« 2017年5月 | トップページ

2017年6月

2017年6月24日 (土)

放浪の俳人・富士崎放江、晩年は「福島案内」編集(福島県・新潟県) 

   “【福島の歴史守れ】6市町に「レスキュー隊」原発避難地域 進む民家解体 眠る文化財(毎日新聞2017.6.11)”――― 東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示で荒廃した民家から古文書や歴史的遺物などを救いだす「文化財レスキュー」が福島県内6市町村で本格化しているという記事。危機感を抱いた大熊町など、戊辰戦争で使われたとされる弾薬箱や、古い農機具など数百点を救出、将来、展示会を開きたい考えだという。
 大熊町は多くの町民が会津若松市に避難しているから、明治期の会津新聞を探してみた。
 [会津日報]があった。会津日報は1905明治38年創刊、地元紙としてよく読まれていたが1918大7年終刊、合併して消えたという。
 その[会津日報]創刊にあたっ、富士崎放江(ふじさきほうこう)という俳人が福島から会津若松市に迎えられた。それまで富士崎は各地を放浪していたが晩年は福島に住み、蔵書家としても知られる。「田舎魯庵」ともいわれたようだが手許の人名辞典に載ってない。仮にも「魯庵」というからには物識りと思われ関心をもった。

      富士崎 放江  明治~昭和前期の俳人

 1874明治7年12月27日、新潟県水原町に生まれる。本名・和一郎。初号・雅峰。
 1890明治23年、16歳で上京して各地を転々とする。

   福島民友新聞記者として活躍。
    河野広中らによって明治28年5月20日創刊「福島実業新聞」を母体とし、その後いくつかの紙名変更して1899明治32年11月25日付から福島民友新聞となった。
 1905明治38年4月、『会津日報』創刊のため若松市に迎えられる。

 1911明治44年5月5日、『雙巌集』(そうがんしゅう)刊行。
   書肆:印刷者・佐藤貞吉(福島市五月町)、福島新聞社印刷。定価:非売品→裏表紙に「非売品、印刷実費として一冊金参拾蜂銭外に送料金四銭申受けたく候」
   印刷技法:活版 表紙石版色刷り 装丁:洋装 カバー。
    *大曲駒村(おおまがりくそん)が富士崎放江湯浅十框とともに福島県内の俳人たちに呼びかけて河東碧悟桐高浜虚子など来県時の作を持つ県外作者も含め三百人の二千二百句を収載した画期的な選句集。
   編輯者:湯浅為之進(十框、安積郡郡山町)・大曲省三(駒村、相馬郡小高町)・富士崎和一郎(放江、福島市中町)の合選。 

    *大曲駒村 
           1882明治15~1943昭和18年
   江戸川柳研究家。福島県相馬郡小高村生まれ、本名:大曲省三 。
   著書: 『川柳大辞典』『東京灰燼記』『枯檜庵句集』( 小高区役所内 小高観光協会より)

 

 1919大正8年、『福島案内』編集 (萩の舎)
   国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961979 で見られる。写真と短い解説付き。「福島案内」中の今なお残る同所に行って、およそ100年前の写真と見比べたら、歴史を肌で感じられそうだ。

  富士崎放江の晩年: 福島に住み会津日報に健筆をふるい「たらの芽会」を結成。
   俳句は日本派に親しみ、「ましろ」同人。「真葛」「紙魚」などの句誌を発行。
   句集に「江湖放浪句鈔」「冬扇抄」、駒林と共編「雪人句集」、川柳など軟文学にも造詣がふかかった。

 1919大正8年6月、藤金旅館(福島県福島市中町)
     ――― スペイン風邪で主の長治が急死、長男遠藤宗一が相続 人となったが、 後見人として妻リンの信用のあった福島民友社文芸記者・富士崎氏にお願いした。

 1923大正12年、関東大震災。大曲駒村『東京灰燼記』震災ドキュメントを東京市内の罹災地を歩いて見聞しわずか一週間で書き上げ、震災の一か月後に出版。
 1924大正13年、『褻語』(せつご) 私家版、89章から成る小話集を出版。発禁となる。

 1928昭和3年、大曲駒村と共著『誹風末摘花通解』刊行開始。5年を要し放江死後、完結。
 1930昭和5年10月27日死去。57歳。自伝「放浪五十年」があるようだが未見。
      福島市内の信夫山にある墓所に、辞世の句碑が故郷新潟の方に向けて立てられている。
         朝の蚊の 窓逃れ行く 冷しさよ
  

   <福島県立図書館蔵、放江文庫(849冊)
  生涯をかけて収集した蔵書で、主な内容は江戸期の文芸随筆。『蔵書目録 昭和38年現在 語学篇文学篇1』1964福島県立図書館編

   参考:『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『明治時代の新聞と雑誌』西田長寿1961至文堂 / 国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2017年6月17日 (土)

明治の天気予報、天気図を一枚一銭で販売

 朝、曇り空だったけど天気予報を信じて洗濯、干し終わった頃には晴れてきた。天気予報はかなり当たり、予報士の皆さんは季節の食物から着る物の心配までしてくれる。テレビの情報番組、暗いニュースや国会中継など気分が落ちむと天気予報に切り替わるみたい。考え過ぎか。ともあれ、新聞・テレビの親切な天気予は日々の暮らし、行事にも欠かせない。でも昔は、天気予報が軍事機密の時もあったし、気象予報の装置や技術も未熟で詳しい天気予報は得られなかった。では、日本の天気予報のはじまりはいつ、どのように。明治のニュースから拾い出し、ついでに空模様が入った四字熟語を少し。

 1872明治5年7月23日(8.26)、函館に測候所設立。
 1873明治6年、長崎医学校のオランダ人ヘルツによって、香港・上海など海外の気象観測者との間で気象電信による観測結果の交換が毎日行われていた。
 1875明治8年6月1日、東京気象台創設。イギリス人ジョイネルを主任として、毎日1日3回気象観測実施。

 1882明治15年2月 ――― 今度地理局にては、ゲルマン人クニッピン氏を雇い入れになり、暴風の方位を精測せしめらるう由・・・・・・その衝に当たる国へ電報にて告げ知らせ、また各港にては暴風信号表を樹て、もっぱら船の安全を(東京横浜毎日新聞)

 1883明治16年3月1日から、各地の測候所から東京気象台に電信によって集められた情報に基づきドイツ人クニッピングによって天気図が作られ、毎日印刷して配布。
   3月15日、東京気象台、万国共同極地遠征隊の請により臨時磁力観測を開始。
Photo

   4月4日から『時事新報』は全国の気象概報を掲載。

   4月6日 ――― 内務省地理局気象台にて、全国22ヶ所の測候所にて観測せられたるところの精密なる天気図によりて・・・・・・天気の全象を一目瞭然ならしむ。
   5月26日、はじめて暴風警報が出され、電信によって通報。
     <東京気象台の警報が信頼呼ぶ> 福井県下にては、初めて東京気象台より暴風の警報達せしに、須臾にして暴風起こり、たちまち海面に異兆を現せしにより、坂井・敦賀両港のの往復の汽船会社にては出帆を見合わせ、幸いに危害を免れしより以来・・・・・・人民こぞってこれを信じ、この頃にては争うて信号標の建設を企て(東京日日新聞)

   6月1日から派出所にも掲示。
       官報:東京府警視庁告示(五月三十一日)
     ――― 地理局にて日々三回宛天気予報通知相成候筈に付、警察署又は巡査派出所へ便宜 掲示候條此旨心得べし 警視総監 大迫貞清

   8月22日、我が内務省地理局においても今度、同局気象台にて毎日天気図を発行し、新橋及び横浜の両停車場へ掲示して衆庶の便に供えらるる(いろは新聞)。

 1884明治17年6月16日から全国を7気象区にわけて天気予報が出さる。
       7月27日、内務省地理局測量課にて日々刷り出さるる天気図は、航海者または農商上に至便実用のものなれば、人民より請願すれば何人を問わず一枚一銭、一日三枚三銭の手数料と郵税をさえ納むれば毎回逓送せらるる事になりしという(読売新聞)。

 1891明治24年8月、<照り降り人形発売>
      晴雨計人形、一名照り降り人形は、小野道風または婦女子姿などその形は種々なるが、いずれも箱入りにて美麗なる衣裳をつけ、左手に傘を携えており、明日晴天なればその傘を傾き下ろし、雨天なれば傘をさし、もって前夜に翌日の晴雨を示す。代価は20銭、軽便にして天気を予知するを得る稀代の人形なりと(国民新聞)。

 1893明治26年7月から気象通知電報により気象通報を開始。
 1924大正13年3月からラジオによって、1日3回全国天気概況と東京地方天気予報とを開始。

    参考: 『明治日本発掘 3』1994河出書房新社 / 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 /  『明治奇聞・第4編』宮武外骨1925-26半狂堂

     **********

     晴好雨奇 せいこううき)   蘇軾

 山水の景色が、晴れの日に素晴らしいだけでなく、雨の日にもめずらしい味わいを呈すること。晴れでも雨でも、景観がそれぞれにすばらしいことをいう。
 中国の詩人・蘇軾が杭州(浙江省) に副知事として在任中に作った西湖の美しさを歌った詩にもとづく言葉。晴れた日の西湖、雨の日の西湖を、美人(西施)の丹念な化粧、薄化粧にたとえて詠んでいる詩。
 

     櫛風沐雨 (しっぷうもくう)

 風にくしけずり、雨に沐す。風が髪をくしけずり、雨で髪を洗う。風にさらされて奔走すること。また、苦難の道をたどることのたとえ。

     秋霜烈日 (しゅうそうれつじつ)

 烈日(真夏の太陽)も秋の霜も、どちらも草木を枯らすほど激しく厳しいもの。刑罰・意思・権威などがきわめてきびしく強いことのたとえ。
 今の世の中、裁判長に秋霜烈日の威厳をもって判決を言い渡してもらいたい人がいる。とくに威張って世間大衆を踏みつける人たち。

 
     光風霽月 (こうふうせいげつ)

 日の光の中をさわやかに吹く風と、雨あがりに出る澄んだ月。心がさっぱりとしてわだかまりがなく、爽快である人にたとえる。
 霽(せい)は晴れる意。原文は「人品はなはだ高く、胸懐洒落(きょうかいしゃらく)光風霽月の如し」(『宗史』)。
 
   参考: 『四字熟語の辞典』1991三省堂

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2017年6月10日 (土)

秋月・ハーン・漱石・寅彦、旧制熊本第五高等学校(熊本県)

 学校はもちろん、いろいろな場や所で先生と生徒が出会う。同じ先生でも時の流れというか居場所で、意欲や情熱が変化することもある。出会うタイミングによって師弟関係が良かったり、そうでなかったりもある。先生と生徒は互いを選べないことが多く、出会いは運、縁もありそう。そうしたなかで、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)の生徒・寺田寅彦が、夏目金之助先生に教わったのは、二人にとっても日本文学のためにもよかった。

 1886明治19年11月、高等中学校設置。長崎・福岡・大分・佐賀・熊本・宮崎・鹿児島の7県を第五区と定める
 1887明治20年4月、第五区中学校。8月、医学部を長崎に設置
 1888明治21年、第五高等中学校創立。
 1890明治23年10月10日開校式。
        秋月胤永(かずひさ悌次郎)教師となる。11月23日、新嘗祭。秋月が勅語の奉読式を行い、国体の本義・忠君愛国・国民道徳などについて演説。各地から依頼があり出向く。

 1891明治24年8月、文部省参事官・*嘉納治五郎・第三代学校長兼文部相参事官。
      *嘉納治五郎: 明治時代の教育家。講道館柔道の創始者。

        “柔術から柔道へ、講道館四天王” 
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/11/post-ddfb.html

    同24年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)第五高等学校英語教師となる。
 ハーンはギリシャの西、レフカス島の生まれ。フランスなどで教育を受け、アメリカに渡ってジャーナリストなる。渡米中の文部官僚、服部一三に出会って1890明治23年来日。
 服部の尽力で島根の師範学校と中学校に英語教師として就職し、この地の士族の娘、小泉セツと結婚。ついで、熊本に移り五高教師となり、九州各地や関西、四国、関東を訪れた。

 1892明治25年7月、第一回卒業式。一部法科4、文科2、二部工科5、理科3、計14名。
      ――― ああ、思えば多年、九州に於ける最高学府に来たり学べる者にして、孰れか胸中無限の光栄と感激とを有しなかった人があろう。而してその光栄感激こそ、無形の光風ともなり、校規ともなって、後進を鞭據し誘掖しつつあるではないか。

 1895明治28年3月15日 官報。第五高等学校医学部卒業証書授与式。
    医学科第六回 「第一部卒業生」士族(鹿児島・熊本・大分県)、平民(熊本・福岡・長崎)計6名。「第二部卒業生」士族(福岡・佐賀・熊本・鹿児島・広島・長崎)、平民(福岡・佐賀・長崎・愛媛・兵庫)計32名
    薬学科第二回卒業生:士族(長崎・佐賀・大分)、平民(長崎・鹿児島・沖縄・熊本・福岡)計9名。
         第一部法科:26名。第一部文科:12名(福島県士族・秋月胤永) 。
    第二部工科:21名(大阪府平民・山本三二郎)。理科:3名。農科:6名(士族、秋田・田口晋吉、兵庫・中島綱太郎。平民、三重・草川俊造、広島・佐々田源十、山梨・細田多次郎、静岡・岡部喜平)

   同28年5月、秋月胤永辞職。在職5年。
       “神のような人、秋月悌次郎(福島県会津・熊本)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/06/post-4de8.html

   同28年、ラフカディオ・ハーン辞職。3年間。
        ハーンは五高との契約が終わると神戸で英字新聞の社説執筆。翌29年、帰化して小泉八雲となのる。ハーンは、盆踊りや子供の情景や小さな昆虫や昔から伝えられて来ている民話や俚諺などに深い興味を示した。日本の歴史や文化に着目、多くの書物を著して欧米で刊行。
 この後、東京帝国大学で英文学の教師として1903明治36年まで勤め、後任は夏目漱石で、またハーンの後に赴任というめぐりあわせである。

 1896明治29年、夏目金之助(漱石)五高教師。ここ熊本で中根鏡子と結婚し長女筆子が誕生。4年余り滞在した後、イギリス・ロンドン大学に官費留学。
 1897明治30年5月、<官報>北海道平民・七級俸 正七位 夏目金之助 (『文部省職員録』)。
    金之助の送籍: 日清戦争直前、夏目家から分家し「北海道後志国岩内郡吹上町17番地浅岡仁三郎方」に籍を移し一戸を創立。徴兵忌避のためだったよう。
  第五高等学校の教師であった夏目漱石は、正月を過ごすために小天(おあま)温泉(玉名市天水町)へ旅行にでかけ、小説「草枕」を著す。
   同30年、柔剣道正科に<官報> 福島県士族・八級俸 従六位 秋月胤永(同職員録)。

 1898明治31年、五高生徒*寺田寅彦は漱石から英語を学び、漱石の*運座に出席。
     *運座: 人が集まって俳句をよみあい、すぐれた句を互いに選びあう会。この推薦で寅彦の句稿が『ホトトギス』や新聞『日本』に掲載される。
     *寺田寅彦: 物理学者・随筆家。東大物理学科卒業。東京の漱石家の会合で刺激を受け、小品文を書くようになった。すぐれた自然科学者にして近代日本文学史上最大の随筆家と称えられる。

 1900明治33年、学校令により医学部の分立(長崎医科大学)、工学部設立(熊本工業高等学校)。 
        同年9月、漱石、第一回官費留学生としてイギリスへ派遣され明治36年帰国。

 1902明治35年2月、千島占守(しゅむしゅむ)島の開拓者で報効義会長・*郡司成忠大尉来校して演説。職員生徒一同より、金百円を贈呈。
    *郡司成忠: 明治・大正期の軍人、幸田露伴の兄。北方警備と開拓を志した。日露戦争ではカムチャッカで戦いロシアの捕虜となった。

Photo
      後援会・同好会など。
 龍南会:会長・嘉納治五郎、龍南会雑誌部長、撃剣部長・秋月胤永、弓術、柔道、演説、戸外遊撃部長。

 ○有終会: 秋月教授を中心とする予科一級生の会合で、「倫理を講明し、修身を実行すること」を目的とする特殊的なものである。

 ○紫溟吟社(短歌俳句): 発句熱心家によりて創設せられたもので・・・・・・夏目教授と消長を共にせることは申すまでもない(『龍南会誌』)。

 1937昭和12年10月10日、開校50年式典。
    文部大臣代理文部相専門学務局長・男爵・山川健次郎臨む。
     ちなみに50年前の西南戦争、熊本城攻防戦において、健次郎の兄・山川浩は西郷軍に囲まれた熊本市街に一番乗りの活躍をした。明治・大正さらに昭和となって、まさに光陰矢の如しである。

   参考:
 『熊本大学附属図書館報』2003年「ラフカディオ・ハーンと正岡子規・夏目漱石の接点」西川盛雄 / 『五高五十年史』1939第五高等学校開校五十年記念会編 / 『木這子:東北大学図書館報.28』2004.3.31 / 『京都外国語大学図書館報no.198』奥正敬 / 『文部省職員録.明治27年12月』文部省 / 『熊本県広報誌』2006年4月 / 『夏目漱石をよむ』小森陽一1993岩波ブックレット / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂 /国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2017年6月 3日 (土)

法律学者・弁護士、菊池武夫(岩手県) & 陸軍軍人、菊池武夫(宮崎県)

 当ブログは近代日本から題材を得ているが、人物の境遇や立場をみるうち時に往時の世間に漂った不安感を感じることがある。その不安な空気、思い過ごしかも知れないが、よみがえりそうな気配で落ち着かない。そんな思いを抱きながら、『岩手の先人100人』を開いていたら、<中央大、法政大の創立者>法律学者で弁護士の菊池武夫の名があった。
 よい人物がいたと資料にあたると、官報に名があるのはいいとして、「天皇機関説・美濃部達吉を攻撃」というのがある。あれッ、同じ人?どうもおかしい。人名事典をみると学者と軍人、二人の菊池武夫が並んでる。そして、学者の菊池がアメリカ留学に出発した年、軍人の菊池が生まれており、生地は東北と九州に分かれる。明治維新後とくに、生地が賊軍となってしまった東北、政府軍についた側かが運命を分ける。家柄もまたであるが、それらを含めて二人の菊池武夫をみてみたい。

      菊池 武夫 (岩手県

 1854嘉永7年7月28日、旧南部藩、目付役町奉行また用人役をつとめた菊池仙助(のち長閉)長男として生まれる。幼名・香一郎。
 1865慶応元年ころ、藩校・作人館で学び、藩儒、*江幡五郎(那珂通高)の指導を受け、門下生になる。
     *江幡五郎: 那珂通高、梧楼とも。儒学者で吉田松陰や木戸孝允と親交があり、同藩・明義堂の教授で幕末の志士。
  “東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-fbfd.html

 1868明治元年、14歳。戊辰戦争がおこり、家に帰る。
 1869明治2年、学問をしたく身一つで東京にでる。麻布の南部藩邸に身を寄せ、南部英麿に近侍すること1年余。英麿が帰国することになり武夫もやむを得ず帰郷。
 1870明治3年、英麿の兄、南部利恭の近侍となり藩の修文所で学ぶも、官費上京を命ぜられて上京。
      伊藤庄之助について英語を学ぶ。推薦で南部藩の貢進生として大学南校(東大の前身)に入る。開成学校と改称され、新校舎に移り寄宿舎に入る。もっぱら法律学を学んだ。同じく勉学に熱心な同期生に法律学者・鳩山和夫がいる。
 1875明治8年7月、文部省留学生に選ばれた11人の一人として法律研修のため渡米。ボストン大学で一年半、全科卒業。法律*得業士(卒業者証)の称号を受ける。なお引き続き憲法議院法を研究、ボストンの裁判所に入り、訴訟実地および代言(裁判)事務などを講習して1880明治13年アメリカを去る。
     *得業士: 得業生。欧米大学のバチェラーを模したものと思われる。

 1880明治13年10月、イギリス・フランス両国を視察し帰国。11月、司法省出仕。
 1881明治14年2月、代言人(弁護士)試験委員となる。12月、東京帝国大学(開成学校)法学部講師を兼務。
 1882明治15年2月、代言人試験委員。
 1884明治17年9月、司法少書記官として記録局翻訳課詰め兼民法局詰めとなり、大学法学部学生の指導官に嘱託され、以後数回に及ぶ。
    菊池ら洋行帰りの新進教授たちは大きな西洋カバンを抱えて人力車に乗って大学の講義に向かい、学生たちはそのさっそう振りに憧れたという。

 1885明治18年7月、判事登用試験委員。
    法学科志望の学生が多くなったのと法学教育の普及を痛感、同志と図って東京府神田錦町に英吉利立法律学校(のち中央大学)を創立。
 1886明治19年3月、33歳。山田顕義司法大臣の秘書官となるもわずか1ヶ月で文書課長に転じ、正6位を授けられた。この転出は薩長閥で固められた内閣に学者として、南部藩出身として仕えにくかったらしい。4月、判事会理事員。民法草案編纂委員。
 1887明治20年3月、検察官会理事員。法律家のうんちくを傾け、厳正公平な検察官として国民の信頼を博するよう求めてやまなかった。8月、山田司法大臣北海道および奥羽巡視随行。11月、司法省文官普通試験委員。
 1888明治21年5月、わが国における最初の法学博士。鳩山和夫・箕作麟祥(水沢出身)ら5人とともに学位をうけた。

 1889明治22年、英吉利法律学校を改称して東京法学院(のちに和仏法律学校と合併し法政大学と改称)を創立。公務の余暇は常に東京法学院講師として教授、後進の法学教育に情熱を注いだ。
 1891明治24年、司法省身民事局長となったが、官を辞し弁護士となる。要路筋や庶民や会社・官庁など依頼が引きも切らずであった。菊池の法廷弁論は簡潔無比、一の美辞麗句も用いず30分以上に及ぶことがなかった。また、多忙な身であったが、一方で法典調査編制に努め、わが国の法体系整備に寝食を忘れて打ちこんだ。
     12月22日、貴族院議員に勅選され、死去するまで在任。
 1894明治27年、『古代法』東京法学院27年度第3年級講義録。 
 1899明治32年、『沿革法理学』東京法学院32年度講義録。
 1903明治36年、法律学校を東京法学院大学と改称。のちの中央大学、学長となる。官途を去ってから自ら学院長や学長を引き受け、教官も東大その他、訴訟実務にたずさわる者を招き、充実につとめた。中央大学に進む者も多く、また、昼間働きながら夜間の講座を聴講する勤労学生もふえた。司法試験合格者も高率であった。

 1912明治45年7月、創立から院長・学長まで28年間も関係し、心労のあまり肺患におかされ大学の卒業式に倒れ、死去。59歳。中央大学市ヶ谷キャンパスに胸像。

   ――― 人となり温厚にして才敏、弁舌明確、一言にして人よく之を了す。また常に人に語りて曰く、法律は元と実地応用の学なるに学者おうおう空理に失して、之が適用如何を顧みざる者あり。あに又戻らずや(『帝国博士列伝』)
    

      菊池 武夫 (宮崎県)

 1875明治8年7月23日、中世以来の肥後国の名族、菊池氏の家に生まれる。父は旧米良領主・菊池武臣。明治なって家族に列せられ男爵。
    学習院中等科・陸軍幼年学校
 1896明治29年、陸軍士官学校卒業、7期。
 1897明治30年、歩兵第23連隊付少尉。34年、陸軍大学校入校。
 1904明治37年、日露戦争に中隊長として出征。
 1906明治39年、陸大卒業後、第16師団参謀、第64連隊大隊長、歩兵第11旅団長などを歴任。
 1924大正13年、奉天特務機関長。
 1927昭和2年、予備役となり、勤労連盟をはじめ右翼団体に関係。
 1931昭和6年、貴族院議員

 1934昭和9年、商工大臣中島久万吉が雑誌『現在』に執筆した「足利尊氏」に中島が「逆賊」である尊氏を礼賛しているとして議会で糾弾し辞任に追いこんだ。

 1935昭和10年、当時の憲法学の通説だった*天皇機関説を攻撃、その先頭にたった。
    *天皇機関説: 国家は法人であり天皇はその最高機関であるとする憲法学説。美濃部達吉の著『憲法撮要』などが代表的。
     菊池は軍人出身で法律学の専門家ではなく、天皇機関説の趣旨を全く誤解して東京帝国大学法学部教授・美濃部達吉を批判した。その結果、美濃部は貴族院(勅選議員)から追われた。

 1939年和14年、第8回伯子男爵議員選挙に落選。
 1941昭和16年、亜細亜大学の前身となる興亜専門学校を設立。初代校長と運営母体の財団法人興亜協会の初代理事長を務める。
 1945昭和20年敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部よりA級戦犯容疑で逮捕。
 1947昭和22年8月、不起訴処分となって釈放。
 1955昭和30年12月1日、80歳で死去。

   参考:  『岩手の先人100人』1992岩手日報社(菊池武夫の項・遠山崇) / 『コンサイス日本人名辞典』三省堂/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男編 / 『帝国博士列伝』萩原善太郎1890敬業社 /http://kindai.ndl.go.jp/ 国会図書館デジタルライブラリー 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2017年5月 | トップページ