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2018年6月23日 (土)

明治150年/戊辰150年、その前の江戸湾防備 (会津&富津)

 2018平成30年は明治150年にあたり記念展覧会がある。そのうちにと思う間に日が過ぎてしまったが、千代田区JCIIフォトサロンでは、【明治150年記念「幕末・明治の古写真展 明治を築いた人々】―――坂本龍馬や勝海舟、五代友厚、福澤諭吉、北里柴三郎ら明治維新を生きた人々の雄姿を伝える写真展があった。

 国立公文書館では「明治150年」記念特集。
公文書に見る近代化の歩み>を紹介している。http://www.archives.go.jp/ 
 ところで、今ニュースに登場する一連の公文書はいつ公文書館に送られる?そしてその公文書は原本そのもの? それとも・・・・・・ こんな心配をさせられる現状が情けない。

 国立文書館の展覧会は明治150年関連がテーマ、第1回は「戊辰戦争」(~6月30日)
  「明治維新150年」でなく「戊辰戦争」なのは、「戊辰150周年」を唱える側に配慮したのか。
 折しも会津から冊子『戊辰150年記念「薫蕕(くんゆう)を選びて」』(岩澤信千代2018戊辰150年記念誌刊行委員会)が届いた。
   ページをくると、会津人にとって戊辰戦争後の150年の歴史はゆるくない歳月と分かる。その一方で誇りを持ち前進するバネにもなったのが察しられる。戊辰戦争を戦った会津や東北の藩士たち、今なお故郷の人々を励ましている。

           房総湾岸警備、会津藩

 さて、黒船こと外国船は戊辰戦争が始まるより早くから来航している。幕府は江戸湾岸(東京湾)の防備を厳重にするため、忍(大房崎~洲崎)・会津(富津岬~竹岡)・川越(走水~観音崎)・彦根(久里~三崎)いわゆる「御固(おかため)四家」に防備を命じた。
 幕府はこの四藩に財政援助を行い優遇、会津藩は金一万両を下付され領地も与えられた。会津藩はその村々を富津陣屋竹ヶ岡陣屋で支配した。ここで富津の海岸防備をみてみる。

 1801享和元年6月、伊能忠敬が富津海岸を三日間、測量。
 1807文化4~5年、幕府役人が伊豆・相模・安房・上総を巡視、砲台の築造に着手。
 1810文化7年、幕府は白河藩安房・上総会津藩相模の海岸防備を命じる。
 1822文政5年、洲崎砲台を富津に移す。
 1823文政6~7年、イギリス捕鯨船員が茨城や鹿児島に上陸し乱暴を働く。
 1825文政8年、幕府は外国船は見つけしだい打ち払えという命令をだす。
 1842天保13年、アヘン戦争で中国が敗れる。この状況に幕府は打払令を廃止、外国船へ薪・水などを与えるように命じる。その一方で、海岸防備の体制を強化。

 1847弘化4年、幕府は海岸防備を厳重にするため忍藩に安房会津藩に上総の守備を命じる。このとき会津藩では富津砲台を増強したり、小久保七曲に砲台を新設したりした。

   お台場建設は海中を埋立てて工事を行うため、大量の建設用材や大砲の資材が近隣から集められ、寺の梵鐘が徴発されたり人足・馬・船・荷車などが動員された。
 会津藩は人員はもちろん大小砲弾薬、兵器を房総の陣屋に送ったが、太一郎の父、柴佐多蔵も富津に出張。
Photo
 房総半島の富津砲台は、JR青堀駅からバスで富津岬に行き松林を抜けたところに史跡として残り、側の展望台にあがれば、三浦半島はおろか横浜も見えるほど見通しがよい。
 東京湾フェリーで35分、千葉・富津神奈川・観音崎を結ぶ6~7キロの湾口は、黒船を入れてはならない重要な防衛線である。

 1849嘉永2年3月、会津藩房総警備の者が三浦半島の三崎沖に異国船を発見。
     イギリス軍艦マリナー号が浦賀で、バッテラを乗り回し浦賀水道を勝手に測量しはじめた。この内海乗入れで、ますます富津・観音崎ライン突破の危機がたかまった。
 会津藩は富津と竹ヶ岡台場、陣屋を忍藩から引継いだが、二つの陣屋それぞれに家老・番頭以下船方役まで100人以上の家臣が勤務した。その後、両陣屋の人員は計1400人にもなり、大砲小銃474門、新造船19隻が備えられた。

Photo_2 警備の藩士は陣屋を本拠として、毎日、砲台や見張番所などへ通った。会津藩は三浦半島での海防経験があり水練も見事で、奥州の山国とばかり思っていた他藩の人を驚かせた。
 竹ヶ岡砲台は3ヶ所築造され、それぞれに大砲が5門ずつ据付けられた。
 会津藩は警備につくや土塁を増築、砲を据付けた。木更津の海岸に哨兵廠と武庫をつくり、江川太郎左衛門の鋳たヘキザン大砲、当時としては超弩級を安房の砲台に備えた。
 ただ、砲弾の射程は小筒砲が200m、大筒砲でも3,400mで異国船に有効な射弾をあびせることは不可能であった。
 
 赴任する家臣の多くは家族をともなっていたので、陣屋遺構から女性の化粧道具や子どもの玩具、皿小鉢、土鍋など調理器具などが発掘された。
 調査報告によると、陣屋の外側を堀、土塁で区画し、陣屋の内側は長屋塀によってさらに区画する重厚なものであった。また、内側に数多くの長屋建物が軒を連ね、近くには鉄砲場とよばれる鉄砲の練習所があった。
 本陣近くに家臣の住む長屋が25棟あり、組頭として出張していた柴佐多蔵も家族と住んでいた。
 1852嘉永5年2月、18歳の松平容保が会津藩9代藩主となる。その12月、柴家に8番目の子で四男の茂四郎が生まれた。後の東海散士・柴四朗、柴五郎の兄である。

 1853嘉永6年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官、海軍代将ペリー軍艦4隻をひきいて浦賀に来航。
幕府はペリーの再来に備え警備の重点を品川沖においた。そのため、会津藩は新に江戸湾品川第二台場砲台の守備を命じられた。明治/戊辰150年の始まり西暦1868年まで、あと15年。

   参考: 『富津市のあゆみ』1983富津市史編纂委員会 / 『東京湾の歴史』高橋在久1993築地書館 / 「富津陣屋跡発掘調査報告書」1997君津郡市文化財センター(図版・写真引用) / 「国立公文書館ニュース Vol.13」2018 /『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき2008文芸社

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