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2018年3月 3日 (土)

日本のペスタロッチ、小西重直 (福島県・山形県)

 硬い緊張感で始まった2018冬のピョンチャンオリンピックだったが、終わってみればスポーツの魅力、笑顔と涙、チームワーで盛りあがった。キツイ練習の成果と察しられるが、どんなに苛酷でも教える側・教わる側、双方納得の取り組みだから耐えられる。
 ところで、学校では先生と生徒の出会いは縁のようなもの、しかも先生一人に生徒多数だから呼吸が合わないときもある。でも、そうした生徒の身になれる先生はいる。
 100年以上前にも中学の恩師の影響で教職を志した教育学者、小西重直。難しい理論は解らず、考え方に時代の差も感じるが、生い立ちに興味をもった。 なお、小西重直の著作や講演記録などの数々は国会図書館デジタルコレクションで読める。

        小西 重直  (こにし しげなお)

 1875明治8年1月15日、山形県、米沢藩士、富所家に生まれた。幼名、代吉。
 1877明治10年秋、父死去。家は没落、赤貧の暮らしとなり母は家の事情で里へ帰る。
  ?年、 華溪小学校では成績がよかったが教科書代が払えないほど貧乏で、学校の教科書をかりて勉強した。また幼い時から町へ米や味噌を買いにやらされた。
 1885明治18年、ついに一家離散となり、重直は母の兄、伯父の家に引き取られる。伯父は戸長で三島通庸県令に知られ、その縁で開墾事業を始めたが成功しなかった。
 また、村の小学校校長をしていた叔父が帰宅すると、馬の手綱を預かり野原を駈け回るのを楽しんだ。夏は松川の清流で魚を釣り、泳いだりして遊んだ。やがて、母の従弟で小西という会津人の養嗣子となり、会津に行く

 ――― 戊辰の役で名高い鶴ヶ城址の石垣の一画が物凄く崩壊しているのを見ると、激戦の状が彷彿として偲ばれる。深い堀は紺碧というよりも寧ろ黒い血潮を讃えているように思われ、この水底から凄惨な気の渦巻きおこるのを感じた。また、老松の幹や枝が落雷を受けたように裂けている痕を見ただけでも、当時の悲壮な雄叫びをまざまざと聞くのであった。この西北に藩校日新館は尚その名残を留めて、少数の子弟を教育している・・・・・・予科に入学。生徒は畳の上に持参した机を使用・・・・・・漢文の素読、先生は生徒を一人づつ呼び寄せ、大学や論語を面白く読んで聞かせる。それを生徒が真似して繰りかえす・・・・・・この教育法は実に一種の芸術的教育法とでもいうべきもので、なかなか意味深い(『感謝の生涯』小西重直)。

 1888明治21年、日新館が経営難となり、小学校へ転校、6年に編入。
 1889明治22年、福島尋常中学校入学。中学教師の溝淵進馬と、*岡田五兎(ごと)の影響で教職を志す。
    *岡田五兎: 帝国大学文化大学講師。ドイツの教育家ハウスクネヒトについて教育学を研究した。生徒から慕われ、教え子たちは卒業しても訪ねて教えを仰いだ。

 1890明治23年、修学旅行。東京で第3回内国博覧会が開催され、生徒一同和田豊校長の引率で上京。銀座街の鉄道馬車、ガス灯、歌舞伎座(一幕だけ)の電灯に感心する。
 1894明治27年、福島尋常中学校卒業。生徒は14、5歳~20歳前後、150余名。
 1898明治31年、第二高等学校文科卒業。
     このころ代吉を、杉浦重剛の重と中村正直の直をとり「重直」と改名。
     同年、 東京帝国大学哲学科に入学。

  ――― 机や学帽を買う金がなく、西洋史の先生に頼み『海戦史』翻訳、7円50銭の報酬を得て用意。制服は車掌をしている友人から制服の古物をもらって3年間着通した。
   寄宿生活の賄いについて。会津出身者が
 「鰊の味噌煮をたびたび食わせろ。全身に元気をつけ、骨の髄から力を養ってくれるものは鰊である」と主張すれば
 だが、馬肉と牛肉との問題は生徒の出身地で意見をことにすることはなかった。

 1901。明治34年、東京帝国大学哲学科卒業。高等師範学校教授となる。
 1902明治35年2月、文部省留学生として欧米に出発。
 1905明治38年5月、帰朝。広島高等師範学校教授となる。
 1908明治41年、翻訳教育学に抗して『学校教育』(博文館)創刊
    教育勅語の聖旨を実現できる意思力養成を目的とし、生徒の「自発的発動」を重視。その為には教師自身の修養が重要であることを強調
 ――― 「修養の終わるときは即死期のの来るとき」と厳しく自己実践し、真の教育者・人格者と慕われた。
 1910明治43年、文部省視学官に任じられる。第七高等学校長(鹿児島)となる。

 1913大正2年、京都帝国大学*沢柳事件で追われた谷本富(とめり)の後任として同帝大教授に就任。
   *沢柳事件: 大学教官の人事権をめぐり京都帝国大学総長・沢柳政太郎と同大学教授団との間に起こった抗争事件。
 1914大正3年、文学博士。京都帝大文科大学教授。
 1915大正4年、第一次欧州大戦の青島戦後、その地方が一般に開放されると、浦塩から満州、支那(中国)本土、北京、青島などを視察。目的は外国人が行う文化事業を調査。

 1920大正9年、『日本教育学説の研究』第五節<小西重直氏の教育説および其批判>
 ―――氏は学者にして人格者である。学風は穏健にして中正である故に、一口に言えば調和的教育学派に属すべき人である。けれども・・・・・・(続きは、渡部政盛“日本教育学説の研究”http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979976/121?viewMode=)

 1930昭和5年、『労作教育』(玉川学園出版部)。
    労作を楽しむ子どもの自発性を指摘し、*労作教育を主張。西欧の形式倫理的教育学を批判して労作教育思想をとりいれ、労作を社会生活の生命、教育の本質とみなす、教育的体験を中心においた教育学を構築。この労作教育論は成城学園・玉川学園に深い影響を与え、<日本の*ペスタロッチ>と仰がれた。

   *ペスタロッチ: スイスの教育改革家。ルソーの『エミール』を愛読。教育という手段に訴えて、蚕業革命家での生活の破壊と堕落を強いられつつあった農民の救済を志し、以後、民衆教育の改善に尽力、後世長く民衆教育の師表と仰がれる。
   *労作教育: 19世紀末にドイツを中心に発達した児童の自発的活動を尊重する能動的学習教育。
 ――― 実際に労作をさせればそこには感激が湧いてくる。労作の感激がわきたつ。立体的に工夫を練り、自画を没却して行く時には・・・・・・そこには立体的な感激が起こる。感激力のある所には実行力がある。それを知識が助ける・・・・・・子供は安逸を貪るものではない。下から伸びていっている・・・・・・子供には天然自然の困難に打ち克つ興味力がある(『国民教育と親心』小西重直)。

 1927昭和2~4年、京都帝国大学文学部部長で東京成城学園総長を兼ねる。
 1933昭和8年、京大総長となったが、*滝川事件により3ヶ月で辞職。まもなく東山温泉で家を借り2ヶ月間、自炊して静養。
   *滝川事件: 京都帝国大学・*滝川幸辰(ゆきとき)教授の講演や著書『刑法読本』が共産主義であるとされ滝川は休職処分。これをめぐり京大法学部教授会は全員辞表を文部省(鳩山一郎文相)に提出して反対したが敗北。滝川・佐々木惣一ら7教授が退職。

   *滝川幸辰:刑法学者。昭和6年、講演や著書が右翼の攻撃を受け、翌年文部省より休職処分。これをめぐり滝川事件を起こし、辞職。戦後は京大に復職、総長をつとめる。
 1941昭和16年4月、国民学校実施。小学校を改組、教科を国民・理数・体練・芸能各科に統合。昭和22年3月、小学校に復す。

 1948昭和23年7月21日、死去。74歳。
    ――― 文学博士小西重直、彼は第一に申し分のない立派な人だ。予はかなりに圭角をもった人間であると自覚しておるが、博士小西に対してのみは心の底から安心と尊敬とを以て先生と呼び得る・・・・・・彼はいつ会っても同じだ。素朴な、質実な、無技巧な、情義の厚い、本当に自然な生得的の文化人だ・・・・・・彼は天性の教育者だ(『若き教育者に與ふる書』渡部政盛)。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『感謝の生涯』1948永沢金港堂 /  『人物春秋・続』佐々弘雄1935改造社  /1993『外国人名辞典』三省堂 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社

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