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2017年12月16日 (土)

「殿もお覚悟なさってください」直言する宗川茂弘と一族(福島県)

 あまり知られてない人物を好んで紹介しているが、幕末明治なら薩長土肥の藩閥出身でなかったり、敗者の側だと埋もれてしまいがちである。会津人はその最たるものだろう。
 柴五郎を知って会津贔屓になったが、会津藩士、宗川茂弘(勇之進)と一族もすばらしい。茂弘は会津藩儒者、会津藩主松平八代・九代二君の侍講、明治期に札幌資生館長とあるが、資生館が分からない。それを調べるうち、あらためて当時の会津人の困難が思いやられた。

        宗川 茂弘 (勇之進)

 1797寛政9年9月、宗川安右衛門茂京の長男に生まれる。名は勇之進。母は上島氏。
 1807文化4年、10歳で素読科を終え「史記評林」を賜る。
 1814文化11年、17歳、「五経新註」を賜る。これより安部井褧(けい)に学ぶ。
 1823文政6年、家を継ぎ、用所役18石3口俸を賜る。
 1839天保10年、儒者見習となり右筆の上に班す。26石4口俸を賜る。
         会津藩儒者として、八代藩主・容敬、九代・容保の侍講になる。
 1856安政3年、引退を願うも許されず
 1857安政4年3月、60歳。引退を許される。
     妻は栃木氏。長男・熊四郎茂友、二男・熊五郎尚志(のち長崎氏を継ぐ)。異母弟あり茂という。
     妻が早世したが直ぐには再婚せず、引退後再婚し家事を手伝った。
 1860万延元年ころ、河沼郡浜崎に赴き、書を講じ、畑を耕す。
       河沼郡:かわぬまぐん。福島県西部の中ほどにある会津5郡の一つ。

 1862文久2年、仲が良く優れた学者の弟、10歳下の宗川茂を喪う。
 1863文久3年、茂弘66歳、「予老いたり帰りて子孫の養を受けん」と家に帰る。

 1868慶応4年、戊辰戦争はじまり軍事局に出仕、藩主容保の側近く仕える。72歳の茂弘は戊辰の戦の終わり近く、藩主容保に直言し励ます。

     「国君(藩主)の社稷(領国)のため 死するは 古今の通義(普通にとるべき筋道である) 他の女々しい領主のなさり方にならってはいけません。君の咎(とが)を明らかにすることができなくて、この様な悲惨な状態になってしまったことは、運のつきと申すしかございません。伏してお願いすることは、殿もお覚悟なさってください。仕えている侍たちも、すべてお供する覚悟です」
と、まっすぐに申しあげ、殿から
 「諸侍を励ますために漢詩を読め」といわれ、さっそく詩を詠む。次はその読み、

   暖衣飽食 常に枕を高うし
   秋月、春花共にさかづきを挙ぐ
   一代の栄華初めて醒む
   欣然として笑みを含み、長槍を執る(後略)

 1869明治2年9月、戊辰戦争の会津戦いで降伏した会津藩の捕虜を、新政府の兵部省(海陸軍の軍令・軍政を司る)は、蝦夷(エゾ)地の小垂(小樽)・石狩・発作部(発寒)へ移住させることにした。
 この会津降伏人移住計画は、高齢の茂弘にとり生やさしいことではない。しかし、家族とともに後志国小樽へ移住する。
 1871明治4年、石狩湾にのぞむ余市に移り、郷校(日新館)の子弟の教育にあたる。
     同年、開拓使により札幌に小学校、資生館が創設され茂弘は資生館長を命ぜられる。
 資生館では官費・自費の生徒をおいたが、翌5年11月、廃止。教則を改め英語・数学・漢学・習字の4科を設け札幌学校と改称される。茂弘は老齢をもって辞す。
 ちなみに資生館は、札幌市立資生館小学校として今に名をとどめている。

 1877明治10年~12年、会津に長男・茂友ら家族と会津に帰る。
    河沼郡窪村に居住、村の子ども達が教えを乞いにくると懇ろに教えた。
 そうした宗川茂弘を評して『近代日本に生きた・会津の男たち』の筆者はいう ――― 開拓の目鼻がついたが、孫の虎次の健康が農業に適していなかった(小児麻痺)ことと、自分自身の老齢による。まことに立派な引きあげと言える。
 1882明治15年6月6日、病を得て死去。85歳。極楽寺に葬られる。

        宗川 茂 (しげし

    1806文化3年~1862文久2年。宗川茂弘の弟。
 朱子学を修め、孫子の兵法を講じた。諸子百家の書に通じ、碩学(大学者)と称せられ、その門から、会津の名士を多くだしている。門弟をあげると、秋月胤永かずひさ)・広沢安任(やすとう)・安部井正治長岡久茂柿沢勇記などなど

  “秋月・ハーン・漱石・寅彦、旧制熊本第五高等学校(熊本県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/06/post-f59c.html

  “道の駅みさわ・斗南藩観光村、広沢安任 (青森県・福島県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/08/post-dd86.html

 茂は、藩主の侍講である兄の長屋の一室を借りて、研学にいそしみ、貧しい家計を助けるため塾の先生となって兄を助けた。茂は母親孝行で、兄と非常に仲が良く、由緒ある宗川家を大切にした。著作「独言」「しのぶるたね」「哀々記」「ちらんもをし」などは今も保存され、読むと示唆されるという。
 前出『会津の男たち』に茂の人柄をしのばせるエピソードが掲載されている。また、東海散士・柴四郎、秋月胤永、ハーンなどの記事もある。

        宗川 茂友 (熊四郎)
 

 1830天保元年、宗川茂弘の長男に生まれる。
    ?年、 御供番、二十六石四口俸。宝蔵院流の槍の名手。会津藩の槍術は天下に聞こえていた。茂友は日新館の宝蔵院流の槍術道場の高弟であった。ちなみに柴五郎の兄、五三郎も槍の名手で、「禁門の変」(蛤御門)では長州の兵に槍で応戦。
 1868慶応4年、茂戊辰戦争時、砲兵二番隊長

    * 息子・虎次の追憶談(『会津史談会誌16号』): 「父熊四郎は年四十で京都勤番から帰国し、朱雀半隊頭に任ぜられ、出陣の際には、少年時代から武者修行して宝蔵院の槍を以て固めた身であるからとて鉄砲を担がず、太く短い一本の槍を提げ、山川大蔵殿と日光に赴き、幕臣大鳥圭介諸氏と共に防戦し、後、中地口」へ。
    * 『慶応兵謀秘録』では、8月19日の原宿で「宗川は會津藩にして、当時三番隊(幕軍の第三大隊)之頭分」。また、
    * 河原勝治によれば、「私の叔父・原惣五郎は宗川熊四郎の砲兵隊に属し、三の丸にて負傷」。宗川は砲兵二番頭となり、四百石を与えられたという。
        
 1869明治2年9月、戊辰敗戦後、東京(旧幕府の講武所)で謹慎。
    【蝦夷地詰惣人別帳】(えぞちづめそうにんべつちょう、会津若松市立図書館蔵)は『蝦夷地詰惣人別帳 一番組』『蝦夷地詰二番組人別』の2冊からなる。
 兵部省は、戊辰戦争戦犯の罪で東京に謹慎中の旧会津藩士を、贖罪のため200戸を募り、二陣に分けて北海道開拓と警備のため移住させた。
 「一番組」筆頭に宗川熊四郎の名がある。
 次は熊四郎が北海道へ渡る際に容保が贈った歌

     我はまだ蝦夷地知らねども蝦夷が島 寒しと聞けば心して住め

 会津人は、兵部省が斡旋してくれた借家に入り、「一日一人ニ付き玄米一升宛並ニ銭百文ノ支給」され、極北の寒さに耐えながら、次の施策を待った。
 ところが、兵部省が当初、会津人たちを入植させようとしていた札幌郡が新政府の命で、開拓使が経営することになってしまった。札幌郡は旧幕府によって開かれ、農業生産性の期待できる土地であったので落胆は大きかった。兵部省開拓使の仲が悪く対立していたのである。仕方なく待機する間にも、第二陣が入港し小樽の会津人は二倍に増えた。
 1870明治3年春、新政府は会津人の生活を取りしきっていた兵部省の管轄権を剥奪してしまった。会津人は新政府に庇護を願い出たが、「扶助などの一切を旧藩に仰ぐべし」と布達。
 本藩の維持さえ困難な斗南藩であったから、救済など期待する方が無理であった。

 1871明治4年正月、宗川熊四郎を筆頭に所帯主186名が連名で黒田清隆開拓次官あてに血判を押した御受書を提出する直接行動に出た。
 血の請願書には、代表者宗川熊四郎ほか185名、別に松本幸吉(吉弘)以下33名の氏名も記入されており、合計219名となる。

 樺太開拓使(明治3年開拓使より分離)では、樺太の受け入れ体制を整備するまでの間、ひとまず会津人たちを余市に移すことにした。
  同年6月、小樽残留のうち、まず100世帯が荷物は船で人は24kmを徒歩で余市に入った。最終的に200世帯が人跡まれな余市に移った。
 そうこうする間に樺太開拓使が廃止され、これを機に会津人たちは余市川流域に広がる余市平野を開拓することを開拓使に願い出て許された。余市に踏みとどまり開拓使の保護下にあって生活も保障された。

 血判までして樺太開拓を願い出たが、開拓使と樺太開拓使の統合によって余市に永住することができたのである。その間、会津人にために努力してくれたのは開拓使の黒田と、仲間で常に先頭にたって奮闘した熊四郎らである。

   “余市りんごと会津人の困難(北海道・青森・福島)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/01/post-132c.html
 
 1892明治25年8月26日、会津尋常中学校武芸演習所開設により武芸掛に任命され、教師をつとめ、明治27年6月30日、退職。
    ちなみに会津中学校に柴四朗柴五郎がそれぞれ講話をしに訪れ、柴太一郎も南会津郡長として、学校の拡張などに関わっている。
 1904明治37年3月8日、死去。74歳。

   参考: 『会津藩教育考』小川渉1942井田書店 / 『近世日本国民史』徳富猪一郎1946明治書院 / 『札幌沿革史』1897札幌史学界 / 『近代日本に生きた・会津の男たち』2003会津武家屋敷 / 『会津図書館百年誌』2004会津若松市立図書館 / 『北辺に生きる会津藩』2008会津武家屋敷 / 『会津中学校五十年史』1940福島県立会津中学校 / <柿沢勇記 1> http://www.geocities.jp/aogiri40/yuuki.html

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コメント

初めまして。三島市在住の高井と申します。
妻は、宗川勇之進から数えて6代目の子孫です。
宗川虎二が曽祖父、熊四郎は高祖父に当たります。
そのような家系ですが、ルーツを辿って、会津や、余市に何回か足を運んでおります。先年お亡くなりになりましたが、「余市移住旧会津藩士の足跡」をお書き下さった郷土史家の前田克己先生にもお会いし、美園の墓地にも二回ほど伺って墓石を調べさせて頂きました。余市に入植した会津藩士の子孫の方ともお付き合いをさせて頂いております。
この度は、宗川一族の「世間には余り知られていなかった」祖先の偉業をご紹介を頂き、感謝しております。ありがとうございました。
会津藩諸士系譜の元となったより詳しい系譜図なども所有しており、こつこつと先祖の活躍を読み解いたりしております。機会がございましたらまた、宗川一族のお話も取り上げて頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。

投稿: 高井純一・真喜子 | 2019年9月17日 (火) 16時12分

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