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2017年12月23日 (土)

サンフランシスコのスクールボーイから政治家へ、菅原伝(宮城県)

 2017平成29年もあとわずか、今年もいろいろあったがなかでも天才中学生棋士と最高齢棋士の対戦が世間の注目をあびた。昔は縁台将棋をしていたり、挟み将棋をして遊んだり将棋は大人はもちろん幼い子どもにも身近かだった。夫が「桂馬の高跳び歩の餌食」といってたのを妙に覚えている。そんなこんなで家に折り畳み将棋盤があった筈と探したが見つからなかった。
 昔、将棋人口は多かったからあちこちに素人名人がいたと思われ、実業界や政治家もその例にもれないだろう。次は『財界人を語る』から引用、

       菅原伝氏     
 ――― 大橋新太郎氏と同じく中飛車で有名だ。昨年、交詢社(菅原)と日本倶楽部(大橋)の対抗戦があった時、両中飛車の顔がピタリとあった。
 盤上風雲が巻き起こって、忽ち、火の出るような戦闘が開始された。初め大橋氏の矛先鋭く、菅原勢をまくし立てたが、中盤に行って盛り返された。そしてとうとう大橋氏が負けた。
 どちらも両刀使いで、口と手と両方を働かせる。然し、棋勢が悪くなると、どう云ふものか口の方が働かなくなる。菅原氏は最初沈黙気味であったが、中盤で盛り返してからは、得意の両刀を使って大橋氏を悩ました。(中略)
 菅原氏の中飛車は、縁台将棋で見るような原始的の形である。大橋氏の如く磨きを掛けていない。そこが却って多年政界で苦節を守って居る志士らしくて、いい。然し、氏の中飛車は形が原始的でも、其の運用が旨い。大橋氏と等しく、終始一貫して同じ形で戦って居るのだから、攻防の駒捌きが手に入って居る。
              (石山賢吉『財界人を語る』名士と将棋1931ダイヤモンド社)

       “博文館*私立大橋図書館、大橋佐平・大橋新太郎(新潟県)”
      http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/10/post-f67e.html

        菅原 伝 (でん/つたう)

 1863文久3年8月23日、陸前国涌谷(宮城県中北部、伊達安芸の居城地)に生まれる。父は菅原應助といい武術が得意、戊辰戦争の折は国境で戦った。
 1879明治12年、東京大学予備門ついで東京帝国大学に入学、政治学を学ぶ。
 1886明治19年、23歳。アメリカ・パシフィック大学に留学し政治法律を学ぶ。

 ――― その時分、桑港(サンフランシスコ)にスクールボーイ(就学生)の団体みたやふな者があって、日本の貧学生が寄って勉学していた。丁度そいれが何千名と云ふ程おったろふ。彼らは一心不乱に勉学して、労役の傍ら中学や大学に通う手筈を付ける。菅原と日向輝武は在留日本人を世話する桂庵(私設の労働紹介所)を開いた・・・・・・
 日本から外国へ往いて、トントン拍子にセリ上がった者はこの両人位だろうふ(『成功と失敗』宮村無声1903又間精華堂)。

 1888明治21年、時事を慷慨し同志と共にそのころ挫折しはじめた自由民権の論理を説く論陣を張る。サンフランシスコに愛国同盟会を組織し、自由党に入党。
   2月1日、同盟会機関誌として『第十九世紀』新聞に編集長として関わる。
       世界の大勢を知らせ、日本本国の人々に警鐘しようと図った。これに対し日本政府は「国安妨害するものと認め、発売頒布を禁止」。これより更に「愛国新聞」「新紀元」「第二十世紀」「革命」などの諸新聞を随時発行したが、ことごとく禁止され、甚だしきは横浜において焼き棄てられた。
 菅原が滞米中に書いた邦文・英文の論策は、条約改正十五策・日本人種興廃論・東洋趨勢論・ハワイ島参政権論・対韓対米論・日本海国論など。また、ハワイの革命を支援して孫文ともめぐりあう。

 1889明治22年11月22日、『第十九世紀』第93号で終刊。メンバーは20人前後が協力、菅原伝・海老沼弥蔵が頭角をあらわす。
        月2~3回の演説会が行われ、菅原は「我が国家」を論じた。
 1892明治25~26年、排日運動が表面化。

 1893明治26年1月、ハワイ革命。アメリカ人のクーデターによりリリウオカラニのハワイの王朝が廃止され女王が逐われる。親米的な臨時政府が樹立され、日本は居留民保護を名目に軍艦浪速を急派して牽制。菅原はアメリカ本土からハワイに赴き、白人のハワイ併合より救おうとしたが志を果たせなかった(『アメリカの日本語新聞』田村紀雄1991新潮選書)。
    しかし、在ハワイ日本人参政権問題に関わり功があった。その後、アメリカ本土に戻ってから帰国。

 1895明治28年、朝鮮に渡り八道(八つの行政区域)を跋渉する。
 1896明治29年、自由党幹事
 1898明治31年3月、第五回総選挙。宮城県第三区から出馬、衆議院議員となる。 
       5月、解散。8月、第六回総選挙、再選される。自由党のち立憲政友会に所属し当選16回。

  写真:『衆議院議員列伝』山崎謙1901衆議院議員列伝発行所Photo

 次は、吉野作造『主張と閑談』(1915文化生活研究会)から
  ――― 吉野作造の父親ら有志家が集まり菅原と対談・・・・・・ (吉野は)父親から「あの人は今度アメリカの長い留学から帰った偉い人」だと聞かされて、畏敬の念を深くした。
 豊頬温柔の赤みを帯びたあの顔そのまま・・・・・・郷里の山村を草鞋履きで跋渉していたとき、選挙運動のため腕車(人力車)揺られて一人通られるのに遇った。
 その後、永らく私の郷里方面は菅原氏の独り舞台であった・・・・・・郷里の先輩知己にして菅原氏に依て食べていた多くの人を私は知っている・・・・・・買収とか贈賄とか云ふのではなく、乞わるる儘に人の急に赴くといふ風の義侠的の失費の高は、蓋し莫大なものであったろうと察せらるる。

     10月、人民新聞社を創立。外に対しては帝国主義、内に対して平民主義を主唱。
 ―――(吉野) 振るわぬ新聞であった・・・・・・主筆の中尾氏に紹介され、新聞に何か書いてくれと頼まれ引き受けた。

   “大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-f3aa.html

 1899明治32年11月、第14議会において、憲政党院内幹事・評議員となる。
 1924大正13年、加藤高明内閣の海軍参与官、政友会総務。
 1937昭和12年5月9日死去。享年74。衆議院書記官長より弔辞、従四位勲二等。
    人柄が偲ばれる前出、吉野作造の文をあげておく。

 ―――(吉野) そのころ氏は移民会社か何かを経営して京橋に日向輝武氏とともに事務所を・・・・・・
 菅原氏は仙台藩出身の書生の面倒をマメに見られていたようだ・・・・・・金の無心をモジモジ述ぶる苦学生もあった・・・・・・その後、氏が財政的に不如意になったからとて、氏をして今日を寂しく暮させるとは、人情の軽薄も極まれり ・・・・・・

 その後私(吉野)は袁世凱の聘を請けて支那に遊んだ。其間のことであったように覚へる。、菅原氏は大病に罹られ、屡危篤を伝えへられても結局全快したが見る影もなく痩せ細られた・・・・・・同時に不幸が重なって財政も余程不如意になられたとも聞いた。昨今はまた元の健康体に戻られ、血色もよく体格も立派になられたそうだが、清貧を伝えられる所を見ると、懐工合だけは今以て昔にかえられぬらしい。金の切れ目が縁の切れ目で、昔のように人が集まって来ぬのかもしれぬ。
 しかし貧乏はしても此人につき金銭上の醜聞は曽て耳にしたことがない。政治家に有り勝ちの酒食のわるい評判も頓と聞かぬ。夫人の賢明にも依ることかと察せられるが、公私両面の生活に於いて操守の堅確なるは、蓋し稀に見る君子と謂て然るべきだと思ふ。

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コメント

2017.12.29 T.イコウ様『谷干城遺稿』問合せについて
コメント:「上の人とは全く違うんですが、すいませんが、谷干城遺稿に該当の部分は見当たりません。国立国会図書館 谷干城遺稿で検索したページのどの部分にあたるでしょうか?見てみてもらえますでしょうか。」 
    質問は下記の文についてでしょうか?
「なにぶん勝手放題なことをいい、争論になると銘々が知ったことをいう。またありのままを言うと決闘状が来る。お山の大将我れ一人。薩長の方は勝武者で鬼の如し、どんな都合の悪いことでも都合の良いように直すことができる。が、佐幕、謀反人と目された方は本当のことは言えなかった」(谷干城)という。
   お答え
 7、8年前に書いた覚えがありますが、古いものは纏めて整理してしまったのでページを指定できません。お名前はありますがアドレスがなく返信できないので参考書籍をここにあげておきます。なお、「谷干城遺稿」はご指摘の国会図書館のと違います。

『谷干城遺稿』日本史籍協会・東京大学出版会・昭和50年~51年の書籍全4巻。
『史談会速記録』(全46巻)編集・史談会、原書房、明治25年~昭和5年、全390冊

投稿: けやき | 2017年12月29日 (金) 20時29分

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