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2018年5月26日 (土)

天災は忘れた頃にやってくる、寺田寅彦

 ニュースで麻疹がはやっているのを知り、『明治の一郎 山東直砥』主人公が、勤王の志士・松本奎堂の書生となって訪れた四国・淡路島で麻疹にかかり寝込んだのを思い出した。
 ――― 1862文久二年は日本中で麻疹が大流行。二月頃、長崎来航の西洋船から伝染、次第に京大阪に広まり春頃には江戸にまで広がった。文政、天保の時に比べ今回は特に激しく『武江年表』によれば「命を失う者幾千人なりや、量るべからず・・・・・・寺院は葬式を行うに遑あらず、日本橋上には一日棺の渡ること二百に及べる日もありとぞ」

 幕末まだ新聞は発達してないから病気の流行を知って用心するのは難しい。今は新聞、雑誌、インターネットなど情報があふれる。ただ紙媒体は押され気味、とはいえ新聞の影響力を実感した。「日本経済新聞2018.5.4文化欄」に「中井けやき」がのると、20年も会っていない知人からメールがきた。遠方の知人からも連絡があり、技術の発達は距離も時間も縮めるのを感じた。
 そうした技術や科学の難しい事はさっぱりわからないが、そうしたことに携わる技術者には興味があり、『東北地方における土木事業近代化の先覚者像』をみていたら<内務省技師の横顔>に寺田寅彦が登場していた。
 寅彦は物理学者であるが、「災害」に強い関心をもち、「防災」に鋭い意見をだしていることから土木事業近代化の先覚者として小伝が掲載されたようだ。寅彦の随筆集を一冊もっているが、学者の寅彦は知らないというか解らない。そこで事蹟を少したどってみた。

        寺田 寅彦

 1878明治11年11月28日、東京麹町平河町(千代田区)で生まれる。
     筆名、吉村冬彦。俳号、藪柑子(やぶこうじ)・牛頓(ニュートン)。

   ?年、 東京番町小学校入学、その後、高知市外江ノ口小学校へ転校
   ?年、 高知第一中学校
   ?年、 熊本第五高等学校
      物理学を田丸卓郎教授に学び、夏目金之助(漱石)に英語を学んで心酔した。その当時からの漱石の門下生なので、最古参中の最古参になる。

   ?年、東京帝国大学理科大学実験物理学科に入学。
     山川健次郎(物理学科を創立・東大総長)、*田中館愛橘長岡半太郎・本田光太郎ほかよき物理学の師に恵まれた。
      “文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中館愛橘(岩手県)”
      http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-f325.html

 1898明治31年、漱石の運座(うんざ)―――人が集まって同じ題、またはそれぞれの題で俳句をよみあい、すぐれた句を互いに選び会う会に出席。その推薦で句が『ホトトギス』や新聞『日本』に掲載された。

 1903明治36年7月、東京帝国大学物理学科卒業。
 1904明治37年、東大講師。研究発表を始める。
     耳がよく音楽に堪能で音響学、波動学的な論文を発表
     講師として物理学を指導。かたわら大学院入学。
 1905明治38年ごろから、東京千駄木の漱石山房には三日にあげず、遊びに行った。
     表現のおもしろさに気づき、俳句やエッセイを多く残している。漱石から愛弟子のように可愛がられ、漱石は門下の中で寅彦を畏敬した。『我輩は猫である』の水島寒月や、『三四郎』の野々宮宗八は寅彦がモデルといわれる。漱石を通じて、正岡子規とも知り合う。

 1906明治39年、関東に異常な大降霜があり、その善後処理として農事試験場、蚕業講習所、中央気象台、各測候所の協議会となり西ヶ原農事試験場において霜害予防の研究がはじまる。
 1907明治40年、岡田気象台長の推薦で農商務省農事試験場嘱託となる。

 1908明治41年、尺八を音響学から研究して理学博士の学位を受ける。
     この研究は、日本の伝統に科学の精華を融合させたもので、有名な業績の一つ。

 1909明治42年、助教授。ドイツ・イギリスにへ留学。そのさい寅彦は、漱石にオルガンを預ける。
 1909明治43年3月、宇宙物理学研究のため満2年間イギリス留学に出発。
     主としてベルリン大学にて、ウィーヘルト教授に地球物理学、ヘルマン教授に気象学、A・Dシュミット教授に地磁気学を学ぶ。
 1910明治44年4月、帰朝。宇宙物理学の講座をもち昭和2年まで続いた。理科大学で教鞭をとる。

 1912大正元年、「X線の結晶内透過について」の論文を発表。
     海洋学への興味から越中島水産講習所嘱託となる。
 1915大正4年、週期性の発見。
 1916大正5年、東大教授。大正7年、航空研究所兼務。
 1919大正8年12月、胃潰瘍のため吐血入院。2年ほど静養につとめる。その間、科学者の観察眼で拾った題材をきめの細かな叙情詩に仕上げる。独特の随筆を多く書いた。
 1920大正9年、学術研究会議員会。大正11年、測地学委員。

 1923大正12年9月1日、関東大震災。14万もの死者が出た。
    寅彦は中村清二とともに火事や旋風の調査にあたった。地震研究所が新設され所員となり、寺田研究室を開いた。また、土木帝都復興委員会で「旋風について」と題して火災時の旋風を講演している。その随筆集には数多くの「災害」あるいは「防災」に関するものが見受けられ、土木技術者たちも読むたびにえりをただしているという。この地震の研究で
天災は忘れた頃にやってくる」という有名な諺を発明、現在も名諺として生きている。

 1924大正13年、理化学研究所主任研究員。地震の研究から割れ目の研究をする。
 1925大正14年、帝国学士院会員。物理学全般、特に地球物理学を研究し日常のありふれた事柄にまで鋭い観察をし寺田物理学といわれる特異な研究で知られる。
このころから起電機によって生ずる電気火花の研究を始める。
 1926大正15年、同学地震研究所所員にも席をおき、潮汐や間欠泉の研究、電気火花の研究など、日常身辺の現象を研究対象とした。

 1927昭和2年、理学部勤務を辞す。
 1930昭和5年、山崩れ(土石流)についての研究を発表。
 1931昭和6年、「山村火災と不連続線」を発表。「ラウエ斑点の発見」で恩賜賞をうける。
 1933昭和8年、航空評議会臨時評議員。昭和9年、日本学術振興会学術部委員。
 1935昭和10年12月31日、東京本郷曙町で死去。享年58。
     葬式は谷中斎場、神式で営まれた。論文は200編以上にのぼる。
     『冬彦集』や没後の『橡の実』に至るまで近代日本文学史上最大の随筆家として讃えられる。

  “秋月・ハーン・漱石・寅彦、旧制熊本第五高等学校(熊本県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/06/post-f59c.html
   “緑色の憂愁/寺田寅彦と夏目漱石”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/06/post-b7e8.html

    参考: 『気象ノート』藤原咲平(大正昭和期の気象学者・第5代中央気象台長)1948蓼科書房 / 木這子:東北大学付属図書館報.32. / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 /  『民間学事典』1997三省堂 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂

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