。12日朝城山に行く。南洲翁(西郷隆盛)の洞窟と終焉の地をみる。いよいよ戦に入る。七校先攻、1点を先取、五高無念。驟雨至りて30分後ノーゲームとなり引き上げる。
                            (「熊本近代文学館報・64号」)

     <昭和6年度対外試合日数>
 熊本師範学校32 中学済々黌15 熊本中1 鹿本中- 八代中3 天草中- 宇土中11 御船中- 人吉中- 九州学院27(うち県外2) 矢部農- 県立商業30 県立工業68(県外8) 鹿本農- 計187。
            (『本邦中等学校野球部ニ関スル調査』1931文部大臣体育課)

    <昭和19年銃後戦記、熊本県の巻>
                     (『銃後戦記.西部編』1944毎日新聞社)
 ――― 金色燦然たる御紋章期輝く・・・・・・第一線将兵の皆さまに肥後路の戦ひ振りを紹介する私は、先づ熊本師団司令部を持つ森の都、熊本市民たちの日常の戦い振りから筆を起こし・・・・・・  ◇追放せよ敵性語 ◇全部が少年兵へ ◇表彰の千人針婆さん ◇球磨川に挑む乙女―――男を第一線や木材、木炭の増産戦線に送りだして・・・・・・筏の女船頭さんに志願して猛特訓を始めた。

 1945昭和20年、戦争で中断した中等学校野球は、敗戦と同時に早くも各地で再開を目指した動きがはじまった。なかでも、8月15日の玉音放送を奈良公園できいた佐伯達夫の行動はすばやい・・・・・・翌21年2月、中等学校野球連盟が創立された。
 1946昭和21年、朝日新聞に「8月15日から七日間、西宮球場で大会を開く」と社告が掲載された。この大家に向けて各地の状況は・・・・・・
  南九州の大会
  南九州の各県は、予選参加校があまり多くなかった。戦前全国的に活躍した熊本県でも予選の参加校は4~5程度しかなく・・・・・・その中で終戦直後に部の再建をはたした中学済々黌が制した。
 ほか県予選には大分県5校、宮崎県4校、鹿児島県10校
 南九州大会は熊本県の水前寺球場で開催され、各県を制した4校が参加、鹿児島商業が優勝して全国大会に進出した。
                 (『高校野球100年史』盛岡浩2015東京堂出版)

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