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2017年4月15日 (土)

幕末・明治の農政家、斉藤高行 (福島県相馬)

   昨今は結婚式も様変わり、仲人無しはよくあるが頼まれを仲人数回。うち一組は「お金なし親は知らん顔」で式をあげないという。それじゃ淋しいと世話をやいて地元神社で挙式、イマドキ花嫁花婿も感じるものがあったようす。披露宴らしきことを我が家で、20人が鮨詰め状態で私の手料理を食べ、ラジカセで長渕剛「乾杯」をかけ盛りあがった。♪乾杯のテープ、新夫婦へ記念にあげたけど、彼らは間もなく会社を辞めちゃった。風の便りでは元気らしい。
 毎日2017.4.12「雑記帳」 <長渕さんは生徒と一緒に代表曲「乾杯」を歌い励ました>で、あの日の感動と、後日のあっけらかんを思いだした。

◇ 歌手の長渕剛さんが11日、福島県立小高産業技術高(南相馬市小高区)の開校式に登場し、同市在住の芥川賞作家・柳美里さんが作詞、自らが作曲した校歌をギターの弾き語りで初披露した。 ◇ 福島第1原発事故による避難指示が解除された同区にある県立2校が統合し誕生・・・・・・
◇ 長渕さんは生徒と一緒に代表曲「乾杯」を歌い、励ました。「たくさん泣いて、怒って、汗を流してほしい。それが力になる

 ところで学校といえば、たいてい二宮金次郎の像があり、見れば懐かしい。そんなとりとめもないことを思いながら、人名辞典をぱらぱらめくっていたら、「中村藩士・斉藤高行が二宮尊徳に入門」が目に入った。
 薪を背負った少年のイメージしかない金次郎に、武士が弟子入りというのが意外だった。それでみてみたら二人とも思いやりのある立派な人物でした。師も見事なら弟子も同じ、師弟ともに現代にあっても現実をみきわめ、改革を断行できそうに思える。
 なお、斉藤高行の出身地、相馬中村野馬追が昔から盛んで、原発事故で避難中の住民も帰郷して壮観な野馬追に参加、また見物して励まし合っている。それにしても、原発事故から丸6年過ぎたのに元の生活に戻れないなんて、早く何とかならないのでしょうか。

         斉藤 高行  (さいとう たかゆき)

 1819文政2年10月22日、陸奥国相馬中村藩士・斉藤完高の長男として生まれる。通称は粂之助。幼い時から文才に長け、坂谷暘谷に書法を学ぶ。
 1840天保11年、江戸藩邸に勤務し留守書役となるり、従兄*富田高慶(とみたこうけい)を通じて二宮尊徳を知る。
   *富田高慶: 農政家。相馬藩士・斉藤三太夫嘉隆の次男。家録150石。昌平黌儒官・依田源太左衛門の塾生となるも、経国済民の学としての具体策がないので煩悶していたが、二宮尊徳を知り入門。相馬仕法発足につとめた。その後しばしば尊徳の代行をつとめる。

 1842天保13年、中村藩は多年、財政をあやまって30万両の借財を抱え、一カ年の租税でその利子を払うのすら覚束なくなっていた。そこで、斉藤は尊徳に願って報徳仕法を求めた。
 尊徳は中村藩の過去180年間の歳出入を調べて、将来60年間の長計を定めた「為政鑑立基簿」三巻を編んで相馬侯に差し出した。中村藩はこの報徳仕法の実行により藩債の整理ができた(『自力更生二宮尊徳先生行状画譚』石田伝吉1933地方改良協会)。

     <御仕法>
二宮尊徳が考えた「興国安民法」により農村を立て直す方法を二宮仕法(報徳仕法)といいますが、相馬中村藩では、「御仕法」と呼びました。藩政時代は興国(富国)に重きが置かれ、農民の生活は疎かにされがちでした。しかし尊徳は、農民が元気な生活を送ることが国を盛んにすることだと考え、農民に希望を持った積極的な生き方を教えました。
 (相馬: https://www.city.soma.fukushima.jp/rekisi/kouza/2008/200801.html )

 1845弘化2年9月、二宮尊徳に入門し、報徳仕法書の浄書や仕法実践の助手をつとめる。相馬藩においては難村旧復のため同年より、仕法地方改良)が実施される。
   ――― 斉藤高行は中村藩相馬侯の臣下で、学問に秀でて文章に巧でありました。二宮先生の門に入って、深く報徳教を究めて、普及につとめられた人であります。二宮先生の語録報徳外記等の書はこの人の著されたもので、富田高慶の報徳記、福住正兄(まさえ)の二宮翁夜話と共に、教えを知るには極めて大切な書物であります(前出「尊徳先生行状画譚」)。
 
  1851嘉永4年、後仕法掛代官席に就任、富田高慶の指導のもとに仕法実践に従事した。
 1853嘉永6年、真岡・棹ヶ島・花田・日光仕法に尽力した。
 1856安政3年、この頃より富田高慶に代わり、相馬仕法を中心となって推進。
   この年、二宮尊徳が70歳で今市で死去。中村藩では遺髪を葬り、翌安政4年7月墓碑を建立した。墓碑銘は幕臣の筒井肥前守憲政が書した。

 1868明治1年、維新後、相馬復興局総裁・少参事に推されたが応じなかった。そして、ただ実務に尽力した。斉藤は俸禄を受けず質素専一に暮らしたのである。
 1871明治4年、1845弘化2年から続けられていた御仕法、廃藩置県となり廃止。これまで27年間、藩領内226ヶ村のうち101ヶ村について開墾、助貸などの事業が行われた。うち55ヶ村は完了、46ヶ村は施行途中で打ち切られた。
  (相馬よろず街道絵図帖: https://www.soma-kaido.jp/about/nomaoi.html)

 1873明治6年、この頃から、報徳教義の体系化や、民間産業結社の興復社相馬報徳社の設立につとめる。
  晩年: 一時期、大原村(原町市)に隠遁し大原山人と号し居村に助貸法と称する報徳仕法の一法実施して晩年を過ごした。
 1894明治27年6月、76歳で死去。相馬市中野の旧蒼龍寺墓地に葬られる。

   参考: 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂

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