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2018年4月 7日 (土)

会津の兄弟、松江豊寿・松江春次 (福島県・徳島県・南洋諸島)

 プロ野球開幕。今年、ピッチャー上原浩治がメジャーリーグから日本の古巣チームにもどってファンはうれしい。その上原、シーズン前の一月なかなか所属先が決まらず不安な日々であったにも拘わらず、「今回で6回目、福島県の被災地での野球教室を行った」(「毎日新聞2018.1.25)。つぎは<浩治印>掲載の上原の言葉、
 ――― 毎回思うのは、やっぱり子供たちの笑顔っていいね・・・・・・全員に声を掛けてあげることはできなかったけど、楽しい時間を共に過ごすことができたと思っています。
 ただ、まだまだ復興には時間がかかるでしょうね。それが、今はもう報道されていないんだよなあ・・・・・・年月がたつと風化されつつあるような気がします。
 自分にできることをやる。その気持ちを、よりたくさんの人が持っていてくれたらうれしいですね・・・・・・

 上原投手はアメリカで活躍して帰国したが、戊辰戦争後の会津藩士も海外へ行った人物は少なくない。海外留学、技術習得、実業家、兵士・軍人などで目的も行く先も様々である。会津の兄弟も外国と深いつながりがあったが、兄弟でゆっくり語り合う時間はあっただろうか。

 兄弟の父、松江久平会津藩士。妻はのぶ。戊辰戦争のさいは朱雀隊に属していた。
 1870明治3年、一家は斗南へ移住して辛酸をなめる。その当時の苦労話をよくしていた久平、若松では白い顎ひげのやかましい爺さんとして知られていたという。
 1877明治10年、西南戦争。このころ鹿児島に出征する志願者を募ったところ、会津出身者が大勢応募したという。久平もそれに応募して熊本の戦いに加わったようだ。戦いが終わり会津に帰った久平は、朝から大酒をくらってゴロゴロしていたらしい。親の苦労を知る息子二人は立派に成長し、大正から昭和、戦後まで活躍する。

         松江豊寿
                陸軍少将。のち会津若松市長。

 1872明治5年6月、福島県会津若松市甲賀町下の組3番地に松江久平の長男として生まれる。母はのぶ。弟・春次、妹・芳子の三人兄弟。
 1877明治10年、西南戦争。柴五郎、幼年学校から陸軍士官学校入学。
   ?年、  松江豊寿、軍人を志し陸軍士官学校入学。卒業後は各地を転戦。

 1914大正3年(~1918大正7年)、第一次世界大戦

    8月23日、日本は日英同盟に基づきドイツに宣戦を布告。
 ドイツの租借地・青島ならびにドイツ領南洋諸島を占領。そのとき4000人のドイツ軍将兵を捕虜として内地に連行、各地の収容所に分けて隔離。
    官報、大正3年12月4日「徳島俘虜収容所長仰付 歩兵第62連隊付陸軍歩兵中佐 松江豊寿
 1917大正6年4月11日、板東俘虜収容所長(鳴門市)陸軍歩兵中佐
    徳島県は4月に板東捕虜収容所(鳴門市大麻町板東)が完成すると、四国内の徳島・松山・丸亀に分散していた953人を収容。

 これらの捕虜は青島で臨時招集された兵士が多数を占め、職業軍人はきわめて少なかったといわれる。そのため松江収容所長は 「捕虜は愛 国者であって犯罪者ではないので人道に扱うべき」として住民と交流させた。
 捕虜たちに商店街、パン工場、印刷所などの施設を自主的に運営させるなどできる 限り認め、寺院では捕虜たちにより第九が初めて演奏された。さらにはスポーツなど様々な活動が行われ、地元住民と数多くの交流が生れた。
 なかでも、ドイツ人捕虜たちの手で ベートーベンの交響曲「第九」が日本で初めて全曲演奏されたのは有名。のちに松江豊寿を主人公とした映画「バルトの楽園」が製作、公開された。

 捕虜と県民の交流は、国際化の大きい成果であったが、当時としては考えられないできごと。松江豊寿が敗者の歴史を知る「会津人」であったからこそ成しえたといわれている。それには、同じ会津人の存在もあったかもしれない。

 この年、柴五郎は第十二師団長として小倉に赴任。九州小倉と豊寿のいる四国徳島は遠いが、柴と松江は世代を超え、「会津出身陸海軍高等武官たる」稚松会員(総裁・海軍少将松平保男子爵)として交流があったと考えられる。そうだとすれば、柴陸軍中将は松江収容所長・松江中佐の決断を理解、応援したと想像できる。松江の方針に反対する意見が陸軍内にあったといわれるが、柴の存在は松江の方針を実行する助けになったと思われる。

 1922大正11年、第九代若松市長となる。
            上水道計画を決議。
    引退後は飯 盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力

 1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾。9月2日、降伏文書調印。
 1956昭和31年5月21日、弟の死から一年半後に死去。84歳。

          松江春次

 1876明治9年1月15日、松江家の次男として生まれる。
 1882明治15年、甲賀町尋常小学校、23年会津中学、28年、卒業。
 1895明治28年4月、湊村小学校代用教員。家が貧しかったので働いて学資を蓄えていたらしい。この間、陸軍士官学校を受験したが失敗。
 1896明治29年9月、東京高等工業学校(東京工業大学)応用化学に入学。
 1899明治32年7月、首席で卒業。同年、大日本製糖(日糖)に入社、大阪工場に勤務。
 1903明治36年9月、農商務省・海外実業練習生試験に合格。
    日糖在籍のままアメリカで唯一の砂糖科のあるルイジアナ大学で学ぶ。砂糖を選んだのは、応用化学科の先輩、明治精糖の創立者・相馬半次の影響らしい。
 1905明治38年6月、同大を卒業。ロサンゼルスのスペレックルス製糖会社に職工として入社、やがて技師に抜擢される。その間、角砂糖の研究をする。

 1908明治41年、渡米以来、欧州各地の糖業事情を視察し、11月帰国。
   母校の東京高等工業高校長・手島精一に見込まれ、手島の娘と結婚。広い人脈を得る。
   日糖大阪工場の工場長就任。角砂糖の生産にとりかかり製品化に成功。日本で最初に角砂糖をつくった技術者である。

 1909明治42年、*日東疑獄。糖業保護をめぐる汚職事件がおき、会社機能は麻痺する。 
     *日東疑獄: 日糖重役らが代議士を買収し、輸入原料砂糖戻税法の期限延長を図った。
 日糖の声価は地に落ち、会社の経営も困難になったが、工場長だった松江は自らの施策と奔走で大阪工場独自で操業を継続、危機をのりこえた。しかし松江は会社を辞す。
   松江は今では考えられないが当時の日本の人口過剰を解決するため南洋進出を説き、台湾の糖業開拓をめざす。

 1911明治44年9月、斗六製糖会社を創立。大正4年5月、東洋製糖に買収される。
 1915大正4年10月、新高製糖に招かれ、台湾勤務。
 1921大正10年2月、南洋群島に着目し、独力で南洋開拓の準備にかかり、現地調査。   当時、台湾は三井・三菱・藤山の三大財閥によって牛耳られていたから、松江は台湾に見切りをつけ撤退、南洋群島への転進を図る。

 1922大正11年、ベルサイユ条約によりドイツが放棄した南洋群島は日本の委任統治領となり、南洋庁を設置。終戦まで日本の統治下にあった。
    サイパンに国策会社南洋興発株式会社(南興)創立。東洋拓殖と4社による新会社で、東洋拓殖の幹部は松江と同じ旧会津藩士で固められていた。
 松江は戦後恐慌のあおりで窮地に立っていた日本人移民救済と製糖業再建の依頼を政府より受けて創立に参与。はじめ沖縄移民を募集し事業にかかるが糖価の暴落や天災、害虫駆除と新品種の種付けに苦慮するなど困難が続く。
 1923大正14年、事業を成功させる。

 1930昭和5年、テニアン製糖工場を落成、4月から15年11月まで社長をつとめる。その後、会長、相談役をつとめ、日本の委任統治領下の南洋群島の産業開発をリードした。
 1932昭和7年、『南洋開拓拾年誌』(南洋興発)を著す。事業家としての意識をもちながら、体験に裏付けられての、その地に住む人々の観察記録ともなっている。
   南太平洋貿易社長、海軍省顧問などつとめる。
 1944昭和19年6月11日、サイパン島に米軍が空襲を開始。
 1945昭和20年、敗戦。

 ――― 松江はつねに日本の過剰人口問題の解決を唱えつづけ、脳溢血で倒れるまで「限りなき南進」をつづけ、ついには南洋まで手を伸ばし、蘭領ニューギニアの取得案をひっさげて粘りつづけるが、最後には、海軍にも小磯拓務相にも見はなされ、裏切られてしまう。結局は、近代帝国主義日本の歩んだ基本的誤謬の枠をでることは不可能であった(『サイパン夢残』)。

 1947昭和22年5月3日、日本国憲法施行。
 1954昭和29年11月29日、死去。満78歳。

   参考: 『徳島県の百年』1992三好昭一郎ほか /『サイパン夢残』鈴木均1993日本評論社 / 『明治時代史大辞典』吉川弘文館 / 『民間学事典』1997三省堂

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       『明治の一郎 山東直砥』 訂正。 p273後から8行目 
        一八七九(明治十二)      一八七八(明治十一) 

 

 

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