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2018年5月 5日 (土)

ハーマン号沈没事件 (熊本 肥後藩)

  5月3日憲法記念日。憲法についてほとんど考えたことなく、拙いと思いつつも流されている。それは不勉強もあるが、安心して暮らせているのもあると思う。しかし、近年、「孫が徴兵される日が来ないとも限らない」 そんな不安が胸をよぎる。

  日本国憲法 : 1946昭和21年11月3日 日本国憲法発布。
    翌21年5月3日施行。11章103条。主権在民・戦争放棄・基本的人権尊重などを定め天皇を日本国民の象徴とする。

  日本国憲法が施行されるまでは明治憲法、伊藤博文が中心となり起草した欽定憲法、大日本帝国憲法で1889明治22年2月11日発布された。ところで、その20年前は戊辰戦争のさなか。戊辰戦争というと北地の戦いをイメージしがちだが、西南でも大きな犠牲があった。「ハーマン号沈没事件」という。
 筆者はこの事件をまったく知らなかった。そこで資料をみたが、ズレがあるので見たまま並べておく。知られてない歴史の事件事故は未だまだ有るようだ。

            ハーマン号事件 

                ①

      “肥後細川藩拾遺”より。 http://www.shinshindoh.com/hermann.html 

     1867慶應三年十二月大政奉還の大号令がなされたにも係らず、榎本武揚ら旧幕臣は函館五稜郭にこもり最後の抵抗を試みていた。 新政府の要請を受けた津軽藩は、函館に入り榎本軍と戦い苦戦を強いられる。藩主津軽承昭の実兄細川韶邦は、事態を憂慮して援軍の派兵を決定、熊本藩士350人を横浜港からお雇蒸気船ハーマン号に乗艦させて出発する。
   1869明治二年一月二日浦賀沖でハーマン号は座礁破艦して、多くの肥後藩士が水死する大事故となった。時代が大きく揺れ動くさなかに起きたこの悲劇は、130有余年の歳月をへて忘却の彼方にある。

改訂肥後藩國事史料から該当項をご紹介し、古里の家族を思い寒く冷たい異郷の海に散った多くの犠牲者の御霊に、心からの哀悼の意を表するものである。

  ――― 明治二己已年正月二日 本藩番頭寺尾九郎左衛門をして兵を率ゐ品川湾より海路奥州津軽に赴援せしむ
【明治二年ヨリ三年二月迄 御國東京往来状扣、京都并東京鶴崎長崎返達御用状控】
    軍務官江   函館表騒擾付而當藩兵隊少々差向度段奉伺候處不苦旨御付札を以御差図御座候依之為援兵   二百六拾五人異船借受一昨日差越候此段御届申上候以上
      正月四日                      細川越中守内 井上治部丞

 

 1868慶応4年(戊辰)1月3日、鳥羽伏見の戦いに端を発し戊辰戦争はじまる。
     徳川慶喜は新政府に対して兵を挙げたが敗北して江戸に逃げ帰った。新政府は慶喜をはじめ会津藩主松平容保らを朝敵と断じ、官位を剥奪して入京を禁じた。この事態に肥後藩は、藩議を「勤王一途」と定めた。
    3月14日、五ヵ条の誓文。3月に入って九条奥羽鎮撫総督は、鹿児島・長州・福岡の藩兵500人余を率いて京都を発し、大阪から海路奥州に向かい仙台に入った。
    4月11日、江戸城無血開城。5月、奥羽25藩、越後6藩からなる奥羽越列藩同盟が成立。弘前藩は同盟には参加したものの、迷いは深かった。
    7月まで藩論を決定できず、新政府の疑惑をうけた。この間、京都留守居役の西館兵馬が、津軽家が本家と仰ぐ近衛家から、勤皇にはげむようにとの令書と岩倉具視の書状を持参
・・・・・・ 弘前藩は情報を検討して、藩論を勤皇に決定 (『青森県の歴史』2000山川出版社)。

                

 ――― 当時、弘前藩主の津軽承昭(烈)は熊本藩韶邦(よしくに)の弟で、護美の兄に当たるので、海上から榎本らに襲撃されるのを心配した。それでこれの援助隊として寺尾九郎右衛門を将とし、長塚彦蔵・仁保達三郎を副将とする350人が東京高輪から明治2年正月2日、米国戦で出発したが、翌3日夜、上総沖で座礁し・・・・・・(『物語藩史 第8巻』1965人物往来社)
    7月末、米田虎之助が奉行以下兵500を従えて奥州に向かう。米田の兵は、仙台藩兵をなどを破り、奥州を転戦して11月、熊本に凱旋。
    9月8日、慶応4年を明治元年と改元

               

     細川韶邦の弟・細川護久、その直ぐ下の弟が養子に入って藩主をつとめる津軽藩への援兵を三五〇人を乗せたアメリカからの傭い船ハーマン号が、房総沖で座礁して二百数十人の溺死者をだすという悲劇があった(『熊本県の歴史』1999山川出版社)。

                           

    ・・・・・・3日午後10時ごろ下総国夷隅郡河津村(現千葉県勝浦市)の沖で暗礁に乗り上げ、船体は3つ4つに切断、藩兵は厳寒の海に放り出され、225人溺死。そのうち42遺体は火葬の上、東京に送られ、183遺体は同地の官軍塚に埋葬された。アメリカ人乗組員は80人のうち、22人が溺死した。(『新熊本史 別編』年表2003新熊本史編纂委員会)。

                           

     八幡崎暗礁
 勝浦町八幡崎の西南は、海底一帯岩石起伏して数百の暗礁となる。蓋し、豊浜村川津華立台の地脈分かれて二となり、一は直ちに海底に入り南して暗礁となり、一は西南に走りて八幡崎となり、余勢また海に沈みて暗礁となれるなり。
 その著しきもの五あり。一を福島(富貴島)・・・・・・二を菰根といふ・・・・・・三をつめのさき・・・・・・四を中ノ根と曰ふ・・・・・・五を根中といふ(豊浜村川津に属す)、中ノ根の南に連なる。
 広袤(こうぼう、面積。広は東西袤は南北)一里ばかりの処、無数の暗礁群起せるもの此処なり。先鋭剣の如く船舶誤ってこれに触るれば能く全き者なし。航海者大いに之を恐れ、呼んで鬼ヶ島といふ。
明治巳巳年熊本藩軍艦の破砕沈没せし処なり(『千葉県夷隅郡誌』1924夷隅郡役所)。

    1月28日、肥後藩主が版籍奉還を申し出る
    6月17日、版籍奉還により肥後藩(細川藩)の呼称は正式に熊本藩となる(熊本藩知事、細川韶邦)。ちなみに熊本県となるのは1871明治4年。

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