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2018年3月10日 (土)

明治・大正期の新聞記者・評論家、小山東助(宮城県)

 「今年は明治維新150周年というけど盛りあがってませんねぇ」
 「それはそうでしょ。悲劇の明治維新と記憶する人は少なくないもの」
 盛りあがらなくて残念そうな彼は子どものころ、白虎隊のドラマが放送される都度、「またか」と思ったという。それ聞いて「えっー」 思わず「どこ生まれ?」 「四国です」
 どうやら西日本では明治維新と戊辰戦争が背中合わせではないらしい。激戦地の東日本から四国は遠いけど、白虎隊悲劇の背景は誰もが知ってると思ってた。地域や世代が異なれば何かとすれ違うんだ。まあ、自分も限られたことしか知らない。仕方ないのかな。

 明治維新後、62万石から28万石に減封された仙台藩は、廃藩置県により仙台県、さらに明治9年、現在の宮城県が成立。小山東助はそれから3年後に生まれた。
 親の世代は江戸の教養だが彼が物心つく頃には、西欧の学問や新知識、キリスト教など身近になり精神を刺激された。そういう時代に人となった人物のゆくたてをみると、明治・大正期の空気が感じられるかも知れない。
 なお、小山東助の記事や著述は国会図書館デジタルコレクションで読める。

           小山 東助 (おやま とうすけ)

 1879明治12年11月24日、宮城県本吉郡気仙沼町(気仙沼市)生まれ。号は鼎甫
 1885明治18年、気仙沼尋常高等小学校入学。
 1893明治26年、15歳。宮城県立尋常中学校(仙台一高)に入学。同窓の*吉野作造らと回覧雑誌『櫻』を編集、詩作を載せる。
   “大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-f3aa.html
 1894明治27年7月、日清戦争はじまる。翌年4月、日本が優勢のまま下関条約締結。

 1896明治29年、中学生ながら「俳句の叙景について」「芭蕉の雨音」など創作。
 1897明治30年9月、仙台第二高等学校入学、明治33年卒業。在学中、*内ヶ崎作三郎の推薦で二高の学内誌『尚歯会雑誌』委員。島地黙雷の子、雷夢と友人。
   “ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・直木三十五②-1”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-0110.html

 1900明治33年、東京帝国大学文科哲学科に入学。大学基督教青年会寄宿舎に入る。
   海老名弾正(キリスト教伝道者・教育者)の本郷教会に関係し、雑誌『新人』に感想を発表。また、政治に興味をもち島田三郎(政治家・ジャーナリスト)に私淑する。
 1902明治35年、海老名弾正から洗礼を受ける。
 1903明治36年、帝国大学卒業。9月、『東京日日新聞』(毎日新聞)記者となる。
   記事、「*新井奥邃氏の妙文」「私立大学の教育家に言す」「耶蘇教界の一警語」「如何にして漢学者は復活すべきか」など。
   “新井奥邃(おうすい)と田中正造(宮城県・栃木県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/12/post-8cbe.html

 1904明治37年、学術・文科雑誌『帝国文学』編集委員。新人社同人となる。
   新聞に政論を掲載。しばしば本郷教会の教壇に立つ。
 1905明治38年、記事、「小泉八雲を悼む」「日本人の天分」「清韓留学生問題」「社会主義の運命」「ウイッテの現地位」「今後の教育方針」など。
 1906明治39年、記事、「軍政改革の要義」「政教分離の気運」「国民教育とローマ字」。
 1907明治40年、29歳。松井菊野子と本郷教会にて結婚。
    記事、「議会言論の敬重」「婦人と政治」「霊肉一如の人生観」「戦争と文芸」
 
 1908明治41年、記事、「新芸術と新道徳」「道徳観念の動揺と外来思想の消化」
 1909明治42年7月、新聞社退職。早稲田大学講師となり、倫理および新聞研究科の講座を担当。文芸革新会発起人となる。
   『社会進化論』(博文館)出版。

 1910明治43年10月、思潮評論を担当。肺疾のため茅ヶ崎南湖に入院。
   記事、「現代思潮より宗教へ」「東洋意識の復活」「新しき女性」など。
 1911明治44年、退院して静養。
 1912明治45年、『久遠の基督教』(警醒社)出版。
   宗教的体験を、キリスト教の立場にたつ総合雑誌『六合雑誌』に発表。

 1912大正元年、基督教青年会の夏季学校において「基督教の神秘主義」を講演。
   9月、再び早稲田の講師、同時に千葉県立園芸専門学校講師となる。
   『久遠の基督教』(警醒社)発行。
 1913大正2年、中耳炎で入院。9月、神戸関西学院高等科文科長に就任。開設間もない高等学部文科のカリキュラム整備に努力し、同科を英文学科、哲学科および社会学科の3科制とし、新聞学、社会福祉学などの課程の充実に努めた。
    この年、*立憲同志会(第二次大隈内閣与党)成立の際、国民党派系にあって画策。
   統一教会で講演。『光を慕ひて』(警醒社)出版。
 1914大正3年8月、第一次世界大戦。日本も日英同盟協約を理由に参戦。
    10月、妻の菊野子、死去。
 1915大正4年、「横浜貿易新報」主筆となる。
    第12回衆議院議員選挙に立候補。故郷の気仙沼にて最初の演説会を開く。当選。
    3月30日、気仙沼大火。焼失1100戸、生家も全焼。郷里救済のため東奔西走。
    7月、健康を害し、横浜根岸療養院に入院、10月退院、鎌倉で静養。
    11月、大正天皇、京都御所紫宸殿で即位礼挙行に参列。ところが旅館で喀血し鎌倉に帰り静養。     

 1916大正5年1月、東京毎日新聞の改革に際し迎えられて主筆となる。大喀血。
     8月、新政党の綱領および政策を草す。12月、議会出席のため上京。
   『東京日日新聞』主筆として、「東京毎日新聞宣言」「政友会を憐れむ」「欧州戦局の将来」「時代と女子教育」「超然内閣は蜃気楼のみ」「憲政会の名実」「官僚政治の末路」など記述。

 1917大正6年2月、議会解散。選挙運動のため帰郷し仙台市で最初の政見発表演説会を開くなど演説会を42回開く。     
    4月、第13回総選挙当選、*憲政会に所属。
   *憲政会: 大正5年、立憲同志会・中正会・公友倶楽部が合同し結成。加藤高明総裁、第二次護憲運動(憲政擁護運動)で第一党となる。
    7月、議会で言論圧迫に関し演説と質問をする。8月、軽井沢で静養。
  記事、「言論圧迫に関する質問主意書」「国際的孤立か世界的協調か」「尊王排閥論」など。
 1918大正7年2月、湯河原温泉で静養。5月、肋膜炎を併発。

    12月24日、衆議院の開院式に参列、最後の登院となった。
 1919大正8年6月、鎌倉町浄妙寺境内に新築落成し移転。病状、一時小康を得る。
    8月、弟の倉之助を病床に招き、宮城県下の県会議員選挙問題について話をする。
    8月25日、満40歳目前にして死去。何とも惜しい。
         遺骨は郷里の鼎が浦の観音堂に葬られる。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『鼎甫全集』全3巻 / 『日本人名事典』三省堂 / 『現代日本文学大事典』明治書院 / 『日本史年表』岩波書店 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編、新人物往来社 / “関西学院事典” https://www.kwansei.ac.jp/r_history/r_history_008525.html

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