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2017年12月 9日 (土)

西南戦争の激戦地、歴史息づく 人吉  (熊本県)  

 前に、東北から徴兵されて九州へ―― 岩手県紫波郡から西南戦争に出征し、戦病没した兵士の数をとりあげたが、地元の士族らも戦った。ただし熊本士族は賊軍とされた西郷軍に参加した。

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写真: 籠城準備中の熊本城
    『西南戦争アルバム』
 西南戦争120周年・熊本城顕彰会70周年記念
 財団法人 熊本城顕彰会 
 平成9.9.21


  ――― このたび賊徒(西郷軍または薩摩軍)に応ぜしものは、民権党と神風党にて、一日に20里も走るという剽悍驍勇なる薩兵に、過激にして民望を得たる上、おまけに地理を熟知したる熊本兵の応援ありては、なかなか容易の敵にあらず (明治10.3.17東京曙)

 1877明治10年3月: 雨の田原坂で激戦、両軍対峙、抜刀対の斬り込み、壮烈な鉄砲戦と肉弾戦、徴兵が活躍、田原を抜き植木へ、降り続く雨、田原坂陥る。
  4月: 田原坂の樹木は一寸ごとに銃弾を打ち込まざるはなし、西郷軍馬を食う、追い詰められる西郷軍、政府軍熊本入城。
  5月: 陸軍歩兵二連隊、巡査500人とともに鹿児島に向かって出発せり、鹿児島市内の戦い、政府軍は竹田の西郷軍破り、人吉(ひとよし)へ

  ――― 総攻撃に遇い、一挙して官軍のために破られ、賊将は木山の本拠を棄てて矢部に退き、更に人吉に退き、また人吉の地たる山壑(さんがく)の中にあるをもって、すこぶる攻撃の進軍に便ならずといえども、官軍はこの不便にかかわらず佐敷球磨川八代五家砥用奈須の諸道より併進したり・・・・・・しかして今やこの人吉の賊徒もまたついに陥りたりと聞けり (10.6.5東京日日)

  9月: 死に場所を求めて鹿児島へ、末路哀れ西郷ら露と消える。

             人吉城趾

 西南戦争といえば田原坂が有名だが人吉も激戦であった。
 その人吉をひなびた村と思っていたが大間違い。なんと、人吉は鎌倉初期から室町・江戸時代を通して700年間相良氏の城下町として発展してきたのだ。大名が二十代にわり在城していた人吉は、城下町らしい建物や通りが今なお残る。幕末の石高は2万2100石。人吉城趾、全域が国の史跡

 ――― 1862文久2年、城下町でおきた寅助火事の延焼でほぼ全焼。これを契機に軍政改革が行われ、西洋式石垣の導入や、外塀の土塀化などの大改修が施されたが、西南戦争の戦火で再び全焼した。
 三日月城繊月城ともよばれた人吉城は近年、城趾は史跡公園として整備され、多聞櫓・角(すみ)櫓・長塀や、球磨川舟運のための水の手門が復元されている。
 また、人吉城内の、地下室遺構をもつ相良清兵衛屋敷跡地の上に、人吉城歴史館がある (『熊本県の歴史散歩』2010山川出版社)。

            永国寺 (曹洞宗)

 1410応永17年、開基。寺宝は応永年間(1394~1428)作という幽霊掛け軸の絵で、毎年8月旧盆のころ、幽霊まつりにおいて、一般公開される。
 1877明治10年、西南戦争の戦火で全焼。本堂脇西郷隆盛遺蹟碑が建っている。

            人吉市
  
 熊本県の最南端に位置。市域の南半部には国見山地、北部には九州山地に属する山々、北寄りを西へ流れる日本三大急流の一つ、球磨川の流域の人吉盆地の平坦地がひらける。
 人吉城は球磨川に面して築城されていが、この川は人吉と八代を結ぶ交通路にあたっているが、川の至るところに奇岩が突出して舟の運航は不可能であった。
 1662寛文2年、林藤左衛門正盛が多額の費用と2年の歳月をかけ水路を開削、水運が開ける。八代河港まで球磨の産物がくだり、戻り船で塩・肥料など商品が運搬され発展。

 1909明治42年、肥薩線開通。
   人吉駅はJR肥薩線とローカル線くま川鉄道が発着。球磨川沿いを並走する八代~人吉間は近代化産業遺産に認定された古い鉄橋や駅舎が点在 (『るるぶ・熊本』2015JTB)。
 市の産業は農林業で、米・木材・シイタケ・茶などが産出され、豊富な林産資源を利用した在来の木工・工芸品製造もさかん。特産の球磨焼酎は有名、全国に愛飲家が多い (『郷土資料事典・熊本県』1998人文社)。

          犬童球溪 (いんどう きゅうけい)

   1879明治12年~1943昭和18年
   作詞家。本名、信蔵。筆名は、人吉の球磨川渓谷にちなむ。
 熊本師範学校卒業、小学校勤務を経て東京音楽学校に学ぶ。兵庫県柏原中学校に勤務するが、西洋音楽になじみがない中学生の反抗的な態度に苦労する。一年で新潟女学校に移り、そこで外国曲「ドリーム オブ ホーム and マザー」オードウェイ曲に歌詞をつけた。
 これが、「旅愁」(更けゆく秋の夜 旅の空の)、故郷を離れて苦労した犬童の望郷の念が投影されている。

 新潟に2年いて、故郷の熊本第一高等女学校、ついで人吉高等女学校で教鞭をとる。長年にわたり教育に尽くすかたわら、作詞作曲を手がけ、総数は数百にものぼる。
 人吉城趾公園に「故郷の廃家」記念碑 (『日本童謡事典』上笙一郎2005東京堂出版)。

      故郷の廃家       犬童球溪訳詩、ヘイス作曲

   幾年ふるさと、来て見れば、 咲く花鳴く鳥、 そよぐ風、
   門辺の小川の、ささやきも、 なれにし昔に、変らねど、
   荒れたる我家に、住む人たえてなく

          川上 哲治
 
   1920大正9年3月23日 ~ 2013平成25年10月28日
   プロ野球選手・監督、野球解説者。
 熊本県球磨郡大村(人吉市)出身。1938昭和13年、読売巨人軍に入団。背番号16
 「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2000安打を達成。
 戦時中から戦後におけるプロ野球界のスターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用してトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘とともに少年ファンの人気を集めた。
 王貞治・長嶋茂雄らを率い読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、V9を達成するなど名声をあげた (『コンサイス日本人名事典』三省堂)。

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