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2017年5月

2017年5月27日 (土)

教育家・郷土史家、阿刀田令造 (宮城県)

 ブログを書くとき、地域の書籍やデジタル資料で調べているが、現今ほんとうに便利になった。卒論を書いていた頃、国会図書館にいって立ちっぱなしでカードを調べて請求していた。それが今では国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/ で居ながらにして検索できてダウンロードして読める。教科書に載っていないような人物をとりあげている身にはとても助かる。
 古いものもさることながら地域ならではの出版物がまたいい。ただ、そうした出版物は郷土の誇り、栄誉を讃え欠点をあげなさそう。その辺を考慮する必要もありそうだが、出自や経歴がわかる。名だけは知る山河が登場すると未知の土地ながら親しみを覚える。そうした郷土の歴史は、日本を知る上でも研究に欠かせないと思う。でも、昔は今ほど大事にされていなかったようにみえる。そうした時代、東大・京大で学問をし、西洋史を研究し著作を著したにもかかわらず、先駆けて郷土史会をたちあげたのが阿刀田令造である。
 阿刀田令造は、仙台藩だけでなく近隣の藩からも入塾する東北で学びの中心、仙台藩の藩校・養賢堂の学頭をつとめたこともある。郷土の研究につとめた阿刀田令造、どのような家に生まれ育ったのだろう。

      阿刀田 令造 (あとうだ れいぞう)

 祖父・阿刀田契仲は、45歳の時、務めていた塩釜神社別当・法連寺住職を1869明治2年、「僧をやめて神(お塩竈さま)に使えよ」という廃仏毀釈により、家財をまとめ船に積み込み、*貞山堀を南下、下増田・東光寺に帰った。時に契沖45歳。
   *貞山堀:ていざんぼり。 宮城県岩沼市南東端、阿武隈川河口北岸の玉浦納屋から海岸に沿って北上、名取川河口の閖上(ゆりあげ)、七北田川河口の蒲生を経由、塩釜市東端で塩釜港に通じる運河。貞山、伊達政宗が掘らせた運河。

 1878明治11年8月7日、阿刀田令造宮城県名取郡下増田村(名取市)、仙台まで3里の地で生まれる。
                父は阿刀田義潮 (よしとも・河東田豊治)。
 1880明治13年11月、契中は養女(契沖の兄の娘)の夫、弟子の阿刀田義潮に職をゆずって引退。
 1889明治22年、義潮は下増田村初代村長となる。以後30年に及び名村長といわれた。

    同年8月、祖父・契沖死去。令造曰く
        ―――祖父に学ぶべきことは多い。身を持すること頗る堅固、人に施すこと極めて厚い。いつ死んでもいいように完全に準備しておいた・・・・・・出処進退を明かにしたこと、之は、やはり学ばねばならぬ。

     ?    宮城県仙台第一中学校(仙台第一高等学校)を卒業
 1902明治35年、第二高等学校(東北大学)入学。
   ?     東京帝国大学(東京大学)に進み、西洋史を専攻。
 1905明治38年、東大卒業。さらに京都帝国大学(京都大学)に進学。
        在学中、真宗大谷派僧侶の近角常観が東京府東京市本郷区で主宰していた求道学舎に寄宿。真宗中学の教職を兼ね、私立京都高女校長となり、夫人と共に経営にあたる。

 1910明治43年、第二高等学校に教授に就任。この間、『西洋歴史講義』刊行。
        以後、1928昭和3年まで、『世界史評論』『西洋史論』を著し、西洋史学者として知られ『西洋史概説』は学生の教科書として用いられた。
 1912大正元年11月13日、第二高等学校教授。九俸給下賜・文部省。
 1915大正4年10月18日、高等官5等・正7位。
     ちなみに同じ日、医学博士理学博士・野口英世、叙勲4等旭日小授賞。
 1918大正7年7月、学術研究のため東京府、長野・新潟両県、12月京都へ出張。

 1930昭和5年、「仙台郷土研究会」を地元宮城県で創設。
       早くから郷土の歴史に意を注ぎ、学校の順跡会を主催。郷土研究を組織して委員長となり、郷土研究の普及につとめた。
 1931昭和6年、機関誌『仙台郷土研究』刊行。
       小倉博(『政宗公御名語集』編者)とともに郷土史家の先駆となった。
 
 1932昭和7年、仙台第二高等学校・第九代校長に就任。これより二高にあること実に33年、徹底した教育方針が評価を受け「名校長」と称された。
 1936昭和11年、『郷土史漫筆』刊行。
      その内容は、郷土研究私見・伊達政宗・林子平・百合若大臣物語・仙台の昔を語る・石巻の歴史を探など。
 1937昭和12年、『尚志会全史』第二高等学校尚志会編、題字・序言を寄せる。
 1943昭和18年、65歳、校長引退。
     戦争末期   養賢堂学頭をつとた。
 1946昭和21年11月、仙台市公民館、初代館長。『仙台市史』編集にあたる。
 1947昭和22年5月21日、病に倒れ三百人町の自宅で没。下増田東光寺に葬られる。

   著書: 『二高を語る』『郷土ものと紀行』『仙台城下絵図の研究』『郷土人として』『郷土の飢饉もの』『郷土飢饉の研究』など。
   家族: 次男の阿刀田研二は生物学者。妻は岸信介・佐藤栄作兄弟の姪。三男の阿刀田徹三は無機固体化学専攻の化学者。作家・阿刀田高は甥。

   参考: 『宮城縣史 29』(人名編)1986宮城県 /ウィキペディア・阿刀田令造 ・<レファレンス協同データベース>宮城県図書館、
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000139491 

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2017年5月20日 (土)

『福島双葉町の小学校と家族 ~その時、あの時~』 (福島県)

Photo 東日本大震災・原発事故から丸6年。被災地から離れていると事の重大さ、復興未だしを忘れがち。何もできないが、せめて会津若松に避難している大熊町の方にお便り。その縁で、『福島双葉町の小学校と家族 ~その時、あの時~』を頂きました。
 読むと、生徒と家族はもちろん周囲を思いやりつつ行動する先生、そして双葉町民の困難が胸に迫る。なお、本編紹介のまえに原発建設に至るまでの双葉町をみてみる。

   <双葉町の沿革>
  二葉南小校舎、清戸迫移転工事中発見された壁画は1300年前の作といわれ縄文式、弥生式の土器など多数発見され(昭和42年)、その他各所に古墳群あり、当地には先住民が定住していた。推古天皇の御代に染羽(双葉地内)信夫、白河に郡衙がおかれ、奈良時代現明天皇の御代、染羽が標葉と改め・・・・・・1492年、標葉氏は相馬氏に滅ぼされ、この地は相馬領として藩政時代に及び、明治の世となる。

 1879明治12年、郡区町村編制法により富岡24会所を廃し、楢葉、標葉郡役所をおき双葉郡となる。
 1883明治16年、旧小部落を連合組織し新山村外32ヵ村、戸長役場を新山村におく。
 1889明治22年、新山村、長塚村、請戸村となる。
 1913大正2年、新山村は町村制施行により新山町となる。
 1950 昭和25年6月1日、官報:福島県双葉郡上岡村を双葉町とする旨、福島県知事から届け出があった(内閣総理大臣・吉田茂)。
 1951昭和26年、県下合併モデル町第1号として新山町、長塚村が楢葉町となる。
 1956昭和31年4月1日、双葉町となる。
 1958昭和33年4月1日、浪江町の一部、昭和35年、中浜、両竹の一部を合併。

 1964昭和39年12月、東京電力福島原子力発電所が双葉、大熊両町に跨がる地内に建設される。町の姿も変貌しつつあり、常磐線が町を横断。
 1966昭和41年、国道6号が開通、さらに国道288号も町を東から西に横断して中通り・郡山に通じ、いよいよ発展の基盤が確立された。

 1977昭和52年、双葉町は福島県の浜通り方部にあり・・・・・・北は浪江町、南は大熊町、西は阿武隈山系、三ツ森山および十万山の稜線に向かって細長く西に伸び・・・・・・国道6号が町の東部を南北に貫き耕地は前田川流域と国道沿い地帯に水田が多く、畑地は西部に点在し・・・・・・
    参考:『福島県の都市計画』1977 福島県土木部都市計画課編(福島県都市計画協会)

 2011平成23年3月11日午後2時46分。原子力発電所が双葉・大熊両町に建設されてから47年。東日本大震災の始まりとともに、それまでの平穏な日々が終わった。

 2017平成29年5月、震災・原発事故から6年、[道の両側には平地が広がり山間部でもないのに、ひんぱんに「動物に注意」の看板・・・・・・広々と連なる田んぼは、田植えシーズンなのに水は無く、一面雑草におおわれています。かたわらに建つ農家は立派で大きな家が多いのですが、人影がありません](毎日新聞2017.5.18)

          **********

    『福島双葉町の小学校と家族~その時、あの時~』 2017 小野田陽子文集
                  コールサック社(東京都板橋区板橋2-63-4-209 03-5944-3258) 

    第一章  その時
  心の中で「こりゃ、だめだ」 ――― 万が一テレビが落ちてきても子どもの方に破片がいかないように教師の事務机でバリケードを作りました。小高い丘の上に立つ双葉北小学校の、三階教室から見える町は・・・・・・。もわ~っと立ち上がった土煙が二階の屋根よりも高くなり、町中を飲み込みました。子ども達には「大丈夫」と言い続けましたが、その光景を見て、心の中では「こりゃ、だめだ」と思いました。
  15ワード?エクセル?一太郎? ――― 手分けして打った避難者名簿は、あとから反省点が・・・・・・先生方がそれぞれ得意とする物で打ったので、あいうえお順や行政区ごとに並べ替えすることができなかったのです。安否確認依頼の連絡が入るたびにみんなで後悔しました。
  21.「先生方、家に帰りたいですよね?」 ――― 夜通し働いている先生方や役場の方々。夜に避難してきた娘も、ずっと私の手伝いをしていましたが、夜中の2時を過ぎるとさすがにふらふらになってきました。午前4時頃。校長先生が「先生方、家族の安否は分かったと思うのですが、自宅を見たいですよね。」避難所になっているので、全員が帰られてしまうと大変。①6時間交替で勤務しましょう。②道路状況が確認できるようになったら帰りましょう。2~3時間後に、全町避難になるなど夢にも思わず・・・
  23.「緊急放送!双葉町民は、114号線を通って川俣に避難!」  27.いつもなら35分の道 その日は5時間!!  31.「原発が爆発しました。くわしいことは分かりません。どうなるかもわかりません」 
   
  47.4月1日埼玉加須市に ――― 役場はなんと、福島県を出て埼玉県に行ってしまいました。・・・・・・主人は、南相馬市の山側にある石神中学校での勤務に戻りました。後でホットスポットが点在していると判明した場所の近くです。住むところはないので校長室や保健室に寝泊まりしていました。義母(82)は体調を崩し入院、義父(90)は足が弱り歩けなくなりました。その中で、わたしが子どもを置いて単身赴任することはできません。今後の勤務がどうなるか分からないまま、埼玉に出発・・・・・・
 高速を降りても、道が全くわかりません。カンで走っていると、コンビニに「いわき」ナンバーの車。見失わないように跡を付けていくと、目の前に騎西高校が!校庭に入ると、久しぶりに目にするたくさんの「いわき」ナンバーが、そして、ものすごい人数の報道関係者。そして懐かしい顔、顔、顔。
  51.4月1日 旧騎西高校で ――― きちんとしたお別れをしないままだった子ども達とやっと会えました。たった一ヶ月会わなかっただけなのに、なんとなく顔立ちが変わっている子が多く、苦労したんだなと思わずにはいられませんでした。逃げた場所は違っていても、今日まで味わった苦労は、きっとみんな似ている・・・・・・
  52.4月の勤務態勢 ――― 埼玉勤務でなくなった先生方は、双葉町の拠点地「ホテルリステル猪苗代」に通うことになりました。
   55.家族が引き裂かれている   68.何から手をつけようか   76やっと帰れる!双葉北小学校一時立ち入り

  82.「死にたい」 ――― 久しぶりにくる子どものメールには「先生、今、苦しいの!」突然「先生お元気ですか」なんて送ってくる女の子が多くいました。そんななか、「わたしが生きてる意味はあるのでしょうか。死にたいです。」というメール、すぐに電話しましたが出ませんでした。
 「あなたが死んだら、私が悲しい。死んではいけない」というメールを送り、双葉のときの担任にも連絡をとりました。結局後日、「たくさんの人がわたしを心配してくれていた。先生、死ぬっていってごめんなさい」とメールをくれました。

  119.心の健康 ――― 「がんばれ自分!」と自分を奮い立たせるのが1年以上毎日続いています。大人も子どももいつまで持つでしょう。・・・・・・ 子どもの世界のこわさを紹介しておきます。ふだんは仲がよい友達は、けんかをすると急に「放射能来るな。」といいます。「おまえ弱そうだな。」と女の子にけんかをふっかけてくる男の子。「女の子を原発ちゃん。」とよぶ男の子。「放射能うつるんでしょ。」と聞く女の子。・・・・・・言われて心に傷を負っても、子どもはすぐに大人に教えません。しばらく我慢して、反撃して、なんとか話せるようになってからやっと「あのね、こんあことあったんだよ。」と教えてくれます。

  121.最後に ――― 浜通りの、からっと澄んだ青い空のよく似合う双葉北小学校。この学校に子どもたちの声がもどる日は、はるか先のことだと思います。でも、子どもたちの心の中に、すてきな思い出と一緒に生き続けるものと信じています。

   第二章  あの時
 町が土煙に飲み込まれた次の日の朝の避難指示。それからどう過ごしてきたかが、小野田家を通して記されている。そしてこの災難は、いつ誰に降りかかるかも知れないのだ。
  29.警戒区域に咲く花 ――― 一時帰宅したとき、人のいない薄汚れたゴーストタウン、きれいな色の花が咲いていました。なぜここにいられないかと、無性に悲しくなります。そんなとき、道ばたの花を見ると癒されます。いつかまた、双葉の家のように、一年中、花の咲く庭に囲まれて暮らすのが、今の夢です。

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2017年5月13日 (土)

<誕生 日本国憲法>展をみて

 なにか知りたいとき、事典や辞書を参考にするが調べたい項目がないこともあるが、その開いた頁で気付くことがある。*吉田東伍をとりあげ『大日本地名辞書』の項をみていたとき、同じ頁に大日本○○会社、○○史、○○会が並んでいた。他の辞書も同じく「大日本」が並んでいたので下記あげてみた。
    <読んで楽しめる地名辞書 *吉田東伍(新潟県)>
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/12/post-6c46.html

 ――― 大日本人造肥料会社・大日本水産会・大日本数学史・大日本精糖会社・大日本租税志・大日本体育協会・大日本農会・大日本言論報国会・大日本古文書・大日本産業報国会・大日本史料・大日本生産党・大日本婦人会・大日本武徳会・大日本連合青年団・大日本労働協会・大日本労働至誠会・大日本協会・大日本古記録・大日本国粋会・大日本国防婦人会・大日本政治会

 このように何かと「大日本」を冠した時代があったのだ。辞典により採りあげる「大日本」の事項は異なっているが、必ず載っているのが「大日本帝国憲法」。
 おりから5月3日は「日本国憲法」記念日。五月の連休は憲法に関する展覧会や講演会が催され、例年よりいっそう関心を集めたようだ。ただのおばさんでも、憲法の行方、運命が気になる時勢である。しかし正直なところ知識がなく辞書をひいてみた。

    大日本帝国憲法: 1889明治22年2月11日発布。ドイツの君主制憲法を範とし、伊藤博文が中心となり欽定憲法として起草、発布。広範な天皇大権を規定。1890明治23年11月29日に施行された日本初の近代的成文憲法。7章76条からなる「不磨の大典」(憲法発布勅語)とされた・・・・・・日本国憲法に対比させ、旧憲法、明治憲法という・・・・・・1947昭和22年日本国憲法の施行により廃止(『近現代史用語事典』 『明治時代史大辞典』)。

 今年、日本国憲法施行70周年を迎え、国立公文書館で<誕生 日本国憲法>展があったので見にいった。【憲法原本】展示コーナーはもちろん、どのケースも見学者が列をなしていた。公文書館は空いている時しか知らなかったので関心が高いのにびっくり。誰しも憲法を取り巻く状況が気にかかるのだ。次はパンフレットから
 ――― 憲法の産婆役として知られ、憲法担当の国務大臣として議会答弁にあたった金森徳治郎が果たした役割にも注目し、国内外の力関係が複雑に絡み合う中で生み出された新憲法誕生までの歩みをたどります。

 今から45年前の『世界大百科事典』の項目<憲法問題>の文末は次のようである。

 ――― 在来の護憲運動を否定する動きが生じてきたことは、注目に値しよう。しかし、全体としては、国民はなお憲法の現状に不満ではなく、近い将来に<改正>が断行される可能性はかなり少ないとみられる。いずれにしても、日本の憲法問題の帰趨(きすう)も、全国民の利害感や意思や判断力にかかっているべきであろう(1972昭和47年)。

 前記文章から45年、新憲法施行から70年たって「可能性はかなり少ないとは言えない」雰囲気。心配の種が芽生えているようで悩ましい。難しい事は分からないし言えないが、同世代に会うと「孫たちが戦争にいくような世の中が来ないように」という会話になる。そして「こんな心配をする世の中がくるなんて思わなかったね」と顔見合わせて、ため息。杞憂にすぎないことを願うばかり。

   日本国憲法: 1946昭和21年11月3日公布、翌22年5月3日施行。11章103条。天皇は象徴とされ国会が国権の最高機関となり、内閣も国会に対して責任を負うと規定された。また国民の基本的人権の保障は飛躍的に強化され、特に戦争放棄・戦力保持禁止を定めた第9条は、国際的にも注目を浴びた。しかし、1950昭和25年警察予備隊が設置されて以後、再軍備が進み、事実上の改憲が積み重ねられた(『近現代史用語事典』 『日本史辞典』)。

 国立公文書館<誕生 日本国憲法展>は終わってしまったが、衆議院憲政記念館の<日本国憲法施行70周年記念展示>は5月30日まで開催。
 「70周年記念展示」は案内によると、「帝国憲法改正案」(内閣総理大臣・吉田茂)と絵画「日本国憲法公布記念式典」など。
 
   参考: 『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社 / 『日本史辞典』1981角川書店 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『世界大百科事典』1972平凡社

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2017年5月 6日 (土)

維新の勲功ある殿様、長岡護美(熊本県)

 5月4日「みどりの日」よく晴れて気持ちがいい。でも、年中休日の身は遠出しない。近所の青葉若葉、もしくは新聞写真、<阿蘇熊本「風吹く草原千年の営み」>で緑を楽しむばかり。ちなみに、写真のコメントは「春の心地よい風が吹きぬける草千里ヶ浜で、朝日を浴びながら草をはむ馬たち
  馬が草を食む向こうに阿蘇の山並みが映えてなかなかだ。かつて訪れた阿蘇の空気までも甦る。あの日、山に雲の影を発見、阿蘇の雄大さに感動して改めて阿蘇の山々、草原を見渡したのを想い出す。
 阿蘇の草原、昨年4月発生した熊本地震にくわえ阿蘇噴火もあり維持管理が難しくなっている。でも、観光施設の支配人はめげずに期待していう。
  ――― 野焼きをして野草の生長を促すことで、今はもっとも緑が美しい季節。観光面での影響は大きいが、地震や噴火も阿蘇の自然のひとこま。ありのままの風景を見に来てほしい(毎日新聞2017.5.4特集)。
 
 さて、熊本の旧綴りは隈本、地名の由来は加藤清正が1607慶長12年に新城に移り、熊本城と称したことにはじまる。熊本の旧国名は肥後、肥後熊本といえば細川家である。藩主・細川斎護の子の長岡護美は、日中両国間の政治・文化交流に大きな役割を果たした。当ブログには珍しいお殿様の登場で幕末から明治、近代日本がかいま見える。

        長岡 護美 (雲海)  (ながおかもりよし)

 1842天保13年9月19日、藩主・細川斎護の五男として熊本城中で生まれる。名は龍之助。
 1850嘉永3年、下野、喜連川藩主・*喜連川煕の養子となる。
     *喜連川藩: 豊臣秀吉が小田原征伐ののち足利義明の孫に跡を継がせたのが始まり。明治維新後、足利姓に復す。
 1854安政元年、護美、養家を去る。

 1861文久元年、兄、細川詔邦に代わり、京師警衛の任務を帯び、*学習院に召される。
     *学習院: 幕末の公家の子弟のための教育機関。文久2年頃から、少壮公家や志士が集まり尊攘派の温床となった。

 1868慶応4年、早くから尊皇攘夷を唱え、公武の間で重視され、参与に任じられる。
     戊辰戦争:東北追討の軍に従い、第二軍副総督・議定職心得・下総常陸鎮撫を歴任。
 1869明治2年、兄の細川護久に代わり京にのぼり、桂宮警衛を命じられる。
 1870明治3年、熊本藩大参事に任ぜられ、熊本54万石の政務をとる。
 1871明治4年9月、廃藩置県が実施され、辞職。欧米留学を志す。
 1872明治5年、軍務副知事、兵制改革に尽力。同年、アメリカとイギリスに留学、大学で法学を学ぶ。

      英京ロンドンの一夜。
月明らかに星稀れにして烏鵲(うじゃく)南飛するさま光景得もいわれず。
 長岡先生そぞろに望郷の念に堪えずやありけん。ヂッと月を眺めて深き感慨に沈めるものの如し。従者この体を見て、何事を感じ居玉ふやらんとその側に進み寄れば、従者を見返りつつ「アレ見よ、倫敦(ロンドン)の月も矢張り円いもんじゃの」

   異国のはてまで同し秋の月 いづくに角の影や見すらん

                  (『赤毛布:洋行奇談』熊田宗次郎編1900文禄堂)

 1879明治12年1月、帰国。麝香間伺候宮中における家族と官吏功労者の優遇資格)、外務省勅任御用掛を拝命。細川家の遠祖・藤孝氏の祀を継ぎ、長岡監物と称る。
 1880明治13年、宮島誠一郎(栗香)らの提唱で興亜会が設立され会長となるも、特命全権公使としてオランダ・ヘイーグに駐剳、ベルギー・デンマーク両国公使を兼ねる。
 1882明治15年6月、任期満ちて帰国。元老院議官、高等法院陪席裁判官を兼ねる。
 1884明治17年7月、華族令により男爵となり、のち子爵。
     *華族: 公家・諸侯を合わせて華族とし、のち軍人・実業家など国家的勲功者も加えられた。1947昭和22年廃止。

 1890明治23年、第三回内国勧業博覧会事務委員。
 1891明治24年、子爵となる。
 1894明治27年7月、日清戦争はじまる。
 1895明治28年、華族会館総代として征清軍人慰問使として遼東半島を巡回。
 1897明治30年、子爵の互選で貴族院議員となる。

     ――― けだし君維新の勲功を以てすれば、旧公卿大名に於いて三条・岩倉・徳大寺・伊達・池田諸侯に次ぎ、藩士出身の名士に対すれば、西郷・木戸・大久保などの人に功を斉しうす、以てその人と為りを知るべし(『立身致富信用公録.第13編』1903国鏡社)

 189831年2月、東亜同文会が結成され副会長となる。
 1900明治33年5月、清国に赴き、李経芳張之洞ら要路の人々と交歓。
     同年10月、『雲海詩鈔』上下巻発行。「雲海」は長岡の号。
           国会図書館デジタルコレクションにあるが、漢詩漢文で書かれ筆者には手に負えない。読み解ければ、幕末・明治好きには知りたい情報が詰まっているが、現代人にとって漢詩漢文は外国語同然、惜しいが割愛。

 1904明治37年、日露戦争はじまる(38年9月、ポーツマス条約)。
 1906明治39年4月8日、死去。
     人となり春風駘蕩、寛厚長者の風格が備わっていたから、中国人側の信望も厚く、当時の両国間の政治・文化交流に果たした役割は大きいといわれる。漢詩のみならず、和歌もよくした。

    参考: 『明治漢詩文集』1983筑摩書房 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂

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