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2018年4月14日 (土)

運河を貞山堀と名付けた早川智寛(宮城県・九州小倉)

 東日本大震災の翌年「復興の象徴 浜に芽吹く 宮城・閖上」(2012.5.9毎日新聞)の記事で、閖上(ゆりあげ)を覚え、海浜植物「ハマボウフウ」を知った。
 それから6年、<閖上太鼓 響け復興の音>(2018.3.8日本経済新聞)を目にして、太鼓の音はどんなか気になった。きっと、聴けば元気が出る閖上太鼓。

 記事によれば、宮城県名取市閖上地区は江戸時代以前から漁村として栄えていた。そんな漁師町の姿を後世に伝えようと1992(平成4)年に閖上太鼓が始まり、地域のみんなで育てて地域の文化として根付いた。
 ところが、東日本大震災の津浪で練習拠点は全壊、太鼓はぐちゃぐちゃ、衣裳も台無し壊滅的な被害に遭った。そのうえメンバー二人が亡くなるというつらいことまであった。
 避難生活を余儀なくされ、メンバーもばらばらになった。でも演奏活動を再開、地域の記憶を後世に伝えようとしている。震災後はじめて閖上太鼓を演奏した日、
「知った顔が多く集まるのを見るのは、やはりいいものだ」と閖上太鼓保存会会長。こうした光景が少しでも早く、地区の日常となりますように。

 閖上は貞山堀と名付けられた運河沿いにあり、地名の由来は、伊達政宗が豊臣秀吉からもらった門を船で運び、ここで陸揚げしたことによる。
 運河は阿武隈川河口北岸の玉浦納屋から海岸に沿って北上、名取川河口の閖上七北田側河口の蒲生を経由、塩釜港に通じている。その運河を貞山堀と名付けたのが早川智寛、経歴が多彩で変化に富み興味深い。しかし手許の三省堂『日本人名辞典』には載ってなく残念。 

          早川 智寛  (はやかわ ともひろ)

 1844弘化元年、九州小倉藩士・早川慶兵衛の長男として生まれる。
  ?年、   長崎へ遊学、数学や外国語を学ぶ。
 1871明治4年、土木寮(現、国土交通省)に出仕。出仕は明治6年とも。
 1878明治11年2月、野蒜築港内務省土木局出張所宮城県牡鹿郡蛇田村高屋敷)工事主任として赴任。北上運河の開削、石井閘門の建設に携わる。
     同11月、内務省土木局を辞す。
 1879明治12年、三重県*属(官庁の判任文官)となる。
 1880明治13年、宮城県属となり仙台に赴く。
    土木課長に就任、宮城県土木事業の基礎を築いた。そして、野蒜築港の挫折、女川築港計画未熟に遭いながらも、北上川を改修、関山街道鳴子鬼首道路の建設に尽力、仙塩(仙台市と塩釜市またはその地域)開発に先鞭をつけた。
 1881明治14年、このころ運河改修を行う。
    早川の講話によれば、舟入堀新堀木曳堀が仙台藩祖・伊達政宗の構想であることを偲び、各堀を総称して政宗の諡にちなみ「貞山堀」と初めて命名した。

    “宮城県の自由民権家、大立目謙吾”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/09/post-bfc0.html
   “教育家・郷土史家、阿刀田令造 (宮城県)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/05/post-2a93.html

 1886明治19年、*山県有朋は早川を惜しんで、愛媛県書記官に発令した。しかし、辞して行かず、野に下る。
     *山県有朋: 明治・大正期の陸軍軍人、政治家。内閣制度による最初の内相となり、翌年農商務省を兼ね、この間、地方制度の制定を通じて内務官僚の支配権を確立した。官僚政治の保守につとめた典型的な藩閥政治家であった。長門、山口県出身。

 1887明治20年、早川組を興し、野蒜築港に関係した人々を集めて土工事業にあたった。東北はもちろん、北海道から九州に及ぶ工事の著名なものはおおむねその手に成ったと言ってよく、財も成した。

 1891明治24年、仙台商業会議所の初代会頭に就任。
    在任中には仙台~山形間の鉄道建設を政府に請願するなど地域開発に尽力。

 1893明治26年、感ずる所あって早川組を解散。橋本組(橋本店)、小山組はこのときに分派したもの。
   以後、蔵王七日原の牧場経営にあたり晩年に及んだ。
 1894明治27年7月、日清戦争はじまる。

 1898明治31年、国立銀行から株式会社に転換した七十七銀行(仙台市)の監査役に就任。
 1903明治36年4月、仙台市会の要請により60歳で第3代・仙台市長に就任。
    日露戦争直前にあって積極的市政運営にあたった。東北帝国大学設立運動・片倉製糸工場誘致・軍人遺族援護・児童保護者会創立。また大凶作に際しては外米を買い付けて市民の飢餓と、内地米暴騰を抑制するなど、産業振興・教育・厚生の各面で顕著な業績を残した。
 1904明治37年2月、日露戦争はじまる。翌38年5月、日本海海戦。

 1907明治40年7月、市長を辞職。
    180cm、90kgの巨体、見事な白ひげの市長として児童からも親しまれた。
 1918大正7年2月21日、75歳で死去。
    顕彰碑と墓所は、サクラで有名な松音寺にある。

   参考:  『宮城縣史29 人名編』1986宮城縣 / 『日本地名事典』1996三省堂 / “貞山・北上・東名運河事典”   http://www.teizanunga.com/Pages/hayakawatomohiro.aspx 

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         『明治の一郎 山東直砥』 訂正。 p273後から8行目 
         一八七九(明治十二)      一八七八(明治十一) 


         

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